honey 番外編

栢野すばる

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水族館へ(前)

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 翌朝はとても晴れていた。もうすぐ梅雨だけれど、夏になる前、春の終わりの最高に過ごしやすい季節だ。
 利都は目を細めて青い空を見上げる。こんな風に二人でふらりと掛けられる生活は、何よりも幸せだと思う。
「車出すの久しぶりだなぁ。近場でお散歩ばっかりだったもんね。俺が土日も仕事ちょこちょこしてたせいだけど……」
 ハンドルに手をかけ、エンジンをスタートさせてチカが言った。
「冷房入れるから、これ膝にかけてな」
 後部座席においてあった利都用のブランケットを取り、膝の上に広げながらチカが言う。
「ありがとう」
 利都はブランケットを整え、その上にしっかりとかばんを抱いた。
 駐車料金や飲み物、ガムなどをすぐ出せるようにだ。
「私も運転の練習しようかな……ペーパードライバーだから。いつもチカさんにだけ運転させてて申し訳ないから」
「この車SUVだから慣れないうちは大きいかもね」
 確かに、こんな大きな車ではどこかにこすってしまいそうだ。
「じゃ、行きましょうか」
 チカがそう言いながら、周囲を注意深く見回してゆっくりと車をバックさせる。
 マンションの敷地を出て車道に合流し、チカが話を続けた。
「今度さ、俺の友達が家に来たいって言ってるから、そいつと俺たちでご飯食べよ」
 そういえば、チカとはお互いの知人を交えてあったことがあまりない。チカの友人の結婚パーティに一緒に招かれたくらいだ。
 ――私の友達をチカさんに会わせたら……大騒ぎされそう。どうしよう。
 利都にとっては、チカは無邪気で明るい、時々ヤキモチ焼きな恋人だけれど、周囲の人が自分たち二人を見れば『なぜ、どうして、こんな御曹司が平凡なあなたと?』といいたくなることだろう。
 薬指に輝くダイヤの指輪もそうだ。
 チカは自分のお金で買ってくれたというが、会社のちょっと意地悪な女の子は『粒が大きくてイミテーションにしか見えない』なんて言っていたし……チカは色々と、利都とは不釣り合いな世界に住んでいる。
「俺のその友達さ、あそこに勤めてるんだ、なんだっけ、そうそう……」
 チカが笑顔で口にしたのは、利都が勤める澤菱商事と並ぶ人気の一流外資系企業だった。頻繁にビジネス誌にも登場し、ドメスティックな澤菱商事からは想像できないほどおしゃれなオフィスや社食、会議スペースを備えていると聞いたことがある。
「あそこのコンサルやってるんだよ。いわゆる営業さんかな。しょっちゅう英語のこと教えろってメールしてくるんだ。あ、そいつめっちゃイケメンだから絶対にときめかないでね」
「そんなにかっこいいの?」
 驚いて利都は問い返した。チカにそこまで言わせるなんて、どれほどの美形なのだろう……。
「あ、興味示したな。スネてやる……」
 チカはしっかりと前を向いたまま、わざとらしく顰め面をした。
「だ、だって、チカさんがそんなに言うならどれだけカッコいいのかなって、純粋に気になって」
「俺よりカッコいいですよーだ。でも残念、りっちゃんは俺のです。どんなイケメンがいても、もうお味見出来ません」
 何をそんなに拗ねているのだろう、と利都は苦笑した。
 ――私はチカさんが好きなのに。変なの。
 利都はくすくす笑いながら、チカに言った。
「残念じゃないよ。私はチカさんと一緒にいられて嬉しいもん」
 素直な利都の言葉に、車内に妙な沈黙が満ちる。
「あ、あ……そ、そうですか……」
 何故か真っ赤になったチカが、ぎくしゃくした口調で答えた。
 白くなめらかな肌は、首まで真っ赤になっている。
「い、いや、でもマジで、アイツは俺よりカッコいいから……うん、ごめん、俺こんなんでごめんね」
「どうしたの、急に」
「りっちゃんに急に褒められて調子が狂ったんだよ」
 真っ赤なまま、チカがぽつりと言った。
 何を調子が狂うことがあるのだろう。利都はもう一度笑って、はっきりと告げた。
「だってチカさんカッコいいもん。私は他の人よりチカさんが大好きだよ?」
 チカは今度は何も答えなかった。
 真っ赤になった顔を見ながら、利都は少し反省する。
 ――やっぱり普段、恥ずかしくて褒めてないからびっくりされるのかな。ちゃんといっぱい褒めなきゃダメだね。
 心にそう決め、利都は真っ赤になったままのチカを見上げて、真剣に言った。
「チカさんはお家で仕事してる時もカッコいいし、いつも優しくて大好き」
「り、りっちゃんこそ、急にどうしたの……俺、人から褒められ慣れてないからやめようよ……」
 しかし悲しいかな、褒めれば褒めるほどチカは挙動不審になっていく。本当に照れているらしい。
 利都は内心残念に思いながら、チカの横顔をじっと見つめる。
「私はチカさんが一番好きなの」
「りっちゃん、運転中は危ないからあんまり俺を動転させないでね……でもありがと」
 唇を落ち着きなく噛んだりゆるめたりしながら、チカがそう言った。利都はうなずき、シートに寄りかかって窓の外を見つめた。
 ――運転の邪魔しちゃったかな? 水族館についたらいっぱい褒めようっと。
 車窓に流れる景色を眺めながら、利都はそう決めた。たくさん褒めれば、チカもやきもちを焼いたり拗ねたりしなくなるはずだ。
 チカの運転する車はその後、一時間ほど高速を走り続けた。
「そんなに遠くないから、休憩せずこのまま目的地まで行こう」
 珍しく赤くなって言葉少なだったチカも、だんだん調子を取り戻したのか、利都の他愛ない話に笑顔で相槌を打ってくれるいつもの彼に戻った。
 一般道に降りてしばらくすると海が見え、海沿いにいろいろな建物が並んでいるのが目に入る。
「ここ、海水浴場があるの?」
「前にデートで来た海と続いてる海岸だよ」
 チカにそう言われ、利都は目を輝かせた。
 まだチカと付き合っていない頃に手を繋いで歩いた春の海岸を思い出す。
 季節はもう夏も近くて、海の色も空を映して青々している。
 なんだか懐かしい。気持ちを探り合っていたのがずい分昔のことに思える。
「あ、早めに来たから駐車場すいてるね、ラッキー」
 チカが機嫌のいい声でそう言って、ゆっくりと水族館の看板の立っている駐車場に車を移動させた。
「はい、着きましたよ、お姫様」
「運転ありがとう……チカさん、外出る前にお茶飲む?」
 水筒をかばんから取り出すと、チカがくすっと笑った。
「ほんと、お出かけの時はなんでも持っきてるよね……だからいつもかばんがパンパンなんだ」
 チカにそう言われ、利都もつい笑ってしまった。小柄なのに持っているかばんが大きいとたまにからかわれるのだが、心配症で色んな物を持ち歩いてしまうせいなのだ。
「ありがと」
 チカが水筒を受け取り、中の冷たいお茶を美味しそうに飲んだ。
「これ魔法瓶だよね? カバンが重くなるから車においていこう……っていうか何入ってんの、この大きなカバン」
 大きなバッグを覗き込み、チカが不思議そうに言った。
「わ、タオルが三枚も入ってる。何このたたんだビニール袋……それにポーチ三つもあるよ? お化粧品じゃないんだよね?」
「え、えっと……チカさんが汗かいたらと思って、汗拭きを……あと、汗を拭いたタオルを入れる袋と、このポーチは日焼け止めと、救急セットと、あとはえっと……かばんの中でポケットティッシュがバラバラになるから、それを入れてるの」
「ポケットティッシュ、十個も要らないって! これもこれも置いていこ? それにガイドブックなんか要らないよ、近場に来たのに」
 チカがおかしくてたまらない、というように笑い出し、利都のかばんからひょいひょいと物を取り出す。
 ティッシュは予備が十個位要ると思うのだけれど、多すぎるのだろうか。それにガイドブックがあれば水族館の見どころがわかると思ったのだが。
「なにこれ、りっちゃん、オペラグラスまで持ってきたの?」
 会社のパーティの景品でもらった双眼鏡を手に、チカが涙ぐんでひくひくと腹筋を震わせた。
 こんなに笑っているチカを見るのは初めてかも知れない。
「だ、だって、イルカショーのイルカが見えないかなと思って……」
「大丈夫、見えるよ、っていうか……りっちゃん……受ける……」
 チカはハンドルに寄りかかって、体を震わせて本気で笑っている。
「いろいろ持ちあるいてないと心配なの」
「大丈夫だよ」
 チカが涙を手で拭きながら身を起こし、利都の頭をなでてくれた。
「ああ、久しぶりにこんなに笑った。お姫様のバッグが予想外にカオスでメチャクチャ受けた」
「だって要ると思ったんだもん……」
 利都が冗談めかして頬を膨らませると、チカが目を細めて言った。
「道理でかばん持ってあげるたびに重いと思った。さ、要らないものは置いて、水族館見に行こう」
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