9 / 30
第九章 囁かれる中傷と、王太子の影
しおりを挟む王妃教育が始まって、まだ数日しか経っていないというのに――
王宮の空気は、早くもざわめきを孕み始めていた。
大理石の回廊。
噴水のある中庭へ通じる柱廊の影で、数人の侍女が小声で囁き合っている。
「聞いた? あの伯爵令嬢のことよ」
「キャロル様? 王妃候補の……?」
「ええ。今日の講義で、責任者様に褒められたんですって」
「まあ……素敵じゃない」
「――いいえ。あれは上辺だけ、ですって」
声音がひそやかに落ちる。
「表では優しい顔をなさるけれど、裏では感情を見せない冷たい方だって」
「人前では、完璧にふるまうのに……陰では侍女を遠ざけている、とも」
「王妃としては“怖い”わよね」
(……また、同じ)
柱の影で足を止め、キャロルは目を伏せた。
耳に届く噂の言葉。
前世と同じ、形のない毒。
(何も……変わっていないの?)
喉の奥が、ひどく乾いた。
けれど今回は――
押し殺すだけで終わらせるつもりはなかった。
キャロルは静かに一歩、侍女たちの前へ進み出た。
「その“お噂”――私のことでしょうか」
「っ……キャ、キャロル様……!」
侍女たちが蒼ざめて振り返る。
叱責の言葉を待つ顔。
怯えた視線。
キャロルは、微笑んだ。
「感情を見せない、と思われているのですね」
「い、いえ……その……」
「違いませんわ。私は、不器用です」
彼女の声は落ち着いていた。
「王妃教育をこなすことで精一杯で、
きっと、周りを見る余裕が足りないのでしょう」
侍女の一人が、はっと息を飲む。
「ですから――」
キャロルは、胸の前で両手を丁寧に重ねた。
「もし間違えていたら、教えてください。
私が“冷たく見える”なら、その理由を。
私の言葉が届いていないなら、その想いを」
息を詰めていた侍女の瞳が、じわりと潤む。
「……そんなふうに、言っていただけるなんて」
「私たち、勝手に怖がって……すみません……!」
侍女たちが頭を下げた瞬間――
中庭へ吹き込む風が、静かに流れを変えた。
(……違う。
今度は、“閉じない”)
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
しかし。
遠くの回廊の影で、別の視線がそれを見ていた。
灰青の瞳。
クリス。
(噂……また、彼女はこうして傷つくのか)
指先が、無意識に強く握られる。
怒り――
ではない。
それよりもっと、静かで冷たいもの。
(許さない。
彼女を貶める声も、彼女を孤独にする視線も)
靴音を消し、彼は影の中を進む。
別の貴族たちの集まりを通り過ぎるたび、空気が張りつめた。
「殿下……!」
居合わせた若い文官が、青ざめて頭を下げる。
クリスは冷ややかに視線を走らせただけだった。
「――“噂”など、王宮には不要だ」
低く落とされた声は氷のように鋭い。
「虚偽を流した者は、相応の処分を受ける覚悟をしておけ」
声を交わすことなく、文官たちは顔色を失って散っていく。
広間に、重い沈黙が落ちた。
(彼女を、再び失う未来は――
二度と、許さない)
胸の奥に、ひどく熱を帯びた痛みが刻まれていく。
その日の終わり。
夕暮れの回廊で、キャロルはふと背後を振り返った。
視線の先――
ほんの少し離れた場所に、クリスの姿。
「殿下……」
彼は近づいて来る。
歩みは静かで、けれど迷いがない。
「噂の件、耳にした」
淡々とした声。
しかし、その奥には抑え込まれた激情が滲んでいた。
「私は、対応を進めている。
君は、気にする必要はない」
「……殿下。ありがとうございます。ですが――」
キャロルは首を振る。
「私は、逃げません。
噂と向き合うのも、王妃候補としての務めですわ」
一瞬、灰青の瞳が揺れた。
「危険だ。
君は……傷つく」
「それでも」
キャロルは微笑む。
けれど、その微笑はどこか寂しかった。
「私は、今度こそ、“自分の足で立っていたい”のです」
クリスは息を呑む。
彼女は、もう――
前世の“守られる王妃”ではない。
手を伸ばした。
しかし、その指先は、空を掠めただけだった。
キャロルは、静かに一歩下がる。
「私のために怒ってくださるのは、嬉しいわ。
でも……殿下の怒りに、私が隠れてしまうのは嫌なのです」
「……キャロル」
名を呼ぶ声が、震えた。
(離れようとしているわけじゃない。
けれど――君は、遠い)
胸の奥で、何かが締めつけられる。
それでも、彼女は笑う。
「今はまだ、手を取れません。
でも――それでも、私を見守ってくださいますか?」
彼は、しばし言葉を失い――
そして、低く答えた。
「……ああ。
――どれほど離れても、見失いはしない」
その声は、
誓いのように静かで、狂おしいほど深かった
59
あなたにおすすめの小説
彼は亡国の令嬢を愛せない
黒猫子猫
恋愛
セシリアの祖国が滅んだ。もはや妻としておく価値もないと、夫から離縁を言い渡されたセシリアは、五年ぶりに祖国の地を踏もうとしている。その先に待つのは、敵国による処刑だ。夫に愛されることも、子を産むことも、祖国で生きることもできなかったセシリアの願いはたった一つ。長年傍に仕えてくれていた人々を守る事だ。その願いは、一人の男の手によって叶えられた。
ただ、男が見返りに求めてきたものは、セシリアの想像をはるかに超えるものだった。
※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。
※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。
【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
元婚約者からの嫌がらせでわたくしと結婚させられた彼が、ざまぁしたら優しくなりました。ですが新婚時代に受けた扱いを忘れてはおりませんよ?
3333(トリささみ)
恋愛
貴族令嬢だが自他ともに認める醜女のマルフィナは、あるとき王命により結婚することになった。
相手は王女エンジェに婚約破棄をされたことで有名な、若き公爵テオバルト。
あまりにも不釣り合いなその結婚は、エンジェによるテオバルトへの嫌がらせだった。
それを知ったマルフィナはテオバルトに同情し、少しでも彼が報われるよう努力する。
だがテオバルトはそんなマルフィナを、徹底的に冷たくあしらった。
その後あるキッカケで美しくなったマルフィナによりエンジェは自滅。
その日からテオバルトは手のひらを返したように優しくなる。
だがマルフィナが新婚時代に受けた仕打ちを、忘れることはなかった。
悪役令嬢に転生したと気付いたら、咄嗟に婚約者の記憶を失くしたフリをしてしまった。
ねーさん
恋愛
あ、私、悪役令嬢だ。
クリスティナは婚約者であるアレクシス王子に近付くフローラを階段から落とそうとして、誤って自分が落ちてしまう。
気を失ったクリスティナの頭に前世で読んだ小説のストーリーが甦る。自分がその小説の悪役令嬢に転生したと気付いたクリスティナは、目が覚めた時「貴方は誰?」と咄嗟に記憶を失くしたフリをしてしまって──…
記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~
Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。
走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。
すれ違う思い、私と貴方の恋の行方…
アズやっこ
恋愛
私には婚約者がいる。
婚約者には役目がある。
例え、私との時間が取れなくても、
例え、一人で夜会に行く事になっても、
例え、貴方が彼女を愛していても、
私は貴方を愛してる。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 女性視点、男性視点があります。
❈ ふんわりとした設定なので温かい目でお願いします。
戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました
Mag_Mel
恋愛
しばらく床に臥せていたエルマが久方ぶりに参加した祝宴で、隣国の姫君ルーシアは戦地にいるはずの夫ジェイミーの名を口にした。
「彼から恋文をもらっていますの」。
二年もの間、自分には便りひとつ届かなかったのに?
真実を確かめるため、エルマは姫君の茶会へと足を運ぶ。
そこで待っていたのは「身を引いて欲しい」と別れを迫る、ルーシアの取り巻きたちだった。
※小説家になろう様にも投稿しています
夫は私を愛していないらしい
にゃみ3
恋愛
侯爵夫人ヴィオレッタは、夫から愛されていない哀れな女として社交界で有名だった。
若くして侯爵となった夫エリオットは、冷静で寡黙な性格。妻に甘い言葉をかけることも、優しく微笑むこともない。
どれだけ人々に噂されようが、ヴィオレッタは気にすることなく平穏な毎日を送っていた。
「侯爵様から愛されていないヴィオレッタ様が、お可哀想でなりませんの」
そんなある日、一人の貴婦人が声をかけてきて……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる