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第五章 王太子の嫉妬と、影で動く騎士
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王太子一行の滞在は一日限りのものだった。
夕刻、視察の報告を終えた城館の客間には、淡い夕焼けの光が差し込み、窓辺のカーテンを茜色に染めている。
クリスは机の上の書簡へ視線を落とすふりをしながら、意識の大半を、庭へ向けていた。
磨かれた窓ガラスの向こう――
白薔薇の垣根のそばで、キャロルがひとりの少年と並んで立っている。
金髪の少年。
近衛騎士候補として随行してきた、ルーク・ハーヴェイ。
(……また、あの騎士か)
胸の奥で、微かなざらつきが生まれる。
キャロルは落ち着いた顔で彼の話に耳を傾け、ときおり柔らかく微笑みさえ浮かべていた。
その表情は、クリスの前では――まだ、見せてくれなかったものだ。
指先が、不意にペン先を強く押しつける。
紙の上に小さな染みがにじんだ。
自分でも、その行為に気づくまでに数秒を要した。
(……何をしている。私は視察のまとめを――)
理性が告げる。
しかし視線は、どうしても外から離れなかった。
ルークが軽く頭を下げ、キャロルが袖口へ手を添えた瞬間――
胸の奥の何かが、きり、と軋む。
理由は、まだ言葉にならない。
ただ、嫌だった。
彼女が、あの騎士の方へ向ける微笑。
彼女の隣に、当然のように立つ、その距離。
(そこは……私のいる場所のはずだ)
思考が、静かに熱を帯びていく。
扉を叩く音がして、老執事が入室した。
「殿下、夕餉のご用意が――」
「後にしろ」
思わず低く吐き出した声に、執事が目を瞬かせる。
自らの語気に気づき、クリスはわずかに息を整えた。
「……数分で向かう。下がれ」
「は、畏まりました」
扉が閉まる。
再び視線は、庭へ。
ちょうどそのとき、キャロルがルークへ何かを手渡しているのが見えた。
手袋を外した素肌のまま――その指先が、少年の掌に触れた。
疾(はや)く、心臓が跳ねる。
喉の奥に、名も知らぬ感情がせり上がる。
(……なぜ、彼女は私の前では、手を差し出さないのに)
出会いの間。
彼女は、慎重に距離を引いた。
目を逸らし、身体を退け、触れられることを拒んだ。
なのに今は――
(なぜ、その手を……)
思考が、唐突に途切れる。
自らの胸奥で、何かが形を取りかけている。
それは、焦燥。
それは、独占欲。
それは、理解したくない衝動。
否定しかけた瞬間、
自分の内に眠る「本能」が静かに語りかける。
(――奪われたくないのか、私は)
その事実に、クリスは微かに息を呑んだ。
窓に映る己の瞳は、驚くほど熱を宿している。
彼は立ち上がった。
机の上の書簡を放置したまま、躊躇いなく扉へ向かう。
「……殿下?」
廊下で控えていた近衛が目を見張る。
「私は庭へ出る。随行は不要だ」
「しかし――」
「不要だと言っている」
冷たい声音に、近衛は言葉を飲み込んだ。
階段を下り、庭へ出る。
夕焼けが、石畳を長く染めていた。
キャロルとルークがこちらへ気づく。
ルークが恭しく膝を折り、頭を垂れる。
「殿下。無礼に――」
「構わない」
その声は、思った以上に低く響いた。
視線は、ただ一人へと向かう。
「キャロル。……寒くはないか」
彼女は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。
そして、わずかに間を置いて首を振る。
「いえ。ご心配には及びませんわ」
丁寧な距離。
穏やかな微笑。
――しかし、ほんの少し、彼の方へ視線を合わせることを避けている。
胸の内に、じわりと痛みが広がる。
(なぜ、避ける)
冷静さを装いつつ、問いは喉の奥で渦巻いた。
「殿下、こちらはルーク様。近衛見習いとして――」
「名は知っている」
短く遮った声に、ルークの肩がわずかに強張る。
クリス自身も、語気の鋭さに気づき、わずかに黙した。
数秒の沈黙。
風が、白薔薇の葉を揺らす。
やがて、ルークが静かに言葉を選ぶ。
「殿下。私は、王妃候補であられるキャロル様のお身を、陰ながらお守りするつもりでおります。……それだけは、お伝えしたく」
誠実な声音だった。
偽りはない。
忠誠も、敬意も、本物だ。
だからこそ――
(彼女の側に立つ理由としては、十分すぎる)
胸が焼けるように熱くなる。
理性が、必死に均衡を保とうとする。
(私は王太子だ。感情で人を遠ざけることなど――)
その理屈を、別の声が打ち消した。
(だが、彼女は――)
――私のものだ。
その言葉は、まだ口には出ない。
しかし、胸の奥で静かに形を持ち始める。
「……そうか」
クリスは短く応じた。
視線はルークではなく、キャロルへと戻る。
夕焼けに照らされた彼女の横顔は、どこまでも静かで、美しかった。
触れられない距離が、ひどく遠く感じられる。
(なぜ、私は――
こんなにも、君を手放したくない)
自問の答えは、まだ見つからない。
それでも。
彼は、はっきりと自覚した。
この騎士だけは、簡単に近づけてはならない。
その瞬間、庭の空気が微かに張りつめる。
対照的に――
ルークの瞳には、別の光が宿っていた。
(……やはり、殿下は)
少年騎士は静かに息を吐く。
目の前の王太子は、冷徹な仮面の奥に、危うい熱を抱えている。
それは、未来で破滅にも救済にもなり得る炎。
(守らねばならないのは――
この国だけではなく、二人の心だ)
ルークは胸の内で、静かに誓う。
影に徹し、真実を探り、歪みの芽を摘み取る者として。
そして――
夕暮れの庭に、沈黙が落ちた。
それは、表には出ないまま、確かに始まりつつある
三人の運命の分岐を告げる静けさだった。
夕刻、視察の報告を終えた城館の客間には、淡い夕焼けの光が差し込み、窓辺のカーテンを茜色に染めている。
クリスは机の上の書簡へ視線を落とすふりをしながら、意識の大半を、庭へ向けていた。
磨かれた窓ガラスの向こう――
白薔薇の垣根のそばで、キャロルがひとりの少年と並んで立っている。
金髪の少年。
近衛騎士候補として随行してきた、ルーク・ハーヴェイ。
(……また、あの騎士か)
胸の奥で、微かなざらつきが生まれる。
キャロルは落ち着いた顔で彼の話に耳を傾け、ときおり柔らかく微笑みさえ浮かべていた。
その表情は、クリスの前では――まだ、見せてくれなかったものだ。
指先が、不意にペン先を強く押しつける。
紙の上に小さな染みがにじんだ。
自分でも、その行為に気づくまでに数秒を要した。
(……何をしている。私は視察のまとめを――)
理性が告げる。
しかし視線は、どうしても外から離れなかった。
ルークが軽く頭を下げ、キャロルが袖口へ手を添えた瞬間――
胸の奥の何かが、きり、と軋む。
理由は、まだ言葉にならない。
ただ、嫌だった。
彼女が、あの騎士の方へ向ける微笑。
彼女の隣に、当然のように立つ、その距離。
(そこは……私のいる場所のはずだ)
思考が、静かに熱を帯びていく。
扉を叩く音がして、老執事が入室した。
「殿下、夕餉のご用意が――」
「後にしろ」
思わず低く吐き出した声に、執事が目を瞬かせる。
自らの語気に気づき、クリスはわずかに息を整えた。
「……数分で向かう。下がれ」
「は、畏まりました」
扉が閉まる。
再び視線は、庭へ。
ちょうどそのとき、キャロルがルークへ何かを手渡しているのが見えた。
手袋を外した素肌のまま――その指先が、少年の掌に触れた。
疾(はや)く、心臓が跳ねる。
喉の奥に、名も知らぬ感情がせり上がる。
(……なぜ、彼女は私の前では、手を差し出さないのに)
出会いの間。
彼女は、慎重に距離を引いた。
目を逸らし、身体を退け、触れられることを拒んだ。
なのに今は――
(なぜ、その手を……)
思考が、唐突に途切れる。
自らの胸奥で、何かが形を取りかけている。
それは、焦燥。
それは、独占欲。
それは、理解したくない衝動。
否定しかけた瞬間、
自分の内に眠る「本能」が静かに語りかける。
(――奪われたくないのか、私は)
その事実に、クリスは微かに息を呑んだ。
窓に映る己の瞳は、驚くほど熱を宿している。
彼は立ち上がった。
机の上の書簡を放置したまま、躊躇いなく扉へ向かう。
「……殿下?」
廊下で控えていた近衛が目を見張る。
「私は庭へ出る。随行は不要だ」
「しかし――」
「不要だと言っている」
冷たい声音に、近衛は言葉を飲み込んだ。
階段を下り、庭へ出る。
夕焼けが、石畳を長く染めていた。
キャロルとルークがこちらへ気づく。
ルークが恭しく膝を折り、頭を垂れる。
「殿下。無礼に――」
「構わない」
その声は、思った以上に低く響いた。
視線は、ただ一人へと向かう。
「キャロル。……寒くはないか」
彼女は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。
そして、わずかに間を置いて首を振る。
「いえ。ご心配には及びませんわ」
丁寧な距離。
穏やかな微笑。
――しかし、ほんの少し、彼の方へ視線を合わせることを避けている。
胸の内に、じわりと痛みが広がる。
(なぜ、避ける)
冷静さを装いつつ、問いは喉の奥で渦巻いた。
「殿下、こちらはルーク様。近衛見習いとして――」
「名は知っている」
短く遮った声に、ルークの肩がわずかに強張る。
クリス自身も、語気の鋭さに気づき、わずかに黙した。
数秒の沈黙。
風が、白薔薇の葉を揺らす。
やがて、ルークが静かに言葉を選ぶ。
「殿下。私は、王妃候補であられるキャロル様のお身を、陰ながらお守りするつもりでおります。……それだけは、お伝えしたく」
誠実な声音だった。
偽りはない。
忠誠も、敬意も、本物だ。
だからこそ――
(彼女の側に立つ理由としては、十分すぎる)
胸が焼けるように熱くなる。
理性が、必死に均衡を保とうとする。
(私は王太子だ。感情で人を遠ざけることなど――)
その理屈を、別の声が打ち消した。
(だが、彼女は――)
――私のものだ。
その言葉は、まだ口には出ない。
しかし、胸の奥で静かに形を持ち始める。
「……そうか」
クリスは短く応じた。
視線はルークではなく、キャロルへと戻る。
夕焼けに照らされた彼女の横顔は、どこまでも静かで、美しかった。
触れられない距離が、ひどく遠く感じられる。
(なぜ、私は――
こんなにも、君を手放したくない)
自問の答えは、まだ見つからない。
それでも。
彼は、はっきりと自覚した。
この騎士だけは、簡単に近づけてはならない。
その瞬間、庭の空気が微かに張りつめる。
対照的に――
ルークの瞳には、別の光が宿っていた。
(……やはり、殿下は)
少年騎士は静かに息を吐く。
目の前の王太子は、冷徹な仮面の奥に、危うい熱を抱えている。
それは、未来で破滅にも救済にもなり得る炎。
(守らねばならないのは――
この国だけではなく、二人の心だ)
ルークは胸の内で、静かに誓う。
影に徹し、真実を探り、歪みの芽を摘み取る者として。
そして――
夕暮れの庭に、沈黙が落ちた。
それは、表には出ないまま、確かに始まりつつある
三人の運命の分岐を告げる静けさだった。
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