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一章

運命

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 ほどなく招かれたのは、夕食の席だ。
 長いテーブルにサーブされていく名前の分からない料理たちを、黙って口に運ぶ。

 どれも経験のない美味しさだったが、朝に食べたパンよりも上のものはない、と感じるのが不思議だ。

「君には、名前がないと言っていたね」

 公爵がそう言って話題を変えたのは、食後のお茶を飲んでいたときのことだ。

「グレタ、この名前に聞き覚えはないだろうか」
「……ないわ。それがの名前?」

 公爵は頷いた。

「生まれた子が女の子だったら、グレタと名付けよう。そう、アンナと決めていた。グレタ・リンドハーゲン。それが君の名前だ」

 がっしゃん、

 鋭い音がとても近くから聴こえてきて、少女は…グレタは、驚いた。足元に割れたティーカップが見える。何故?落とした?私が?

 公爵とリカルドが、慌てたように近寄ってくる。
 そこでグレタは、自分が椅子から床へ、倒れ込んでしまっていたことにやっと気づいた。

 二人が矢継ぎ早に何かを質問してくるが、そんなことよりも、もっと大事なことがある。

「わ、私の名前……もう一度、言って……」

 必死に言い募るグレタに、公爵は慎重そうに口を開いた。

「君の名前は、グレタ。グレタ・リンドハーゲンだ」


 ――グレタ……
 ――グレタ・リンドハーゲン……!は、その名前を知っている!

 怒涛のごとく流れ込んでくるのは、とある女性の一生。それは、「グレタ」の記憶ではない。とある国で、とある世界で、生まれ育ち、平穏に生きた女の記憶。12歳のグレタの意識は、その記憶に太刀打ち出来なかった。

 意識が沈む。

(嫌っ!やめて!私からもう、何も奪わないで!)

 グレタは必死に手を伸ばす。
 届かない。
 沈んでいく「グレタ」の意識の代わりに、確かに形になっていくものがあった。

 ――ここは、「英雄伝」の世界だ!

 グレタの代わりに、明るいところへ登っていく意識。それは、ミーシャと同じくらいの、大人の女性の形をしていた。

 ――わたしが、グレタになってる……?!悪役令嬢、グレタ・リンドハーゲンに……??

 その意識は、ひどく動揺しているようだ。

 ――そんなっ……それじゃあ、わたし……このままじゃ……

 全てが真っ黒に塗りつぶされる寸前、グレタは確かにその一言を聞いた。

 ――このままじゃ………………!!!


 幼い少女の意識は、こうして、闇に沈んだ。


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