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第一章

1-4 人気の無い廊下にて

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「では、これから忙しい身の上であろう。準備にも時間がかかる事を考えて、この書面にサインをしたら、屋敷へ戻って明日に備えると良い。ルヴィエ侯爵夫妻には、まだ話があるから残ってくれ」
「は、はい」
「では、ここにサインをお願いします」

 宰相であるオルブライトから渡された書面に、震える手でサインをしたユスティティアは、一礼をして謁見の間を後にする。
 本当はその場にへたり込みそうなくらい恐ろしい時間であったが、彼女は気力を振り絞り、馬車が待っているだろう通路を進んでいく。
 すれ違う人たちが気遣わしげに視線を向けるほど、彼女の顔色は良くなかった。
 どうしても、アイファズフトの目が忘れられなかったのだ。

(何、あの目は……私の事を心の底から憎むような……蔑むような目は、いったい……)

 記憶を辿っても、あんな目をされるいわれは無いと、ユスティティアは震える体を必死に支えた。
 無様な姿を、これ以上晒したくは無かったのである。
 
「ユスティティア・ルヴィエ侯爵令嬢! 申し訳ありませんが、少々お待ちください!」

 そう言って走ってきたのは、若き宰相であるオルブライトだ。
 ずり落ちそうになっている眼鏡を手で直し、呼吸を荒くしている彼は、「やっと追いついた」と安堵の吐息をついた。

「あの……宰相様、何か……不手際でも……」
「あ、はい、この部分なのですが……」

 そう言って彼が差し出した書類には、何も書かれていない。全くの白紙であった。
 しかし、その白紙の上には一通の封書が置かれている。
 辺りを素早く見回したオルブライトは、周囲に誰もいないことを確認した後、声を潜めてユスティティアに話しかけた。

「何やらおかしい感じがしたので……何かあったら、隣の領土にいるセドルス・デオダラ辺境伯を頼ってください。この手紙を見せれば、協力してくれるはずです」
「……宰相様」
「あと、この本も読んでおいてください。おそらく、影響は出ないはずですが……念の為に」

 サインをするフリをしながら、手紙と本を受け取ったユスティティアは、コクリと頷く。
 そして、小さな声で尋ねる。

「どうして……手助けをしてくださるのですか?」

 ユスティティアの疑問はもっともであった。
 ノルドール王国の宰相と言えば、国王の右腕だ。
 立場的には、ユスティティアを排除したい立ち位置にいるはずである。
 しかし……彼は、見るからに友好的であった。
 
「このまま見過ごせば第二王子であるドリュース殿下に、こっぴどく叱られてしまいます。貴女の弟君とは親友ですし、あと一年もすれば帰ってこられるのですから……このことを知れば、すぐに帰国されるかも知れませんが……」
「勉学に励んでいただきたいものです」
「確かに、その通りですね。手紙で、そう伝えておきましょう」

 彼が柔和な笑みを浮かべ、言葉に嘘が全くない善意で行動してくれたことにより、ユスティティアの心は幾分落ち着きを取り戻せた。
 冗談めかして言えるほどまでに回復した様子を見て、オルブライトもホッと安堵の吐息をつく。
 どうやら、彼なりに心配して彼女を追いかけてきてくれたらしい。
 その事実が、今の彼女にはとても有り難かった。
 
「次にお目にかかるときには、もう少しマシな顔つきになっているよう努力します」
「くれぐれも、無理をなさらぬよう……自身を大事にしてくださいね。何も出来ずに申し訳ございません」
「いいえ……本当に、ありがとうございました」
「礼を言うのはまだ早いですよ。もしかしたら、これから……かもしれません」
「……そうですね」

 短い挨拶を交わし、二人は別れる。
 互いに険しい道だと判っているが、次に会う時に少しでも良い報告が出来る事を祈りながら、それぞれの道を歩き出す。
 この本と手紙が、後に彼女を大きく助ける力となるが、今の二人には知るよしもなかった。


  ・・✿・✿・✿・・


 それから暫くは、何事も無かったように廊下を歩いていた彼女は、再び呼び止められてしまう。
 華奢な体つきの顔だけは整っている青年――ランドールであった。

「何かご用でしょうか」
「いや、お前に一言いっておきたいことがあってな」

 彼の言葉に顔を曇らせたユスティティアは、適当な理由を付けて早く城から退散しようと思考を巡らせる。
 しかし、そんな彼女のことなど構うこと無く、周囲に人がいないことを確認したランドールは口を開いて話し出す。

「お前のように醜い豚女を妻にしなくて済んで良かった。全く、神には感謝したいな」

 これまで幾度となく言われてきた言葉であったのか、ユスティティアは表情を変えない。
 いや、むしろ予測していたのだろう。
 溜め息をつくと共に、彼女は笑みを返す。

「では、呼び止めずとも良かったのでは無いのですか?」
「これから生涯独身で過ごすしか無い枯れた未来のお前に、私の幸せをわけてやろうと思っただけだ。私がシャノネアと一緒になるという喜びが、どれほど大きくて深いのか、お前に語って聞かせてやるだけの時間はあるだろう?」
「いいえ、全く。明日には出発しなければなりません。悠長なことをしている時間は……」
「まあ聞け! どうせ、こうして会うのも最後なのだからな!」

 そうして始まったのは、ランドールによるシャノネアのプレゼンだ。
 父である国王へプレゼンをするなら判るが、元婚約者にする意味がわからないと、多くの者が口を揃えて言うだろう。
 だが、彼はそれが元婚約者へ対する手向けだと信じて疑ってはいなかったのだ。

(前々から思っていたけど……この人が王になって、この国は大丈夫なの?)

 身振り手振りを交えて話す元婚約者を呆然と眺めていた彼女は、軽く眩暈を感じ、いつの間にか眉間に深く刻まれた皺を指で揉みほぐす。
 どんどん大きくなっていく声量に、中庭を挟んだ先にある廊下で話をしていた貴族達も気づいたのか、チラチラと彼女たちへ視線を送ってくる。

「王太子殿下……周囲の方々にも聞こえてしまいます」
「ん? あ……ああ、これだけ熱く語っていると、変な男がシャノネアのことを聞いて奪いに来る可能性もあるな。気をつけなければ……」

 斜め上の回答を貰ったユスティティアは呆然と彼を見つめるが、全く気づかない彼は思案するそぶりを見せた。

「豚女であるお前を奪おうとする男はいなかったから楽だったが……これからは、そういうことにも配慮しなければならないのか。緊張感があって良いな。やはり、モテる私には美女がお似合いだ」
「さようでございますか」

 何の感情も込めずに言った彼女は、目の前の男を殴り飛ばしたい衝動を抑えるだけで精一杯だ。
 感情のままに行動すれば自分の立場が危うくなると理解しているため、ユスティティアは何とか平常心を保っているが、限界は近そうである。
 そこへ、彼女の限界を更に試すような試練が訪れた。
 彼女の両親がユスティティアの方へ歩いてきたのである。

「殿下、国王陛下がシャノネア・ヒュランデル伯爵令嬢のことでお話があるとか……」
「そうか、わざわざご苦労だった。お前達も、こんな豚女の世話をするのは大変だっただろう。別姓を得たのだから、これからは無関係だと言えるのだし、心穏やかに過ごすと良い」
「殿下のお心遣いに感謝いたします」

 上機嫌で謁見の間へ戻るランドールを見送り、今度は両親と対峙することになったユスティティアは、深い溜め息をつく。
 我慢の限界だと言って、ここから逃走を図ろうかと考えていた彼女に、親であるはずの二人は冷たい言葉を投げかける。

「全く、何の役にも立たない親不孝者め」
「今まで育ててきたのが無駄でしたわ」

 以前の彼女であれば、この言葉を聞いたら泣き出していたことだろう。
 あまりにも無慈悲で愛情の欠片も感じられない言葉だ。
 しかし、今の――前世の記憶を一部取り戻している彼女には、この両親が異常である『毒親』と呼ばれる存在だという事を理解していたため、それほどダメージは無い。

「国王陛下から賜った家名がございますので、今後一切関わりが無いと宣言していただいて構いません。私も、あなた方に迷惑をかけるつもりはございませんので……」
「これは手間が省けた。そうか、そういう考えでいてくれたことには感謝しよう。此方から言わなくても理解しているのだからな」
「縁を切って困るのは貴女のほうだというのに……あとで泣きついてきても知りませんからね」
「親子の縁を切りたかったのでしょう? だったら、問題は無いはずです」

 ユスティティアの反応は、彼らにとって意外なものであった。
 気弱で引っ込み思案の娘しか知らなかった二人は、反論してくるなど考えたことも無かったのだろう。
 
「弟の足かせになるようなマネは致しません。ですから、どうぞご安心を……」
「そ、そう。それなら良いわ」
「ふむ……まあ、当家に迷惑がかからないのなら、どこで野垂れ死のうとも関係は無いな。明日になれば、とっとと出て行くが良い」

 それだけ言うと、両親であった者たちは彼女を置いて立ち去ってしまう。

(親子の……最後になるかも知れない会話がコレなのね。今までは怖いだけだったけど……前世の記憶のおかげで、醜態を晒さずに済んだわ……感謝しないと)

 彼女は脳裏に浮かぶ前世の自分に微笑みかけ、ゆっくりと歩き出す。
 その先に、明るい未来が待っている事を信じて――


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