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 カトリーヌは薄暗い部屋の中で書き物を終えると、部屋の中を見渡した。持って行く荷物は最小限。その荷物を見て、本当に身一つで来たのだと思い知らされてしまう。扉付近で物音がして振り返ると、コートを持ったルドルフが立っていた。

「奥様、馬車の準備が整いました」
「フェリックスは眠っている?」
「はい、ぐっすりと。今はエルザが側についております。しかし目が覚めた時の事を思うといささかお可哀そうな気もいたします」

 胸が何度も締め付けられるように痛む。ルドルフに言われなくても、そんな事は分かりきっていた。
 アルベルトから帰還を知らせる手紙が届いた日から毎日、何度も何度も自問自答してきた。フェリックスの為には何が一番良いのか。離婚すると言われても妻として、フェリックスの母親として、その立場を盾に離婚を回避する術を探すべきではないか。それともフェリックスを連れてモンフォール家に戻ってしまおうか。せめてあと数年、大人の言う事が理解出来るようになるまでの間、育てさせてもらえないだろうか。でもベルトラン家が唯一の跡取りをみすみす手放すとは思えない。我儘を言ってモンフォール領への支援を打ち切られてしまったら、まだ復興していない領地で暮らす領民達は路頭に迷う事になってしまう。でも、モンフォール家に戻っても出戻りの親子はただのお荷物となるに決まっている。もちろん両親もルイスも喜んでくれるだろう。だからこそいつか結婚するルイスの邪魔にはなりたくなかった。

「フェリックスには一応話しておいたの。私は用事があるから、エルザとお留守番をしているようにとね」
「納得されておられましたか?」
「どうかしら。その時は頷いていたけれど、実際に私がいないと分かったら……どうかしらね」
「せめてアルベルト様がお帰りになられてから話し合われてはいかがですか?」
「離婚するというのをこんなに待って頂いたのだからそれは無理よ。せめてもの配慮として私の顔を見ないようにして差し上げないと。それに一つだけフェリックスにお願いした事があるの」
「お願い、ですか?」
「ちゃんとアルベルト様にお話できればいいのだけれど。何度も練習したからきっと大丈夫よね」
「私に何が出来る事はありますか?」
「たまにでいいからフェリックスの様子を知らせてちょうだい」
「承知致しました。先程モンフォール家には遣いを出しておりますので、皆様はご存知でいらっしゃいますよ」
「あなたには本当に良くして貰いました。本当に、どうもありがとうございました」

 カトリーヌは頭を下げると、ルドルフはそっとその肩を押し戻した。

「そのように使用人に頭を下げるものではありません。あなたはベルトラン家の人間でなくなったとしても、モンフォール家のご令嬢なのですから」

 目に熱いものが込み上げる。カトリーヌは後ろ髪を引く全てのものを断ち切るように歩き出した。
 最後に一度屋敷を見上げると、フェリックスが眠っている部屋の窓に人影が見える。エルザは頭を下げながら見送ってくれた。

「……頼むわね、エルザ」

 カトリーヌは視線引き離すと、馬車へ乗り込んだ。



 玄関に入るとすでに家族が待ち構えていた。てっきり怒られると思っていたカトリーヌは身構えたが、された行為は真逆のものだった。

「……お母様?」

 すっぽりと母親の腕の中に収まり、背中を擦られている。その暖かさに不意に涙が出そうになり、本当は親不孝をしてしまった事を謝りたいのに言葉が出てこなかった。

「謝らなくていいのよ」
「ッ!」
「あなたは何も悪くないわ。フェリックスもきっと分かってくれるわよ。お腹の中にいる時から今日まで、そしてこれからもずっと愛しているんだもの」
「お、かあ様!」

 カトリーヌは母親の背中をぎっちり掴むと。声を上げて泣いた。子供を捨ててきたと罵られても仕方がないのに、フェリックスの事を思えばこんな風に暖かさを感じてはいけないのに。いつまでも背中を擦ってくれるその手が優しくて、一度堰を切った涙が止まる事はなかった。

 暖炉のある暖かい部屋の中、毛布に包まりながら、離婚の話が実はフェリックスが生まれた時からあった事を告げると、母親は毛布の端をギリギリと握り締めながら、黙って聞いていた。

「だから私、どこか働こうと思うの。修道院も考えたのだけど、そうするとフェリックスに会えなくなってしまうわ。かといって再婚してもフェリックスに会えなくなってしまうかもしれないし、働くのが一番かと思ったのだけれど……」

 黙り込む母親の顔を覗き込むと、突然ニコリと微笑まれた。

「働きにも結婚もしなくていいわ。あなたがこの家をお継ぎなさい!」
「男達を頼りにするのはもうおしまいよ。お父様は領地の立て直しと、王都での仕事でほとんど帰って来ないし、ルイスは騎士団の仕事がよほど気に入ったのか、全く当主としての仕事を学ぼうとしてないの。だからもうあなたがモンフォール家の当主になるのよ!」

 興奮の行き先がいささか妙な方向に行った気もするが、そう言い切った後に頬をするりと両手で包まれて気がついた。赤く充血した瞳、覚悟を決めたようなその表情は、ついさっき思い立った訳ではないのだという事に。

「本当は私も離婚しようとしていたのよ」
「は? お母様今なんて?」
「だから、私も離婚しようとしていたの。でも娘がこうなった以上仕方がないから私は我慢しましょう。もちろん、離婚して被害を被るのは女と決まっているのよ。でもだからって私達が我慢する必要なんてないのよ」
「でも、どうして急に離婚だなんて……」
「ずっと考えていた事よ。私達の間に愛なんてなかったんだもの」

 そんなはずがない事はカトリーヌも分かっていた。子供から見ても両親は愛し合っているように見えたし、互いを思いやる姿は本物だったはず。だからこそ、一体なぜそんな考えに至ってしまったのかが理解出来なかった。

「セリーヌ、もしかして原因はこれかい?」

 ハッとして扉の方を振り見ると、そこには久しぶりに帰ってきた父親が立っていた。扉にもたれかかるようにして立つその姿は疲れが滲み出ている。そしてその手にはキラリと光る物を持っていた。

「あなた、それは……」
「先日、妙な事にモンフォール領にある酒場の女性が身に付けていたのを見つけてね。庶民が付けるにはいささか高価なものだから問い詰めてみたら、災害があったばかりの頃にとある高貴なご婦人から譲り受けた物だと言ったんだよ。もし盗んだのだとしたら罰を与えるつもりで今は捕らえているんだ」
「罰……」

 母親の顔はどんどん血の気が引いているようだった。

「そうだよ。領主の妻から盗みを働いたなら当然罰するべきだろう? 君は盗まれたと言えなかっただけだろう?」
「それは……」

「お父様なにかの間違いじゃ」
「お前は黙っていなさい」
「……はい。申し訳ありません」
「セリーヌ、場所を変えて話そうか。子供の前で話す事ではないようだ」
「ここで結構ですわ。今カトリーヌは傷ついて帰って来たのです。一人には出来ません!」
「分かったよ。それじゃあ理由を説明してもらおうか。どうして結婚指輪を他人に渡したのか。もしくは盗まれたのか。どちらにしても君と酒場の女性との接点が見つからないのだけれどね」
「接点ならあります。あなたですわ」

 母親は意を決したのか、真っ直ぐに顔を上げて父親を睨みつけていた。初めて見るその顔に、カトリーヌは何も言えなくなったまま、ただ息を殺して二人のやり取りを見守るしか出来なかった。使用人達も人払いされているのか気配が全くない。息をするのも憚られた緊張の中、先に口を開いたのは父親の方だった。

「意味が分からないよ、セリーヌ。どうして接点が私になるんだ」
「それを私の口から言わせるおつもりですか」
「分からないから聞いているんじゃないか!」

 怒ったところなど見た事ない父親の声に、びくりと身体が跳ねたが、母親は動じていないようだった。

「災害の後、あなたが家に帰らないから様子を見に街へ行ったのよ」
「まさかあの全て押し流された景色を見たのか?」
「ええ、見ましたとも。私はあなたの妻ですもの。目を背けてはいられないでしょう? そして詰め所にしていた酒場に着いたのです。あなたは2階を我が家のようにしていたあの酒場です。娼館まがいの行為まで許して」
「……あの時は仕方がなかったんだ。家も財産も家族も失った女性達が溢れていた。望む者にはそういう仕事も許可したよ。とはいっても監視はしていたけれどね。今のモンフォール領には一件だけ正規に許可を出した娼館がある。それでしか生きられない女性達の為にだ。私を軽蔑するかい?」

 すると母親はゆっくりと首を振った。

「……理解は出来ます。明日明後日生きる為の行為を非難する権利は誰にもありません。でもあなたがそこに入り浸っていたという事実が私は許せないのよ」
「そうは言っても、あの時は泥や死臭が染み付いた身体のまま屋敷に戻る事は出来なかったし、作業も朝早くから日が暮れる夕方までの肉体労働で、あの場所で休んだ方が合理的だったんだよ」
「そして身体も癒やされていたと言う訳ですね」
「……何か勘違いをしているようだが、私はあの酒場で君を裏切った事はないよ。本当にあの場所は食事と寝床を提供出来る貴重な場所だったというだけだ。それで指輪がどういう経緯であの女性の手に渡ったのか、話してくれるかい?」

 母親が震えているのが分かる。カトリーヌはその手の上にそっと手を重ねた。はっと顔を上げた視線と視線が合う。すると母親は小さく喉を鳴らして話し始めた。

「あなたが上がっていった二階が何なのか、情報を得る為にその女性が欲しがる物を渡したのよ。だから盗まれたのではないわ」
「そしてその話を聞いてどうしたんだい?」
「二階に上がって行ったわ。あなたの部屋に向かうつもりだったの」

 一瞬にして父親の表情が険しくなったのが分かった。

「……でも、廊下でカールに止められて行く事が出来なかったわ」

 ちらりとカトリーヌに視線を向けてきた母親は、ここにきて娘に聞かせる話ではないと思ったのだろう。カトリーヌは母親の手から手を離すと、そっと毛布をその肩に掛けた。

「私は部屋に戻っています。だからどうか仲直りしてね。お父様とお母様が仲違いするなんて悲しいもの、二人は愛し合っているんだから」

ーー自分とアルベルトとは違うのだから。

 心の中に湧き出た言葉が胸に突き刺さる。そして部屋を出た。

 久しぶりに自分の部屋に戻ると、少ししてから母親の泣く声が聞こえてきた。そしてそれを慰める父親の声も。

「良かったわね、お母様」

 暗い部屋の中でぽつりと呟くと、そっと目を閉じた。

「フェリックス、ごめんなさい。こんなお母様でごめんなさい」

 目を瞑ったまま、涙が一筋流れていく。その涙を拭うでもなくそのままにして、カトリーヌは眠りについた。
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