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2ー6 あなたのいない世界

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「エマちゃん、ちょうど良かった! これを持っていって!」

 手に持つ籠の中には、田んぼから直接抜いたばかりの土の付いた人参が三十本以上、その中から葉を無造作に掴んで豪快に差し出してきたおばさんにお礼をいいながら受け取った。しかしパンを入れていた袋に入れる訳にもいかずに困っていると、おばさんはやっぱり、といい籠を差し出してきた。

「こっちを籠まま持っていきな。あんたのとこのは細いのによく食べるからね!」

 エーリカは苦笑いしながら籠入りの人参を受け取った。この町に来てニヶ月、名前は全く違うものにしてしまうと呼ばれたり名乗る時に忘れてしまうかと思い、最初の文字はそのまま使いエマと名乗る事にしていた。

「おばさん、いつもありがとうございます。籠は後で返しに来ますね」

 町のそばには田んぼが幾つもある。小麦やじゃがいも、人参、野菜は町で購入出来るし、養鶏をしている家からは新鮮な鶏肉や卵を買う事が出来た。それでも町には足りない物を賄う為に、七日に一度の頻度で王都から行商がやってくる。店に品物を納品する為にやって来るのだが、その後は広場で露店が開かれ、一般民も購入する事が出来た。中には直接行商に前もって必要な物を頼んでおき、買ってきてもらう者達もいる。その行商の露店先で、最近話すようになった若い夫婦と道ですれ違う。同じ年位の夫婦は新婚らしく、結婚を期に五ヶ月前に王都から越してきたらしかった。念の為、町に来る前に腰まであった髪を肩ほどまで切り、髪が染まると聞いた木の葉を潰して髪に揉み込んでいた。そのおかげで艷やかで美しかったピンクブロンドの髪は、艶のない濃い栗色に変わっていた。若い夫婦はここへ来てすぐに作りやすい芋の栽培を始めた様で、顔見知りになった最近では会うと大きなじゃがいもを貰う事も多かった。

「いつも悪いわ、うちは返す物がないのに」
「いいのいいの! 旦那に沢山美味しいものを作ってあげてよ」

 人懐っこく小柄な妻の方はシルビアといい、大層な料理自慢らしく、いずれはこの町で食堂を開くのが夢だと言っていた。兵士のようにがっちりとした体の夫はマッテオは、元々は男爵家の次男だったそうだが平民のシルビアとの結婚を反対され、家とは縁を切ったのだという。マッテオは無口だがいつもすれ違う時にはぎこちなく微笑んでくれた。どこかで見た事があるような気もするが、エーリカ自体あまり夜会には出なかったからきっと見間違いなのだろう。

「ありがとう。あの人も喜ぶと思う。でも本当に申し訳ない気がして……」

 するとシルビアは細い手を勢いよく振り、長い赤茶の髪がさらさらと揺れた。

「お互い様よ。守護山が落下してから皆大変だったでしょう。私達も王都から早々に離れたし。王都にいた人間からすれば、ヴィルヘルミナ帝国が侵攻してきた事よりも大事件だったわよね」
「シルビアそのくらいにしておけ」

 無口なマッテオは辺りを見て声を潜めた。国境辺りから中心部に避難する人々が増え、食うに困った者達が野盗と化しているのは噂で聞いていた。この町はわりと中心部にあるので兵団はいないが、自警団がある。だから住む決め手にもなった。

「エマさんの家は少し町から離れているでしょ? 借り直せないの? 少し心配だもの」
「あの人釣りが好きだから川から離れたくないみたい。そのおかげで夕飯はいつも魚なんだけどね」
「そうよ! 前に貰った魚は美味しかった!」
「また沢山取れたら持っていくわね」

 マッテオにたしなめられ、舌を出したシルビア達と別れて、いつしか人気の少ない道に出た。見通しの良い林を抜けると川が流れている。家はその近くにあった。
 この家を見つけて持ち主をあたったところ、亡くなった祖父が一人で住んでいた家を持て余していたと、その孫から格安で借りれたものだった。小さな家に戻ると、中に声を掛けた。

「ちょっと両手が塞がっているの! 開けてくれない?」

 しかし返事はない。手が使えないので肘で叩こうとした瞬間、勢いよく扉が開いた。中から出てきたのはいつの間にか腰の高さほどまでに大きくなったクマだった。

「あれ? クマいたの」

 するとクマは小さく鳴くと家の中に顔を向けた。部屋は二間で、居間には絨毯が敷いてあり、年季の入った二人がけのソファもある。その上にはこの家で一番フカフカなクッションが置いてあった。その上に神々しくも鎮座していたのは、真っ白い毛並みの狐。毛の境い目は空気に溶けているのではと思う程に細く柔らかそうにフワフワと空気を含んでいる。木の実の様に丸い瞳がこちらに向くが、興味なさそうに逸らされるとソファの肘掛けに顎を乗せた。

「シロちゃんも来ていたのね。こんにちは」

 しかし返事はない。ある時からクマの周りをちょろちょろとし始めた白いキツネは三日に一回の割合で現れていた。返事のしない狐の代わりにクマが体を押し付けてくる。よろけて籠の中からじゃがいもがこぼれ落ちていった。

「クマったらどこでご飯食べているの?」

 くぐもった声で長く鳴くが、もう以前の様になんと言っているのか理解する事は出来なかった。

「そんな所に突っ立ってるなよ」

 後ろから背中を押され、更にじゃがいもが床に散らばる。銀髪の隙間から意地悪く笑いながら、シロのいるソファへどかりと座った。

「ヘルムート! シロちゃんがびっくりするでしょ」

 シロは振動を感じる前に飛び退き絨毯に着地したが、目を細めてヘルムートを見つめていた。

「狐ごときが私に歯向かうのか?」

 エーリカはヘルムートのおでこを弾くとシロを抱き上げた。

「お前! 王族に向かってなんて事をするんだ! 極刑になるぞ!」
「どうぞどうぞ。あなたが国に戻れるならね」

 ふてくされた顔で睨みつけてくるが、その顔を見ると怒りもどこかへいってしまう。

「その様子だとお魚は釣れなかったみたいね。野菜を貰ったからシチューを作ろうと思うの。いい?」
「あの白くてトロリとした物だな。よかろう」
「あなたも手伝うのよ」

 驚く事にヘルムートはナイフの扱いを少し教えただけでエーリカの腕前を超えてしまっていた。もともと剣を振るっていたから刃物の扱いに慣れているのだろうか。じゃがいもの皮を剥いている手元を覗いていると、手際よく皮を剥き根を取っている。得意気な視線と目が合い、とっさに残りのじゃがいもを追加した。

「おい、こんなに芋ばかり食わせる気か」
「シルビアさんの所のじゃがいもよ、おいしいんだから。それに私達もう働いていないんだから仕方ないでしょ」

 すると誇らしげなヘルムートは胸元から小さな巾着を出した。ずっしりとしたその中には沢山の硬貨が入っていた。

「どうしたの、これ」
「換金してきたんだよ」
「あれほど駄目だって言ったじゃない!」

 ここにきてすぐにヘルムートは手持ちの宝石を換金しようとしたが、それは止めていた。ヘルムートの持っていた宝石はヴィルヘルミナ帝国だと分かる細工の物や、いち庶民では手に入れる事の出来ない大きな宝石が付いた首飾りや指輪だった。到底小さな町で換金出来る代物ではない。それにそんな物を売れば必ず誰かに気付かれてしまう。高価すぎる品の場合、盗品かと疑われたり他国の密偵が金に困って換金した物かなど、役所の調査が入る場合がある。今は小さな事でも疑われる訳にはいかない。すぐに荷物をまとめようと離れた腕を掴まれた。

「この町を出ましょう。見つかったらどうするの? 私もあなたももう魔力がないのよ!」
「待て待て、私物は売ってないから安心しろ」

 その瞬間、嫌な予感がして奥の部屋に飛び込んだ。簡素な机と寝台があるだけの部屋。引き出しを開けてその場に座り込んだ。そこにはクラウスから貰った首飾りが消えてた。耳飾りは普段付ける訳にはいかず、守護山の部屋に置いて来たのであの崩壊でもう見つからないだろう。しかし首飾りならばといつもこっそり服の下につけていた。でもここに来てからは万が一誰かに見られたらと思い、身に付けてはいなかった。ヘルムートはどうやらそれを売ってしまったらしい。確かに小粒のラピスラズリの宝石は換金しても目立たないだろう。それでもエーリカにとってはもう二度手に入らない宝物だった。後ろで扉が軋む音がする。拳を握り締めて声を絞り出した。

「今は入ってこないで、お願いだから」
「金は少し使った。調味料と靴と、あと家の補修材にもな」

 返事は出来ない。声を出したら涙が溢れてしまいそうだった。
 ヘルムートの購入した物は全て生活に必要な物だった。最初の頃、着ていた服をそのまま売れば目立つので布にして換金し、質素な服や生活に必要な物を揃えた。食材もたまに好意で貰ったりもしたが、ほとんどは購入するのでお金も底を尽きかけていた。首飾りを買い戻す事はできない。金目の物はもうないし、ヘルムートの私物を売るには危険が大きい。仕方ないのは分かっていた。もう諦めるしかないのは分っていた。
 クラウスとの思い出が時間と共に消えていく。あの日、クラウスに向かって伸びて光り輝いて見えた道はどこへ消えてしまったのだろう。たった一人を思い続ける事はとても辛い事なのだと知った。叶わない恋だと認めるには時間がかかって、今も認める事が出来ないでいた。
 守護山が崩壊したあの時、真っ直ぐにミラを助けに行ったクラウスの姿が瞼に焼き付いて消えない。辛い思いを飲み込んで隠して、今日を平気な振りをして生きていても、少しのきっかけでこんなにも溢れてきてしまう。自分の時間はこうして止まったままなのに、クラウスは今この時も沢山の人に出会っているのだろうと思うと胸が苦しかった。その中にはきっと、クラウスを想う人も出てくる。クラウスが想う人も。二人で過ごした短いけれど濃密な出来事を考えたくなくて、逃げてしまいたかった。本当は他の誰かと幸せになってと祝福してあげたい。そして進む道の先にクラウスがいなくても強くありたい。そう思うのに、今も何も変わっていない弱い自分が腹ただしくて情けなかった。

ーー少しでも私を思い出す時はありますか? 声が聞きたいです、クラウス様。

 共にいた時、確かに想い合っていると感じた時もあった。でも向いていたと想う気持ちがすぐに消えてしまう感覚もあった。その時二人の未来を願って、私だけを見て欲しいと向き合って言えていたなら、何か変わっていたのだろうか。考えても答えの問いが何度も湧き上がっては流れて消えていた。
 扉の隙間からしてくるいい匂いに誘われて居間に戻ると、ヘルムートが鍋の中に勢いよく牛乳を入れているところだった。

「入れ過ぎよ、貸して」

 ヘルムートは何も言わないまま横にずれるとヘラをよこしてきた。鍋の中を見て、まだ修正がききそうだと少し安堵する。せっかく貰った野菜を無駄にするわけにはいかない。

「侯爵令嬢がボロ屋でこんな食事を作っているとはな。もともと料理が出来る事自体もおかしいが、今のこの姿は本当にみすぼらしいぞ」

 しかしそう言う顔は口元が少し上がっていたように見える。まだ怒りは収まっていないので返事はせずに鍋底が焦げない様にヘラを動かした。

「もうあれは買い戻せないからな。金は使った」
「分かっているわ。でも言って欲しかったのよ」
「言ったら駄目だって言うだろ。もうあんな奴忘れちまえよ。どうせ今頃そばには別の女がいるさ」
「やめて! 聞きたくない」

 その瞬間、鍋の中のシチューが跳ねた。一瞬引っ込めた手を無理やり引かれると、水の桶に突っ込まされた。

「大丈夫よこれくらい」

 しかし返事はない。後ろから抱き締められるようにして立つヘルムートの息が耳にかかった。クラウスならば見上げる程の身長でも、ヘルムートの視線は近い。すぐ後ろに顔があると思うと動く事は出来なかった。

「あの、離して? もう大丈夫だから」

 腕ごと押さえる様にして抱き締められる。腕まくりをして見える筋肉のついた腕と、身動きしてもびくとのしない力に、鍛えていた人なのだと今更思い出していた。誰よりも巨大な魔力を持ち、戦場を駆けていたヴィルヘルミナ帝国の皇太子。

「私を殺そうとしていたくせに」
「あの時は敵同士だった。ただそれだけだ。それに助けただろ」
「それはそうだけど」

 腕の力が強くなる。

「ちょっと、くる、し」
「お前が欲しい」

 耳を疑う言葉に思わず固まってしまった。少し掠れた声は聞き間違えかと思った。
「お前を愛しく思っている」
「うそ」
「嘘じゃない」

 振り返った瞬間、魔力の消えた黒一色の瞳と目がかち合う。唇を奪われたのは一瞬の事だった。弾力のある物が何度も押し当てられる。そのまま首に落ちてくる唇から逃れようとすると、片手で両手首を掴まれた。自由になったもう片方の手が体の線を撫でるように動き出す。

「お前は魔力を使った後どうしていた? あの王子に慰めてもらっていたのか? それともオルフェン?」
「どういう意味?」
「お前程の魔力を使って平気な訳がないだろ」
「沢山使った時はよく熱を出していたけど」
「オルフェンは手を出さなかったという訳か。こんなにいい女が目の前にいて、馬鹿な奴だな」

 クラウスとは違うすらりとした手が下肢を撫でてくる。抗議しようと後ろを振り返った瞬間、薄く開いていた唇を割り、舌が入ってきた。クラウスとは違う乱暴な舌が口の中を蹂躪していく。最後に舌先が吸われるように離れていくと、ヘルムートは額をつけて笑った。

「お前、口小さいな。私のが入るか?」
「な、な、な、なに!」
「まぁ、ここに入らなくてもこっちは大丈夫か。この私が二ヶ月も我慢していたんだ。もうそろそろいいだろ?」
「よくないわよ! 離して!」
「すぐに欲しがるようになるさ。他の女達も最初は嫌がってても最後は自分から跨ってきたんだ。お前もそうなるに決まっている」

 手が下腹から上がってきた所で、足を思い切り踏み付けた。

「っ!!」

 悶ながら片足を上げて離れた瞬間、奥の部屋に飛び込んで今度は鍵をかけた。

「おい、エーリカ! おーい……これ、もう食えるか?」

 ヘルムートは片足を上げながら鍋の中を覗き込んだ。

「最低最低!」

 枕に顔を押し当て叫んだ。生々しく残る感覚に体がぞわりとする。今までヘルムートが抱きついてきたり頭を撫でてきたりはあった。でも今日みたいに露骨に触ってくる事は一度もなかった。それに……。

ーーお前を愛しく思っている。

 言われた言葉が頭の中を巡っている。誰にも言われた事のない言葉。誰よりもクラウスから聞きたかった言葉をヘルムートから聞くとは思いもしなかった。胸の奥がチクリと痛くなる。報われなくてもクラウスに好きだと言っておけば良かった。そうしたら今感じたみたいに、少し位はクラウスの心を揺さぶる事が出来たかもしれない。今思えば、クラウスを好きだと思いながら常に別れの準備をしていたように思う。ただ傷付くのが怖かった。クラウスも誰かに、ミラにあの言葉を告げているのだろうか。

ーー私はどう願っても聞く事の出来ない言葉を。

 今頃は誰かと仲良く過ごしているかもしれない。侯爵令嬢で魔術師の、肩書ばかりが大きい婚約者がいなくなり清々しているかもしれない。嫌な事ばかりが頭の中を流れてきて涙を枕に擦り付けた。

ーーずっと泉から出られなければよかった。そうしたら、クラウス様の事も考えずに、ヘルムートの事も知らずにいられたのに。

 二か月もの間、エーリカは人柱のある泉の中にいた。


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