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10ー1 妻がいたという痕跡

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「おかえりなさいませ。長きに渡る遠征、大変お疲れ様でございました」

 ルドルフは深夜に帰宅した主を玄関で出迎えると、キョロキョロしているアルベルトをじっと見つめた。

「どうかなさいましたか?」
「いや、別に。……もう眠っているのか?」
「フェリックス様ならこの時間はもうぐっすりですよ。その分朝がお早くていらっしゃるので、ご覚悟くださいね」
「そうなのか。それではあれも大変だな」
「あれとは?」
「あれはあれだ。……妻の事だ」
「奥様の事をあれだなどと言うよう教育したつもりはないんですがね」

 するとアルベルトは驚き半分で訝しげにルドルフを見た。

「なんです?」
「お前、戦争から帰ってきたばかりの主に冷たくはないか?」
「そうお感じになられるのであれば、その原因は貴方様にあるのでしょうね。お先にお風呂に入られて下さい。その間に軽食を準備しておきます」

 スタスタと歩いていくルドルフの後を追うようにして、アルベルトは静まり返った広い屋敷の中を歩いた。

「妻と息子は一緒に眠っているのか?」
「フェリックス様は侍女が付いております」
「それなら妻は? 夫婦の寝室か?」

 アルベルトはどうしていいのか分からない様子で視線を彷徨わせたが、その思いもルドルフが短い一言で断ち切った。

「奥様なら出ていかれましたよ」
「は? 出て行った?」

 胸元から封筒を取り出したルドルフはぶっきらぼうにアルベルトへと渡した。手早く封筒を開けて中身を確認すると、アルベルトは口元を擦った。

「私が帰るまで留めて置かなかったのか?」
「奥様のご意思でございます。それに、離婚を伸ばしてくれたアルベルト様の為にも約束通り出ていくと仰っておりました。本当に奥ゆかしい御方でいらっしゃいます」
「……そしてこの離婚同意書を準備したという事か」

 この国では双方の同意と、双方の家、そして国王の承認があれば離婚は成立する。そして今手元にはカトリーヌ直筆で離婚に同意する旨と、モンフォール家からも近日中に同意書を送るというものだった。
 先程王城で会ったモンフォール伯爵の様子を見る限りこの事は知らないのだろう。だからこそ、果たして離婚に同意するのか疑問だった。

「アルベルト様のお望み通りでございますね。嬉しいですか? あのようにお心優しい奥様を追い出してしまったのですよ」
「私がいない間に随分とモンフォール家の人間に絆されてしまったようだな」
「もともと、私はなんとも思って思っておりませんでしたよ。アルベルト様が意識的に奥様を避けられていただけです」
「別に避けていた訳じゃないさ。でもこれで自由の身と言う訳か」

 ゆっくりと浴室へ向かうその背中を見ながら、ルドルフは深い溜息を吐いた。

「全く素直じゃないんですから。なぜ離婚しようとしたのかをお話して差し上げれば良かったんですよ」



 アルベルトが眠りについたのは夜明け前だった。カーテンの隙間からは眩しい光が差し込んでいる。その光からするに、おそらく今はもう昼近いのだろうと思ってしまう。急いで着替えをし部屋を飛び出すと、控えていた侍女達が驚いたように慌てだした。

「旦那様、お支度は私達が致しましたのに!」
「気にするな。こうした方が早かっただけだ」

 長く戦場にいたせいか、ある程度身の回りの事は出来るようになっていた。今はそれを面倒だとも思わないし、むしろ気楽だとさえ思っている。それよりも驚いたのはフィリップの適応力だった。王子でありながら枯れ葉を使って火を起こす事も出来るし、洗濯もする。そして一番驚いたのは、料理をする事だった。
 理由はただ一つ。

“むさ苦しい男達が作る料理は、口に合わないんだよねぇ“だった。

もちろん料理人も付いてきているのだから、そこまで口に合わないという事はないだろう。むしろそこにはフィリップの優しさが見え隠れしているように思えた。不定期でする食事や、洗っても洗っても増える洗濯物。それらをこなしている使用人や兵士達の仕事を少しでも軽くしようとしているのではと見方を変えてからは、フィリップに対するアルベルトの考えは少しずつ変化してきたのだった。

 大股で廊下を歩き、曲がった所で女性の悲鳴が上がった。見下ろすと見覚えのある侍女が立っていた。

「申し訳ございません! 私の不注意でございます!」

 深く頭を下げる侍女の後ろでひょっこりと頭を出している姿に釘付けになる。侍女は恐る恐る顔を上げると、それに気づいてさっと身体を避けた。

「フェリックス様、お父様ですよ」
「フェリックス……これが」

 じっと真っ直ぐ見てくるのは薄青い宝石のような瞳。そして我が子だと疑う事が出来ない程に、自分と同じ濃い青色の髪をしていた。
 急に行く手を塞がれてしまったフェリックスは、見上げ過ぎて後ろにコテンと座り込んでしまう。そして火がついたように泣き出してしまった。

「あらあら。驚いたんですね、もう大丈夫ですよ」
「エルザぁ!」

フェリックスは両手を広げながらエルザにしがみつくと、グリグリと顔を胸に顔を押し付けていた。

「旦那様申し訳ございません! 落ち着かれましたら改めてご挨拶にお伺い致します」

 エルザはフェリックスを大事そうに抱えながら足早にその場を立ち去った。

「あれが息子……、俺の子か」

 アルベルトは今だ自分に子供がいるという実感が湧かず、その場に立ち尽くしていた。

「やはり泣かれましたか」
「お前、いつから見ていたんだ」

 ルドルフは楽しそうに廊下の先から現れると、放心していたアルベルトを楽しそうに見つめた。

「あれだけ泣かれれば誰だって気が付きますよ。どうですか? お初めてお会いになったお子の感想は」
「感想もなにも一瞬過ぎて何も感じなかった。あれだけ泣くなんてありえるのか? 私は父親だぞ」
「フェリックス様から見たら見知らぬ大きなただの男性ですからね」
「見知らぬ、ただの、男性……」
「これから共に過ごすのですから、ゆっくりと親子の時間を取り戻せば宜しいのですよ。フェリックス様はとても愛情表現に長けていらっしゃいますよ。だからあのように泣けるのです」
「ベルトラン家の子が愛情表現に長けているだと? この家の血を継いでいるのにか?」
「ですがお育てになられたのはカトリーヌ様であり、モンフォール家の皆様が愛情を注いだおかげでしょう。もちろん、この屋敷の者達も慈しんで参りました」

 アルベルトは不意に辺りを見渡した。大きくは何も変わってはいない。しかし三年前まではなかったそれに触れた。
 廊下には等間隔に台が置かれ、花瓶には花が生けられている。黄色の花びらが美しいその花は殺風景だった廊下に彩りをもたらしていた。もちろん壁には絵が飾られている。それでも有名だから高価だからというだけ飾られた絵には何の思い入れもなく、むしろ恐ろしいだけだった。それに比べ、花瓶に生けられた花を見るだけで、アルベルトは無意識に微笑んでいた。

「最初はアルベルト様が奥様に花をお送りになられたのが始まりですよ」
「私が送った花がか?」
「左様です。奥様が美しいからと大きな花束を小分けにして廊下や各お部屋に飾られたのです。そこから花を飾るのがこの屋敷での習慣となり、いつしか季節の花が絶えないようになりました」
「……そうか」
「宜しければ他のお部屋もご覧になられてはいかがですか?」
「それは必要ない。部屋に入った時に見るから大丈夫だ。それよりも今から登城するから準備してくれ」
「かしこまりました」

 アルベルトが家を出ようとした所で、エルザに抱き抱えられたままのフェリックスがひょっこりと顔を出した。

「旦那様お忙しい所申し訳ございません。少しだけフェリックス様にお時間を頂けないでしょうか?」

 エルザは恐る恐るアルベルトに近づくと、胸に顔を埋めたままのフェリックスをトントンと揺らした。

「フェリックス様、お父様ですよ」
「おとうさま?」
「そうですよ。沢山おもちゃを頂きましたね。あのクマさんのお父様です」
「クマの? とうさま?」

 ぱっと顔を上げると、先程とは打って変わった表情でアルベルトを見た。視界が近くなったせいか、それともエルザに抱っこされているからだろうか、フェリックスは今度は泣かずにじっと顔を見てくる。そして小さな口を開いた。

「とうさま?」
「……そうだ」
「アルベルト様、もっと笑顔で」

 小声でルドルフが囁いてくる。頬を引き攣らせながら、アルベルトはにこりと笑った。しかしそんな不気味な笑みを浮かべられたフェリックスは再びエルザにぎゅっと抱きついてしまう。アルベルトは溜息を吐くと、背中を向けた。

「今はもう時間がないから、話なら帰ってからにしよう。それか明日の朝だ」
「フェリックス様! お母様は何と仰っておられましたか?」

 アルベルトは“お母様”という言葉にとっさに振り返っていた。

「“やくそくはおぼえていますか?”」
 
 フェリックスの拙い言葉で、可愛らしい声で紡がれた言葉に、アルベルトは立ち尽くしていた。間違ったのかと不安そうにエルザを見上げたフェリックスは、頭を撫でられてホッとしたように再びエルザに抱きついた。

「奥様からのご伝言でございます。内容は分かりませんが、そう旦那様にお伝えするようにとの事でございました」
「わざわざ子供の口から言わせるとは。……承諾した覚えはないが、覚えていると伝えておいてくれ」

 そう言うなり、アルベルトは足早に玄関を出ていった。
 エルザはアルベルトの背中を見送るなり、その場に座り込んでしまった。驚いたフェリックスがペチペチとエルザの頬を叩く。急いでルドルフがエルザの腕を支えた。

「エルザ、どうしました?」
「すみません、緊張してしまって。でも奥様のご伝言を無事に伝えられてよかったです。フェリックス、頑張りましたね!」
「ぼくいいこだね。おかあさまかえってくる?」
「そうですね。もう少しかかるでしょうが、きっとすぐに会えますよ。それまで私とお留守番です。今日もクマちゃんと一緒に寝ましょうね」

 フェリックスは返事をせずにエルザに擦り寄った。

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