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第6話 奥さんが残した手紙
莉子は、指輪の箱を見ていた。
悠真はすぐに箱を閉じ、封筒の中へ戻した。
けれど、遅かった。
莉子は見ていた。
その小さな顔から、表情が消えていく。
「それ、なに?」
悠真は言葉に詰まった。
美緒は、カウンターの中で立ち尽くした。
莉子は悠真に近づいた。
「ママの?」
「違う」
「じゃあ、誰の?」
悠真は、深く息を吐いた。
「昔、お父さんが美緒さんに渡そうと思っていたものだ」
莉子の目が、美緒に向いた。
胸が痛んだ。
奪ったわけではない。
でも、莉子から見れば、母親の知らない場所に、美緒がいるように見えるのかもしれない。
「ママは、知ってた?」
莉子が聞いた。
悠真は頷いた。
「知ってた」
「怒った?」
「怒らなかった」
「どうして?」
「ママは……とても優しい人だったから」
莉子の唇が震えた。
「ママ、かわいそう」
その一言に、悠真の顔が痛みに歪んだ。
美緒の胸も裂けそうになった。
莉子は泣かなかった。
泣かずに、絵本をぎゅっと抱きしめた。
「ママがいなくなったから、美緒さんが来たの?」
「違う」
悠真はすぐに言った。
「違うよ、莉子」
「じゃあ、なんで?」
「……」
「なんで、美緒さんなの?」
悠真は答えられなかった。
美緒はカウンターから出た。
「莉子ちゃん」
莉子は美緒を見なかった。
「ごめんね」
美緒が言うと、莉子の肩が小さく動いた。
「私は、莉子ちゃんのママの場所を取ろうとしているわけじゃないよ」
「でも、お父さん、泣きそうな顔してる」
「うん」
「美緒さんといると、お父さん、変になる」
「うん」
「ママのこと、忘れちゃう?」
その声が、初めて子どもらしく震えた。
悠真が膝をついた。
「忘れない」
「ほんと?」
「絶対に忘れない」
「美緒さんがいても?」
「ああ」
「お父さんが、美緒さんを好きでも?」
悠真は息を呑んだ。
美緒も動けなかった。
莉子の目に、涙が溜まっていた。
ずっと泣かなかった子の涙だった。
「お父さんが誰かを好きになったら、ママが消えちゃう気がする」
その言葉に、美緒の心は完全に折れそうになった。
そうだ。
莉子にとっては、そうなのだ。
大人は、亡くなった人を胸に残したまま新しい誰かを愛することができるかもしれない。時間をかけて、矛盾を抱えて、それでも生きていけるかもしれない。
でも、七歳の莉子にとっては違う。
父親が誰かを好きになることは、母親の場所がなくなることに見える。
美緒は、自分がここにいるだけで、莉子を傷つけているのではないかと思った。
「今日は帰ろう」
悠真が言った。
声は静かだったが、苦しそうだった。
莉子は頷かなかった。
けれど抵抗もしなかった。
悠真は封筒をしまい、莉子のリュックを持った。
帰り際、莉子は一度も美緒を見なかった。
ドアベルが鳴り、二人の姿が雨の向こうへ消えていった。
その夜、美緒は店を早く閉めた。
真由には体調が悪いと伝えた。
本当は、体ではなく心が限界だった。
自宅のソファに座っても、何もする気になれなかった。テレビをつけても、音が耳に入らない。スマートフォンを手に取っても、誰に連絡すればいいのかわからない。
悠真の連絡先は、結局まだ聞いていなかった。
聞かなくてよかったのかもしれない。
距離を置くなら、今だ。
莉子のためにも、悠真のためにも。
そして自分のためにも。
このまま近づけば、誰かが傷つく。
もうすでに、傷ついている。
翌日、悠真たちは来なかった。
その次の日も。
一週間が過ぎた。
美緒はいつも通り店を開け、いつも通りコーヒーを淹れた。莉子用に買っておいた蜂蜜の小瓶は、棚の奥にしまった。見ると苦しくなるから。
それでも、ドアベルが鳴るたびに顔を上げてしまう。
そして違う客だとわかるたびに、ほっとして、落ち込んだ。
十日目の夕方、閉店間際にドアベルが鳴った。
入ってきたのは、悠真ひとりだった。
美緒は手を止めた。
「……莉子ちゃんは?」
「実家に預けてる」
「そう」
悠真の顔は、疲れていた。
目の下に薄い影がある。
「少し、話せるか」
美緒は頷いた。
店にはもう誰もいなかった。
悠真はカウンター席に座らず、立ったままだった。まるで、長居してはいけないと思っているようだった。
「この前は、すまなかった」
「謝るのは私の方だよ」
「美緒は悪くない」
「でも、莉子ちゃんを傷つけた」
「俺が説明できていなかったからだ」
悠真は、封筒をひとつ差し出した。
この前の黄ばんだ封筒ではない。
白い、新しい封筒だった。
「これは?」
「彩乃が残したものだ」
美緒は受け取れなかった。
「私が読んでいいものじゃないと思う」
「俺も、最初はそう思った」
悠真は封筒を見つめた。
「でも、彩乃はたぶん、こうなることを少しだけ想像していたんだと思う」
「どういうこと?」
「中に、君の名前がある」
美緒は息を止めた。
「私の?」
「ああ」
悠真は封筒をカウンターに置いた。
「読むかどうかは、美緒が決めていい」
そう言って、悠真は一歩下がった。
「俺は、莉子を迎えに行く」
「待って」
美緒は思わず呼び止めた。
悠真が振り返る。
「莉子ちゃんは……大丈夫?」
悠真は少しだけ視線を落とした。
「大丈夫ではない。でも、泣いた」
「泣いた?」
「ああ。ママが消えちゃうって、初めて声を出して泣いた」
美緒の胸が詰まった。
「泣けたなら、少しだけ前に進めたのかもしれない」
悠真はそう言ったが、その顔は自分に言い聞かせているようだった。
「また来る」
それだけ言って、悠真は店を出ていった。
美緒は封筒を見つめた。
彩乃。
悠真の妻。
莉子の母。
美緒の知らない人。
でも、悠真が愛した人。
その人が、自分の名前を書いた手紙を残している。
美緒は、しばらく触れられなかった。
閉店作業を終え、店の照明を落とした後、カウンターの小さな明かりだけをつけて、ようやく封筒を開けた。
中には便箋が三枚入っていた。
丁寧な字だった。
美緒さんへ。
最初の一行で、美緒の目に涙が滲んだ。
あなたに会ったことはありません。
でも、悠真さんから、あなたの話を聞いたことがあります。
昔、とても大切に思っていた人がいたこと。
その人に渡せなかった指輪があること。
その人を傷つけたまま、自分だけ前に進んでしまった気がしていること。
結婚する前、彼はとても正直に話してくれました。
私は笑って聞きました。
でも、本当は少しだけ嫉妬しました。
少しだけ、と書くと綺麗すぎますね。
本当は、何度も嫉妬しました。
会ったこともないあなたの存在が、怖かったこともあります。
私と笑っている時も、この人の心のどこかには、私の知らない女の人がいるのかなと思ったこともあります。
でも、その話をする悠真さんの顔を見て、私は思いました。
この人は、過去の恋を捨てられない人なのではなく、大切だったものを雑に扱えない人なのだと。
だから私は、彼を好きになりました。
少し悔しいけれど、あなたが愛した悠真さんだから、私は悠真さんを信じられたのだと思います。
美緒さん。
もし、いつかあなたと悠真さんが再会することがあったら。
その時、私がもうこの世にいなかったら。
どうか、私のことであなたが苦しみすぎないでください。
私は、悠真さんに忘れられたくありません。
莉子の母として、彼の妻として、ちゃんと覚えていてほしい。
これは私のわがままです。
でも、覚えていることと、これから誰かを大切にすることは、きっと両立できます。
私はそう信じたいです。
信じたい、と書いたのは、私にもまだ少し怖いからです。
自分がいなくなった後のことなんて、本当は考えたくありません。
悠真さんが誰かと笑うところも、莉子が誰かに髪を結んでもらうところも、想像するだけで胸が痛みます。
それでも、二人がずっと私の思い出だけを抱いて立ち止まる方が、もっとつらいです。
莉子は、強い子に見えて、寂しがりです。
泣くのが下手な子です。
もしあなたが莉子に会うことがあったら、無理に母親になろうとしないでください。
ただ、あの子が泣いてもいい場所を、ひとつ増やしてあげてください。
そして、悠真さんには、たまに怒ってあげてください。
あの人は、自分の痛みをすぐ後回しにします。
平気なふりが下手なくせに、平気だと言います。
私がいなくなった後、きっとたくさん間違えると思います。
でも、悪い人ではありません。
不器用で、優しい人です。
あなたが知っている通りだと思います。
美緒さん。
あなたがこれを読んでいるなら、私はもう一度だけ、わがままを言います。
私の場所を奪わないでください。
でも、私の場所を守るために、あなた自身の幸せを諦めないでください。
悠真さんがまた誰かを大切に思えるなら。
莉子がまた誰かの前で笑えるなら。
私は、それを悲しいことだとは思いたくありません。
どうか、三人とも、ちゃんと生きてください。
過去を消さずに。
でも、過去だけで終わらずに。
手紙の最後には、彩乃という名前があった。
美緒は便箋を抱きしめるようにして、カウンターに突っ伏した。
涙が止まらなかった。
会ったこともない人に、こんなにも正直に、こんなにも苦しみながら、未来を託されてしまった。
許されたようで。
託されたようで。
でも、簡単に踏み込んではいけない場所を、はっきり見せられたようでもあった。
翌日の午後、悠真と莉子が店に来た。
莉子は美緒を見た瞬間、泣きそうな顔をした。
美緒はカウンターから出た。
何を言えばいいのか、まだわからなかった。
でも、ひとつだけ決めていた。
母親にはならない。
代わりにもならない。
ただ、この子が泣いてもいい場所になる。
「莉子ちゃん」
美緒が呼ぶと、莉子は唇を震わせた。
「美緒さん」
「うん」
「ママ、消えない?」
「消えないよ」
「ほんと?」
「ほんと。莉子ちゃんが覚えている限り、悠真が覚えている限り、消えない」
莉子の目から涙がこぼれた。
初めて、美緒の前で泣いた。
それから、小さな声で言った。
「美緒さん、いなくならない?」
美緒の胸が、痛いほど震えた。
悠真が何か言おうとした。
でも美緒は、莉子だけを見ていた。
すぐに答えてはいけない。
大切なことだから。
でも、逃げてもいけない。
美緒は膝をつき、莉子と同じ目の高さになった。
そして、ゆっくり息を吸った。
悠真はすぐに箱を閉じ、封筒の中へ戻した。
けれど、遅かった。
莉子は見ていた。
その小さな顔から、表情が消えていく。
「それ、なに?」
悠真は言葉に詰まった。
美緒は、カウンターの中で立ち尽くした。
莉子は悠真に近づいた。
「ママの?」
「違う」
「じゃあ、誰の?」
悠真は、深く息を吐いた。
「昔、お父さんが美緒さんに渡そうと思っていたものだ」
莉子の目が、美緒に向いた。
胸が痛んだ。
奪ったわけではない。
でも、莉子から見れば、母親の知らない場所に、美緒がいるように見えるのかもしれない。
「ママは、知ってた?」
莉子が聞いた。
悠真は頷いた。
「知ってた」
「怒った?」
「怒らなかった」
「どうして?」
「ママは……とても優しい人だったから」
莉子の唇が震えた。
「ママ、かわいそう」
その一言に、悠真の顔が痛みに歪んだ。
美緒の胸も裂けそうになった。
莉子は泣かなかった。
泣かずに、絵本をぎゅっと抱きしめた。
「ママがいなくなったから、美緒さんが来たの?」
「違う」
悠真はすぐに言った。
「違うよ、莉子」
「じゃあ、なんで?」
「……」
「なんで、美緒さんなの?」
悠真は答えられなかった。
美緒はカウンターから出た。
「莉子ちゃん」
莉子は美緒を見なかった。
「ごめんね」
美緒が言うと、莉子の肩が小さく動いた。
「私は、莉子ちゃんのママの場所を取ろうとしているわけじゃないよ」
「でも、お父さん、泣きそうな顔してる」
「うん」
「美緒さんといると、お父さん、変になる」
「うん」
「ママのこと、忘れちゃう?」
その声が、初めて子どもらしく震えた。
悠真が膝をついた。
「忘れない」
「ほんと?」
「絶対に忘れない」
「美緒さんがいても?」
「ああ」
「お父さんが、美緒さんを好きでも?」
悠真は息を呑んだ。
美緒も動けなかった。
莉子の目に、涙が溜まっていた。
ずっと泣かなかった子の涙だった。
「お父さんが誰かを好きになったら、ママが消えちゃう気がする」
その言葉に、美緒の心は完全に折れそうになった。
そうだ。
莉子にとっては、そうなのだ。
大人は、亡くなった人を胸に残したまま新しい誰かを愛することができるかもしれない。時間をかけて、矛盾を抱えて、それでも生きていけるかもしれない。
でも、七歳の莉子にとっては違う。
父親が誰かを好きになることは、母親の場所がなくなることに見える。
美緒は、自分がここにいるだけで、莉子を傷つけているのではないかと思った。
「今日は帰ろう」
悠真が言った。
声は静かだったが、苦しそうだった。
莉子は頷かなかった。
けれど抵抗もしなかった。
悠真は封筒をしまい、莉子のリュックを持った。
帰り際、莉子は一度も美緒を見なかった。
ドアベルが鳴り、二人の姿が雨の向こうへ消えていった。
その夜、美緒は店を早く閉めた。
真由には体調が悪いと伝えた。
本当は、体ではなく心が限界だった。
自宅のソファに座っても、何もする気になれなかった。テレビをつけても、音が耳に入らない。スマートフォンを手に取っても、誰に連絡すればいいのかわからない。
悠真の連絡先は、結局まだ聞いていなかった。
聞かなくてよかったのかもしれない。
距離を置くなら、今だ。
莉子のためにも、悠真のためにも。
そして自分のためにも。
このまま近づけば、誰かが傷つく。
もうすでに、傷ついている。
翌日、悠真たちは来なかった。
その次の日も。
一週間が過ぎた。
美緒はいつも通り店を開け、いつも通りコーヒーを淹れた。莉子用に買っておいた蜂蜜の小瓶は、棚の奥にしまった。見ると苦しくなるから。
それでも、ドアベルが鳴るたびに顔を上げてしまう。
そして違う客だとわかるたびに、ほっとして、落ち込んだ。
十日目の夕方、閉店間際にドアベルが鳴った。
入ってきたのは、悠真ひとりだった。
美緒は手を止めた。
「……莉子ちゃんは?」
「実家に預けてる」
「そう」
悠真の顔は、疲れていた。
目の下に薄い影がある。
「少し、話せるか」
美緒は頷いた。
店にはもう誰もいなかった。
悠真はカウンター席に座らず、立ったままだった。まるで、長居してはいけないと思っているようだった。
「この前は、すまなかった」
「謝るのは私の方だよ」
「美緒は悪くない」
「でも、莉子ちゃんを傷つけた」
「俺が説明できていなかったからだ」
悠真は、封筒をひとつ差し出した。
この前の黄ばんだ封筒ではない。
白い、新しい封筒だった。
「これは?」
「彩乃が残したものだ」
美緒は受け取れなかった。
「私が読んでいいものじゃないと思う」
「俺も、最初はそう思った」
悠真は封筒を見つめた。
「でも、彩乃はたぶん、こうなることを少しだけ想像していたんだと思う」
「どういうこと?」
「中に、君の名前がある」
美緒は息を止めた。
「私の?」
「ああ」
悠真は封筒をカウンターに置いた。
「読むかどうかは、美緒が決めていい」
そう言って、悠真は一歩下がった。
「俺は、莉子を迎えに行く」
「待って」
美緒は思わず呼び止めた。
悠真が振り返る。
「莉子ちゃんは……大丈夫?」
悠真は少しだけ視線を落とした。
「大丈夫ではない。でも、泣いた」
「泣いた?」
「ああ。ママが消えちゃうって、初めて声を出して泣いた」
美緒の胸が詰まった。
「泣けたなら、少しだけ前に進めたのかもしれない」
悠真はそう言ったが、その顔は自分に言い聞かせているようだった。
「また来る」
それだけ言って、悠真は店を出ていった。
美緒は封筒を見つめた。
彩乃。
悠真の妻。
莉子の母。
美緒の知らない人。
でも、悠真が愛した人。
その人が、自分の名前を書いた手紙を残している。
美緒は、しばらく触れられなかった。
閉店作業を終え、店の照明を落とした後、カウンターの小さな明かりだけをつけて、ようやく封筒を開けた。
中には便箋が三枚入っていた。
丁寧な字だった。
美緒さんへ。
最初の一行で、美緒の目に涙が滲んだ。
あなたに会ったことはありません。
でも、悠真さんから、あなたの話を聞いたことがあります。
昔、とても大切に思っていた人がいたこと。
その人に渡せなかった指輪があること。
その人を傷つけたまま、自分だけ前に進んでしまった気がしていること。
結婚する前、彼はとても正直に話してくれました。
私は笑って聞きました。
でも、本当は少しだけ嫉妬しました。
少しだけ、と書くと綺麗すぎますね。
本当は、何度も嫉妬しました。
会ったこともないあなたの存在が、怖かったこともあります。
私と笑っている時も、この人の心のどこかには、私の知らない女の人がいるのかなと思ったこともあります。
でも、その話をする悠真さんの顔を見て、私は思いました。
この人は、過去の恋を捨てられない人なのではなく、大切だったものを雑に扱えない人なのだと。
だから私は、彼を好きになりました。
少し悔しいけれど、あなたが愛した悠真さんだから、私は悠真さんを信じられたのだと思います。
美緒さん。
もし、いつかあなたと悠真さんが再会することがあったら。
その時、私がもうこの世にいなかったら。
どうか、私のことであなたが苦しみすぎないでください。
私は、悠真さんに忘れられたくありません。
莉子の母として、彼の妻として、ちゃんと覚えていてほしい。
これは私のわがままです。
でも、覚えていることと、これから誰かを大切にすることは、きっと両立できます。
私はそう信じたいです。
信じたい、と書いたのは、私にもまだ少し怖いからです。
自分がいなくなった後のことなんて、本当は考えたくありません。
悠真さんが誰かと笑うところも、莉子が誰かに髪を結んでもらうところも、想像するだけで胸が痛みます。
それでも、二人がずっと私の思い出だけを抱いて立ち止まる方が、もっとつらいです。
莉子は、強い子に見えて、寂しがりです。
泣くのが下手な子です。
もしあなたが莉子に会うことがあったら、無理に母親になろうとしないでください。
ただ、あの子が泣いてもいい場所を、ひとつ増やしてあげてください。
そして、悠真さんには、たまに怒ってあげてください。
あの人は、自分の痛みをすぐ後回しにします。
平気なふりが下手なくせに、平気だと言います。
私がいなくなった後、きっとたくさん間違えると思います。
でも、悪い人ではありません。
不器用で、優しい人です。
あなたが知っている通りだと思います。
美緒さん。
あなたがこれを読んでいるなら、私はもう一度だけ、わがままを言います。
私の場所を奪わないでください。
でも、私の場所を守るために、あなた自身の幸せを諦めないでください。
悠真さんがまた誰かを大切に思えるなら。
莉子がまた誰かの前で笑えるなら。
私は、それを悲しいことだとは思いたくありません。
どうか、三人とも、ちゃんと生きてください。
過去を消さずに。
でも、過去だけで終わらずに。
手紙の最後には、彩乃という名前があった。
美緒は便箋を抱きしめるようにして、カウンターに突っ伏した。
涙が止まらなかった。
会ったこともない人に、こんなにも正直に、こんなにも苦しみながら、未来を託されてしまった。
許されたようで。
託されたようで。
でも、簡単に踏み込んではいけない場所を、はっきり見せられたようでもあった。
翌日の午後、悠真と莉子が店に来た。
莉子は美緒を見た瞬間、泣きそうな顔をした。
美緒はカウンターから出た。
何を言えばいいのか、まだわからなかった。
でも、ひとつだけ決めていた。
母親にはならない。
代わりにもならない。
ただ、この子が泣いてもいい場所になる。
「莉子ちゃん」
美緒が呼ぶと、莉子は唇を震わせた。
「美緒さん」
「うん」
「ママ、消えない?」
「消えないよ」
「ほんと?」
「ほんと。莉子ちゃんが覚えている限り、悠真が覚えている限り、消えない」
莉子の目から涙がこぼれた。
初めて、美緒の前で泣いた。
それから、小さな声で言った。
「美緒さん、いなくならない?」
美緒の胸が、痛いほど震えた。
悠真が何か言おうとした。
でも美緒は、莉子だけを見ていた。
すぐに答えてはいけない。
大切なことだから。
でも、逃げてもいけない。
美緒は膝をつき、莉子と同じ目の高さになった。
そして、ゆっくり息を吸った。
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