古い家の一年間

神崎

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 お風呂にはいると、疲れがどっと湯船の中に出て行くような気がする。休みの日でもやることは沢山あるのだから、普段しない疲れがたまっているのかもしれない。
 特に校了前はやることが多すぎて疲れる。何度経験してもそれは変わらない。お風呂から出て、タオルで体を拭く。そしてスエットに着替えた。そしてお風呂場から出てくると、煙草の匂いがした。キッチンを見ると、楓が煙草を吸っていた。珍しいこともあるモノだ。
「お風呂、あいたよ。」
 声をかけると、楓はいつもの微笑みを浮かべた。
「ありがとう。これを吸ったら僕も入るよ。」
「珍しいのね。煙草なんて。」
「たまに欲しくなるんだよね。禁煙したいんだけど。」
 覚悟をした。ぐっとお腹に力が入る。
「楓。」
「どうしたの?思い詰めた顔をして。」
「さっきはごめんなさい。」
「え?何のことかな。」
 楓は悪びれもなく、私を見る。
「思い出させてしまったんじゃないのかと思って。」
「あぁ。別れを前提につき合っているのかもしれないって話?別にいいよ。気にしないで。」
 あくまでさわやかだ。いつでも楓は怒ったり声を荒げることはない。私が入社当時ミスをしても声を頭ごなしに怒鳴りつけることはなかった。
 ただチクリと嫌みを一つ言うだけ。
 それが結構傷つくんだけど。
「でも昔を思い出しちゃったな。」
「…そう?」
「周。ちょっとこっち来て。」
 彼がキッチンの方に呼んだ。私はそこへ行くと、彼は携帯電話の画面を私に見せる。
「雪村さん?」
「あぁ。今年男の子が産まれて、もう三人の子持ちらしい。」
 そこには幸せそうな女性と生まれたばかりの子供が写っていた。
「今は斉藤さんか。」
 この人は楓の元彼女。同棲をしていたけれど、大学卒業と同時に別れてしまったらしい。そしてすぐに彼女は他の人と結婚した。
 浮気をされていた。楓はそれを認めたくはなかったようだけれど、彼女は安易に別れを想像していた。だから楓の他につき合っていた男性と結婚することを、自然と選んでいたのだ。
「連絡なんか取らなきゃいいのに。」
「まぁね。でも大学の時のサークルの集まりのSNSがまだ残っているからね。それで近況がわかるんだから。」
「…そんなモノ退会してしまえばいいのに。」
「厳しいな。周は。」
 携帯電話をしまい、彼は煙草を消した。
「周は彼氏がいないの?」
「いないわ。今は必要ないし。」
「そうか。」
 今はそれよりも仕事のミスがない方が嬉しい。
「でも寂しくはならないのか。」
「別に。」
「若いのにおばさんみたいなことを言うんだな。」
 すると二階から、足音がした。そこを見ると、律がいた。
「あぁ。ここにいたのか。楓。ちょっと相談があるんだけど。」
「何?」
「…三日くらいでいいからまとまった休みもらえないか。」
「え?」
「仕事があるんだ。ちょっと遠いから、帰ってくるのに三日くらいかかりそうだ。」
「どこ行くんだ。」
「N県。」
「飛行機?」
「いいや。そこまでは交通費がでないらしいから車。」
「三日で帰ってこれるのか。」
「帰ってこれるんじゃないのかな。その気になれば。」
 ふわふわした答えだ。本当に帰ってこれるかもわからないし、保証もない。楓は少しため息をついた。
「今度の特集の記事が撮れたら、行ってもいいよ。」
「え?」
「写真だったら、僕でも撮れるから。」
「加工しても仕方ないってことか。」
「僕は写真はそんなに勉強してないからね。」
 仕方がないのかもしれない。
「三日後くらいでいいか。」
「あぁ。それくらいで見といてくれ。」
 光が寂しがるだろうな。
「?」
 そうだ。光の姿がさっきから見えないな。部屋におとなしくいる人じゃないのは知っていたけど、もしかして遊びに出かけたのかな。
「帰ってきてあんたが撮った写真、気に入らなかったら俺が撮りに行く時間はある?」
 これはだいぶ失礼だ。さすがに楓も怒るんじゃないかと思った。でも楓はその言葉に、笑いなが言う。
「参ったな。多分俺が撮ったヤツをお前が納得する訳ないだろ。わかった。写真はあとで撮りに行くということにしよう。」
「悪いな。」
「いいさ。それを覚悟でお前を雇ったんだから。」
 それだけを言うと、楓は律の横をすり抜けて階段を上がっていった。
「…。」
 律は階段を下りきると、キッチンの中に入ってきた。そして煙草をくわえて火を付ける。
「…私も上がるわ。お風呂沸いてる。先に楓が入るって言ってたからそのあとに入ったら?」
「周。」
 出て行こうとする私の二の腕を、律がつかんだ。
「何?」
「あとで部屋に行く。」
「…絵の出来を見たいの?」
「あぁ。」
「わかったわ。あとでね。」
 きっと光も楓も二階にいないときがいい。変に誤解をするから。
 そのとき、灰皿の横にあった携帯電話が激しく震えた。
「あ、楓の携帯ね。」
「持って行ってやれ。」
「うん。そうするわ。」
 携帯電話を手にすると私は今度こそ、キッチンの外にでた。
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