触れられない距離

神崎

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ピクルス

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 切った野菜が入ったジッパー付きのビニール袋に冷えたピクルス液を入れて、空気を抜きながら封をする。
 そしてそれを冷蔵庫に入れた。これで明日の朝にはピクルスが出来ているのだから、お手軽な常備菜だと思う。なのに芹はこういうものが好きなのだ。昔はどうあれ、今はこういう手がかからないような料理が好みらしい。
「栗ご飯はもうセットしたの?」
「したわ。塩を入れて栗を入れて、普通通りに炊くの。」
「明日は栗ご飯か。」
「あなたは朝は食べないじゃ無い。おにぎりにしておくから、お昼に食べたら?」
「そうするよ。」
 沙夜がそうこうしているうちに芹が鍋やボウルを洗ってくれた。時計を見ると、もう遅い時間だ。なのに翔も沙菜も帰ってきていない。
 沙菜は地方へ営業に行っている。帰ってくるのは遅くなることは想定内だ。おそらく食事も返りのサービスエリアか何かで食べてくるだろう。だが翔はレコーディングのあと、企業に出向いているはずだ。CMの曲を作って欲しいと頼まれているらしい。それにしては遅すぎる気がする。
「ご飯はいらないって言っていたけれど遅いわね。」
「翔?」
「うん。」
 携帯電話をチェックしている。他のメンバーは仕事が終わったと報告が入っていた。遥人も、今日はレコーディングのあとは軽い仕事だけでもう仕事は終わっている。それでもまだ家には帰っていないだろう。遥人や純は仕事のあとに飲みに行ったり、食事を食べに行ったりすることもあるのだ。家に帰り着くのはいつも遅いらしい。そこまで管理はしていないが、問題があればこちらの責任になる。芸能人では無いのだからと翔は言っていたが、一般人はファッション誌なんかに載らないだろう。
「心配か。」
「何が?」
 芹はそう聞くと、沙夜は携帯電話を当たる手を止める。
「担当だから気にしているだけなのか。それとも翔だから?」
「何を言っているの。馬鹿馬鹿しい。担当だから、何か問題があったら困るのよ。」
 その言葉に芹は少し笑った。取り越し苦労だったと思う。
 だが沙夜は翔に惹かれるモノだと思っていた。爽やかでスマートで、女だったら翔みたいなタイプを選ぶだろう。自分では無いのだ。外見だけでは無い。自分は女を幸せに出来ないし、好きになる資格も無いと思っていたのだ。
 だからいつも伸ばした手が空を切る。沙夜と二人でいるのに、その体を引き寄せることも出来ないのだ。
「あ、返ってきたわね。」
 翔はどうやらCMの曲を作って欲しいという企業の担当から、食事でもと誘われたらしい。これが仕事の一環なのかと少し迷っていたから、仕事が終わったとメッセージを送るのをためらっていたのだ。
「そういうのって仕事になるのか?」
「ならないわ。会社を出た時点で、仕事は終わり。食事へ行くのなんかはプライベートじゃ無い。向こうさんにしてみたら、領収を切るんだろうから多分仕事になるんでしょうけどね。何を食べてるのかしら。」
「牛丼って訳はないよな。」
「無いわね。」
 少し笑い合うと、沙夜は携帯電話の画面を消す。
「お酒でも入っているのかしらね。明日もレコーディングだって言うのに、起きれるのかしら。」
「あいつ酒が弱いだろう?」
「弱そうに見えるだけよ。赤くなるから。実際はそうでも無いわ。普通くらいじゃないかしら。」
 風呂上がりにビールを飲んでいたのを見たこともある。嫌いでは無いが、好きでも無いらしい。ただ風呂上がりのビールは最高なのだ。続けると腹が出るので、めったにしないが。

 以前にもこの企業からはCMの曲を作って欲しいという依頼があった。車のメーカーで、以前はスタイリッシュな形をしたデザイン重視の車だったが、今回のモノはガラッと違う。
 ファミリー向けのバンタイプの車なのだ。最近沙夜が社用車として乗っている車に少し似ているが、こちらの方がなんだかんだと機能が充実しているように思える。
 そしてその曲は一発で採用になった。リテイクされると思っていたのに、翔は意外だと思っていたのだ。
 そしてその後、そこの会社の部署の人たちと食事でも行かないかという話になったのだ。確かに遅い時間になっているし、翔もこれから帰って沙夜に食事の用意をさせるのは気が引ける。だからその話しについて行ったのだ。
 案内されたのは、その企業がひいきにしているイタリアンのバルだった。テイクアウトもしているし、時間も遅くまでしている。だから便利なのだろう。
 ワインは樽から注いでもらうモノで、ワインを一杯頼めば料理は三品付いてくる。その料理も様々だった。肉料理、魚料理、サラダも充実していて目移りする。沙夜の料理が美味しくないわけではないが、こういう料理は外でしか食べられない。何かわからないようなチーズとかも、おそらくデパートなんかでは無いとお目にかからないだろう。
 だが二杯目のワインを開けると、さすがに酔いが回ってきたようだ。その企業の人たちは三杯、四杯と飲んでいるようだが、最近翔は夜も弱くなってきたように思える。それは奈々子の影響もあるのかもしれない。
「そろそろ帰りますね。俺、明日もレコーディングで。」
 企業の人にそう言うと、担当していた女性が笑顔で言う。
「冬に発売ですよね。」
「えぇ。」
「楽しみにしてますよ。」
「ありがとうございます。」
「あと。あたし個人的には、千草さんのアルバムが聴きたくて。」
「俺の?」
 すると女性はワインを一口飲むと、少し笑って言う。
「デジタル音って昔から好きなんですよ。元々望月旭さんのファンだったというのもあるんですけど。」
「望月さんの?」
「えぇ。あの音楽番組で望月さんとコラボしたのを聴いて、あぁ、この人のアルバムを聴きたいなって思ったんです。話は無いんですか。」
「担当はそうしたいと言っているんですけど……。」
 自分にまだ自信は無い。出したは良いが売れなかったり、あまつさえ「二藍」の評価を下げるような真似になったら、他のメンバーに顔向けができないと思っていたのだ。
「あるとしても来年ですかね。」
「えぇ。そう出来たら良いと思ってますけどね。」
 隣の男がそう聞くと、頷いた。
「その時はこのCMの曲も入れてくださいよ。」
「そうですね。ロングバージョンが出来たら。」
 少し挨拶をしたあと、翔は料金を払いそのままバルを出て行く。その様子を見て、企業の人たちは首をかしげた。
「アルバムって出来そうだと思うけどな。なんでそんなに自信が無いんだか。」
「臆病なんですかね。」
「ステージ上ではあんなに堂々としているのが、プライベートでは相当弱気なんだな。あれは女遊びすらしてないように見えるな。」
「男かもしれないじゃん。」
「あぁ。あの噂だろ。遥人とデキてるって話。」
「そんなの信じてるんですか?」
 女性がそう聞くと、男達は少し笑って言う。
「違うって思うの?」
「「二藍」の担当って会ったことあるんですよね。一度。」
「挨拶に来たとき?」
「えぇ。地味で、黒縁眼鏡で、なんか就活生みたいな格好だったのに、「二藍」のメンバーをみんなくわえ込んでるって話もあるし。」
「マジで?だったら千草さんも?」
「だったら遥人とデキてるって話は嘘か。どんな女なんだろ。」
 その時店のドアが開いた。一人、女性が出て行ったのだ。その話を聞いて、翔の噂は本当だったのだと確信したから。
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