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第26章 捨てられた夫
雨は夜明け前にやんでいた。
けれど、アシュフォード公爵邸の庭園には、まだ雨の名残が残っていた。白薔薇の花びらには細かな水滴がつき、石畳の小道は薄く濡れている。朝の光は雲の間から差し込み、屋敷の高い窓を静かに照らしていた。
いつもなら、美しい朝だった。
だがレイモンドには、その美しさが遠く感じられた。
彼は昨夜、ほとんど眠れなかった。
小サロンの机に置かれた白い封筒。
離縁の書類。
エレノアの静かな声。
そのすべてが、頭から離れなかった。
妻は離婚を望んでいる。
怒りにまかせた言葉ではなかった。
自分を試すための脅しでもなかった。
エレノアは、本当に終わらせようとしていた。
レイモンドは夫婦の寝室に一人で立っていた。
そこは、以前と同じ部屋のはずだった。深い青の絨毯も、窓辺の長椅子も、暖炉の上の銀細工も変わらない。けれど、エレノアがいないだけで、部屋は広すぎるように感じられた。
鏡台の前には、小さな白い皿がある。
そこにはもう、彼女の指輪はない。
衣装掛けにも、いつも掛かっていた薄い羽織はない。
窓辺にも、彼女が読みかけの本を置くことはない。
妻の気配が少しずつ消えていく。
そのことが、レイモンドの胸を締めつけた。
「公爵様」
扉の外からハロルドの声がした。
「朝食のご用意が整っております」
レイモンドは返事をするまで、少し時間がかかった。
「分かった」
食堂へ向かう廊下も、いつも通りだった。
使用人たちは丁寧に礼をする。誰も彼を責めない。誰も余計なことを言わない。けれど、その礼儀正しさの中に、以前のような温かさはない。
屋敷の主人として扱われている。
だが、エレノアの夫として迎えられてはいない。
それが、痛いほど分かった。
食堂には、一人分の朝食だけが用意されていた。
白いクロスの上に、銀器が並び、温かなパンと卵料理、果物、紅茶が置かれている。完璧な朝食だった。
けれど、向かいの席は空いていた。
「エレノアは?」
レイモンドは分かっていながら尋ねた。
ハロルドは静かに答える。
「奥様は、東側の客室でお召し上がりになりました」
「……そうか」
「本日はベアトリス様とお会いになるご予定でございます」
ベアトリス。
離縁の準備に関わっている女性。
その名を聞いただけで、レイモンドの胸に重い痛みが広がった。
「エレノアに会いたい」
ハロルドは頭を下げた。
「お伺いいたします」
しばらくして戻ってきたのは、マーサだった。
「公爵様。奥様は、午前中はご予定がございますので、午後であればお話を伺うとのことでございます」
以前なら、エレノアは彼の都合に合わせた。
今は違う。
彼が会いたい時に、すぐ会える妻ではない。
約束を取り、時間を待たなければならない人になった。
その当たり前の距離が、レイモンドには耐えがたかった。
「午後でいい」
「かしこまりました」
マーサの声は丁寧だった。
だが、そこにも距離があった。
食事を前にしても、レイモンドはほとんど手をつけられなかった。
かつてこの席にはエレノアがいた。
彼の話を聞き、必要な時には領地の相談にも乗り、疲れている時には何も聞かずに温かな紅茶を用意した。
そんな時間を、自分は何度も後回しにした。
ヴィオラが困っている。
ジュリアンに呼ばれた。
慈善会の件で少しだけ。
その少しだけが、いくつも重なり、今の空席を作った。
昼前、ジュリアン・クロフォードが訪ねてきた。
ハロルドが執務室へ告げに来る。
「公爵様。クロフォード伯爵様がお見えでございます」
「今日は会わない」
レイモンドはすぐに言った。
ハロルドはわずかに眉を動かしたが、すぐに礼をする。
「かしこまりました」
だが、廊下の向こうでジュリアンの声がした。
「レイモンド、少しくらい顔を見せろよ。友人を玄関払いとは冷たいじゃないか」
以前なら、レイモンドは仕方なく通しただろう。
けれど今は、その声を聞くだけで胸が冷えた。
友人……
本当にそうだったのか。
ジュリアンはいつも軽く笑い、ヴィオラのことを持ち出し、レイモンドの優しさをくすぐった。彼女にはお前しかいない。奥方なら分かってくれる。少しくらい大丈夫だ。
その言葉を、自分は何度も都合よく受け取ってしまった。
「帰ってもらえ」
レイモンドは言った。
「二度と、勝手に通すな」
ハロルドは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
廊下の向こうで、ジュリアンが何かを言っていた。
だがレイモンドは聞かなかった。
今さら友人を遠ざけても、失ったものが戻るわけではない。
それでも、これ以上同じ場所へ流されることだけは避けたかった。
午後になり、レイモンドは小サロンへ向かった。
エレノアはすでにそこにいた。
淡い灰色のドレスをまとい、髪をきちんとまとめている。顔色は少し疲れて見えたが、その姿勢は崩れていなかった。
机の上には、昨日の白い封筒が置かれている。
レイモンドはその封筒から目をそらした。
「エレノア」
「お話を伺います」
その言葉は、妻のものではなく、公爵夫人としてのものだった。
レイモンドは椅子に座らず、少しの間立ったままだった。
「私は、離縁に同意できない」
「そうでしょうね」
エレノアは静かに答えた。
「ですが、私の意思は変わりません」
「まだ、やり直せるはずだ」
「何を、どうやり直すのですか」
レイモンドは言葉に詰まる。
「私は変わる」
「昨日も伺いました」
「本当に変わる」
「では、変わってください」
エレノアはまっすぐ夫を見た。
「私と夫婦でいるためではなく、あなたご自身のために」
レイモンドの顔が歪む。
「君は、もう戻るつもりがないのか」
「今は、戻る理由がありません」
「私は君を愛している」
「愛しているという言葉では、もう安心できません」
レイモンドは深く傷ついたように目を伏せた。
「私は、君を守れなかった」
「はい」
短い返事だった。
「今なら分かる。私は、誰からも悪く思われたくなかった。困っている人を見れば、助けなければならないと思った。けれど、そのたびに君を後回しにした」
エレノアは何も言わなかった。
「ヴィオラ嬢のことも、私は見ようとしていなかった。君の言葉より、彼女の弱さを信じた」
「そうですね」
「私は愚かだった」
「はい」
その返事に、レイモンドはかすかに苦笑しそうになった。
優しく否定してくれることを、心のどこかでまだ期待していたのかもしれない。
だがエレノアは否定しなかった。
「私は、どうすれば君に償える」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
「償いは、私のためにするものではありません」
「エレノア」
「本当に悪かったと思うなら、もう誰かに良い顔をするために、大切な人を後回しにしないでください」
レイモンドは静かに顔を上げる。
「それが、今後あなたができることです」
「今後……」
「ええ」
エレノアの声は穏やかだった。
「私の夫としてではなく、あなた自身の生き方として」
レイモンドの胸に、深い絶望が広がった。
彼女はもう、自分との未来を前提に話していない。
それでも憎しみではない。
彼のこれからを願うような言葉だった。
だからこそ、余計に遠い。
「離縁の件は、すぐに決めろとは申しません」
エレノアは続けた。
「公爵家の事情もあります。領地、社交界、王宮への説明も必要でしょう。私は逃げるつもりはありません。必要な手続きは、きちんと進めます」
「君は、そこまで考えているのか」
「考えなければなりません。感情だけで終わらせるわけにはいきませんから」
レイモンドは、目の前の女性を見つめた。
彼女は今も美しい。
穏やかで、気品があり、冷静で、強い。
だが、その強さに甘えてきたのは自分だった。
「エレノア」
「はい」
「君は、私を恨んでいるか」
エレノアは少し考えた。
「恨めたら、もっと楽だったかもしれません」
レイモンドは息を呑むように黙った。
「でも、私はあなたを完全には恨めません。あなたが悪意で私を傷つけたわけではないからです」
「なら」
「だからといって、夫婦を続けられるわけではありません」
エレノアは、はっきりと言った。
「悪意がなかったからといって、痛みまで消えるわけではありません」
レイモンドは何も言えなかった。
その時、扉が叩かれた。
マーサが入ってくる。
「奥様、ベアトリス様からお返事が届いております」
エレノアは頷いた。
「ありがとう」
レイモンドの視線が封筒へ向かう。
ベアトリスからの返事。
離縁の話が進んでいる証だった。
エレノアは封筒を受け取り、レイモンドへ向き直る。
「今日のお話は、ここまでにいたしましょう」
「まだ私は」
「公爵様」
エレノアは、初めてその呼び方を使った。
レイモンドの表情が変わる。
夫の名ではない。
家の当主への呼びかけだった。
「今後の手続きについては、改めてお話しいたします」
レイモンドは、その場で動けなかった。
エレノアは礼をして、小サロンを出た。
彼女が去ったあと、部屋の中に残ったのは、暖炉の音と雨上がりの湿った空気だけだった。
夕方、レイモンドのもとへ一通の知らせが届いた。
ラングレー嬢が、今夜の小夜会へ出席するらしい。
しかも、ベルフォード公爵家の若き当主、エドガー・ベルフォードに招かれているという。
レイモンドはその知らせを見つめた。
ヴィオラは王都を去ると言っていた。
涙を浮かべ、明朝には領地へ戻ると言っていた。
それなのに、今夜は小夜会へ出る。
しかも、別の公爵に招かれて。
レイモンドの中で、何かが静かに崩れた。
彼女は本当に去るつもりだったのか。
自分に引き止めてほしかっただけではないのか。
エレノアは、最初からそれを見抜いていた。
『お止めされたくて、こちらへお越しになられたように見えるのですが、違いますか』
あの言葉が、今さら胸に響く。
レイモンドは椅子に腰を下ろした。
怒りではなかった。
ただ、深い虚しさがあった。
自分は何を守ろうとしていたのだろう。
誰を信じ、誰を傷つけたのだろう。
そして、その答えを出すには、あまりにも遅すぎた。
夜、東側の客室には灯りがともっていた。
エレノアはベアトリスからの返事を読み終え、そっと封を閉じた。
外では、雲の切れ間から月が顔を出し始めている。
雨の後の庭園は、静かに光っていた。
エレノアは窓の外を見つめた。
胸はまだ痛む。
けれど、自分で選んだ道の上にいる。
それだけは確かだった。
夫が後悔していることは分かる。
けれど、後悔は時間を戻してはくれない。
エレノアは深く目を閉じた。
もう、誰かの帰りを待つための夜ではない。
これからは、自分の明日を決めるための夜なのだ。
けれど、アシュフォード公爵邸の庭園には、まだ雨の名残が残っていた。白薔薇の花びらには細かな水滴がつき、石畳の小道は薄く濡れている。朝の光は雲の間から差し込み、屋敷の高い窓を静かに照らしていた。
いつもなら、美しい朝だった。
だがレイモンドには、その美しさが遠く感じられた。
彼は昨夜、ほとんど眠れなかった。
小サロンの机に置かれた白い封筒。
離縁の書類。
エレノアの静かな声。
そのすべてが、頭から離れなかった。
妻は離婚を望んでいる。
怒りにまかせた言葉ではなかった。
自分を試すための脅しでもなかった。
エレノアは、本当に終わらせようとしていた。
レイモンドは夫婦の寝室に一人で立っていた。
そこは、以前と同じ部屋のはずだった。深い青の絨毯も、窓辺の長椅子も、暖炉の上の銀細工も変わらない。けれど、エレノアがいないだけで、部屋は広すぎるように感じられた。
鏡台の前には、小さな白い皿がある。
そこにはもう、彼女の指輪はない。
衣装掛けにも、いつも掛かっていた薄い羽織はない。
窓辺にも、彼女が読みかけの本を置くことはない。
妻の気配が少しずつ消えていく。
そのことが、レイモンドの胸を締めつけた。
「公爵様」
扉の外からハロルドの声がした。
「朝食のご用意が整っております」
レイモンドは返事をするまで、少し時間がかかった。
「分かった」
食堂へ向かう廊下も、いつも通りだった。
使用人たちは丁寧に礼をする。誰も彼を責めない。誰も余計なことを言わない。けれど、その礼儀正しさの中に、以前のような温かさはない。
屋敷の主人として扱われている。
だが、エレノアの夫として迎えられてはいない。
それが、痛いほど分かった。
食堂には、一人分の朝食だけが用意されていた。
白いクロスの上に、銀器が並び、温かなパンと卵料理、果物、紅茶が置かれている。完璧な朝食だった。
けれど、向かいの席は空いていた。
「エレノアは?」
レイモンドは分かっていながら尋ねた。
ハロルドは静かに答える。
「奥様は、東側の客室でお召し上がりになりました」
「……そうか」
「本日はベアトリス様とお会いになるご予定でございます」
ベアトリス。
離縁の準備に関わっている女性。
その名を聞いただけで、レイモンドの胸に重い痛みが広がった。
「エレノアに会いたい」
ハロルドは頭を下げた。
「お伺いいたします」
しばらくして戻ってきたのは、マーサだった。
「公爵様。奥様は、午前中はご予定がございますので、午後であればお話を伺うとのことでございます」
以前なら、エレノアは彼の都合に合わせた。
今は違う。
彼が会いたい時に、すぐ会える妻ではない。
約束を取り、時間を待たなければならない人になった。
その当たり前の距離が、レイモンドには耐えがたかった。
「午後でいい」
「かしこまりました」
マーサの声は丁寧だった。
だが、そこにも距離があった。
食事を前にしても、レイモンドはほとんど手をつけられなかった。
かつてこの席にはエレノアがいた。
彼の話を聞き、必要な時には領地の相談にも乗り、疲れている時には何も聞かずに温かな紅茶を用意した。
そんな時間を、自分は何度も後回しにした。
ヴィオラが困っている。
ジュリアンに呼ばれた。
慈善会の件で少しだけ。
その少しだけが、いくつも重なり、今の空席を作った。
昼前、ジュリアン・クロフォードが訪ねてきた。
ハロルドが執務室へ告げに来る。
「公爵様。クロフォード伯爵様がお見えでございます」
「今日は会わない」
レイモンドはすぐに言った。
ハロルドはわずかに眉を動かしたが、すぐに礼をする。
「かしこまりました」
だが、廊下の向こうでジュリアンの声がした。
「レイモンド、少しくらい顔を見せろよ。友人を玄関払いとは冷たいじゃないか」
以前なら、レイモンドは仕方なく通しただろう。
けれど今は、その声を聞くだけで胸が冷えた。
友人……
本当にそうだったのか。
ジュリアンはいつも軽く笑い、ヴィオラのことを持ち出し、レイモンドの優しさをくすぐった。彼女にはお前しかいない。奥方なら分かってくれる。少しくらい大丈夫だ。
その言葉を、自分は何度も都合よく受け取ってしまった。
「帰ってもらえ」
レイモンドは言った。
「二度と、勝手に通すな」
ハロルドは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
廊下の向こうで、ジュリアンが何かを言っていた。
だがレイモンドは聞かなかった。
今さら友人を遠ざけても、失ったものが戻るわけではない。
それでも、これ以上同じ場所へ流されることだけは避けたかった。
午後になり、レイモンドは小サロンへ向かった。
エレノアはすでにそこにいた。
淡い灰色のドレスをまとい、髪をきちんとまとめている。顔色は少し疲れて見えたが、その姿勢は崩れていなかった。
机の上には、昨日の白い封筒が置かれている。
レイモンドはその封筒から目をそらした。
「エレノア」
「お話を伺います」
その言葉は、妻のものではなく、公爵夫人としてのものだった。
レイモンドは椅子に座らず、少しの間立ったままだった。
「私は、離縁に同意できない」
「そうでしょうね」
エレノアは静かに答えた。
「ですが、私の意思は変わりません」
「まだ、やり直せるはずだ」
「何を、どうやり直すのですか」
レイモンドは言葉に詰まる。
「私は変わる」
「昨日も伺いました」
「本当に変わる」
「では、変わってください」
エレノアはまっすぐ夫を見た。
「私と夫婦でいるためではなく、あなたご自身のために」
レイモンドの顔が歪む。
「君は、もう戻るつもりがないのか」
「今は、戻る理由がありません」
「私は君を愛している」
「愛しているという言葉では、もう安心できません」
レイモンドは深く傷ついたように目を伏せた。
「私は、君を守れなかった」
「はい」
短い返事だった。
「今なら分かる。私は、誰からも悪く思われたくなかった。困っている人を見れば、助けなければならないと思った。けれど、そのたびに君を後回しにした」
エレノアは何も言わなかった。
「ヴィオラ嬢のことも、私は見ようとしていなかった。君の言葉より、彼女の弱さを信じた」
「そうですね」
「私は愚かだった」
「はい」
その返事に、レイモンドはかすかに苦笑しそうになった。
優しく否定してくれることを、心のどこかでまだ期待していたのかもしれない。
だがエレノアは否定しなかった。
「私は、どうすれば君に償える」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
「償いは、私のためにするものではありません」
「エレノア」
「本当に悪かったと思うなら、もう誰かに良い顔をするために、大切な人を後回しにしないでください」
レイモンドは静かに顔を上げる。
「それが、今後あなたができることです」
「今後……」
「ええ」
エレノアの声は穏やかだった。
「私の夫としてではなく、あなた自身の生き方として」
レイモンドの胸に、深い絶望が広がった。
彼女はもう、自分との未来を前提に話していない。
それでも憎しみではない。
彼のこれからを願うような言葉だった。
だからこそ、余計に遠い。
「離縁の件は、すぐに決めろとは申しません」
エレノアは続けた。
「公爵家の事情もあります。領地、社交界、王宮への説明も必要でしょう。私は逃げるつもりはありません。必要な手続きは、きちんと進めます」
「君は、そこまで考えているのか」
「考えなければなりません。感情だけで終わらせるわけにはいきませんから」
レイモンドは、目の前の女性を見つめた。
彼女は今も美しい。
穏やかで、気品があり、冷静で、強い。
だが、その強さに甘えてきたのは自分だった。
「エレノア」
「はい」
「君は、私を恨んでいるか」
エレノアは少し考えた。
「恨めたら、もっと楽だったかもしれません」
レイモンドは息を呑むように黙った。
「でも、私はあなたを完全には恨めません。あなたが悪意で私を傷つけたわけではないからです」
「なら」
「だからといって、夫婦を続けられるわけではありません」
エレノアは、はっきりと言った。
「悪意がなかったからといって、痛みまで消えるわけではありません」
レイモンドは何も言えなかった。
その時、扉が叩かれた。
マーサが入ってくる。
「奥様、ベアトリス様からお返事が届いております」
エレノアは頷いた。
「ありがとう」
レイモンドの視線が封筒へ向かう。
ベアトリスからの返事。
離縁の話が進んでいる証だった。
エレノアは封筒を受け取り、レイモンドへ向き直る。
「今日のお話は、ここまでにいたしましょう」
「まだ私は」
「公爵様」
エレノアは、初めてその呼び方を使った。
レイモンドの表情が変わる。
夫の名ではない。
家の当主への呼びかけだった。
「今後の手続きについては、改めてお話しいたします」
レイモンドは、その場で動けなかった。
エレノアは礼をして、小サロンを出た。
彼女が去ったあと、部屋の中に残ったのは、暖炉の音と雨上がりの湿った空気だけだった。
夕方、レイモンドのもとへ一通の知らせが届いた。
ラングレー嬢が、今夜の小夜会へ出席するらしい。
しかも、ベルフォード公爵家の若き当主、エドガー・ベルフォードに招かれているという。
レイモンドはその知らせを見つめた。
ヴィオラは王都を去ると言っていた。
涙を浮かべ、明朝には領地へ戻ると言っていた。
それなのに、今夜は小夜会へ出る。
しかも、別の公爵に招かれて。
レイモンドの中で、何かが静かに崩れた。
彼女は本当に去るつもりだったのか。
自分に引き止めてほしかっただけではないのか。
エレノアは、最初からそれを見抜いていた。
『お止めされたくて、こちらへお越しになられたように見えるのですが、違いますか』
あの言葉が、今さら胸に響く。
レイモンドは椅子に腰を下ろした。
怒りではなかった。
ただ、深い虚しさがあった。
自分は何を守ろうとしていたのだろう。
誰を信じ、誰を傷つけたのだろう。
そして、その答えを出すには、あまりにも遅すぎた。
夜、東側の客室には灯りがともっていた。
エレノアはベアトリスからの返事を読み終え、そっと封を閉じた。
外では、雲の切れ間から月が顔を出し始めている。
雨の後の庭園は、静かに光っていた。
エレノアは窓の外を見つめた。
胸はまだ痛む。
けれど、自分で選んだ道の上にいる。
それだけは確かだった。
夫が後悔していることは分かる。
けれど、後悔は時間を戻してはくれない。
エレノアは深く目を閉じた。
もう、誰かの帰りを待つための夜ではない。
これからは、自分の明日を決めるための夜なのだ。
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