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第19話 要注意人物現る。
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遅い。
いくらなんでも遅すぎる。
一条くんの帰宅時間。
同居を始めたばかりの頃は、夕方6時ごろには帰ってきてた。世那くんのことを気にして、仕事をお持ち帰りしてた。
あの、バスタオルパラリ事件の日だって、夕方8時には帰ってきてた。
それから残業で遅くなるってなっても、世那くんが寝る前、9時には帰ってきてた。
なのに。
暗いリビング。音もなく静かに動く電波時計の針が指し示すのは1時21分。日付も変わって午前様。夕方から降り出した冷たい雨が窓を濡らす。こんな寒い日に、ここまで帰りが遅いなんて。
(なにかあったの?)
気になって、手にしたスマホを何度も開けるけど、特に連絡もなし。
(こっちからかけてみる?)
スマホをタップし、画面を開く。――でも。
(私がそんな電話したら迷惑だよね)
「帰り、遅いみたいだけど大丈夫?」なんてのは、恋人か奥さんの役目。幼なじみシッターがやっていいことじゃない。仕事中だったら迷惑だし。もし、一緒に仕事してる同僚とかに見られたりしたら、説明大変そうだし。
(でも……)
最悪を考え、チラリと固定電話を見る。
もし、事故とかそういうのに遭ってるのなら、こっちに連絡あるよね。考えたくないけど、警察とかから電話がかかってくるよね。
ってことは、事故とかそういうトラブルで遅れてるんじゃない。固定電話が鳴らないことはいいことだ。うん。
なら、帰りが遅い理由は、仕事が立て込んでる一択。世那くんを大事にしてる一条くんが、これほど遅くまで帰ってこないなんて、それ以外の理由を考えられない。
(そうよ。仕事に忙殺されてるのよ。もしかしたら、仕事終わんなくて、そのまま会社に泊まり込みかもしれないじゃない)
それなら一報ぐらい入れてくれてもいいじゃない、心配するじゃないって思うけど、連絡する暇もないぐらい忙しいんだってことにしておく。
(先、寝ようかな……)
起きてても仕方ないし。でも。
(一応、連絡とってみようかな……)
気持ちが迷う。何度もスマホを開いては閉じ、立ち上がりかけては椅子に腰掛け直す。
――ガチャッ。
静かだったはずの玄関から音がした。弾かれたようにリビングから飛び出す。
「一条くん? 一条くんっ!!」
玄関にあったのは、崩れるように座り込んだ一条くんの姿。かろうじて座った格好になってるのは、後ろに壁があるおかげ。びしょ濡れのコート。髪からは雫が滴り落ちてる。一条くん、傘、持ってなかったの?
「ちょっと大丈夫?――ってお酒クサッ!!」
近づいただけでわかるお酒の匂い。思わず鼻を押さえ、顔をしかめる。
「……ああ、高階か」
「高階か、じゃないわよ。どんだけ飲んできたのよ!!」
トロンとした一条くんの目。顔も異様なまでに真っ赤。
これが仕事?
「こんなとこに座り込んでたら、風邪引くよ? ――立てる?」
腕を回して、グデグデの彼の体を支え、なんとか立ち上がらせる。
飲み過ぎ、心配したんだよって叱ってやりたいけど、お小言は後。まずは、彼をベッドにでも誘導し、髪を拭いてあげなくちゃ。放置したらここで寝てしまいかねない。そして風邪引く。
――って、重いな。さすがに。
ズルズル、ヨロヨロと部屋に到着。ベッドに座らせるだけでかなりの重労働。お酒臭いし。
「ほら、コートとジャケット脱いで。ネクタイも」
まるで追い剥ぎ。着替えさせるのは無理だけど、せめてスーツの上着だけはシワから死守したい。濡れてるし。
奪った上着たちを手近なハンガーにかける。それから、消臭剤ふりかけ――って、スプレーどこ?
初めて入った一条くんの部屋。
見回すけど、それらしいアイテムが見つからない。ベッドと、小さめのワークデスクとチェストしかない、シンプルな部屋。「働く」「寝る」以外のものが見当たらない。
(なんか、寂しい……)
リビングはセンスのいいソファとかチェストがある。ダイニングも同じ。世那くんのいる和室は鮮やかなオモチャにあふれているのに。なんでこの部屋だけ、こんなに殺伐としているの?
暗い夜中に見てるから? それとも――。
「高階」
不意に背後から声が聞こえた。同時に肩越しに回された腕。
「いいい、一条くんっ!?」
酔っ払ってるっ!? 一条くんって絡み酒する人なのっ!? 酔ったら何でも抱きつく、抱き癖ある人なのっ!?
「もう少しだけ、このままでいてくれ」
「え? あ、お、おう……」
ジタバタ振り動かした腕を止める。
「……キミがいてくれてよかった」
酒の匂いとともに吐き出された言葉が耳朶に触れる。普段と違う、低い声。
(こここ、こういう場合ってどうしたらいいのっ!?)
「何言ってんでい!! 酔っぱらいはサッサと寝やがれ!!」って押しのける? 「はいはい、たいへんでちたね~」って赤ちゃん扱いして引き剥がす?
頭の中、思考がグールグル。
コチコチと、規則正しい時計の音だけがやけに大きく聞こえる。時間の流れは変わってないはずなのに、刻が長く引き伸ばされたような感覚。
耳の奥でジンジンと響く血流。ウサギを抱いた時以上に強張る体。
湿った一条くんの体。冷たいのに熱のこもった腕。
「対酔っぱらい」スキルも「男性に抱きつかれた時」マニュアルもない私には、次の一手が見つからない。検索不可能。
「あかり……」
へ? 明里? まさかの名前呼び?
「いちじょ……、――ンッ」
最後まで言わせてもらえなかった。グルンと向き直された体。押し付けられるように重ねられた唇――ってキ、キスッ!?
「ンッ、ンンンーッ!!」
全力全開でもがく!! 息ができない、苦しいとかそういうんじゃなくって。
(どういう状況よ、これえっ!!)
酔っ払った幼なじみからのキス。それも突然の、わけわかんないキス。
その上。
「ンンッ、ンーンーンンーッ!!」
閉じた唇を無理やりこじ開け、酒臭い呼気とともに侵入してきた舌。お酒の味が私の口腔にまで広がった。
「ンンッ、ンーッ!!」
逃げたい。怖い。
脳内が一気に恐怖に染め上がる。
怖い、怖い、怖い。
ガッチリ体を抱きしめるその腕がどうしようもなく怖くてたまらない。もがいても逃れられない、びくともしない力強い一条くんの腕。
怖い。助けて。
フェッ……、フェェェンッ。フェェン……。
遠く聞こえた泣き声。世那くんだ。
彼にも聞こえたんだろう。私を抱きしめる腕の力がわずかに緩む。
「ヤッ!!」
力いっぱい、彼を押しのける。強い、逃れられないと思った腕はズルリと解け、あっさりと脱出できた。
グラリと床に崩れ落ち、座り込んだ一条くん。起き上がるでもなく、うつむいたままの表情は見えない。
「世那くんっ!!」
弾かれたように、一条くんの部屋から逃げ出す。
世那くんのもとへ。私がいないことで夜泣きしちゃった世那くんのもとへ。
走りながら、唇を手の甲で何度も拭う。拭って拭って。トコトン拭って。でないと、わけもわからず涙が溢れそう。
* * * *
「おはよう、一条くん」
昨夜と打って変わって、迎えた爽やかな朝。
キッチンに立ちながら、リビングへとやって来た一条くんを迎える。
今日は私が朝食を作った。炊きたてご飯、しじみの味噌汁、目玉焼き、プチトマト、野菜ジュース。しじみの味噌汁はインスタントだけど。朝一番に、コンビニに走って買ってきたもの。
「ちょうど朝ごはんできたとこだよ。もし体辛かったら、無理しなくていいけど。食べられる?」
「あ、ああ……」
「あと、ドリンクもいくつか用意したから。飲めたらそっちも飲んで」
「うん」
言いながら、一条くんが椅子に腰掛ける。チラッと見た感じ、体、重そうだし、顔色はあまりよくない。
「バッパ?」
「ああ、世那。おはよう」
隣の席に座ってた世那くんに、遅まきながら挨拶する一条くん。笑いかけようとするけど、あんまり上手く笑えてない。
「世那くん。パパはね、今、頭イタイイタイなんだって」
世那くんの朝食を持っていったついでに、額に手を当てて頭痛を表現してみせたら、世那くんが自分の額をペチペチ叩いた。うん、それは頭痛いね。物理的に。
「今日は、仕事、行くの?」
「いや。半休もらう。仕事は……無理」
「うん。そのほうがいいよ。食べたら、なるべく横になってたほうがいいよ。タップリ水分摂って休んで」
「そうする」
「あ、そうだ。ちょっと手を出してみて」
「手?」
首を傾げながら差し出された手を受け取る。
「ここをね、押すと肝臓の働きがよくなって、アルコールの分解が促進されるんだって」
手のひらの中央少し下。そこを親指で押す。
「痛い?」
「いや、大丈夫。詳しいんだね」
「薬局で働いてた時にさ、調剤の先生に教えてもらったんだ。私が食品担当で、お酒の新商品を飲んでばっかりいたから、肝臓を大事にしなさいよって」
ツボ押しぐらいで二日酔いが治るわけないけど、それでも多少の気休めにはなる。
大きな手、スラッと長い指。それを包み込むように持ってツボを押し続ける。
手に触れた感じ、熱はないみたい。風邪ひいたわけじゃなさそう。具合悪そうなのはおそらく、ただの二日酔い。――よかった。
あのまま濡れた一条くんを放置したから、ちょっと気になっていた。二日酔いのドリンクだけじゃなく風邪薬も買ってきたけど、必要なかったみたい。
「タァ、ナッ、バッ!!」
突然、一条くんの手の上に、ヌッと差し出されたちっちゃなパーの手。
「バッ、バッ!!」
それはもしかして、「ぼくもツボ押しやって」ってことですか、お客さん?
「はいはい。痛いところはないですか~?」
モミモミモミモミ。世那くんのやわらかお手々をモミモミモミ。
「キャウッ、キャア~」
くすぐったいのか、奇声を上げた世那くん。食べることより、マッサージに大喜び。でも。
「世那くん。今日はちょっと静かにしようね。ノンベエのパパが、頭イタイイタイだからね」
二日酔いに子供の声は辛かろう。おそらく脳天ズキズキ。
「バッパ?」
世那くん。今度は一条くんの頭をペチン。あ、会心の一撃。クリティカルヒット。
* * * *
「じゃあ、行ってくる」
午後。
いつものようにスーツを身にまとった一条くん。
「うん。でも、……大丈夫?」
いつものように、世那くんを抱っこしてのお見送り。
でも、一条くんの顔色は、いつもとは違う。ちょっと辛そう。まだ少し顔が青い。
「なんとか、まあ。デスクワークだし、座ってるだけだから」
「そう……」
それならいいけど――とは言わない。デスクワークであっても、辛いのは変わらない。
「ごめんな、高階。迷惑かけて」
「別にいいよ。世那くんのゴハンを作るついでだし」
「ごめんな」がどこにかかる謝罪なのか。わかっていて、わざと「世那くんのお昼と一緒に一条くんのゴハンも作った」ことに引っ掛けておく。そっちが「高階」呼びするなら、こっちも平常運転で返す。
「今日は普通に帰ってくると思うから。世那、いい子にしてるんだぞ」
一瞬目を丸くした一条くん。軽く世那くんに触れ、その目を細める。
「じゃあ」
世那くんとバイバイの応酬合戦して出ていった。
まったく。
酒は飲んでも呑まれるな。
私みたいに、飲んでもほとんど酔っ払わない質ならいいけどさ。あんな面倒な酒癖があるなら、飲み過ぎちゃダメでしょ。
バタンと閉まったドアに思う。
酒を飲んで、攻撃的になるやつ、陽気になるやつ。説教臭くなるやつ、愚痴だらけになるやつ。ちょっと変わったところで脱ぎグセなんてのもあるけど、抱きつきグセ+キスグセは初めて知った。いやあ、世間にはまだまだ私の知らないことがあるんでやんすなあ。
「世那くんとお風呂に入る時は、洗面所の内鍵をしめる」ことと、「お酒を飲んだ後の一条くんには近づかない」ことを、同居条件規約に勝手に追加しておく。
よくラブコメ漫画なんかであるじゃない。そういうハプニングイベント。うっかりミスでお風呂(裸)覗いちゃった♡とか、酔いが醒めたら「なんにも覚えてません」ってやつ。それがなんかリアルで起きちゃっただけなのよ。
くっそう、酔っ払いめ。
あれ、一応私のファーストキスだったんだからね? ラブコメですませられない、大切なやつだったんだからね?
いくらなんでも遅すぎる。
一条くんの帰宅時間。
同居を始めたばかりの頃は、夕方6時ごろには帰ってきてた。世那くんのことを気にして、仕事をお持ち帰りしてた。
あの、バスタオルパラリ事件の日だって、夕方8時には帰ってきてた。
それから残業で遅くなるってなっても、世那くんが寝る前、9時には帰ってきてた。
なのに。
暗いリビング。音もなく静かに動く電波時計の針が指し示すのは1時21分。日付も変わって午前様。夕方から降り出した冷たい雨が窓を濡らす。こんな寒い日に、ここまで帰りが遅いなんて。
(なにかあったの?)
気になって、手にしたスマホを何度も開けるけど、特に連絡もなし。
(こっちからかけてみる?)
スマホをタップし、画面を開く。――でも。
(私がそんな電話したら迷惑だよね)
「帰り、遅いみたいだけど大丈夫?」なんてのは、恋人か奥さんの役目。幼なじみシッターがやっていいことじゃない。仕事中だったら迷惑だし。もし、一緒に仕事してる同僚とかに見られたりしたら、説明大変そうだし。
(でも……)
最悪を考え、チラリと固定電話を見る。
もし、事故とかそういうのに遭ってるのなら、こっちに連絡あるよね。考えたくないけど、警察とかから電話がかかってくるよね。
ってことは、事故とかそういうトラブルで遅れてるんじゃない。固定電話が鳴らないことはいいことだ。うん。
なら、帰りが遅い理由は、仕事が立て込んでる一択。世那くんを大事にしてる一条くんが、これほど遅くまで帰ってこないなんて、それ以外の理由を考えられない。
(そうよ。仕事に忙殺されてるのよ。もしかしたら、仕事終わんなくて、そのまま会社に泊まり込みかもしれないじゃない)
それなら一報ぐらい入れてくれてもいいじゃない、心配するじゃないって思うけど、連絡する暇もないぐらい忙しいんだってことにしておく。
(先、寝ようかな……)
起きてても仕方ないし。でも。
(一応、連絡とってみようかな……)
気持ちが迷う。何度もスマホを開いては閉じ、立ち上がりかけては椅子に腰掛け直す。
――ガチャッ。
静かだったはずの玄関から音がした。弾かれたようにリビングから飛び出す。
「一条くん? 一条くんっ!!」
玄関にあったのは、崩れるように座り込んだ一条くんの姿。かろうじて座った格好になってるのは、後ろに壁があるおかげ。びしょ濡れのコート。髪からは雫が滴り落ちてる。一条くん、傘、持ってなかったの?
「ちょっと大丈夫?――ってお酒クサッ!!」
近づいただけでわかるお酒の匂い。思わず鼻を押さえ、顔をしかめる。
「……ああ、高階か」
「高階か、じゃないわよ。どんだけ飲んできたのよ!!」
トロンとした一条くんの目。顔も異様なまでに真っ赤。
これが仕事?
「こんなとこに座り込んでたら、風邪引くよ? ――立てる?」
腕を回して、グデグデの彼の体を支え、なんとか立ち上がらせる。
飲み過ぎ、心配したんだよって叱ってやりたいけど、お小言は後。まずは、彼をベッドにでも誘導し、髪を拭いてあげなくちゃ。放置したらここで寝てしまいかねない。そして風邪引く。
――って、重いな。さすがに。
ズルズル、ヨロヨロと部屋に到着。ベッドに座らせるだけでかなりの重労働。お酒臭いし。
「ほら、コートとジャケット脱いで。ネクタイも」
まるで追い剥ぎ。着替えさせるのは無理だけど、せめてスーツの上着だけはシワから死守したい。濡れてるし。
奪った上着たちを手近なハンガーにかける。それから、消臭剤ふりかけ――って、スプレーどこ?
初めて入った一条くんの部屋。
見回すけど、それらしいアイテムが見つからない。ベッドと、小さめのワークデスクとチェストしかない、シンプルな部屋。「働く」「寝る」以外のものが見当たらない。
(なんか、寂しい……)
リビングはセンスのいいソファとかチェストがある。ダイニングも同じ。世那くんのいる和室は鮮やかなオモチャにあふれているのに。なんでこの部屋だけ、こんなに殺伐としているの?
暗い夜中に見てるから? それとも――。
「高階」
不意に背後から声が聞こえた。同時に肩越しに回された腕。
「いいい、一条くんっ!?」
酔っ払ってるっ!? 一条くんって絡み酒する人なのっ!? 酔ったら何でも抱きつく、抱き癖ある人なのっ!?
「もう少しだけ、このままでいてくれ」
「え? あ、お、おう……」
ジタバタ振り動かした腕を止める。
「……キミがいてくれてよかった」
酒の匂いとともに吐き出された言葉が耳朶に触れる。普段と違う、低い声。
(こここ、こういう場合ってどうしたらいいのっ!?)
「何言ってんでい!! 酔っぱらいはサッサと寝やがれ!!」って押しのける? 「はいはい、たいへんでちたね~」って赤ちゃん扱いして引き剥がす?
頭の中、思考がグールグル。
コチコチと、規則正しい時計の音だけがやけに大きく聞こえる。時間の流れは変わってないはずなのに、刻が長く引き伸ばされたような感覚。
耳の奥でジンジンと響く血流。ウサギを抱いた時以上に強張る体。
湿った一条くんの体。冷たいのに熱のこもった腕。
「対酔っぱらい」スキルも「男性に抱きつかれた時」マニュアルもない私には、次の一手が見つからない。検索不可能。
「あかり……」
へ? 明里? まさかの名前呼び?
「いちじょ……、――ンッ」
最後まで言わせてもらえなかった。グルンと向き直された体。押し付けられるように重ねられた唇――ってキ、キスッ!?
「ンッ、ンンンーッ!!」
全力全開でもがく!! 息ができない、苦しいとかそういうんじゃなくって。
(どういう状況よ、これえっ!!)
酔っ払った幼なじみからのキス。それも突然の、わけわかんないキス。
その上。
「ンンッ、ンーンーンンーッ!!」
閉じた唇を無理やりこじ開け、酒臭い呼気とともに侵入してきた舌。お酒の味が私の口腔にまで広がった。
「ンンッ、ンーッ!!」
逃げたい。怖い。
脳内が一気に恐怖に染め上がる。
怖い、怖い、怖い。
ガッチリ体を抱きしめるその腕がどうしようもなく怖くてたまらない。もがいても逃れられない、びくともしない力強い一条くんの腕。
怖い。助けて。
フェッ……、フェェェンッ。フェェン……。
遠く聞こえた泣き声。世那くんだ。
彼にも聞こえたんだろう。私を抱きしめる腕の力がわずかに緩む。
「ヤッ!!」
力いっぱい、彼を押しのける。強い、逃れられないと思った腕はズルリと解け、あっさりと脱出できた。
グラリと床に崩れ落ち、座り込んだ一条くん。起き上がるでもなく、うつむいたままの表情は見えない。
「世那くんっ!!」
弾かれたように、一条くんの部屋から逃げ出す。
世那くんのもとへ。私がいないことで夜泣きしちゃった世那くんのもとへ。
走りながら、唇を手の甲で何度も拭う。拭って拭って。トコトン拭って。でないと、わけもわからず涙が溢れそう。
* * * *
「おはよう、一条くん」
昨夜と打って変わって、迎えた爽やかな朝。
キッチンに立ちながら、リビングへとやって来た一条くんを迎える。
今日は私が朝食を作った。炊きたてご飯、しじみの味噌汁、目玉焼き、プチトマト、野菜ジュース。しじみの味噌汁はインスタントだけど。朝一番に、コンビニに走って買ってきたもの。
「ちょうど朝ごはんできたとこだよ。もし体辛かったら、無理しなくていいけど。食べられる?」
「あ、ああ……」
「あと、ドリンクもいくつか用意したから。飲めたらそっちも飲んで」
「うん」
言いながら、一条くんが椅子に腰掛ける。チラッと見た感じ、体、重そうだし、顔色はあまりよくない。
「バッパ?」
「ああ、世那。おはよう」
隣の席に座ってた世那くんに、遅まきながら挨拶する一条くん。笑いかけようとするけど、あんまり上手く笑えてない。
「世那くん。パパはね、今、頭イタイイタイなんだって」
世那くんの朝食を持っていったついでに、額に手を当てて頭痛を表現してみせたら、世那くんが自分の額をペチペチ叩いた。うん、それは頭痛いね。物理的に。
「今日は、仕事、行くの?」
「いや。半休もらう。仕事は……無理」
「うん。そのほうがいいよ。食べたら、なるべく横になってたほうがいいよ。タップリ水分摂って休んで」
「そうする」
「あ、そうだ。ちょっと手を出してみて」
「手?」
首を傾げながら差し出された手を受け取る。
「ここをね、押すと肝臓の働きがよくなって、アルコールの分解が促進されるんだって」
手のひらの中央少し下。そこを親指で押す。
「痛い?」
「いや、大丈夫。詳しいんだね」
「薬局で働いてた時にさ、調剤の先生に教えてもらったんだ。私が食品担当で、お酒の新商品を飲んでばっかりいたから、肝臓を大事にしなさいよって」
ツボ押しぐらいで二日酔いが治るわけないけど、それでも多少の気休めにはなる。
大きな手、スラッと長い指。それを包み込むように持ってツボを押し続ける。
手に触れた感じ、熱はないみたい。風邪ひいたわけじゃなさそう。具合悪そうなのはおそらく、ただの二日酔い。――よかった。
あのまま濡れた一条くんを放置したから、ちょっと気になっていた。二日酔いのドリンクだけじゃなく風邪薬も買ってきたけど、必要なかったみたい。
「タァ、ナッ、バッ!!」
突然、一条くんの手の上に、ヌッと差し出されたちっちゃなパーの手。
「バッ、バッ!!」
それはもしかして、「ぼくもツボ押しやって」ってことですか、お客さん?
「はいはい。痛いところはないですか~?」
モミモミモミモミ。世那くんのやわらかお手々をモミモミモミ。
「キャウッ、キャア~」
くすぐったいのか、奇声を上げた世那くん。食べることより、マッサージに大喜び。でも。
「世那くん。今日はちょっと静かにしようね。ノンベエのパパが、頭イタイイタイだからね」
二日酔いに子供の声は辛かろう。おそらく脳天ズキズキ。
「バッパ?」
世那くん。今度は一条くんの頭をペチン。あ、会心の一撃。クリティカルヒット。
* * * *
「じゃあ、行ってくる」
午後。
いつものようにスーツを身にまとった一条くん。
「うん。でも、……大丈夫?」
いつものように、世那くんを抱っこしてのお見送り。
でも、一条くんの顔色は、いつもとは違う。ちょっと辛そう。まだ少し顔が青い。
「なんとか、まあ。デスクワークだし、座ってるだけだから」
「そう……」
それならいいけど――とは言わない。デスクワークであっても、辛いのは変わらない。
「ごめんな、高階。迷惑かけて」
「別にいいよ。世那くんのゴハンを作るついでだし」
「ごめんな」がどこにかかる謝罪なのか。わかっていて、わざと「世那くんのお昼と一緒に一条くんのゴハンも作った」ことに引っ掛けておく。そっちが「高階」呼びするなら、こっちも平常運転で返す。
「今日は普通に帰ってくると思うから。世那、いい子にしてるんだぞ」
一瞬目を丸くした一条くん。軽く世那くんに触れ、その目を細める。
「じゃあ」
世那くんとバイバイの応酬合戦して出ていった。
まったく。
酒は飲んでも呑まれるな。
私みたいに、飲んでもほとんど酔っ払わない質ならいいけどさ。あんな面倒な酒癖があるなら、飲み過ぎちゃダメでしょ。
バタンと閉まったドアに思う。
酒を飲んで、攻撃的になるやつ、陽気になるやつ。説教臭くなるやつ、愚痴だらけになるやつ。ちょっと変わったところで脱ぎグセなんてのもあるけど、抱きつきグセ+キスグセは初めて知った。いやあ、世間にはまだまだ私の知らないことがあるんでやんすなあ。
「世那くんとお風呂に入る時は、洗面所の内鍵をしめる」ことと、「お酒を飲んだ後の一条くんには近づかない」ことを、同居条件規約に勝手に追加しておく。
よくラブコメ漫画なんかであるじゃない。そういうハプニングイベント。うっかりミスでお風呂(裸)覗いちゃった♡とか、酔いが醒めたら「なんにも覚えてません」ってやつ。それがなんかリアルで起きちゃっただけなのよ。
くっそう、酔っ払いめ。
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