美しい世界を紡ぐウタ

日燈

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終章 余寒、運命の後期

十八

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 あの後おれは、ネージュのマントに入れてもらったまま一緒に寮へ戻った。シャワーを浴びて温まり、逃避するように眠りに落ちた。この世界と精靈のことを、考えていた。
 人間ぱっぽう鳥に起こされて、いつもの一日が始まって。
 アルシャがいつ審判を下すのか、その時をまだ聞いていないと思い至ったのは、午前の講義を受けているときだった。

(ネージュさん、教えてくれなかったな)

 うっかりなのか、あえて言わなかったのか。それを考えても仕方がない。とりあえず、今わかっていること――アルシャがいなくなってしまうことを思う。それはもう決まっているのだ。
 
(本当に?)
 
 おれは視界に舞っている綺麗な光に意識を送る。本当にそれしかないのか、心の中で精靈に問いかけた。
 精靈の煌めきは変わらない。そこにあるのは穏やかで美しい世界だ。例えアルシャがいなくなってしまっても。それに、その世界が続いていくために、アルシャは命を捧げるのだ。

(おれに何ができる)

 もしも自分が審判者に選ばれたなら、もうこの世界にいられないことを残念に思うだろう。けれど、自分がいなくなった後の世界に対する不安などはない。この世界にはアルシャがいる。それに、他にもカムナギがいて、カムナギを目指す人もいて。きっと、大丈夫だと思うから。

(ラルジュたちにはわるいけど)

 心残りはあっても、安心して去れると思う。
 
(アルシャもそうなのかな)

 もうすっかり心は決まっていて、続く未来を信じているだろうか。

(それなら、おれは…)

 講義中は始終上の空だったが、教師から指摘されることはなかった。
 昼休憩となり、ラルジュとレルヒが教室に迎えに来る。
 
「少しは暖かくなってきましたし、今日は外で食べますか」
「いいね」
「おう」

 三人で昼食をテイクアウトして、雪の残る景色を見ながらベンチに並んで腹を満たした。学び舎から少し離れたところまで来たので、生徒の姿は見当たらない。
 昼食後、最初に口を開いたのはおれだった。

「アルシャ、いつなんだ?」

 重大な質問をしているにも関わらず、心は静かだ。しっかりと目を合わせて問うと、レルヒはにわかに動揺した。

「……春祭りの頃だと、聞いています」

 思わず目を丸くする。

「あと数日じゃねえか」
「……はい」

 信じられない。こんなに直前まで知らなかったなんて。

「いま、アルシャは?」
「カムナギの関係でおられません。ですが、祝祭には来られるはずです」

 春祭りは、学び舎でも行われる。放課後、聖堂にて讃美歌を謳ったあと、外でパーティーを開いてお祝い――素晴らしい一年になること、豊穣になることなどを予祝――するのだ。
 その日は、カムナギのアルシャのウタもあるのだろう。それがおれやみんなが聞くことのできる、アルシャの最後のウタになる。

「リュエル…」

 アルシャの覚悟が決まっているなら、自分も決めなくてはと思った。それでもやっぱり――。

(つらいな)

 おれは腕で顔を覆って俯いた。両腿に肘をつき、頭を抱える。
 何も言わずに背中を擦ってくれる大きな手。頭を撫でる優しい手。

「……おれ、ちゃんとここにいるから」

 どちらの手も、ピクリと動きを止めた。それから、どちらともなく抱きしめられる。

「ちょっ」

 押しつぶされて体勢が崩れたおれは、慌てて上体を起こした。

「ごめんなさい、リュエル。もっと早く伝えるべきでした…!」
「リュエル、すまない」

 おれには、彼らの気持ちが痛いほど理解できた。

「あんたらが、いつ知ったのか知らねえけど。前のおれは不安定だったし、覚悟もなにもなかったし。……今だって、受け入れがたいと思ってる」

 それでも、その時は来てしまうから。

「アルシャを不安にさせたくないんだ」

 両側から、ハッとしたように顔を向けられる。

「命を懸けて世界を想って、それがおれの役目だったら、きっと不安はない。その世界に、アルシャがいるから。アルシャがいるから大丈夫って、」

 アルシャがそう思えるように、自分がしっかりとカムナギになるのだ。そう決めたのに、視界が滲んで涙が溢れる。俯いたおれを、ラルジュが護るように抱きしめた。

「君は、俺が思っていた以上に強く立派な人間だ。君の侍衛になれることを誇りに思う」

 膝の上で握りしめていた手を、レルヒに両手で包まれる。

「私もです。君の侍官になれることを、誇りに思います」

 二人とも、自分たちが望んだ職につくことは確定済みのような言い方だ。おれは思わず笑ってしまった。この二人が傍にいてくれるなら、アルシャのいない世界でも、なんとかやっていけるだろう。
 顔を上げて隣を見ると、レルヒはおれ以上に大量の涙を流して泣いていた。目が合うと、ラルジュを押しのけ抱きしめられる。
 そういえば、レルヒは幼い頃からアルシャを知っている。もしかしたら、おれ以上にその存在がいなくなることを、大きく感じているかもしれない。

(つらいのは、おれだけじゃない)

 アルシャがいなくなってしまったら、多くの人が悲しむだろう。カイトやオルキデのことを思うと、胸が締めつけられるようだ。
 おいおい泣くレルヒは、おれを抱きしめているというより、おれに抱き着いているようである。レルヒがあまりにも素直に感情を表すので、おれもその肩に額を押し付け、熱い目許や頬を滑り落ちる雫の感触を素直に感じていた。


 午後の講義に出席する頃には、顔面も内心もだいぶ落ち着いていた。おれは目の前の講義に集中し、余計なことを考えないようにする。
 いつも通りを意識して過ごす心は、かすかに波立っていた。それでもおれは、務めて冷静に装う。

「それじゃあ」
「リュエル、また明日!」

 メルの笑顔に癒され、迎えに来たラルジュたちと寮へ戻った。
 カムナギになるために、勉強は欠かせない。いつものようにレルヒのスパルタが顔を覗かせたところで、ラルジュがおもむろに言った。

「今日はこの辺にしておこう」
「ええ、そうですね」

 いつもより早く切り上げるので目を瞬く。向けられた紫色の瞳は、おれの心情を見透かすようだ。

「少しは一人の時間も必要だ」

 ネージュに勧められたこともあり、シャワータイムなど、ちょっとした時間に内側を感じるようにしている。けれども今は、そんな少しの時間では足りないと思った。ちゃんと自分と向き合う時間が必要だ。ちょうどそう思っていたので、ラルジュの申し出はありがたかった。

「リュエル、おやすみなさい」
「おやすみ、リュエル」
「おやすみ」

 親しみの籠ったハグをして帰っていった二人を見送ったおれは、椅子の上で胡坐をかく。
 目を閉じて、深くゆっくりと深呼吸をした。
 静けさが聞こえてくるようなしんとした空間。心がかすかに波立っているのを感じる。悲しみや苦しみがそこにはあった。ちゃんとカムナギになると決意して、そちらに意識を集中するようにしている。そのおかげで、動揺や困惑などの落ち着かない感じはない。自分がどう在りたいか決め、それを実行しているからだ。

(数日後にアルシャとの別れがやってくる)

 様々な感情が湧き上がるのは仕方がないように思う。会うことも触れることも、美しいウタを聞くこともできなくなる。そう思うだけで涙が込み上げる。

(まだ、今日じゃない。今じゃない)

 今はまだ、この世界にアルシャがいる。今もアルシャは、カムナギの役目を果たしている。アルシャがいるこの世界で、悲しみを感じるなんておかしい。アルシャがこの世界にいるという、これまで当たり前に思っていたことが、とても温かで嬉しいことに感じられる。

(おれも、自分のことに集中しよう)

 息を吐いて涙を拭い、机に向かった。
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