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終章 余寒、運命の後期
十七
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次の日の放課後、いつものように寮部屋にて勉強を開始する前に、レルヒが言った。
「アルシャさんは多忙のため、お会いすることはできないそうです」
おれは眉根を寄せる。レルヒがカイトに会えるなら、おれもアルシャに会えるのではないか。
「ですから、私から伝えます」
――昨夜、カイトのもとを訪れたレルヒは、リュエルがアルシャのことを何か察していると話した。これ以上、隠しておけない、と。カイトは何も言わずにレルヒを抱きしめ、レルヒが落ち着くまでそのままでいてくれた。それから、二人でアルシャを訪ねた。
事情を聞いたアルシャは、「今は会えない」と言った。
群青色の瞳の奥に、揺れる心が感じられた。そんな状態で会うのは、アルシャ自身にもリュエルにも、よくないと考えたのだろう。アルシャは最後に「レルヒに任せる」と言って、微笑んだ。
「審判者について、知っていますか?」
「……いや」
おれは首を振る。何らかの決意を感じさせる菫色の瞳に、圧倒されていた。
「それは、ルーマ家とフラム家が担う責任です。ルーマ家とフラム家はカムナギの二大名家といわれていますね。一番最初に精靈からウタを授かったからだと、私は思っています。そのときに、審判者という役割も承ったのでしょう」
審判者の役割――。
「きっと彼らは、特別に精靈から好かれていたのに違いありません。精靈は、彼らなら自分たちと人間たちの橋渡しになってくれると信じ、託したのです。……数百年に一度、存続か断絶かを選ぶ審判の時が巡ってきます」
「自分たちの血筋のか?」
「いいえ。世界の、です」
おれは目を丸くする。
「この世界を存続させるかどうか、一人の人間が選ぶってのか?」
「ええ」
「そんな、一人で決めていいような、小さなことじゃないだろ」
「ですが実際、その方の世界はその方が創っているのです。その方がいなければ、その方の見ている世界も存在しません」
大きな世界という舞台にたくさんの人がいるのではなく、一人一人が、それぞれの世界を見ている。それぞれの世界を創っているということだ。実際には、世界はそこにしか存在しないとレルヒは語る。
「君は一人の人間を世界と比較し、小さなものと捉えているようですが、それは誤りです。この世界は、この世界を見ている存在そのものです。同等のものというわけです」
そういえば、ネージュからそのような事を聞いていた。おれは頭を掻いて、思考を整理する。
「つまりは、おれがいるから、おれの見ている世界があって…。その世界を見続けていくか、審判の時が来たら決めろってことか」
「君の世界は君がいるから存在するわけですが、それとはべつに、この世界を設定する情報の核があるのです。その核に共鳴することにより、複数の存在が、同じ設定の世界上でそれぞれのバーションの世界体験を楽しめるということです」
レルヒは小さく息を吐いて続ける。
「もしも存続を選ばなかった場合、その核が破壊され、この世界でできる体験が全て、そこで終わります」
「……この世界が、なくなる…?」
「そういうことです」
おれは睫毛を伏せて、ふと思う。
「それが、アルシャと関係あるのか?」
それって…。
「アルシャが選ばれた?」
レルヒは頷いて淡々と続ける。
「存続を選ばなければ、この世界は終わります。しかし、精靈たちは存在し続けるのです。彼らはまた、新たな世界を創りだすでしょう。存続を選べば、この世界は続きます。……審判者の、命と引き換えに」
「……は?」
「命を捧げられるほどこの世界は愛しいか。そう問われているのでしょう」
おれは信じられない思いで首を振る。
「それで命を捧げなくても、どうせ世界が終わるなら同じだろ?」
「そうですね。どちらを選んでも、審判者に命はありません。けれど、存続を選ばなければ、この世界が終わる瞬間まで、他の者たちと生きることができます」
その選択がなされた事がないため、あるいはあっても知りようがないため、答えてからどれくらいの猶予があるかはわからないとレルヒは言った。
そこでふと、ラルジュが口を開く。
「どちらにせよ自分は死ぬと思えば、純粋に考えられるかもしれない」
自分の命とはべつに、この世界が続いてほしいか、終わってほしいか。たしかに、シンプルに考えられるかもしれないが――。
自分ならどちらを選ぶか。考えるまでもなく、おれの心は瞬時に決まった。きっと、アルシャもそうだと思った。それならアルシャは、一人でこの世界を去ることになる。
「なんでアルシャなんだ」
「審判者を選ぶのは精靈です。きっと、特別に想われているのでしょう」
『おまえは、大切な人の死に際がもしわかってたらどうする? それがもうすぐだって知ったら』
ガクンと身体の力が抜けた。唖然と俯いてしまう。あのとき、オルキデはすでに知っていたのか。アルシャが審判者に選ばれたことを――。
「君がまっすぐにカムナギへの道を目指せるよう、アルシャさんは、この事を君に伝えない選択をしたのです」
そういえば、いつか聖華の話をしたとき、アルシャは自分がなるのはたぶんムリと言っていた。それに、再会した当時からおれをカムナギにさせたがっていた。
(わかってたのか)
随分前から、アルシャは己の運命を知っていたのかもしれない。何も知らずに過ごしてきたおれは、その事実に唇が震えてしまう。
「リュエル、君はこの先も、カムナギを目指して進めますか」
アルシャがいなくなった世界でも?
その時どう答えたのか、おれは覚えていない。いつものように勉強が始まって、やけに静かな心で、見た目にはいつもと変わらない時間が過ぎていった。
夜になり、二人が帰ると、おれは一人で寮を出た。
一人になりたい気分だった。
どこをどう歩いたのか、気付いたら小川のせせらぎが目の前にあった。ここへ来たばかりの頃、優雅なお茶会に出くわした場所だ。
(アルシャがいなくなる)
頭が理解を拒んでいるようで、何かを考えなければならないのに、何も考えられない。
ぼぅっとしていたら、後ろから地面を踏みしめる音が近づいてきた。
振り返ってみるとネージュがそこにおり、目を瞬く。
「リュエル、そんな恰好でこんな時間に…。寒いだろう」
そういえば上着も羽織らず出てきてしまったと気付いた途端、ブルリと身体が震えた。まだ残っている雪を視界で捉え、ますます寒く感じてしまう。こちらへ歩み来たネージュが、羽織っていたマントを開いて中に入れてくれた。
ようやく頭が動き始める。おれは首を傾げてネージュを見上げた。
「ネージュさんは、どうして…?」
「寮へ戻るところだったのさ。森のほうへ目をやると、白い人影が森の奥に入って行くのが見えた。一応、教師だからね。それが生徒なら放っておけない」
「……ごめん」
睫毛が下がる。ふと、マントの中で手を握られた。温かな手だ。下がっていた顔を上げると、ネージュは優しく目を細めていた。
「リュエルこそ、どうしてこんなところに?」
ネージュは知っているのだろうか。
「審判者のことを、聞いて。それが、アルシャだって」
「……私も驚いた。教師には、少し前に伝えられたよ」
「っそうだ、いつなんだ? おれ、アルシャが選ばれたって聞いて、……うっかりしてた。肝心のことを聞いてない」
――不安に揺れる瞳を見下ろし、ネージュは内心で息を吐く。アルシャが選ばれたと知っただけで、これほど動揺していたとは。そんな相手に、止めを刺すようなことは言い難い。
「アルシャが選ばれたことについて、リュエルはどう思っている?」
「……選んだのは精靈なんだろ。それなら、納得がいく。おれもアルシャのウタが好きだ」
――だから本当に、納得してしまっているのだが。
「アルシャがいなくなるなんて、信じられない」
それとこれとは話が別だ。
「信じたくない」
思わず頑なな声になってしまう。ネージュは眉尻を下げ、そっとおれを抱きしめた。
「私が思うに、昔は人間も、自然の一部だったんだ。自然と調和して、動物たちのように生きていた。それがいつからか、人間は人間だけの社会を作り、自然から離れて暮らすようになったんだ。それまで、審判者などいなかったに違いない。人間が人間だけで独立して在ろうとしたため、必要になったんだ」
変わってしまった人間の在り方を、精靈はどう思っているのだろう。ネージュはたまに、そんな事を考えると言う。
「精靈や自然…。人間以外の生きものだけで、それを決めることもできるはずだ。けれども精靈は、人間の意思を尊重してくれる。人間がまだ続けたいと言うのなら、そうしようと」
静かに耳を傾けていたおれは、はたと思った。
「精靈たちは、終わらせたいのか」
「どうかな。リュエルはどう思う?」
おれの視界に映る光の煌めきは美しく、いつも優しい。だから受け入れられていると思った。おれがその光を尊く愛しく感じるように、精靈たちも親しみをもってくれていると思っていた。
「終わらせたいなんて、」
“ウタ紡ぎ” として関わってきた事が頭を過る。精靈たちが怒ったり悲しんだりしているのを、おれは知っている。
「終わらせたいなんて、思っているはずがない?」
「……おれは、そう思いたい」
ぐっと手の平を握りしめる。
「私もそう思いたいよ」
ネージュは瞬く夜空を見上げて、白い息を吐きだした。
「アルシャさんは多忙のため、お会いすることはできないそうです」
おれは眉根を寄せる。レルヒがカイトに会えるなら、おれもアルシャに会えるのではないか。
「ですから、私から伝えます」
――昨夜、カイトのもとを訪れたレルヒは、リュエルがアルシャのことを何か察していると話した。これ以上、隠しておけない、と。カイトは何も言わずにレルヒを抱きしめ、レルヒが落ち着くまでそのままでいてくれた。それから、二人でアルシャを訪ねた。
事情を聞いたアルシャは、「今は会えない」と言った。
群青色の瞳の奥に、揺れる心が感じられた。そんな状態で会うのは、アルシャ自身にもリュエルにも、よくないと考えたのだろう。アルシャは最後に「レルヒに任せる」と言って、微笑んだ。
「審判者について、知っていますか?」
「……いや」
おれは首を振る。何らかの決意を感じさせる菫色の瞳に、圧倒されていた。
「それは、ルーマ家とフラム家が担う責任です。ルーマ家とフラム家はカムナギの二大名家といわれていますね。一番最初に精靈からウタを授かったからだと、私は思っています。そのときに、審判者という役割も承ったのでしょう」
審判者の役割――。
「きっと彼らは、特別に精靈から好かれていたのに違いありません。精靈は、彼らなら自分たちと人間たちの橋渡しになってくれると信じ、託したのです。……数百年に一度、存続か断絶かを選ぶ審判の時が巡ってきます」
「自分たちの血筋のか?」
「いいえ。世界の、です」
おれは目を丸くする。
「この世界を存続させるかどうか、一人の人間が選ぶってのか?」
「ええ」
「そんな、一人で決めていいような、小さなことじゃないだろ」
「ですが実際、その方の世界はその方が創っているのです。その方がいなければ、その方の見ている世界も存在しません」
大きな世界という舞台にたくさんの人がいるのではなく、一人一人が、それぞれの世界を見ている。それぞれの世界を創っているということだ。実際には、世界はそこにしか存在しないとレルヒは語る。
「君は一人の人間を世界と比較し、小さなものと捉えているようですが、それは誤りです。この世界は、この世界を見ている存在そのものです。同等のものというわけです」
そういえば、ネージュからそのような事を聞いていた。おれは頭を掻いて、思考を整理する。
「つまりは、おれがいるから、おれの見ている世界があって…。その世界を見続けていくか、審判の時が来たら決めろってことか」
「君の世界は君がいるから存在するわけですが、それとはべつに、この世界を設定する情報の核があるのです。その核に共鳴することにより、複数の存在が、同じ設定の世界上でそれぞれのバーションの世界体験を楽しめるということです」
レルヒは小さく息を吐いて続ける。
「もしも存続を選ばなかった場合、その核が破壊され、この世界でできる体験が全て、そこで終わります」
「……この世界が、なくなる…?」
「そういうことです」
おれは睫毛を伏せて、ふと思う。
「それが、アルシャと関係あるのか?」
それって…。
「アルシャが選ばれた?」
レルヒは頷いて淡々と続ける。
「存続を選ばなければ、この世界は終わります。しかし、精靈たちは存在し続けるのです。彼らはまた、新たな世界を創りだすでしょう。存続を選べば、この世界は続きます。……審判者の、命と引き換えに」
「……は?」
「命を捧げられるほどこの世界は愛しいか。そう問われているのでしょう」
おれは信じられない思いで首を振る。
「それで命を捧げなくても、どうせ世界が終わるなら同じだろ?」
「そうですね。どちらを選んでも、審判者に命はありません。けれど、存続を選ばなければ、この世界が終わる瞬間まで、他の者たちと生きることができます」
その選択がなされた事がないため、あるいはあっても知りようがないため、答えてからどれくらいの猶予があるかはわからないとレルヒは言った。
そこでふと、ラルジュが口を開く。
「どちらにせよ自分は死ぬと思えば、純粋に考えられるかもしれない」
自分の命とはべつに、この世界が続いてほしいか、終わってほしいか。たしかに、シンプルに考えられるかもしれないが――。
自分ならどちらを選ぶか。考えるまでもなく、おれの心は瞬時に決まった。きっと、アルシャもそうだと思った。それならアルシャは、一人でこの世界を去ることになる。
「なんでアルシャなんだ」
「審判者を選ぶのは精靈です。きっと、特別に想われているのでしょう」
『おまえは、大切な人の死に際がもしわかってたらどうする? それがもうすぐだって知ったら』
ガクンと身体の力が抜けた。唖然と俯いてしまう。あのとき、オルキデはすでに知っていたのか。アルシャが審判者に選ばれたことを――。
「君がまっすぐにカムナギへの道を目指せるよう、アルシャさんは、この事を君に伝えない選択をしたのです」
そういえば、いつか聖華の話をしたとき、アルシャは自分がなるのはたぶんムリと言っていた。それに、再会した当時からおれをカムナギにさせたがっていた。
(わかってたのか)
随分前から、アルシャは己の運命を知っていたのかもしれない。何も知らずに過ごしてきたおれは、その事実に唇が震えてしまう。
「リュエル、君はこの先も、カムナギを目指して進めますか」
アルシャがいなくなった世界でも?
その時どう答えたのか、おれは覚えていない。いつものように勉強が始まって、やけに静かな心で、見た目にはいつもと変わらない時間が過ぎていった。
夜になり、二人が帰ると、おれは一人で寮を出た。
一人になりたい気分だった。
どこをどう歩いたのか、気付いたら小川のせせらぎが目の前にあった。ここへ来たばかりの頃、優雅なお茶会に出くわした場所だ。
(アルシャがいなくなる)
頭が理解を拒んでいるようで、何かを考えなければならないのに、何も考えられない。
ぼぅっとしていたら、後ろから地面を踏みしめる音が近づいてきた。
振り返ってみるとネージュがそこにおり、目を瞬く。
「リュエル、そんな恰好でこんな時間に…。寒いだろう」
そういえば上着も羽織らず出てきてしまったと気付いた途端、ブルリと身体が震えた。まだ残っている雪を視界で捉え、ますます寒く感じてしまう。こちらへ歩み来たネージュが、羽織っていたマントを開いて中に入れてくれた。
ようやく頭が動き始める。おれは首を傾げてネージュを見上げた。
「ネージュさんは、どうして…?」
「寮へ戻るところだったのさ。森のほうへ目をやると、白い人影が森の奥に入って行くのが見えた。一応、教師だからね。それが生徒なら放っておけない」
「……ごめん」
睫毛が下がる。ふと、マントの中で手を握られた。温かな手だ。下がっていた顔を上げると、ネージュは優しく目を細めていた。
「リュエルこそ、どうしてこんなところに?」
ネージュは知っているのだろうか。
「審判者のことを、聞いて。それが、アルシャだって」
「……私も驚いた。教師には、少し前に伝えられたよ」
「っそうだ、いつなんだ? おれ、アルシャが選ばれたって聞いて、……うっかりしてた。肝心のことを聞いてない」
――不安に揺れる瞳を見下ろし、ネージュは内心で息を吐く。アルシャが選ばれたと知っただけで、これほど動揺していたとは。そんな相手に、止めを刺すようなことは言い難い。
「アルシャが選ばれたことについて、リュエルはどう思っている?」
「……選んだのは精靈なんだろ。それなら、納得がいく。おれもアルシャのウタが好きだ」
――だから本当に、納得してしまっているのだが。
「アルシャがいなくなるなんて、信じられない」
それとこれとは話が別だ。
「信じたくない」
思わず頑なな声になってしまう。ネージュは眉尻を下げ、そっとおれを抱きしめた。
「私が思うに、昔は人間も、自然の一部だったんだ。自然と調和して、動物たちのように生きていた。それがいつからか、人間は人間だけの社会を作り、自然から離れて暮らすようになったんだ。それまで、審判者などいなかったに違いない。人間が人間だけで独立して在ろうとしたため、必要になったんだ」
変わってしまった人間の在り方を、精靈はどう思っているのだろう。ネージュはたまに、そんな事を考えると言う。
「精靈や自然…。人間以外の生きものだけで、それを決めることもできるはずだ。けれども精靈は、人間の意思を尊重してくれる。人間がまだ続けたいと言うのなら、そうしようと」
静かに耳を傾けていたおれは、はたと思った。
「精靈たちは、終わらせたいのか」
「どうかな。リュエルはどう思う?」
おれの視界に映る光の煌めきは美しく、いつも優しい。だから受け入れられていると思った。おれがその光を尊く愛しく感じるように、精靈たちも親しみをもってくれていると思っていた。
「終わらせたいなんて、」
“ウタ紡ぎ” として関わってきた事が頭を過る。精靈たちが怒ったり悲しんだりしているのを、おれは知っている。
「終わらせたいなんて、思っているはずがない?」
「……おれは、そう思いたい」
ぐっと手の平を握りしめる。
「私もそう思いたいよ」
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