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3個目 キス
3個目 キス
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3個目 キス
英語どころじゃない。彼女の言葉は、俺を不安にさせた。英語も漢文も地理も、最悪だ。
「テストお疲れ様!」
バンッと背中を叩かれて、道路までふらついてしまう。
「……そうだな」
さやの力で今俺は木っ端みじんになってしまうぐらいひ弱だ。
「暗いわねぇ。檜山先生のテスト駄目だったの?」
「いや、健闘したよ。……多分」
でも今は何も考えたくない。
いまはただただ帰ってから作るケーキの事だけ考えたい。
砂糖250gに、卵……何個だったっけ?
「今からホールケーキ作るんだよね? 出来上がりにお邪魔して良い?」
「今日は美味しく作れそうに無いよ」
そう返事をして保育園へ向かう。さやが追いかけてこない気配だけ察するのが精いっぱい。今は他の人のことまで考える余裕はない。
保育園のママさん達と挨拶を交わしながらも、あの子の言葉が脳裏を過る。
「おにいちゃん、しのはチーズケーキ!」
「りのはザッハトルテ!!」
二人と手を繋ぎながら、全然集中できなかった。
「兄ちゃん、今日はテストで疲れてるんだ。紅茶シフォンと紅茶クッキーに変更だ」
「きゃーっ」
二人はピョンピョン跳ね回って嬉しそうだった。
花や蝶やら見かけると、いちいち指差して立ち止まるし、店までの距離が長く感じられる。今はさっさと帰って無性にケーキだけ作っていたい。
「あ、おきゃくさま!」
「いらっしゃいませー」
「…………っ!?」
店に入らず、店の壁に立っている人。
今日は、金曜日だから現れるはずない人。
「――よう」
会いたくない人が、俺を待っていたんだ。
「こ、こんにちは」
「――目、そらすなよ」
そう言われても、まともに顔なんて見れないし。
どんな顔して良いかも分からないし。
「妹たちの世話があるんで、失礼します」
そう言って、裏に回ろうとしたが、腕を捕まれてしまった。
「避けるな」
なんでちょっと不機嫌そうなのだろうか。
それに俺もむっとしてしまう。怒るなら俺の方だろ。
「おにいちゃん、先におきがえしてくるよ?」
「こむぎこだして、たまごをじょうおんにもどしておくね」
「あ、いや、行くな! ここに!!」
そう思ったのに空気を読んだ二人は家に入って行った。
店先じゃ、親に見つかるしこの場所から移動できない。
「キス、嫌だった?」
衝動的に手が動いたが、慌てて反対側の手でつかんでその衝動を抑えた。
あんなに色々悩んでテストにも手がつかなかったのに、雨宮さんはストレートに、直球ど真ん中に、俺にそれを聞くのか?
「気持ち悪かったか?」
そんなワケ無いけど、そんな簡単になびく男だと思われたくもない。
「なんでキスしたんですか?」
そう聞く事しかできなかった。
怒りとか悲しさとかそんな簡単に答えのでる感情ではない。
今、俺が彼に抱いている感情は複雑でそして自分でもわからない。
「なんでって、まじか」
大げさに溜め息を吐くが、溜め息を吐きたいのは俺の方なのに
「お前が可愛いと思ったからだろ」
この一週間悩んだ俺に、最初から答えを知っているといわんばかりの飄々さで話すのはやめてほしい。
「美味しそうにシュークリーム食べてるの見たら、止まらなかった。いきなり悪かったな」
そう言うと、照れくさそうに口を押えた。
俺がいつも見ていたゴツゴツした長い指先に目を奪われる。
「……俺、男だし。別に可愛いって言われても嬉しくないけど」
とか言いながら今更ながら恥ずかしくなってきた。
胸が痛くなって、身体中熱くなってきた。
でも、でも――……。
「そこまで赤くなられたら、俺も照れるんだけど?」
そう言って首を触る雨宮さんは、表情1つ変えてない。
「俺が選んだケーキ、美味しかったですか?」
「あ? ああ。悪くなかった。美味しかっ……」
「嘘つきだね」
自分でも驚くほど冷たい声が出て、気づいたら雨宮さんを睨み付けた。
「昨日彼女さんに全部聞きましたよ。雨宮さんって甘いもの、嫌いって。食べれないんですよね」
「ああ。それは」
「彼女さんにケーキを買ってあげてたんでしょ? 毎回毎回。なのに、なのに俺にキスするなんて不誠実ですね。順番もおかしい」
キープしろよって笑っていた友達たちと一緒だ。
「俺が選んだケーキも、彼女にあげたんでしょ? 彼女に俺と会わせたくなくて代わりに買ってあげてたんですよね」
自分で言って、益々惨めになってきた。
彼女が居るのに、キスされて、甘い物嫌いなくせに俺のオススメ聞いて、意地悪で優しくない。
「嘘つきは嫌いです。失礼しますね」
そう言って、店の裏の家の入り口へと走った。
こんなに叫んだんだから、きっともう雨宮さんも会いに来ないだろうし。
「おい!」
ドアノブを掴むと同時に、また俺は雨宮さんに捕まえられた。
壁に押さえつけられて、見上げた雨宮さんは、ひどく冷たい瞳をしていた。
「あのさ、嘘じゃねえよ? 嘘だったら、こんな事、しねぇ」
そう言って、雨宮さんは俺に顔を近づける。
反射的に目を閉じる。
怒って殴られるかと思ったのに、俺の鼻をくすぐったのは、甘くて爽やかなミントの香り。
「え?」
見開いた目から見えたのは、獰猛な獣みたいな雨宮さんの瞳。
鼻が当たらないように顔を傾けて、俺の両手を壁に押し付けながら、人生二度目のキスをした。
「雨み……んぅ!」
何か言おうとしたら角度を変えて、更に深く口づけされた。
殴ってやりたいのに、壁に押し付けられた手を動かそうとするが、全然びくともしない。
こんなキス、全然、甘くない。
無理矢理、体温だけを感じる、苦い味がするだけのキスだ。
俺の異変に気づいた雨宮さんがやっと唇を離した。
「憂……斗?」
「……か!」
怯んだ雨宮さんの顔目掛けて頭突きをお見舞いした。
怯んだ雨宮さんから手を振りほどいて、距離を取る。
口を手の甲で拭きながら、鼻を押さえる雨宮さんをただただ睨み付ける。
殴ってやりたいがボウルや泡だて器以上の重いものを持ったことのない俺は殴ってやらない。でも嫌いだ。これ以上は嫌いになってやる。
「雨宮さんの馬鹿。もう知らない。順番もめちゃくちゃだし不誠実だ。なんで」
唇を何度も何度も手の甲で拭くと、傷ついた顔になったが気づかない。
「なんで言葉を何もくれないんだよ」
俺は周りから色んな話を聞くし、情報は入ってきても何も聞いてないよ。何も雨宮さんからは聞いてない。
聞こうとしたらキスするなんて、俺のことをなんだと思っているんだ。
「……泣くなよ」
「泣いてないが、話をする気がないなら俺は会いたくないよ」
再び伸びてきた手を叩き落として、後ろ手でドアノブを掴んだ。
「もう、雨宮さんとはあれだ」
「――あれ?」
「絶交だ! 不誠実変態野郎!」
言うだけ言って、家に飛び込んだ。
ずるずるとドアに体重を預けながら、座り込む。
雨宮さんが分からない。
彼女が居るのに、甘い物嫌いなのに、あんな、あんなキスをするなんて。
ザラっとした舌の感触は、甘くない。
苦い、苦い、キス。
「……ふっ」
溢れる涙の理由はよく分からないけど、苦く、塩辛く、最悪なキスだ。
「おにいちゃん?」
「じゅんび終わったよ?」
着替えた二人が、お揃いのエプロンを装着して現れた。
ポケットがビスケットとチョコレートになっている可愛いエプロン。
「たいへん! おにいちゃん、まえがみ外れてるよ」
「え?」
「本当だ! さんにんおそろいのゴムだったのに」
やべ。さっきの頭突きで外れたのかも。
涙を拭きながら、溜め息を吐いた。
「よし。兄ちゃん、着替えたらやっぱザッハトルテとチーズケーキと紅茶シフォンケーキ作るぞ」
作って作って、嫌なこと忘れてやる。二人は靴を脱ぐ俺の後ろで小躍りを始めた。
「さ、まずはかみをむすんであげなきゃね」
「おいで。おにいちゃん」
この二人には心配かけられねぇしな。
***
疲れた……。
「おにいちゃん、生クリームはこれぐらい?」
「つのが立ったよー」
ケーキを3つ、テスト明けの眠気が襲う中、完成させた。
後は寝かせていた生地でクッキーだけだが、明日に回そうかな。
ちょっと横になりたい。
「おにいちゃん、さとういっぱい無くなったね」
「ああ。3つも作ればな」
「もうチョコのケーキはたべていい?」
「母さんに聞いておいで」
二人が母の元へ走っていくのを確認してから、小麦粉が舞うテーブルに突っ伏した。
無心で作ったケーキでも食べて、早く忘れたい。
「憂斗、お客様来てるわよー大変よー」
「さや? あー。適当にケーキ切り分けてやって」
「違う違う! 檜山先生よ!」
先生……? 本当に来たんだ。
エプロンのまま妹二人と店に出ると、スーツ姿の先生が右手を上げた。
「いらっしゃい、先生」
「テスト終わってケーキ3つ作るなんて、若いとやっぱりパワフルですね」
にこにこ笑いながら、先生は味見用のクッキーに手を伸ばす。
「んー。蜂蜜の甘さはほどよくて美味しいですね」
本当に美味しそうに食べてくれるなぁ。こっちまで、なんか嬉しくなる。
「おにいちゃんのせんせい?」
「このチーズケーキも食べてー」
二人がお皿に盛ってきたのは、紅茶シフォンケーキ。
自分たちで生クリームを泡ただせたのを食べて貰いたいらしい。
先生は屈んで、二人のお皿から一口、ケーキを口に入れた。
先生の笑顔が一瞬だけ固まった。
「これは……美味しいですね」
二人に先生は笑顔を絶やさないが、先生の口の中はジャリジャリ言っている。
「あまさひかえめだから、生クリームといっしょにたべてー」
「これねー、ドーナツみたいな型でつくったんだよー」
二人にうんうん頷く先生から、俺は急いで皿を取り上げる。
そして一口食べて、目を見開いた。
砂糖の味しかしねぇ。
「先生、保冷剤が持たないよ! 急いで帰らなきゃ! 送るから!!」
慌てて先生の背中を押しながら外へ追いやる。
「ケーキは、紅茶シフォンケーキ以外を食べろよ! シフォンケーキはさや宛だから」
母さんと妹二人がぽかんとする中、俺は外の自販機まで先生を誘導した。
「あの、すみません。ケーキ、多分砂糖の分量間違えました」
自販機から無糖珈琲を取り出しながら言う。
きっと俺が入れてしのも入れてなのもいれて、砂糖が三倍になったんだ。
「あはは。だと思いました。テストで疲れたんですかね? でもあれぐらい甘いケーキでも平気ですよ」
「良いですよ。無理しないで下さい」
そう言うと、檜山先生はやんわりと珈琲を押し戻した。
「本当です。私は、極度の甘党です。ですから無糖珈琲は飲めません。すみませんね」
優しく笑う先生に、少しだけ救われた。
「先生、そんなに格好良いのに、無糖珈琲飲めないんだ」
「笑うなんて、失礼ですよ。その余裕は今日のテストが良かったからですか?」
「ひー。それは言わないで下さいよ」
仕方なく、俺が口直しに珈琲を開けて飲む。
うひゃあ。苦い苦い。
「では、罰として、先生と前嶋さんに何か作って来てください」
「えー? さやにも?」
「男の子が先生に手作り渡すのは、回りに見られたくないでしょ?」
フフっと優しく笑う先生は策士だ。さやをだしに、甘い物をゲットしようとしてる。
「オッケー。じゃあ月曜にすっげぇ甘いお菓子、持っていきます」
「はい。楽しみにしてますね。ではおやすみなさい」
先生が駅の方へ去っていくのを、珈琲を片手に見つめていた。
さやが先生を好きなのは、納得できる。
優しくて、欲しい言葉をくれる。不安になんかさせない。
俺もこんな大人になりたいよ。
「おい」
だから、こうして、俺を不安にさせる奴とは違うんだ。
「今から店に突撃しようと思ってたんだ」
格好いいと思ってた。
いつもケーキをえらぶ時の低い声とか長い指先とか。
可愛いと言われてしまう俺と違って堂々としてて大人の雰囲気を出していて憧れた。
兄ちゃんみたいに、憧れてたんだ。
だからキスされて驚いた。
でも今は違うよ。本当に会いたくなかった。
「お前が誤解してるのは分かったから。言葉をやるよ」
そう一歩踏み出され近づかれたので、一歩退く。
「絶交って言いましたよね?」
「好きだ」
好き?
隙だ? 隙ありみたいな必殺技か?
「同い年なのに俺と違って毒もないし性格もひん曲がってなくて、素直そうで、その可愛いと思ってしまった。嫌だったら申し訳ないし気持ち悪いかもしれないけど、でも好きだ」
もう一歩近づこうとしたので二歩下がると、雨宮さんは傷ついたように一歩引きさがった。
「謝ったし気持ちも伝えたし、許せよ」
「はあ?」
飲みかけの珈琲を、思いっきり顔目掛けてフルスイングで投げつけた。
でも雨宮さんは、手でガードして少しだけネクタイへかかった程度。
カラカラと落ちた缶から珈琲が流れ出す。
苦い香りが辺りを埋め尽くす。
「雨宮さんとのキスは苦い! 胸が痛い!」
甘くとろけるお菓子と違う。
一口食べたら、幸せになる甘いお菓子とは違う劇薬。
苦くて苦しくて、痛いキス。
「彼女がいるなら、キスなんてして欲しくなかった!」
「いや。あれ妹だから」
妹?
「取り合えず、全部言う。憂斗を不安にさせた事、全部伝えるから」
そう言って、缶を拾い上げた。あたりにごみ箱がないか探して歩きだすので、付いていく。
「だから、まずは人の話を聞け」
薄暗い、淡い電灯しかない路地裏。
月が、綺麗に灯っている。
「妹がフラれたけど、憂斗の店のケーキが食べたいって言うから、塾の帰りに買ってただけ。甘い物は苦手だが、憂斗がオススメしてくれたのは食べた。甘かったけど、食べた」
じりじりと後ろへ退いた。まだ完全には信じてない。
告白だって、なんでそんな簡単に言えるはずがない。ましてや同性へだ。簡単に言えないからこそ、『好き』って言葉は大事で重たい発言なんだ。
さやの言葉が急に脳裏に蘇る。
『あんたってホモなの?』
首をぶんぶん振って否定する。俺はホモじゃない。雨宮さんには憧れてただけだ。
「自慢じゃないが、素直ではないが妹はなかなか可愛いと思ってた。だから妹を振った奴を観察してやろうと思った。――最初は、な」
珈琲の缶を、見つけたゴミ箱へ捨てる。
「親の迎えの車が来るまで、いつもバイト中の憂斗を見てた。表情はくるくる変わるし、素直だし元気良いし、全然悪い奴じゃなかった。最近は、俺が塾を終えて外に出ると、鏡でチェックしたり髪結び直したり、意識してたろ?」
「な、なんの事でしょうか?」
プイッと横を向きながら冷静さを装うけど、心臓はドキドキしてる。
「とぼけんな。憂斗が先に意識し出したんだから」
反省って言葉をこの人は知らないのかな。もう不敵な笑みを浮かべている。
「お前も俺が好きだろ?」
「俺は、その、兄ちゃんみたいで憧れてて……」
「悪いが、兄ちゃんになる気は全く無い」
きっぱりと言った雨宮さんの目はちょっとだけ怖い。怖いというかもしやちょっと焦っているのかな。
告白をされた事は別に初めてじゃないし、雨宮さんの妹さんの前だって何度かある。
でも理想の恋人像が邪魔して、一歩踏み出せなかった。だって俺の両親は永遠の新婚かってぐらいお互いに愛情をぶつけあって幸せそうだ。あの二人を超えるカップルを俺は想像できない。
今だってそう。
「キスが先なのはいやだった」
順番というか、せめて彼女ではなく妹だと教えてもらえていたら、あのキスは少しは苦くなかったかもしれない。
「不誠実変態野郎では無いが、馬鹿かもな」
ふてぶてしい雨宮さんが憎らしい。
「俺、理想があるんです。俺の父と母は、大恋愛の末に結ばれていて。イタリアでパティシエの修行中の父の、初めて作ったケーキを食べたのが母でした」
何回も何回も、繰り返し聞かされた物語。
「その時、御互い一目惚れだったのに、会話しただけで何もできなかったらしいです。でも、日本であの店をオープンさせて初めて買いに来たのが母だったらしいです」
何度聞いても憧れる。この広い世界で初めて出会ったのが海外で、再会が日本なんて素敵だ。
「母さんの家はちょっと古くさいというか良家って感じだから、父さんとの結婚に反対したり大変だったみたいだ」
だからこそ、二人で乗り越えたから絆は深くて。
今の馬鹿みたいな熱々ラブラブでいられるんだと思う。
運命の相手なら、何度別れようと、また引き合うんだ。そう思うと、なぜかすごく憧れた。だから俺もそんな恋愛に理想を追い続けていた。
「だからいきなりキスなんて、酷いです。もっと順番とか、順序とか、ムードとか、大事にして欲しかったのに」
「――ふぅん」
頭をポリポリかきながら、雨宮さんが何か納得したのか頷く。
「ムードとか順序とか、憂斗が返事くれるなら守ってやるよ」
「え?」
雨宮さんが余裕ある表情だったのに少し唇を尖らせて俺を睨む。
「俺、さっきから告白してんだろ?」
「う……」
謝るついでの告白だったけど、でも告白は告白なのかな。
「ムード作って告白しなきゃ駄目なんだっけ? 抱き締めていい? 膝まづいて手の甲にキスしていい?」
漫画の表現みたいにほっぺが熱くなる。
でも、そう言う雨宮さんの目が、獰猛に光っていて、近づいてくるのがちょっと怖かった。じりじりと近づいてくる雨宮さんは、獲物を仕留めようとする獣みたいだ。
「俺! 無理です!! 男だし、高校生だし受験生だしすぐに返事なんて出来ません」
憧れてるけど、好きだけど、けど、でも、そんな関係になるには、まだ早いと思う。
「あまりに御互いを知らなすぎるから、あの友達からで……」
「――へぇ、両思いなのに?」
その長い指先が、髪をかきあげた。その長い指先が、好き。
ネクタイを緩めたりショーケースの中を指さしたり、最初のきっかけは俺にはないその綺麗な指先。格好いいと思った。
触れてみたいって、触れたいって思ったけれど、それだけだ。
雨宮さんの中身なんて全く知らなかった。
だから両想いなんて認めたくない。認めたくないのに。
キスされてからずっと胸が痛かった。苦しかった。
彼女がいるって知って初めての感情が芽生えた。うまく伝わらないけれど、複雑な感情が芽生えた。
その彼女のために、この世界一美味しいケーキを買いに来てたと聞いたら憎いとまで思いそうだった。
苦いキスしかくれないならば、甘い言葉が欲しいのに本人は意地悪だし。
「ごちゃごちゃ理由言ってるけど、憂斗の顔は、友達からって言ってねーよ?」
「そんな」
触りたい、触って欲しい。
そう思った指先が、俺の唇をなぞった。
否定したかったのに、声を奪われてしまう。
「キスしたいか、キスしたくないか」
――お前が選べ。
甘い吐息のような声で、そう雨宮さんは囁いた。
唇を触る指先は、もう何度も嗅いだミントの香り。甘いものが苦手なのだとしたら納得の香り。
――嫌なら、止める。
雨宮さんは、そう言うけれど、俺は、その長い指先に触れられたら逃げられない。
絶対頭がおかしくなるんだ。
胸が高鳴って、目眩がするほど胸が痛くなって、狂ってしまいそうに切なくなる。
じりじりと追い詰められた俺は、狂いそうな気持ちを必死に抑えて、その手をとった。
左手を両手で握る。ごつごつしているのに、すらりとした大きな手。
雨宮さんの体温。全て、全てが俺をおかしくするんだ。
「意地悪な雨宮さんは、嫌いだよ。大嫌い」
全然優しくない。こんな人、俺の周りにいなかったよ。
言葉を頂戴と言っているのに、すぐに態度で誤魔化そうとする。
「駄目だよ。雨宮さんも俺みたいに、ぐるぐるして心臓が痛くなってくれなきゃいやだよ」
欲しいのはキスじゃないよ。
貴方が俺のせいで焦ったり照れたりする、俺への気持ち。
「くそ」
乱暴に右手を壁にたたきつける。
痛そうだと目で追っていた右手が俺の首を撫で、顎を持ち上げる。
「好きだと思ったら、衝動が止まらなかった。悪かった」
「うん」
「好きだしキスしたいし抱きしめたいし、お前は?」
苦しげに雨宮さんは吐き出す。俺へ向ける余裕のない雨宮さんの態度は、甘くて大好きかもしれない。
苦しそうに俺を見るその瞳は、ムードや順序や、理性を破壊させた。
「俺に雨宮さんのこと、教えてくれますか?」
雨宮さんはただただ静かに、唇の端をあげた。
「全部知って。全部、俺のすべてを」
強く抱きしめられるので、おずおずとその背中を抱きしめ返した。
英語どころじゃない。彼女の言葉は、俺を不安にさせた。英語も漢文も地理も、最悪だ。
「テストお疲れ様!」
バンッと背中を叩かれて、道路までふらついてしまう。
「……そうだな」
さやの力で今俺は木っ端みじんになってしまうぐらいひ弱だ。
「暗いわねぇ。檜山先生のテスト駄目だったの?」
「いや、健闘したよ。……多分」
でも今は何も考えたくない。
いまはただただ帰ってから作るケーキの事だけ考えたい。
砂糖250gに、卵……何個だったっけ?
「今からホールケーキ作るんだよね? 出来上がりにお邪魔して良い?」
「今日は美味しく作れそうに無いよ」
そう返事をして保育園へ向かう。さやが追いかけてこない気配だけ察するのが精いっぱい。今は他の人のことまで考える余裕はない。
保育園のママさん達と挨拶を交わしながらも、あの子の言葉が脳裏を過る。
「おにいちゃん、しのはチーズケーキ!」
「りのはザッハトルテ!!」
二人と手を繋ぎながら、全然集中できなかった。
「兄ちゃん、今日はテストで疲れてるんだ。紅茶シフォンと紅茶クッキーに変更だ」
「きゃーっ」
二人はピョンピョン跳ね回って嬉しそうだった。
花や蝶やら見かけると、いちいち指差して立ち止まるし、店までの距離が長く感じられる。今はさっさと帰って無性にケーキだけ作っていたい。
「あ、おきゃくさま!」
「いらっしゃいませー」
「…………っ!?」
店に入らず、店の壁に立っている人。
今日は、金曜日だから現れるはずない人。
「――よう」
会いたくない人が、俺を待っていたんだ。
「こ、こんにちは」
「――目、そらすなよ」
そう言われても、まともに顔なんて見れないし。
どんな顔して良いかも分からないし。
「妹たちの世話があるんで、失礼します」
そう言って、裏に回ろうとしたが、腕を捕まれてしまった。
「避けるな」
なんでちょっと不機嫌そうなのだろうか。
それに俺もむっとしてしまう。怒るなら俺の方だろ。
「おにいちゃん、先におきがえしてくるよ?」
「こむぎこだして、たまごをじょうおんにもどしておくね」
「あ、いや、行くな! ここに!!」
そう思ったのに空気を読んだ二人は家に入って行った。
店先じゃ、親に見つかるしこの場所から移動できない。
「キス、嫌だった?」
衝動的に手が動いたが、慌てて反対側の手でつかんでその衝動を抑えた。
あんなに色々悩んでテストにも手がつかなかったのに、雨宮さんはストレートに、直球ど真ん中に、俺にそれを聞くのか?
「気持ち悪かったか?」
そんなワケ無いけど、そんな簡単になびく男だと思われたくもない。
「なんでキスしたんですか?」
そう聞く事しかできなかった。
怒りとか悲しさとかそんな簡単に答えのでる感情ではない。
今、俺が彼に抱いている感情は複雑でそして自分でもわからない。
「なんでって、まじか」
大げさに溜め息を吐くが、溜め息を吐きたいのは俺の方なのに
「お前が可愛いと思ったからだろ」
この一週間悩んだ俺に、最初から答えを知っているといわんばかりの飄々さで話すのはやめてほしい。
「美味しそうにシュークリーム食べてるの見たら、止まらなかった。いきなり悪かったな」
そう言うと、照れくさそうに口を押えた。
俺がいつも見ていたゴツゴツした長い指先に目を奪われる。
「……俺、男だし。別に可愛いって言われても嬉しくないけど」
とか言いながら今更ながら恥ずかしくなってきた。
胸が痛くなって、身体中熱くなってきた。
でも、でも――……。
「そこまで赤くなられたら、俺も照れるんだけど?」
そう言って首を触る雨宮さんは、表情1つ変えてない。
「俺が選んだケーキ、美味しかったですか?」
「あ? ああ。悪くなかった。美味しかっ……」
「嘘つきだね」
自分でも驚くほど冷たい声が出て、気づいたら雨宮さんを睨み付けた。
「昨日彼女さんに全部聞きましたよ。雨宮さんって甘いもの、嫌いって。食べれないんですよね」
「ああ。それは」
「彼女さんにケーキを買ってあげてたんでしょ? 毎回毎回。なのに、なのに俺にキスするなんて不誠実ですね。順番もおかしい」
キープしろよって笑っていた友達たちと一緒だ。
「俺が選んだケーキも、彼女にあげたんでしょ? 彼女に俺と会わせたくなくて代わりに買ってあげてたんですよね」
自分で言って、益々惨めになってきた。
彼女が居るのに、キスされて、甘い物嫌いなくせに俺のオススメ聞いて、意地悪で優しくない。
「嘘つきは嫌いです。失礼しますね」
そう言って、店の裏の家の入り口へと走った。
こんなに叫んだんだから、きっともう雨宮さんも会いに来ないだろうし。
「おい!」
ドアノブを掴むと同時に、また俺は雨宮さんに捕まえられた。
壁に押さえつけられて、見上げた雨宮さんは、ひどく冷たい瞳をしていた。
「あのさ、嘘じゃねえよ? 嘘だったら、こんな事、しねぇ」
そう言って、雨宮さんは俺に顔を近づける。
反射的に目を閉じる。
怒って殴られるかと思ったのに、俺の鼻をくすぐったのは、甘くて爽やかなミントの香り。
「え?」
見開いた目から見えたのは、獰猛な獣みたいな雨宮さんの瞳。
鼻が当たらないように顔を傾けて、俺の両手を壁に押し付けながら、人生二度目のキスをした。
「雨み……んぅ!」
何か言おうとしたら角度を変えて、更に深く口づけされた。
殴ってやりたいのに、壁に押し付けられた手を動かそうとするが、全然びくともしない。
こんなキス、全然、甘くない。
無理矢理、体温だけを感じる、苦い味がするだけのキスだ。
俺の異変に気づいた雨宮さんがやっと唇を離した。
「憂……斗?」
「……か!」
怯んだ雨宮さんの顔目掛けて頭突きをお見舞いした。
怯んだ雨宮さんから手を振りほどいて、距離を取る。
口を手の甲で拭きながら、鼻を押さえる雨宮さんをただただ睨み付ける。
殴ってやりたいがボウルや泡だて器以上の重いものを持ったことのない俺は殴ってやらない。でも嫌いだ。これ以上は嫌いになってやる。
「雨宮さんの馬鹿。もう知らない。順番もめちゃくちゃだし不誠実だ。なんで」
唇を何度も何度も手の甲で拭くと、傷ついた顔になったが気づかない。
「なんで言葉を何もくれないんだよ」
俺は周りから色んな話を聞くし、情報は入ってきても何も聞いてないよ。何も雨宮さんからは聞いてない。
聞こうとしたらキスするなんて、俺のことをなんだと思っているんだ。
「……泣くなよ」
「泣いてないが、話をする気がないなら俺は会いたくないよ」
再び伸びてきた手を叩き落として、後ろ手でドアノブを掴んだ。
「もう、雨宮さんとはあれだ」
「――あれ?」
「絶交だ! 不誠実変態野郎!」
言うだけ言って、家に飛び込んだ。
ずるずるとドアに体重を預けながら、座り込む。
雨宮さんが分からない。
彼女が居るのに、甘い物嫌いなのに、あんな、あんなキスをするなんて。
ザラっとした舌の感触は、甘くない。
苦い、苦い、キス。
「……ふっ」
溢れる涙の理由はよく分からないけど、苦く、塩辛く、最悪なキスだ。
「おにいちゃん?」
「じゅんび終わったよ?」
着替えた二人が、お揃いのエプロンを装着して現れた。
ポケットがビスケットとチョコレートになっている可愛いエプロン。
「たいへん! おにいちゃん、まえがみ外れてるよ」
「え?」
「本当だ! さんにんおそろいのゴムだったのに」
やべ。さっきの頭突きで外れたのかも。
涙を拭きながら、溜め息を吐いた。
「よし。兄ちゃん、着替えたらやっぱザッハトルテとチーズケーキと紅茶シフォンケーキ作るぞ」
作って作って、嫌なこと忘れてやる。二人は靴を脱ぐ俺の後ろで小躍りを始めた。
「さ、まずはかみをむすんであげなきゃね」
「おいで。おにいちゃん」
この二人には心配かけられねぇしな。
***
疲れた……。
「おにいちゃん、生クリームはこれぐらい?」
「つのが立ったよー」
ケーキを3つ、テスト明けの眠気が襲う中、完成させた。
後は寝かせていた生地でクッキーだけだが、明日に回そうかな。
ちょっと横になりたい。
「おにいちゃん、さとういっぱい無くなったね」
「ああ。3つも作ればな」
「もうチョコのケーキはたべていい?」
「母さんに聞いておいで」
二人が母の元へ走っていくのを確認してから、小麦粉が舞うテーブルに突っ伏した。
無心で作ったケーキでも食べて、早く忘れたい。
「憂斗、お客様来てるわよー大変よー」
「さや? あー。適当にケーキ切り分けてやって」
「違う違う! 檜山先生よ!」
先生……? 本当に来たんだ。
エプロンのまま妹二人と店に出ると、スーツ姿の先生が右手を上げた。
「いらっしゃい、先生」
「テスト終わってケーキ3つ作るなんて、若いとやっぱりパワフルですね」
にこにこ笑いながら、先生は味見用のクッキーに手を伸ばす。
「んー。蜂蜜の甘さはほどよくて美味しいですね」
本当に美味しそうに食べてくれるなぁ。こっちまで、なんか嬉しくなる。
「おにいちゃんのせんせい?」
「このチーズケーキも食べてー」
二人がお皿に盛ってきたのは、紅茶シフォンケーキ。
自分たちで生クリームを泡ただせたのを食べて貰いたいらしい。
先生は屈んで、二人のお皿から一口、ケーキを口に入れた。
先生の笑顔が一瞬だけ固まった。
「これは……美味しいですね」
二人に先生は笑顔を絶やさないが、先生の口の中はジャリジャリ言っている。
「あまさひかえめだから、生クリームといっしょにたべてー」
「これねー、ドーナツみたいな型でつくったんだよー」
二人にうんうん頷く先生から、俺は急いで皿を取り上げる。
そして一口食べて、目を見開いた。
砂糖の味しかしねぇ。
「先生、保冷剤が持たないよ! 急いで帰らなきゃ! 送るから!!」
慌てて先生の背中を押しながら外へ追いやる。
「ケーキは、紅茶シフォンケーキ以外を食べろよ! シフォンケーキはさや宛だから」
母さんと妹二人がぽかんとする中、俺は外の自販機まで先生を誘導した。
「あの、すみません。ケーキ、多分砂糖の分量間違えました」
自販機から無糖珈琲を取り出しながら言う。
きっと俺が入れてしのも入れてなのもいれて、砂糖が三倍になったんだ。
「あはは。だと思いました。テストで疲れたんですかね? でもあれぐらい甘いケーキでも平気ですよ」
「良いですよ。無理しないで下さい」
そう言うと、檜山先生はやんわりと珈琲を押し戻した。
「本当です。私は、極度の甘党です。ですから無糖珈琲は飲めません。すみませんね」
優しく笑う先生に、少しだけ救われた。
「先生、そんなに格好良いのに、無糖珈琲飲めないんだ」
「笑うなんて、失礼ですよ。その余裕は今日のテストが良かったからですか?」
「ひー。それは言わないで下さいよ」
仕方なく、俺が口直しに珈琲を開けて飲む。
うひゃあ。苦い苦い。
「では、罰として、先生と前嶋さんに何か作って来てください」
「えー? さやにも?」
「男の子が先生に手作り渡すのは、回りに見られたくないでしょ?」
フフっと優しく笑う先生は策士だ。さやをだしに、甘い物をゲットしようとしてる。
「オッケー。じゃあ月曜にすっげぇ甘いお菓子、持っていきます」
「はい。楽しみにしてますね。ではおやすみなさい」
先生が駅の方へ去っていくのを、珈琲を片手に見つめていた。
さやが先生を好きなのは、納得できる。
優しくて、欲しい言葉をくれる。不安になんかさせない。
俺もこんな大人になりたいよ。
「おい」
だから、こうして、俺を不安にさせる奴とは違うんだ。
「今から店に突撃しようと思ってたんだ」
格好いいと思ってた。
いつもケーキをえらぶ時の低い声とか長い指先とか。
可愛いと言われてしまう俺と違って堂々としてて大人の雰囲気を出していて憧れた。
兄ちゃんみたいに、憧れてたんだ。
だからキスされて驚いた。
でも今は違うよ。本当に会いたくなかった。
「お前が誤解してるのは分かったから。言葉をやるよ」
そう一歩踏み出され近づかれたので、一歩退く。
「絶交って言いましたよね?」
「好きだ」
好き?
隙だ? 隙ありみたいな必殺技か?
「同い年なのに俺と違って毒もないし性格もひん曲がってなくて、素直そうで、その可愛いと思ってしまった。嫌だったら申し訳ないし気持ち悪いかもしれないけど、でも好きだ」
もう一歩近づこうとしたので二歩下がると、雨宮さんは傷ついたように一歩引きさがった。
「謝ったし気持ちも伝えたし、許せよ」
「はあ?」
飲みかけの珈琲を、思いっきり顔目掛けてフルスイングで投げつけた。
でも雨宮さんは、手でガードして少しだけネクタイへかかった程度。
カラカラと落ちた缶から珈琲が流れ出す。
苦い香りが辺りを埋め尽くす。
「雨宮さんとのキスは苦い! 胸が痛い!」
甘くとろけるお菓子と違う。
一口食べたら、幸せになる甘いお菓子とは違う劇薬。
苦くて苦しくて、痛いキス。
「彼女がいるなら、キスなんてして欲しくなかった!」
「いや。あれ妹だから」
妹?
「取り合えず、全部言う。憂斗を不安にさせた事、全部伝えるから」
そう言って、缶を拾い上げた。あたりにごみ箱がないか探して歩きだすので、付いていく。
「だから、まずは人の話を聞け」
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月が、綺麗に灯っている。
「妹がフラれたけど、憂斗の店のケーキが食べたいって言うから、塾の帰りに買ってただけ。甘い物は苦手だが、憂斗がオススメしてくれたのは食べた。甘かったけど、食べた」
じりじりと後ろへ退いた。まだ完全には信じてない。
告白だって、なんでそんな簡単に言えるはずがない。ましてや同性へだ。簡単に言えないからこそ、『好き』って言葉は大事で重たい発言なんだ。
さやの言葉が急に脳裏に蘇る。
『あんたってホモなの?』
首をぶんぶん振って否定する。俺はホモじゃない。雨宮さんには憧れてただけだ。
「自慢じゃないが、素直ではないが妹はなかなか可愛いと思ってた。だから妹を振った奴を観察してやろうと思った。――最初は、な」
珈琲の缶を、見つけたゴミ箱へ捨てる。
「親の迎えの車が来るまで、いつもバイト中の憂斗を見てた。表情はくるくる変わるし、素直だし元気良いし、全然悪い奴じゃなかった。最近は、俺が塾を終えて外に出ると、鏡でチェックしたり髪結び直したり、意識してたろ?」
「な、なんの事でしょうか?」
プイッと横を向きながら冷静さを装うけど、心臓はドキドキしてる。
「とぼけんな。憂斗が先に意識し出したんだから」
反省って言葉をこの人は知らないのかな。もう不敵な笑みを浮かべている。
「お前も俺が好きだろ?」
「俺は、その、兄ちゃんみたいで憧れてて……」
「悪いが、兄ちゃんになる気は全く無い」
きっぱりと言った雨宮さんの目はちょっとだけ怖い。怖いというかもしやちょっと焦っているのかな。
告白をされた事は別に初めてじゃないし、雨宮さんの妹さんの前だって何度かある。
でも理想の恋人像が邪魔して、一歩踏み出せなかった。だって俺の両親は永遠の新婚かってぐらいお互いに愛情をぶつけあって幸せそうだ。あの二人を超えるカップルを俺は想像できない。
今だってそう。
「キスが先なのはいやだった」
順番というか、せめて彼女ではなく妹だと教えてもらえていたら、あのキスは少しは苦くなかったかもしれない。
「不誠実変態野郎では無いが、馬鹿かもな」
ふてぶてしい雨宮さんが憎らしい。
「俺、理想があるんです。俺の父と母は、大恋愛の末に結ばれていて。イタリアでパティシエの修行中の父の、初めて作ったケーキを食べたのが母でした」
何回も何回も、繰り返し聞かされた物語。
「その時、御互い一目惚れだったのに、会話しただけで何もできなかったらしいです。でも、日本であの店をオープンさせて初めて買いに来たのが母だったらしいです」
何度聞いても憧れる。この広い世界で初めて出会ったのが海外で、再会が日本なんて素敵だ。
「母さんの家はちょっと古くさいというか良家って感じだから、父さんとの結婚に反対したり大変だったみたいだ」
だからこそ、二人で乗り越えたから絆は深くて。
今の馬鹿みたいな熱々ラブラブでいられるんだと思う。
運命の相手なら、何度別れようと、また引き合うんだ。そう思うと、なぜかすごく憧れた。だから俺もそんな恋愛に理想を追い続けていた。
「だからいきなりキスなんて、酷いです。もっと順番とか、順序とか、ムードとか、大事にして欲しかったのに」
「――ふぅん」
頭をポリポリかきながら、雨宮さんが何か納得したのか頷く。
「ムードとか順序とか、憂斗が返事くれるなら守ってやるよ」
「え?」
雨宮さんが余裕ある表情だったのに少し唇を尖らせて俺を睨む。
「俺、さっきから告白してんだろ?」
「う……」
謝るついでの告白だったけど、でも告白は告白なのかな。
「ムード作って告白しなきゃ駄目なんだっけ? 抱き締めていい? 膝まづいて手の甲にキスしていい?」
漫画の表現みたいにほっぺが熱くなる。
でも、そう言う雨宮さんの目が、獰猛に光っていて、近づいてくるのがちょっと怖かった。じりじりと近づいてくる雨宮さんは、獲物を仕留めようとする獣みたいだ。
「俺! 無理です!! 男だし、高校生だし受験生だしすぐに返事なんて出来ません」
憧れてるけど、好きだけど、けど、でも、そんな関係になるには、まだ早いと思う。
「あまりに御互いを知らなすぎるから、あの友達からで……」
「――へぇ、両思いなのに?」
その長い指先が、髪をかきあげた。その長い指先が、好き。
ネクタイを緩めたりショーケースの中を指さしたり、最初のきっかけは俺にはないその綺麗な指先。格好いいと思った。
触れてみたいって、触れたいって思ったけれど、それだけだ。
雨宮さんの中身なんて全く知らなかった。
だから両想いなんて認めたくない。認めたくないのに。
キスされてからずっと胸が痛かった。苦しかった。
彼女がいるって知って初めての感情が芽生えた。うまく伝わらないけれど、複雑な感情が芽生えた。
その彼女のために、この世界一美味しいケーキを買いに来てたと聞いたら憎いとまで思いそうだった。
苦いキスしかくれないならば、甘い言葉が欲しいのに本人は意地悪だし。
「ごちゃごちゃ理由言ってるけど、憂斗の顔は、友達からって言ってねーよ?」
「そんな」
触りたい、触って欲しい。
そう思った指先が、俺の唇をなぞった。
否定したかったのに、声を奪われてしまう。
「キスしたいか、キスしたくないか」
――お前が選べ。
甘い吐息のような声で、そう雨宮さんは囁いた。
唇を触る指先は、もう何度も嗅いだミントの香り。甘いものが苦手なのだとしたら納得の香り。
――嫌なら、止める。
雨宮さんは、そう言うけれど、俺は、その長い指先に触れられたら逃げられない。
絶対頭がおかしくなるんだ。
胸が高鳴って、目眩がするほど胸が痛くなって、狂ってしまいそうに切なくなる。
じりじりと追い詰められた俺は、狂いそうな気持ちを必死に抑えて、その手をとった。
左手を両手で握る。ごつごつしているのに、すらりとした大きな手。
雨宮さんの体温。全て、全てが俺をおかしくするんだ。
「意地悪な雨宮さんは、嫌いだよ。大嫌い」
全然優しくない。こんな人、俺の周りにいなかったよ。
言葉を頂戴と言っているのに、すぐに態度で誤魔化そうとする。
「駄目だよ。雨宮さんも俺みたいに、ぐるぐるして心臓が痛くなってくれなきゃいやだよ」
欲しいのはキスじゃないよ。
貴方が俺のせいで焦ったり照れたりする、俺への気持ち。
「くそ」
乱暴に右手を壁にたたきつける。
痛そうだと目で追っていた右手が俺の首を撫で、顎を持ち上げる。
「好きだと思ったら、衝動が止まらなかった。悪かった」
「うん」
「好きだしキスしたいし抱きしめたいし、お前は?」
苦しげに雨宮さんは吐き出す。俺へ向ける余裕のない雨宮さんの態度は、甘くて大好きかもしれない。
苦しそうに俺を見るその瞳は、ムードや順序や、理性を破壊させた。
「俺に雨宮さんのこと、教えてくれますか?」
雨宮さんはただただ静かに、唇の端をあげた。
「全部知って。全部、俺のすべてを」
強く抱きしめられるので、おずおずとその背中を抱きしめ返した。
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