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アトラス王国の国境線。かつて私が絶望と共に越えたその場所は、今や一触即発の緊張感に包まれていた。
地平線を埋め尽くすソルスティア帝国の銀翼騎士団。その圧倒的な威圧感は、王国の国境守備隊を完全に萎縮させている。
「……あわわ、あんな大軍に睨まれたら、僕なら心臓が止まっちゃいますよぉ」
馬車の御者台で手綱を握るポロロンが、ガタガタと震えながら呟いた。
「ポロロン、貴方は今、帝都で一番勢いのある商会の主として振る舞うのよ。背筋を伸ばして、いつも通りのお人好しな笑顔を見せてちょうだい」
私は馬車の中から、窓枠越しに彼を励ました。
現在の私たちは、帝国から稀少な香辛料と絹を運んできた「ポロロン商会」の一行を装っている。
私は顔の半分を隠すベールを纏い、商会の若きオーナー代理という触れ込みだ。シズルは影に徹する護衛兼事務員、テトは血気盛んな若手運び屋に扮している。
「大丈夫だぜポロロン! いざとなったら俺が道を作ってやるからさ!」
テトが馬車の横を歩きながら、頼もしく胸を叩く。その腰には、シズルが調整した目立たないが鋭い短剣が隠されていた。
「テト殿、声が大きすぎます。隠密行動の本質は『風景に溶け込むこと』です。貴殿のその無駄な活気は、時として非効率な注目を集める原因となります」
シズルが馬車の中から冷徹な声をかける。彼はいつの間に用意したのか、王国の下級官吏が好むような、地味で少し使い込まれた風合いの服を見事に着こなしていた。
検問所が近づく。
王国の守備兵たちは、帝国の軍勢を恐れるあまり、逆に通りかかる商人に対して異常なほど高圧的な態度をとっていた。
「止まれ! 積荷を調べさせてもらう。この非常時に、帝国からの商隊など怪しすぎる!」
兵士が槍を突き出し、ポロロンを威嚇する。
普通ならここで萎縮してしまう場面だが、ポロロンは持ち前の「人徳」を発揮した。
「あ、ああ、お疲れ様です! 本当に大変な時期ですよねぇ。あんな大軍、私らも腰が抜けるかと思いましたよ。これ、道中の喉を潤すための帝都産ぶどう水です。よかったら皆さんでどうぞ?」
ポロロンは愛想よく笑い、袖の下から巧妙に高級な飲み物――と、いくつかの金貨を忍ばせた袋を差し出した。
「ふん、気が利くじゃないか。……だが、身元がはっきりしない者は通せんぞ」
「もちろんです! こちら、帝国の商務局が発行した正式な通行証でございます。あ、それと……」
ポロロンがそっと、皇帝から預かった『特使の紋章』をちらつかせる。
兵士の顔色が、一瞬で土気色に変わった。
「そ、それは……帝国の……!?」
「あ、いやいや! ただの『特別なご縁』があるだけでして。穏便に、静かに商売をさせていただきたいだけなんですよ」
ポロロンの絶妙な「脅し」を含んだ謙虚さに、兵士は慌てて槍を引いた。
「と、通れ! ……おい、この商隊は丁重に扱え。陛下直属の息がかかっているかもしれんぞ」
兵士たちの囁き声を背に、私たちの馬車は無事に国境を越えた。
◇ ◇ ◇
王国領内に入ると、景色は一変した。
帝国の街々が放っていたあの色彩の豊かさは消え失せ、どんよりとした曇り空の下、荒廃した田畑と活気のない村々が続いていた。
「……ひどいわ。たった数ヶ月で、こんなに衰退してしまうなんて」
私はベールの隙間から、外の様子を眺めて胸を痛めた。
道端では、かつて私を慕ってくれていたはずの平民たちが、痩せ細った体で力なく座り込んでいる。
「フィオレンツァ様、これが現状です。貴女様が維持していた流通網と救済制度が、ゼノヴィア王子の稚拙な政策によってすべて破壊された結果です」
シズルが冷酷なまでに正確な分析を告げる。
「非効率の極みですね。民を飢えさせれば生産性が落ちるのは自明。目先の私欲のために黄金の卵を産む鶏を殺すとは、あの王子には王の資質など微塵もありません」
「シズル、今は怒るよりも先に進みましょう。王都まであとどれくらい?」
「テト殿の偵察によれば、検問を避ける裏道を利用して、明日の未明には王都の北門へ到着可能です」
その夜。私たちは王都近郊の古い納屋を拠点に、潜入の最終確認を行った。
「姉御、王都の守りはガタガタだぜ。兵士たちは賃金の遅配でやる気を失ってる。俺が一暴れすれば、門の鍵くらい簡単に奪える」
テトが暗闇から音もなく戻ってきて報告する。彼の身のこなしは、もはや一流のスカウトそのものだ。
「いいえ、テト。まずは穏便に入りましょう。私たちの目的はあくまで両親の救出。……シズル、公爵家が収容されている地下牢の構造は?」
シズルは懐から一通の図面を取り出した。
「王宮直下、第四地下牢。かつて貴女様が王宮の修繕計画を立てた際の資料を、ポロロン殿の伝手で王宮のゴミ捨て場から回収……いえ、救い出しておきました。警備の交代時間は深夜二時。その隙に私が内部へ侵入し、鍵を確保します」
「……ゴミ捨て場。私の努力も、あの方たちにとってはゴミ同然だったのね」
私は苦笑した。けれど、その心に迷いはない。
「ポロロン、貴方は王都のギルドへ向かって。かつての私の取引先たちを訪ねて、王宮内の不満を煽ってちょうだい。ゼノヴィア殿下が最も恐れるのは、民と商人の反乱だわ」
「任せてください、フィオレンツァさん。商人のネットワークを舐めちゃいけません。みんな、あの方たちの無茶な徴税に限界を感じていますから」
それぞれの役割が決まった。
私は、自分が着ていたベールを脱ぎ捨て、かつての「公爵令嬢」としての誇りと、帝国で得た「自由な心」を胸の中で一つにした。
「行きましょう。アトラス王国。……私が愛し、守ろうとしたこの場所を、今度は本当の意味で救うために」
闇夜に紛れ、四つの影が王都の城壁へと吸い込まれていく。
帝国の皇帝という最強の盾を背負い、最強の仲間を連れた悪役令嬢の帰還。
それは、王国の誰もが予想だにしなかった、美しき逆転劇の始まりだった。
地平線を埋め尽くすソルスティア帝国の銀翼騎士団。その圧倒的な威圧感は、王国の国境守備隊を完全に萎縮させている。
「……あわわ、あんな大軍に睨まれたら、僕なら心臓が止まっちゃいますよぉ」
馬車の御者台で手綱を握るポロロンが、ガタガタと震えながら呟いた。
「ポロロン、貴方は今、帝都で一番勢いのある商会の主として振る舞うのよ。背筋を伸ばして、いつも通りのお人好しな笑顔を見せてちょうだい」
私は馬車の中から、窓枠越しに彼を励ました。
現在の私たちは、帝国から稀少な香辛料と絹を運んできた「ポロロン商会」の一行を装っている。
私は顔の半分を隠すベールを纏い、商会の若きオーナー代理という触れ込みだ。シズルは影に徹する護衛兼事務員、テトは血気盛んな若手運び屋に扮している。
「大丈夫だぜポロロン! いざとなったら俺が道を作ってやるからさ!」
テトが馬車の横を歩きながら、頼もしく胸を叩く。その腰には、シズルが調整した目立たないが鋭い短剣が隠されていた。
「テト殿、声が大きすぎます。隠密行動の本質は『風景に溶け込むこと』です。貴殿のその無駄な活気は、時として非効率な注目を集める原因となります」
シズルが馬車の中から冷徹な声をかける。彼はいつの間に用意したのか、王国の下級官吏が好むような、地味で少し使い込まれた風合いの服を見事に着こなしていた。
検問所が近づく。
王国の守備兵たちは、帝国の軍勢を恐れるあまり、逆に通りかかる商人に対して異常なほど高圧的な態度をとっていた。
「止まれ! 積荷を調べさせてもらう。この非常時に、帝国からの商隊など怪しすぎる!」
兵士が槍を突き出し、ポロロンを威嚇する。
普通ならここで萎縮してしまう場面だが、ポロロンは持ち前の「人徳」を発揮した。
「あ、ああ、お疲れ様です! 本当に大変な時期ですよねぇ。あんな大軍、私らも腰が抜けるかと思いましたよ。これ、道中の喉を潤すための帝都産ぶどう水です。よかったら皆さんでどうぞ?」
ポロロンは愛想よく笑い、袖の下から巧妙に高級な飲み物――と、いくつかの金貨を忍ばせた袋を差し出した。
「ふん、気が利くじゃないか。……だが、身元がはっきりしない者は通せんぞ」
「もちろんです! こちら、帝国の商務局が発行した正式な通行証でございます。あ、それと……」
ポロロンがそっと、皇帝から預かった『特使の紋章』をちらつかせる。
兵士の顔色が、一瞬で土気色に変わった。
「そ、それは……帝国の……!?」
「あ、いやいや! ただの『特別なご縁』があるだけでして。穏便に、静かに商売をさせていただきたいだけなんですよ」
ポロロンの絶妙な「脅し」を含んだ謙虚さに、兵士は慌てて槍を引いた。
「と、通れ! ……おい、この商隊は丁重に扱え。陛下直属の息がかかっているかもしれんぞ」
兵士たちの囁き声を背に、私たちの馬車は無事に国境を越えた。
◇ ◇ ◇
王国領内に入ると、景色は一変した。
帝国の街々が放っていたあの色彩の豊かさは消え失せ、どんよりとした曇り空の下、荒廃した田畑と活気のない村々が続いていた。
「……ひどいわ。たった数ヶ月で、こんなに衰退してしまうなんて」
私はベールの隙間から、外の様子を眺めて胸を痛めた。
道端では、かつて私を慕ってくれていたはずの平民たちが、痩せ細った体で力なく座り込んでいる。
「フィオレンツァ様、これが現状です。貴女様が維持していた流通網と救済制度が、ゼノヴィア王子の稚拙な政策によってすべて破壊された結果です」
シズルが冷酷なまでに正確な分析を告げる。
「非効率の極みですね。民を飢えさせれば生産性が落ちるのは自明。目先の私欲のために黄金の卵を産む鶏を殺すとは、あの王子には王の資質など微塵もありません」
「シズル、今は怒るよりも先に進みましょう。王都まであとどれくらい?」
「テト殿の偵察によれば、検問を避ける裏道を利用して、明日の未明には王都の北門へ到着可能です」
その夜。私たちは王都近郊の古い納屋を拠点に、潜入の最終確認を行った。
「姉御、王都の守りはガタガタだぜ。兵士たちは賃金の遅配でやる気を失ってる。俺が一暴れすれば、門の鍵くらい簡単に奪える」
テトが暗闇から音もなく戻ってきて報告する。彼の身のこなしは、もはや一流のスカウトそのものだ。
「いいえ、テト。まずは穏便に入りましょう。私たちの目的はあくまで両親の救出。……シズル、公爵家が収容されている地下牢の構造は?」
シズルは懐から一通の図面を取り出した。
「王宮直下、第四地下牢。かつて貴女様が王宮の修繕計画を立てた際の資料を、ポロロン殿の伝手で王宮のゴミ捨て場から回収……いえ、救い出しておきました。警備の交代時間は深夜二時。その隙に私が内部へ侵入し、鍵を確保します」
「……ゴミ捨て場。私の努力も、あの方たちにとってはゴミ同然だったのね」
私は苦笑した。けれど、その心に迷いはない。
「ポロロン、貴方は王都のギルドへ向かって。かつての私の取引先たちを訪ねて、王宮内の不満を煽ってちょうだい。ゼノヴィア殿下が最も恐れるのは、民と商人の反乱だわ」
「任せてください、フィオレンツァさん。商人のネットワークを舐めちゃいけません。みんな、あの方たちの無茶な徴税に限界を感じていますから」
それぞれの役割が決まった。
私は、自分が着ていたベールを脱ぎ捨て、かつての「公爵令嬢」としての誇りと、帝国で得た「自由な心」を胸の中で一つにした。
「行きましょう。アトラス王国。……私が愛し、守ろうとしたこの場所を、今度は本当の意味で救うために」
闇夜に紛れ、四つの影が王都の城壁へと吸い込まれていく。
帝国の皇帝という最強の盾を背負い、最強の仲間を連れた悪役令嬢の帰還。
それは、王国の誰もが予想だにしなかった、美しき逆転劇の始まりだった。
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