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終章 余寒、運命の後期
十二
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「お腹はすいた?」
そういえば、すいているかもしれない。頷くと、アルシャはよいせと上体を起こした。
「カイトがサンドウィッチを作ってくれたんだ。ソファにいて」
おれはむくりと起き上がり、ソファへ向かう。部屋から出なくて済むのはありがたかった。まったく、カイト様様である。
なんとなくカーテンを開いてみると、太陽が高々と真上で輝いている。よく寝たわけだ。
ほどなくして、ガラガラと懐かしい音が聞こえてきた。キッチンを覗いてみれば、アルシャがコーヒー豆を挽いている。
「やっぱりこれが一番美味しいからね」
サイドについている車輪のような部分を手馴れた様子でくるくる回しながらアルシャは言った。それを見ていると、父を思い出す。父も「これが一番美味い」と言って、コーヒー豆を挽いていた。
「休日はだいたい自分で挽くんだ。カイトとオルキを呼んでね。そうするといつも、カイトが朝食を持ってきてくれる」
彼らは本当に仲がいい。
「あんまり遅く起きた日は、二人は朝食を終えていたりするけどね」
それでも声をかければコーヒータイムに付き合ってくれる。アルシャがコーヒーを淹れない日もあるが、その日はその日だと言う。
「ああ、オルキはいただく専門さ」
アルシャがいかにも難しいことをするような顔で言うので、おれは笑ってしまった。
さて、コーヒーが入ればブランチの始まりだ。茶色い角砂糖の入った陶器の入れ物の洒落ていること。
「僕はいまいち卵サンドの良さがわからなかったんだけど、カイトのお手製を食べてようやく理解したんだ」
アルシャがそう言うだけあり、それはなんとも美味だった。挟んでいるパンの三倍はあろうかという分厚さの卵部分はふわふわで、程よい甘酸っぱさとスパイスの効いた味付けがクセになる。
「オルキが卵サンド好きでよかったよ」
なるほど。そんなオルキデのために、カイトは卵サンドをマスターしたのだろう。
「君も卵サンドが好き?」
“……べつに”
特別食べたいとは思わないが、嫌いなわけではない。そんなおれの反応に「だよね」と言って、アルシャはちょっと笑った。
特にやらなくてはならないこともなくマッタリ過ごす休日はいつぶりだろう。とりとめのない話をして、卓上ゲームをしたりして。アルシャと一緒にいる。それだけで “今” が輝きを増し、満たされた気分になる。その美しい瞳を近くで見られるだけで、おれの胸はいっぱいだった。
「実はこの階には、食堂もあるんだ」
そんなアルシャの言葉で、夕食は食堂へ行くことに。
「利用する人数が少ないから、誰かと一緒になることはあんまりないよ」
という話だったのだが。こじんまりした食堂へ着くと先客がいた。おれを捉えてかすかに目を見開いている。
「やぁ、エレミア。寮内の見廻りでもしてきたのかい?」
「ああ…」
目が合ったおれは軽くお辞儀した。もし声が出たとしても、なんと言っていいのかわからなかっただろう。
エレミアは穏やかな黄緑色の瞳におれを映して、頷いている。言葉はなかったが、父のような眼差しがその心中を物語っていた。おれとアルシャが席に着く頃には、食事を終えて立ち上がる。
「ではな。よい夜を」
「おやすみ、よい夜を」
エレミアがいなくなると、アルシャは肩をすくめた。
「彼は特に遭遇率が低いんだけどね」
ついているのか、いないのか。しかし、そこにいたのがエレミアでよかったとおれは思った。
その後、料理が出現する頃にはカイトとオルキデがやって来て、おれは思わずアルシャに目をやる。
「うん…。こんな日もあるさ」
目をパチクリさせたアルシャも、こんなにここで人に会うことは予想外だったのだろう。その顔がちょっとかわいいと思ってしまい、耳が熱くなった。
「すみませんね、逢瀬の邪魔をしてしまったようで」
カイトは申し訳なさそうに言い、遠慮なく椅子に腰掛ける。
「安心しろよ、長居はしねぇさ」
オルキデもおれの頭を撫でて椅子に収まった。彼らと共にする食事。なんだか別荘を思い出す。
「後期はよくやってるみたいだな。たまには息抜きも必要だぜ」
「耳に聞こえる君の噂は、感じのいいものが多くなりましたね。レルヒが喜んでました」
彼らが優しい眼差しで言うので、気恥ずかしかった。
ゆめのような時間にも終わりがやってくる。アルシャの部屋へ戻り、ソファでマッタリすることしばらく。
「そろそろ、レルヒが来ているかもね」
アルシャはカムナギの務めのために、明朝早く学び舎を出るという。そのため、朝まで一緒にはいられない。
名残を惜しむように抱きしめられる。
「それじゃ、行こうか」
抱擁を解いたアルシャが立ち上がり、おれを振り返った。頷いて続く。玄関口で口を開こうとしたとき、重ねられた唇。
「おやすみ」
不意を突かれ、目を丸くする。アルシャはいい笑顔だ。
“……おやすみ”
してやられた気分で部屋を後にしたおれだった。
昇降機の横に佇んでいたレルヒは、目が合うと微笑を浮かべる。
「休暇は満喫したようですね。今日はゆっくりと休んでください」
明日からはまた勉強浸けだ。おれは肩をすくめて昇降機に乗った。
そして休日明け。
いつものように「ぱっぽう」から始まり教室へ着けば、日溜まりのようなメルの笑顔が迎えてくれる。――それから。
「おはよう」
「おはよ」
「おはよう、リュエル」
教室中からかかった声に、おれは目を丸くした。
「みんな、ずっとこうしたかったんだよ」
メルがコソッと囁く。長らくおれが周りに興味がないという雰囲気だったため、挨拶するのを躊躇うクラスメイトはたくさんいたという。
ゆったりとやって来たブリランテが腰に手を当て、口を開く。
「シュネー先生のお言葉は、いいきっかけだったわけだ」
かすかな緊張と共にこちらを窺うクラスメイトたち。
“……おはよう”
おれは戸惑いながら口パクで返す。途端に教室内はホッとしたような空気に変わった。
それからいつもと同じ教室が温かな空間に感じられ、おれもこのクラスの一員なのだと、みんなの中の一人なのだという思いが湧いた。
「おはようございます、みなさん」
「シュネー先生、おはようございます」
教壇に立つシュネーを見るのはまだ慣れない。シュネーの纏うおおらかな雰囲気のおかげで、ホームルームは朗らかな時間になった。
廊下を歩けば感じる、窺うような視線。
すでに今回の一件が噂になっているのだろう。おれはかすかに眉根を寄せる。そのとき、前からやって来た生徒が立ち塞がるように足を止めた。おれもあえなく立ち止まる。
「俺は、おまえのウタが大好きだ」
それは何度か挨拶運動のときに妙なことを言ってきた生徒だった。
突然の言葉にきょとんとしてしまう。彼は顔を真っ赤にして続ける。
「だから、治ったらまた自信持って紡げよ。俺はいつだって、おまえの味方だからな」
言い切った! とばかりに清々しい笑みを浮かべ、グッと親しげに親指を立てて去った。というか誰。
「いい先輩だね」
まるでおれが親しくしている相手に対するような言い方をメルがするので、無心で首を振る。
「え? 先輩だよね…?」
いや、違うのはそこじゃなくて。無邪気に見上げてくる海のような瞳を前に、上手い言葉が見つからなかった。
そのうち、名前も把握していないクラスメイトから話しかけられることも増えてきた。
「おい、資料集忘れてたぞ」
“……ありがと”
声が出ないおれは、口を大きく動かしたりジェスチャーをして応える。すると相手は、「おう」と言い、優しく微笑んでくれるのだ。
――本人には言えないが、相手に伝えようとがんばるリュエルはちょっとかわいかった。それに、なんだか癒される。
「君の印象もどうやら、優しく見守りたいタイプに変化したようだね」
寮へ向け歩む道すがら、ラルジュがこぼす。
「その気持ち、わかりますよ。今の君はそっと抱きしめたくなります」
レルヒはそう言って微笑んだ。
送る日々は変わらないのに、気づけばおれの周りはずいぶん変わっていた。もうイヤな気分になることはほとんどない。
「君が変わったんだよ、リュエル。君が変わったから、周りが変わったんだ」
穏やかな紫色の瞳を不思議な気分で見上げるおれだった。
――それから数日。
ぱっぽう ぱっぽう
朝の訪れを告げる鳥の声。こればっかりは変わらない。
「おはよう、リュエル」
そういえば、朝の挨拶と共に名前を呼ばれるようになったのは最近のことだ。
「おはよう」
ぱっぽう鳥を押しのけ、上体を起こしたところでリュエルはピタリと止まった。
(今、声が)
思わずラルジュとレルヒへ顔を向ければ、二人とも目を丸くしている。
そういえば、すいているかもしれない。頷くと、アルシャはよいせと上体を起こした。
「カイトがサンドウィッチを作ってくれたんだ。ソファにいて」
おれはむくりと起き上がり、ソファへ向かう。部屋から出なくて済むのはありがたかった。まったく、カイト様様である。
なんとなくカーテンを開いてみると、太陽が高々と真上で輝いている。よく寝たわけだ。
ほどなくして、ガラガラと懐かしい音が聞こえてきた。キッチンを覗いてみれば、アルシャがコーヒー豆を挽いている。
「やっぱりこれが一番美味しいからね」
サイドについている車輪のような部分を手馴れた様子でくるくる回しながらアルシャは言った。それを見ていると、父を思い出す。父も「これが一番美味い」と言って、コーヒー豆を挽いていた。
「休日はだいたい自分で挽くんだ。カイトとオルキを呼んでね。そうするといつも、カイトが朝食を持ってきてくれる」
彼らは本当に仲がいい。
「あんまり遅く起きた日は、二人は朝食を終えていたりするけどね」
それでも声をかければコーヒータイムに付き合ってくれる。アルシャがコーヒーを淹れない日もあるが、その日はその日だと言う。
「ああ、オルキはいただく専門さ」
アルシャがいかにも難しいことをするような顔で言うので、おれは笑ってしまった。
さて、コーヒーが入ればブランチの始まりだ。茶色い角砂糖の入った陶器の入れ物の洒落ていること。
「僕はいまいち卵サンドの良さがわからなかったんだけど、カイトのお手製を食べてようやく理解したんだ」
アルシャがそう言うだけあり、それはなんとも美味だった。挟んでいるパンの三倍はあろうかという分厚さの卵部分はふわふわで、程よい甘酸っぱさとスパイスの効いた味付けがクセになる。
「オルキが卵サンド好きでよかったよ」
なるほど。そんなオルキデのために、カイトは卵サンドをマスターしたのだろう。
「君も卵サンドが好き?」
“……べつに”
特別食べたいとは思わないが、嫌いなわけではない。そんなおれの反応に「だよね」と言って、アルシャはちょっと笑った。
特にやらなくてはならないこともなくマッタリ過ごす休日はいつぶりだろう。とりとめのない話をして、卓上ゲームをしたりして。アルシャと一緒にいる。それだけで “今” が輝きを増し、満たされた気分になる。その美しい瞳を近くで見られるだけで、おれの胸はいっぱいだった。
「実はこの階には、食堂もあるんだ」
そんなアルシャの言葉で、夕食は食堂へ行くことに。
「利用する人数が少ないから、誰かと一緒になることはあんまりないよ」
という話だったのだが。こじんまりした食堂へ着くと先客がいた。おれを捉えてかすかに目を見開いている。
「やぁ、エレミア。寮内の見廻りでもしてきたのかい?」
「ああ…」
目が合ったおれは軽くお辞儀した。もし声が出たとしても、なんと言っていいのかわからなかっただろう。
エレミアは穏やかな黄緑色の瞳におれを映して、頷いている。言葉はなかったが、父のような眼差しがその心中を物語っていた。おれとアルシャが席に着く頃には、食事を終えて立ち上がる。
「ではな。よい夜を」
「おやすみ、よい夜を」
エレミアがいなくなると、アルシャは肩をすくめた。
「彼は特に遭遇率が低いんだけどね」
ついているのか、いないのか。しかし、そこにいたのがエレミアでよかったとおれは思った。
その後、料理が出現する頃にはカイトとオルキデがやって来て、おれは思わずアルシャに目をやる。
「うん…。こんな日もあるさ」
目をパチクリさせたアルシャも、こんなにここで人に会うことは予想外だったのだろう。その顔がちょっとかわいいと思ってしまい、耳が熱くなった。
「すみませんね、逢瀬の邪魔をしてしまったようで」
カイトは申し訳なさそうに言い、遠慮なく椅子に腰掛ける。
「安心しろよ、長居はしねぇさ」
オルキデもおれの頭を撫でて椅子に収まった。彼らと共にする食事。なんだか別荘を思い出す。
「後期はよくやってるみたいだな。たまには息抜きも必要だぜ」
「耳に聞こえる君の噂は、感じのいいものが多くなりましたね。レルヒが喜んでました」
彼らが優しい眼差しで言うので、気恥ずかしかった。
ゆめのような時間にも終わりがやってくる。アルシャの部屋へ戻り、ソファでマッタリすることしばらく。
「そろそろ、レルヒが来ているかもね」
アルシャはカムナギの務めのために、明朝早く学び舎を出るという。そのため、朝まで一緒にはいられない。
名残を惜しむように抱きしめられる。
「それじゃ、行こうか」
抱擁を解いたアルシャが立ち上がり、おれを振り返った。頷いて続く。玄関口で口を開こうとしたとき、重ねられた唇。
「おやすみ」
不意を突かれ、目を丸くする。アルシャはいい笑顔だ。
“……おやすみ”
してやられた気分で部屋を後にしたおれだった。
昇降機の横に佇んでいたレルヒは、目が合うと微笑を浮かべる。
「休暇は満喫したようですね。今日はゆっくりと休んでください」
明日からはまた勉強浸けだ。おれは肩をすくめて昇降機に乗った。
そして休日明け。
いつものように「ぱっぽう」から始まり教室へ着けば、日溜まりのようなメルの笑顔が迎えてくれる。――それから。
「おはよう」
「おはよ」
「おはよう、リュエル」
教室中からかかった声に、おれは目を丸くした。
「みんな、ずっとこうしたかったんだよ」
メルがコソッと囁く。長らくおれが周りに興味がないという雰囲気だったため、挨拶するのを躊躇うクラスメイトはたくさんいたという。
ゆったりとやって来たブリランテが腰に手を当て、口を開く。
「シュネー先生のお言葉は、いいきっかけだったわけだ」
かすかな緊張と共にこちらを窺うクラスメイトたち。
“……おはよう”
おれは戸惑いながら口パクで返す。途端に教室内はホッとしたような空気に変わった。
それからいつもと同じ教室が温かな空間に感じられ、おれもこのクラスの一員なのだと、みんなの中の一人なのだという思いが湧いた。
「おはようございます、みなさん」
「シュネー先生、おはようございます」
教壇に立つシュネーを見るのはまだ慣れない。シュネーの纏うおおらかな雰囲気のおかげで、ホームルームは朗らかな時間になった。
廊下を歩けば感じる、窺うような視線。
すでに今回の一件が噂になっているのだろう。おれはかすかに眉根を寄せる。そのとき、前からやって来た生徒が立ち塞がるように足を止めた。おれもあえなく立ち止まる。
「俺は、おまえのウタが大好きだ」
それは何度か挨拶運動のときに妙なことを言ってきた生徒だった。
突然の言葉にきょとんとしてしまう。彼は顔を真っ赤にして続ける。
「だから、治ったらまた自信持って紡げよ。俺はいつだって、おまえの味方だからな」
言い切った! とばかりに清々しい笑みを浮かべ、グッと親しげに親指を立てて去った。というか誰。
「いい先輩だね」
まるでおれが親しくしている相手に対するような言い方をメルがするので、無心で首を振る。
「え? 先輩だよね…?」
いや、違うのはそこじゃなくて。無邪気に見上げてくる海のような瞳を前に、上手い言葉が見つからなかった。
そのうち、名前も把握していないクラスメイトから話しかけられることも増えてきた。
「おい、資料集忘れてたぞ」
“……ありがと”
声が出ないおれは、口を大きく動かしたりジェスチャーをして応える。すると相手は、「おう」と言い、優しく微笑んでくれるのだ。
――本人には言えないが、相手に伝えようとがんばるリュエルはちょっとかわいかった。それに、なんだか癒される。
「君の印象もどうやら、優しく見守りたいタイプに変化したようだね」
寮へ向け歩む道すがら、ラルジュがこぼす。
「その気持ち、わかりますよ。今の君はそっと抱きしめたくなります」
レルヒはそう言って微笑んだ。
送る日々は変わらないのに、気づけばおれの周りはずいぶん変わっていた。もうイヤな気分になることはほとんどない。
「君が変わったんだよ、リュエル。君が変わったから、周りが変わったんだ」
穏やかな紫色の瞳を不思議な気分で見上げるおれだった。
――それから数日。
ぱっぽう ぱっぽう
朝の訪れを告げる鳥の声。こればっかりは変わらない。
「おはよう、リュエル」
そういえば、朝の挨拶と共に名前を呼ばれるようになったのは最近のことだ。
「おはよう」
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思わずラルジュとレルヒへ顔を向ければ、二人とも目を丸くしている。
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