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第4章 未亡人の誘惑
しおりを挟むマリアベルの罠から数日が経った。
あの夜の誤解を晴らす機会は一度も訪れず、アランは相変わらず仕事に没頭していた。
朝食の席も短く言葉を交わすだけで、食後にはすぐ執務室へ消えてしまう。
廊下ですれ違っても、ほんの一瞬の視線と簡単な挨拶だけ。
その態度は、必要以上に距離を置こうとしているように感じられた。
(……やっぱり、怒っているのね)
理由はわかっている。
庭園でレオニードと二人でいたところを見られた、あの誤解だ。
私は説明しようと口を開きかけたが、あの日以来、彼の背中は常に遠ざかっていた。
そんな私の様子を見て、レオニードが声をかけてきたのは、ある晩餐の翌日だった。
「……少し、外へ出ないか」
「外へ?」
「気晴らしだ。知人の夜会に招かれている。無理にとは言わないが……このままでは、お前が塞ぎ込むばかりだろう」
優しい声色に、心が揺れた。
このまま屋敷でアランを避けているだけでは、何も変わらない。
私は頷き、レオニードの用意した馬車に乗り込んだ。
夜会の会場は、社交界でも有名な貴族邸。
大理石の階段を上ると、シャンデリアの光が降り注ぎ、金と白を基調とした大広間が広がっていた。
色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちと、礼服の紳士たちが笑みを交わしながら談笑し、ワインの香りが漂う。
「……っ」
人々の間から見えた顔に、息が詰まった。
アラン――。
仕事だと言っていたはずの彼が、ここにいる。
ただそれだけなら偶然で済ませられたかもしれない。
けれど、彼の隣にはクラリッサ夫人がいた。
深紅のドレスに黒髪を結い上げ、白い首筋が艶やかに光を受けている。
二人は来賓と笑顔で言葉を交わしていたが、その距離は近く、時折交わす視線が妙に親密に見えた。
「……あの男のことが気になるのか」
耳元で、レオニードの低い声が響く。
「……別に」
「なら、俺と一緒に回るか?」
返事をする前に、視界の端でアランとクラリッサが人混みを抜け、廊下の奥へ姿を消した。
(……どこへ?)
胸の奥で嫌な予感が膨らむ。
立ち止まった私に、レオニードが視線を落とす。
「行くか?」
「……」
私は小さく頷いた。
廊下は人影が少なく、足音が吸い込まれるように響く。
奥の角を曲がると、半開きの扉から光が漏れていた。
そこから微かに声が聞こえる。
「……あの子では、あなたを満たせないでしょう?」
艶を帯びた女の声。クラリッサだ。
「そんなことは――」
アランの声が遮られる。
扉の隙間から覗くと、クラリッサが彼の胸元に手を置き、体を寄せていた。
紅い唇が彼の頬をかすめ、さらに近づく――唇と唇の距離は、あとわずか。
心臓が強く脈打ち、全身が冷える。
耐えられず、一歩後ずさった時、床板が小さく軋んだ。
その音に気づいたのか、アランが振り向く。
そして私を見た瞬間、瞳が大きく揺れた。
「……エリシア」
呼び止める声が聞こえたが、私は踵を返し、廊下を歩き出した。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
「待て、違う! 誤解だ!」
背後から追ってくる足音。
手首を掴まれ、強引に振り向かされる。
「説明させてくれ」
「説明はいりません」
必死に感情を押し殺し、冷たい声を返す。
「見たままが全てです」
その瞬間、間に割って入る影があった。
「彼女を放せ」
レオニードだ。私を引き寄せ、アランと向き合う。
「もう彼女を泣かせるな。今夜は俺が送る」
「……義兄上、越えてはならない一線がある」
「それはお前だろう。……二年後に手放すつもりなら、今からでも引け」
二人の視線が激しくぶつかり、空気が凍りつく。
私はただ、その間で立ち尽くし、呼吸すら浅くなる。
屋敷に戻る馬車の中。
アランは乗らず、レオニードと二人きりだった。
彼は何も言わず、ただ私の肩に外套を掛けてくれる。
その温もりに甘えたい気持ちを必死で抑え、窓の外の闇を見つめた。
(……二年なんて、すぐ終わる)
心の奥でそう繰り返し、自分の気持ちを封じ込めた。
契約の終わりまで、これ以上傷つかないために――。
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