モスキート伯爵と嗜好品乙女

すなぎ もりこ

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月夜

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ブランシュはそっと部屋を抜け出して屋敷の庭に出た。
大きな月が、空から煌々と光を降り注いでいる。
ブランシュはその光を避けるように背を低くして庭の奥に広がる茂みに向かった。
何処かで遠吠えが聞こえた。
ブランシュは耳を澄ます。
鬱蒼とした広大な森は隣国へと繋がっているらしい。
狼や熊などの獣が生息する上に磁場も狂う危険な森なのだそうで、屋敷の者は足を踏み入れることを禁じられている。
遠吠えは直も続く。
仲間を呼ぶように。
ブランシュは茂みの影に座り込み、ぼんやりとした。
袖の上からカリ、と腕を掻く。
そして、膝を抱えて顔を埋めた。
涙腺など遠い昔に干上がって機能しないと思っていたが、目の下がムズムズとしてきた。

(居心地が良すぎた)

そして、久しぶりにあの疑問が襲ってきた。

(私が生き続ける意味とは何だろう)

また、あの日々が始まるのかと思うと、足が震える。

(いっそのこと消えてしまいたい)

しかし、父は決してそれを許さないだろう。
父を独りぼっちにするのも胸が痛い。
ブランシュはネガティブな考えを振り払うように頭を振った。

(しっかりしろ、こんなところで挫けてどうする。私は自由を手に入れる、絶対。そのために今までがむしゃらに生きてきたんじゃないか)

灯りが消えて真っ暗のオラシオの部屋を見上げた。
オラシオが羨ましい。
異端な存在でありながら、不自由なく暮らし、皆に慕われている。
オラシオと自分達は何故こんなにも違うのか。
しかし、妬ましいとは思わない。
むしろ、オラシオには感謝をしている。
一時でも人間らしい生活と感情を味わせてくれた。
…だからこそ、迷惑は掛けられない。
ブランシュは顔を上げた。

「そこで何をしている」

月明かりを背後に茂みの上から覗き込む人物を見て、ブランシュは息を止めた。

「主様こそ、こんな真夜中にいかがされたんです?」
「俺は元々夜行性だ」
「そうでしたね。…私は月がきれいだったので眺めていただけです。もう部屋に戻ります」

ブランシュは立ち上がり、服を払うとオラシオの横を擦り付けた。

「待て、ブランシュ」

ブランシュは振り向いた。


月の光を浴びてオラシオの銀髪がキラキラ輝いている。
彫りの深い顔が作る陰影と宝石のように透明な紫の瞳。
黒いマントと、シャツに結ばれた黒いベルベットのリボンが風に靡いている。
すらっと伸びた長い手足。

主様は美しい。
まるで物語の中の王子様のよう。
それほど、幻想的で美しい。

ブランシュは思い知る。
それこそが、オラシオとブランシュの違いだ。

「何か?」
「明日から暫く吸血を控える。俺の元へ来なくて良い」

ブランシュの胸に重いものが落ちてきた。
しかし、それを顔に出さぬほどのふてぶてしさは持ち合わせている。

「承知しました」

ブランシュは腰を折った。
立ち去ろうとしたブランシュの腕をオラシオが掴んだ。

「ブランシュ、どうした」
「何もございません」
「…泣いたのか?」
「私は目から水がでない体質です」
「しかし…」
「狼が…」

ブランシュはニッコリ笑った。

「今宵は狼が騒いでいるようです。お出掛けの際はお気をつけ下さい」


**********


「ブランシュはあの町の生まれではない。父親と共に国内を転々としていたようだ」

スケルは報告書をテーブルに投げた。
カクマはそれを手に取り、パラパラと捲った。

「母親を早くに亡くしたとは言っていましたが」
「1つの町に一年と居たことがないようだ。しかし、ブランシュはそれなりの教育を受けている、マナーの基礎も身に付いていると講師が言っている」

薄茶の髪に琥珀の瞳の平凡な見掛けの何処にでもいる少女。
特徴と言えば少々力が強く大食い、そして、オラシオの吸血に対して耐性を持つ特異な体質だということぐらいだ。
カクマはふと、ブランシュの言葉を思い出す。
自分は堕ちた人間だ、と言っていた。
元々はそれなりの身分であったのかもしれない。
あんなに下品で無礼なのに。

「父親の行方はわからない。娘がかどかわされたというのに薄情なものだ」

スケルは眉をしかめて手を組んだ。

「ブランシュは父親に会いたいと思っているのでしょうか」
「さあな、騙されて多額の借金を背負った上に娘を売って逃亡するような父親だ。愛想を尽かしてもおかしくないがな…で、そのブランシュは何をしている?屋敷の中には見掛けないようだが」
「バラ園です。畝を増やして新しくバラの苗を植えるのだと張り切っています。メリル様がおいでになられたら食してもらうのだと」




「驚いたな、こんなのは初めて見る」

庭師の老人は驚いて、挿し木を摘まんだ。

「これなら直ぐに定植出来る」

ブランシュは移植ゴテで土を掘った。

「来年、花は咲きますかね」
「普通なら、2、3年掛かるところだが、この成長ぶりなら、もしかしたらいけるやもしれん。それにしても、どうやってこんなに根を付かせたんだ」

ブランシュは額の汗を拭いながら答えた。

「オリジナルの発根促進剤を使いました」

老人は身を乗り出した。

「なんと!是非教えてくれ」
「門外不出なので」

ブランシュは申し訳なさそうに微笑み、苗を植えて根元を押さえた。

苗を植え終わり、ブランシュはオラシオの主食となる薔薇を摘んでいた。
ひとつずつ丁寧に摘み取り、籠に入れていく。
白、赤、桃、橙、黄…色とりどりの薔薇が咲き乱れる温室は華やかな香りで満ち、むせかえるほどだ。
ブランシュには腹の足しにもならぬ儚げな感触のこれがオラシオの糧となる。
しかし、美しいオラシオには相応しい。
一際大輪の白薔薇の株の前で、ブランシュは鋏を取り出し、自らの指にその鋭い切っ先を向けた。
僅かな痛みの後に、指の腹に血が盛り上がるのを見て、ブランシュは屈んだ。
薔薇の根元にポタポタと血が滴り落ちて地面に染みていく。
この薔薇はオラシオの一番のお気に入りだ。
ブランシュは頬に手を当てて、その様子をぼぅと眺めた。
今迄、半信半疑だった、いや、恐ろしくて確かめる事が出来なかった己の血の価値を、認めざるを得ない。
躍起になってブランシュと父を追いかける者達の目的は迷信などでは無かった。
それならば、いずれ捕まり飼われることになる前に、自分の意思で使いたい。

「ブランシュ、止めろ」

後ろから強い力で手首を掴まれ、ブランシュは尻餅をついた。
見上げると、目を見開いたオラシオがいた。

「何故そんなことを」

ブランシュは表情を崩さずに答えた。

「薔薇の刺で傷つけてしまったのです」
「鋏で刺したように見えたが」
「何故、わざわざ自傷する必要があるんですか。私は痛みで快感を得るタイプじゃないんで、いったってノーマルです」
「…このままでは仕事に差し障るだろう」

オラシオはブランシュの出血した人差し指をペロリと舐めた。
オラシオの唾液には傷の修復作用がある。
単なる治療目的で始まったその行為が、妖しい気配を帯びてくるのをブランシュは察知した。
オラシオはブランシュの指を舐めるだけでは飽きたらず、口に含み、ちゅうちゅうと吸い始めた。
オラシオがブランシュからの吸血を中止してから3日が経っている。
ブランシュの鼓動が激しく胸を打った。
背中を冷や汗が伝う。
ブランシュは渾身の力で手を引き抜いた。
オラシオはぼんやりと空になった掌を見つめている。

「主様、私の血は吸わぬと仰られたでしょう。自重されますよう」

ブランシュは荒い息を落ち着け、オラシオを睨んだ。

「ああ、まあ、だが、それは暫くの間で…」
「いいえ!」

ブランシュは吸われた指をもう一方の手で握って震えた。

「二度と口にされない方が良い」

オラシオは眉をしかめ、うかがうようにブランシュを見た。

「何故だ?」

ブランシュは唇を噛んだ。

「私には重大な疾患があります。血を吸うことで主様に悪い影響が出るかもしれない」

オラシオは黙って聞いていた。

「今迄黙っていて申し訳ございませんでした」

ブランシュは頭を下げた。

「お役目を果たせない以上、お世話になる訳には参りません。近い内にお暇させて頂きます」

オラシオはブランシュに歩み寄り、その細い顎を掴んで己の顔を近付けた。

「お前は嘘をついている。俺は異変のある血なら直ぐわかる、匂いでな。お前は至って健康だ、むしろ…」

ブランシュの大きな琥珀の瞳が強い光を纏ってオラシオを見た。

「だからそれが疾患だと言っているのです。これ以上お召しになれば、困ったことになります」
「ほう、どうなるのだ」

ブランシュはオラシオの手首を掴み、引き剥がした。

「私は飼われるつもりはございません。主様には感謝しておりますが、私は誰にも縛られないブランシュで居たいのです。私がここまで生き延びてきたのは自由になるため。今更それを諦める訳にはいかないのです」

オラシオは唇を舐めた。鋭い牙が覗く。
両手を広げ、首をかしげた。

「…なるほど、ここから逃げると?」

ブランシュはオラシオから滲み出る物騒なオーラに腰を下げて後退りした。
オラシオはクスクスと笑った。

「どうした?臆病な狼のようだな。あやつらは森のギャング気取りだが、俺を見たら皆そうなる」

顎を上げて紫の目を見開くオラシオには、普段の穏やかな雰囲気など微塵も感じられない。
ブランシュはぶるぶると震えた。
全身が脈打ち、大きく鳴る心臓の音が耳を占拠する。

(怖い…)

これは、本能的な恐怖だ。
圧倒的強者を前にした弱者の絶望。
逃げたい……しかし、背中を向けたとたん、オラシオはブランシュを追い、直ぐ様捕まえるだろう。

「俺は嘘をつかれるのが大嫌いだ」

ブランシュは翻る黒いマントを視界の隅に見た。
その瞬間、首を掴まれていた。
ブランシュは両手でその手首を掴み、剥がしにかかるが、びくともしない。
オラシオはクンクンとブランシュの頬の匂いを嗅いだ。

「旨そうな匂いだな。さあ、ブランシュお仕置きだ。お前が誰の物か思い知るが良い」
オラシオが牙を剥いた。
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