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たとえわたしはつよくなくても
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バケツいっぱいの水を、おもいっきり頭にぶっかけられた。
「――…………っ! ぷあっ!!!」
その衝撃で世良は意識をとりもどす。
「ここは……? なんで、おれ地面に……」視界はにじんでいる。ちょうど正面に、サビで赤く染まった古い非常階段があった。「ああ、旧校舎じゃねぇか。あの階段でよく、おれは懸垂を……たしか最近も……そうだ、ナンさん! いや南雲っ!!」
がばっ、と起き上がりたかった。
しかし、無理だった。
体が、鉄や鉛のように重い。痛みもある。それでも気合で上半身を起こしたら、咳がでた。
「がっ! ごほっ!」
「……」
「ちっ……アバラぁやられてやがるな。口ん中も、しこたまキレてら……。くそが……ぜったいにゆるさねぇぞ……」
「……」
そこで世良は、やっと彼の存在に気づいた。
地面に正座して座る、赤い髪の男子がいることに。
「マキちゃんか。恩にきるぜ……はは……ちーっとばかし冷たかったがな……できれば人肌にあたた―――」
「…… ……」
「マキ」彼を下からのぞきこむ。「おまえ、泣いてんのか?」
「……!」
どん、と無言で世良の肩にゲンコツがはいる。どん、どん、と何回も何回も。
「……」
「わるかったよ。おまえに心配、かけちまったな」
真木の言葉はなかったが世良はそれを察した。きっと、かなりあわててバケツをさがしにいったのだろう。
「おれだって、こんなことになるとは思わなかったんだ」
「……」
「南雲さ、おれをやったのは」
「……?」
「わからねぇ」世良は真木から目をそらした。「武器つかわれたり、卑怯なふいうちとかじゃなかった。なのに、なんで、このおれがあんな野郎に――」
時間をかけてどうにか立ち上がれたものの、まだ足元がふらつく。
「マキ、肩をかしてくれ。とりあえず、ションベンにいきてぇんだ」
こくっ、とうなずき彼のわきの間に体をいれて支える真木。
校舎に入って、一番ちかいトイレを目指す。
「このへんで大丈夫だ。だいぶ足もなれてきたぜ」
サポートしてくれた真木から体をはなし、一人でたって、一歩二歩とすすむ。
三歩目で、ぐい、と世良の制服のそでがひっぱられた。
「あ?」
ぶんぶん、と無言で首をふる。
その理由は、
(あー、そういうことか)
世良が無意識に、女子のほうに入ろうとしたからだった。
(おれはもう、美玖じゃないんだったな……)
用をすませて、手を洗って、ハンカチ――前日の世良が用意していたハンカチ――で手をふいて、トイレから出る。ふだんは手を洗う習慣などなかった世良だが、美玖と体が入れかわっていた間にまわりから冷たい目で見られている気配を感じて、彼女に変な評判がたつのを避けるために、このように手を洗うようになったのだ。
ちらっと鏡もみた。
ひどい顔だった。
いかにも〈ケンカに負けたヤツ〉という雰囲気で、みじめだった。
だが、それよりも……
(くそっ!)
南雲のことを思い出すだけで、心拍数があがって冷や汗がでてくる。
(なんで……おれは……こんなに弱くなったんだ!)
世良の心のダメージは深刻だった。
ケンカに負けたことで、敗北感と恐怖心がたたきこまれてしまったのだ。
立ち止まって、深呼吸する。
この足のふるえはあいつにビビってるわけじゃないと自分に言い聞かせる。
「よっ。またせたな、マキちゃん」
「……」
「おい……そんな目でみるなって。わかってるさ。南雲だけはゆるさねぇ。この体がなおりしだい……」
そこでチャイムが鳴った。いま何時間目ぐらいだ、と世良は窓の外に目をやる。
「うそだろ」
雲のスキマからのぞく空は、すでに赤くなっていた。
スマホを確認する。時刻は午後五時前。完全に放課後の時間帯だ。
「しまった!」
「……」
「マキっ! いそいで校門の前までバイクを回せ!」
数秒まよったが、世良はにぎりしめたスマホで電話をかけた。
とりこし苦労で終わればいい、そんな希望を抱きながら。
ワンコール、ツーコール、スリー……呼び出し音だけがむなしく鳴る。
「たのむ、でてくれ美玖。――でてくれーっ!」
校門のところまできた。
電話は、つながらない。
世良は苦い顔でスマホをポケットにしまう。
(ちっ。ん? あいつは……)
学校の外で、腕を組んで仁王立ちしている大男。
近づくと、いきなり罵声を浴びせられた。
「世良ぁ! こぉんの超絶バカタレがぁぁぁ!」
なんだと、と、ふだんの自分ならノータイムで言い返している。
できない。なさけない。
今のおれじゃあ、こいつにすら勝てる気がしないんだ。
世良はくちびるを噛み締めた。
「美玖さんがな……ああ、説明してるヒマはねー。おまえもこい!」
「あ?」世良は目を細めた。「こいって、どこにだよ」
「決まってるだろーが! 我が女神、美玖さんを追うんだよ!」かるく世良の胸をおす。「あれ? え? どうした、そんなに力は……。っていうか世良、なんだそのツラ」
地面にひざをついた世良は、倉敷から顔をそむける。
なんでもねー、とだした声もか細い。
そこにバイクの爆音。
「…………クラシキ、てめー場所はわかってんだろうな」
「当ったり前だ。おれの顔の広さをナメんなよ。〈リンクズ〉のヤツから直接ききだしたぞ、郊外の廃墟ホテルだってな。美玖さんはそこにいる」
近くで、べつのバイクのエンジン音もしている。
世良がそっちに顔を向けると、倉敷が説明した。
「おれの仲間だ。ほれ、おまえはその真木のスカしたバイクにニケツして、おれらのあとをついてこい! いいな!」
わっしゃわっしゃと特大のアフロヘアーをゆらして、倉敷が走っていく。
「……」
「マキ」
「……」
「おれ、おれは」
こわい。
ケンカがおそろしい。
真木がさしだしたヘルメットに、どうしても手をのばせない。
(認めたくはねぇが、クラシキはこのあたりじゃ名の知れたヤンキーだ。それにマキだってつよい。この面子なら、おれがいなくても――)
数メートル先で、ぶぉんぶぉん、と催促するようにふかされているエンジン。
やがて、二台のバイクの音が、ゆっくりとフェードアウトして消えた。
◆
夕やけをみていた。
一級河川にかかる橋の手すりに両手をついて、ただぼんやりと。
「バカやろうだ」
彼の背後では片側二車線の車道に、車が絶え間なく走っている。
ときどき、くさいガソリンのにおいが鼻をつく。
「世良永次は、大バカやろうだ」
誰よりも新名美玖の身を案じながら、肝心なところで怖じ気づいた自分。
ケンカの強さがなくなったら、なにも残っていなかった自分。
行き場もなく、うじうじしているだけの自分。
「……」
橋の下をのぞいた。
海が近いせいもあって、川の水はすこし黒みを帯びている。
「………………」
「たそがれちゃって」
横から声がかけられた。
「おヒナ、か……」
「何よ。私じゃ不満なの?」
そこにいたのは宮入雛子。
世良にケンカをやめさせたい、彼のハトコ。メガネが良く似合う優等生。
以前、彼女が【誓約書】まで用意して世良に退学をちらつかせたのは、けっして退学させたいからではなかった。むしろ逆だった。強い条件をだしてでも、かりに自分が嫌われることになっても、世良には暴力沙汰を起こしてほしくなかったのだ。
いっしょに高校を、卒業したかったから。
「ひどいケガね。どこで転んだのよ、ドジなんだから」くすっと宮入は微笑む。が、一瞬で真顔にもどった。「もしかしてケンカ……した?」
「なあ、おヒナ」
「うん?」
「おまえ、いい体してるな」彼女の細い腕をつかむ。「一回やらせろよ」
「えっ!?」
「ほら」と、つかんだ腕を自分の股間にもっていく。「おれは昨日までのおれじゃない。ちゃんとここだって勃つんだ」
「ちょっと。やめて」
「勃たねーから安全なヤローだと思ってタカをくくってたんだろ? もうちがうんだぜ。二人きりになったらおまえを襲うこともできるし――――」
ぱん
それは、クラッカーのようないい音だった。
「最低!」
「……」
「こんなの、私が知ってる永次くんじゃない!」
メガネの奥の目には涙が浮かんでいた。
そのまま背中を向けて、走って去っていく。
「おヒナ……」世良は彼女を追いもせず、その場に立ちつくしていた。「たしかにおれは最低だよ」
落ちるとこまで落ちた。
そんな気がした。
落ちてたまるか。
そんな気がしている。
「この女め……」
「どうした?」
「あっ、南雲さん!」
ガレキが散らばるうす暗い部屋に、ぬっと長身の男があらわれた。
「まさかと思うが、てめえら美玖に手はだしてないだろうな」
「は、はい! それはもう。なんたって、〈ボス〉の指示ですから……」
「さがってろ」
三人の男が部屋から出ていった。
奥の暗がりには、
「やはりただの女じゃなかったな」
きっ、と鋭いまざなしの美玖がそこにいた。
ソフトリーゼントを手櫛でととのえて、不敵な笑みを浮かべる南雲。
息がかかる距離まで、美玖に接近する。
「ヤツらに手を出されようとして、逆にやり返したってところか? 勇ましいもんだ」
「ねぇ! おウチにかえしてよ! さもないと……」
「なんだ?」
しゅっ、と右のストレート。
ノーモーションにして電光石火。
世良はだいたい、ほとんどのケンカをこの一撃で決めてきた。
「とんでもねーな」
「……!」
南雲の大きな手のひらに、美玖の小さな手はすっぽりと収まっていた。
グッとにぎる。
「あっ! いた……い……」
「今の先制攻撃は、まるで世良のそれだったぞ。あいつからケンカのやりかたを教えてもらったか?」
「はなして!」
「電話しろ」
「えっ」
「まず親にかけて『今夜は帰らない、心配しないで』といえ」
くくっ、と部屋の外にいる男たちから笑いが起こった。
〈今夜〉という言葉から、これから彼女がどうなるのかを想像したのだろう。あるいは自分たちが、楽しめることも。
(永次)
自然と美玖は彼の名前をさがし、彼に連絡した。
(永次! 助けて! 私のことを、守ってくれるって言ったじゃない!)
0.5秒ほどの呼び出し音。
「美玖っ!」
その声をきいて、美玖は泣き出しそうになった。
「どこにいる! 無事か!」
「おまえ」南雲がスマホを美玖からとりあげる。「世良にかけやがったな。まあいい」
「おい!」
「こいつはおまえの女なんだろ? くやしいか? ん?」
「……南雲っ! こ、このクソ外道が――!」
「声がふるえてるぜ。世良、おれのことがそんなにこわいのか?」
「かえして!」スマホを取り返す。「永次! すぐにきて! はやく!」
「美玖……でもおれは……その、な、おれ……」
「うっさい!!!!!」
キーンと美玖の高音が世良の右耳から左耳へと、まっすぐつき抜けた。
その声で、すべてのモヤモヤが吹き飛んだような気がした。
「いいからアンタは、死んでも私を助けにくるのよっ! じゃないと私……永次を一生うらむんだから‼」
〈なにか〉が美玖の体から世良の体へと流れこんでくる、ふしぎな感覚がある。
ふつふつと力がわいてきた。
そうだ。
おれにはケンカしかねぇ。取り柄はバカつよいことしかねぇし、なにより、好きな女を守りたい。
大好きなあいつを。
「美玖。わかった。まってろ」
「…………うん」
世良はあたりを見わたした。
タイミングよく、同じ学校の生徒が自転車でこっちに向かってくる。乗っているのは、小柄な丸メガネの男子。
「おい!」
「うわっ!」
急ブレーキ。
「な、なんだ……世良君か?」
「ナイスだぜウエ!」
強引にハンドルをもぎとって、愛され生徒会長の上野の肩をおす。
「かしてくれ!」
「かす? お、おい、まちたまえ」
ロケットスタートで、橋の歩行者と自転車用の道を爆走する。
廃墟ホテルの場所は一応、さきほど倉敷からきいておいた。
もっと、もっとはやくだ、と世良は立ちこぎにシフトする。
(美玖ーーーーーーっっっ!)
太陽が西の彼方に沈もうとしている。
肉体的にも精神的にも立ち上がれた世良は、一心不乱に乙女のもとへ向かう。
・・・
山沿いの道。一車線だけのせまい道路。
「……」
横転して白い煙をあげるバイク。ぐにゃりとゆがんだガードレール。地面に倒れた制服姿の男子。
彼の赤い髪にまとわりつく、赤い血。
「……」
真木はうつぶせのまま、顔を上げた。
「……」
意識が途切れる最後の瞬間、バイクのうしろに乗っているアフロの男が、こっちを肩ごしにふりかえって口を斜めに曲げたのをみた。
「――…………っ! ぷあっ!!!」
その衝撃で世良は意識をとりもどす。
「ここは……? なんで、おれ地面に……」視界はにじんでいる。ちょうど正面に、サビで赤く染まった古い非常階段があった。「ああ、旧校舎じゃねぇか。あの階段でよく、おれは懸垂を……たしか最近も……そうだ、ナンさん! いや南雲っ!!」
がばっ、と起き上がりたかった。
しかし、無理だった。
体が、鉄や鉛のように重い。痛みもある。それでも気合で上半身を起こしたら、咳がでた。
「がっ! ごほっ!」
「……」
「ちっ……アバラぁやられてやがるな。口ん中も、しこたまキレてら……。くそが……ぜったいにゆるさねぇぞ……」
「……」
そこで世良は、やっと彼の存在に気づいた。
地面に正座して座る、赤い髪の男子がいることに。
「マキちゃんか。恩にきるぜ……はは……ちーっとばかし冷たかったがな……できれば人肌にあたた―――」
「…… ……」
「マキ」彼を下からのぞきこむ。「おまえ、泣いてんのか?」
「……!」
どん、と無言で世良の肩にゲンコツがはいる。どん、どん、と何回も何回も。
「……」
「わるかったよ。おまえに心配、かけちまったな」
真木の言葉はなかったが世良はそれを察した。きっと、かなりあわててバケツをさがしにいったのだろう。
「おれだって、こんなことになるとは思わなかったんだ」
「……」
「南雲さ、おれをやったのは」
「……?」
「わからねぇ」世良は真木から目をそらした。「武器つかわれたり、卑怯なふいうちとかじゃなかった。なのに、なんで、このおれがあんな野郎に――」
時間をかけてどうにか立ち上がれたものの、まだ足元がふらつく。
「マキ、肩をかしてくれ。とりあえず、ションベンにいきてぇんだ」
こくっ、とうなずき彼のわきの間に体をいれて支える真木。
校舎に入って、一番ちかいトイレを目指す。
「このへんで大丈夫だ。だいぶ足もなれてきたぜ」
サポートしてくれた真木から体をはなし、一人でたって、一歩二歩とすすむ。
三歩目で、ぐい、と世良の制服のそでがひっぱられた。
「あ?」
ぶんぶん、と無言で首をふる。
その理由は、
(あー、そういうことか)
世良が無意識に、女子のほうに入ろうとしたからだった。
(おれはもう、美玖じゃないんだったな……)
用をすませて、手を洗って、ハンカチ――前日の世良が用意していたハンカチ――で手をふいて、トイレから出る。ふだんは手を洗う習慣などなかった世良だが、美玖と体が入れかわっていた間にまわりから冷たい目で見られている気配を感じて、彼女に変な評判がたつのを避けるために、このように手を洗うようになったのだ。
ちらっと鏡もみた。
ひどい顔だった。
いかにも〈ケンカに負けたヤツ〉という雰囲気で、みじめだった。
だが、それよりも……
(くそっ!)
南雲のことを思い出すだけで、心拍数があがって冷や汗がでてくる。
(なんで……おれは……こんなに弱くなったんだ!)
世良の心のダメージは深刻だった。
ケンカに負けたことで、敗北感と恐怖心がたたきこまれてしまったのだ。
立ち止まって、深呼吸する。
この足のふるえはあいつにビビってるわけじゃないと自分に言い聞かせる。
「よっ。またせたな、マキちゃん」
「……」
「おい……そんな目でみるなって。わかってるさ。南雲だけはゆるさねぇ。この体がなおりしだい……」
そこでチャイムが鳴った。いま何時間目ぐらいだ、と世良は窓の外に目をやる。
「うそだろ」
雲のスキマからのぞく空は、すでに赤くなっていた。
スマホを確認する。時刻は午後五時前。完全に放課後の時間帯だ。
「しまった!」
「……」
「マキっ! いそいで校門の前までバイクを回せ!」
数秒まよったが、世良はにぎりしめたスマホで電話をかけた。
とりこし苦労で終わればいい、そんな希望を抱きながら。
ワンコール、ツーコール、スリー……呼び出し音だけがむなしく鳴る。
「たのむ、でてくれ美玖。――でてくれーっ!」
校門のところまできた。
電話は、つながらない。
世良は苦い顔でスマホをポケットにしまう。
(ちっ。ん? あいつは……)
学校の外で、腕を組んで仁王立ちしている大男。
近づくと、いきなり罵声を浴びせられた。
「世良ぁ! こぉんの超絶バカタレがぁぁぁ!」
なんだと、と、ふだんの自分ならノータイムで言い返している。
できない。なさけない。
今のおれじゃあ、こいつにすら勝てる気がしないんだ。
世良はくちびるを噛み締めた。
「美玖さんがな……ああ、説明してるヒマはねー。おまえもこい!」
「あ?」世良は目を細めた。「こいって、どこにだよ」
「決まってるだろーが! 我が女神、美玖さんを追うんだよ!」かるく世良の胸をおす。「あれ? え? どうした、そんなに力は……。っていうか世良、なんだそのツラ」
地面にひざをついた世良は、倉敷から顔をそむける。
なんでもねー、とだした声もか細い。
そこにバイクの爆音。
「…………クラシキ、てめー場所はわかってんだろうな」
「当ったり前だ。おれの顔の広さをナメんなよ。〈リンクズ〉のヤツから直接ききだしたぞ、郊外の廃墟ホテルだってな。美玖さんはそこにいる」
近くで、べつのバイクのエンジン音もしている。
世良がそっちに顔を向けると、倉敷が説明した。
「おれの仲間だ。ほれ、おまえはその真木のスカしたバイクにニケツして、おれらのあとをついてこい! いいな!」
わっしゃわっしゃと特大のアフロヘアーをゆらして、倉敷が走っていく。
「……」
「マキ」
「……」
「おれ、おれは」
こわい。
ケンカがおそろしい。
真木がさしだしたヘルメットに、どうしても手をのばせない。
(認めたくはねぇが、クラシキはこのあたりじゃ名の知れたヤンキーだ。それにマキだってつよい。この面子なら、おれがいなくても――)
数メートル先で、ぶぉんぶぉん、と催促するようにふかされているエンジン。
やがて、二台のバイクの音が、ゆっくりとフェードアウトして消えた。
◆
夕やけをみていた。
一級河川にかかる橋の手すりに両手をついて、ただぼんやりと。
「バカやろうだ」
彼の背後では片側二車線の車道に、車が絶え間なく走っている。
ときどき、くさいガソリンのにおいが鼻をつく。
「世良永次は、大バカやろうだ」
誰よりも新名美玖の身を案じながら、肝心なところで怖じ気づいた自分。
ケンカの強さがなくなったら、なにも残っていなかった自分。
行き場もなく、うじうじしているだけの自分。
「……」
橋の下をのぞいた。
海が近いせいもあって、川の水はすこし黒みを帯びている。
「………………」
「たそがれちゃって」
横から声がかけられた。
「おヒナ、か……」
「何よ。私じゃ不満なの?」
そこにいたのは宮入雛子。
世良にケンカをやめさせたい、彼のハトコ。メガネが良く似合う優等生。
以前、彼女が【誓約書】まで用意して世良に退学をちらつかせたのは、けっして退学させたいからではなかった。むしろ逆だった。強い条件をだしてでも、かりに自分が嫌われることになっても、世良には暴力沙汰を起こしてほしくなかったのだ。
いっしょに高校を、卒業したかったから。
「ひどいケガね。どこで転んだのよ、ドジなんだから」くすっと宮入は微笑む。が、一瞬で真顔にもどった。「もしかしてケンカ……した?」
「なあ、おヒナ」
「うん?」
「おまえ、いい体してるな」彼女の細い腕をつかむ。「一回やらせろよ」
「えっ!?」
「ほら」と、つかんだ腕を自分の股間にもっていく。「おれは昨日までのおれじゃない。ちゃんとここだって勃つんだ」
「ちょっと。やめて」
「勃たねーから安全なヤローだと思ってタカをくくってたんだろ? もうちがうんだぜ。二人きりになったらおまえを襲うこともできるし――――」
ぱん
それは、クラッカーのようないい音だった。
「最低!」
「……」
「こんなの、私が知ってる永次くんじゃない!」
メガネの奥の目には涙が浮かんでいた。
そのまま背中を向けて、走って去っていく。
「おヒナ……」世良は彼女を追いもせず、その場に立ちつくしていた。「たしかにおれは最低だよ」
落ちるとこまで落ちた。
そんな気がした。
落ちてたまるか。
そんな気がしている。
「この女め……」
「どうした?」
「あっ、南雲さん!」
ガレキが散らばるうす暗い部屋に、ぬっと長身の男があらわれた。
「まさかと思うが、てめえら美玖に手はだしてないだろうな」
「は、はい! それはもう。なんたって、〈ボス〉の指示ですから……」
「さがってろ」
三人の男が部屋から出ていった。
奥の暗がりには、
「やはりただの女じゃなかったな」
きっ、と鋭いまざなしの美玖がそこにいた。
ソフトリーゼントを手櫛でととのえて、不敵な笑みを浮かべる南雲。
息がかかる距離まで、美玖に接近する。
「ヤツらに手を出されようとして、逆にやり返したってところか? 勇ましいもんだ」
「ねぇ! おウチにかえしてよ! さもないと……」
「なんだ?」
しゅっ、と右のストレート。
ノーモーションにして電光石火。
世良はだいたい、ほとんどのケンカをこの一撃で決めてきた。
「とんでもねーな」
「……!」
南雲の大きな手のひらに、美玖の小さな手はすっぽりと収まっていた。
グッとにぎる。
「あっ! いた……い……」
「今の先制攻撃は、まるで世良のそれだったぞ。あいつからケンカのやりかたを教えてもらったか?」
「はなして!」
「電話しろ」
「えっ」
「まず親にかけて『今夜は帰らない、心配しないで』といえ」
くくっ、と部屋の外にいる男たちから笑いが起こった。
〈今夜〉という言葉から、これから彼女がどうなるのかを想像したのだろう。あるいは自分たちが、楽しめることも。
(永次)
自然と美玖は彼の名前をさがし、彼に連絡した。
(永次! 助けて! 私のことを、守ってくれるって言ったじゃない!)
0.5秒ほどの呼び出し音。
「美玖っ!」
その声をきいて、美玖は泣き出しそうになった。
「どこにいる! 無事か!」
「おまえ」南雲がスマホを美玖からとりあげる。「世良にかけやがったな。まあいい」
「おい!」
「こいつはおまえの女なんだろ? くやしいか? ん?」
「……南雲っ! こ、このクソ外道が――!」
「声がふるえてるぜ。世良、おれのことがそんなにこわいのか?」
「かえして!」スマホを取り返す。「永次! すぐにきて! はやく!」
「美玖……でもおれは……その、な、おれ……」
「うっさい!!!!!」
キーンと美玖の高音が世良の右耳から左耳へと、まっすぐつき抜けた。
その声で、すべてのモヤモヤが吹き飛んだような気がした。
「いいからアンタは、死んでも私を助けにくるのよっ! じゃないと私……永次を一生うらむんだから‼」
〈なにか〉が美玖の体から世良の体へと流れこんでくる、ふしぎな感覚がある。
ふつふつと力がわいてきた。
そうだ。
おれにはケンカしかねぇ。取り柄はバカつよいことしかねぇし、なにより、好きな女を守りたい。
大好きなあいつを。
「美玖。わかった。まってろ」
「…………うん」
世良はあたりを見わたした。
タイミングよく、同じ学校の生徒が自転車でこっちに向かってくる。乗っているのは、小柄な丸メガネの男子。
「おい!」
「うわっ!」
急ブレーキ。
「な、なんだ……世良君か?」
「ナイスだぜウエ!」
強引にハンドルをもぎとって、愛され生徒会長の上野の肩をおす。
「かしてくれ!」
「かす? お、おい、まちたまえ」
ロケットスタートで、橋の歩行者と自転車用の道を爆走する。
廃墟ホテルの場所は一応、さきほど倉敷からきいておいた。
もっと、もっとはやくだ、と世良は立ちこぎにシフトする。
(美玖ーーーーーーっっっ!)
太陽が西の彼方に沈もうとしている。
肉体的にも精神的にも立ち上がれた世良は、一心不乱に乙女のもとへ向かう。
・・・
山沿いの道。一車線だけのせまい道路。
「……」
横転して白い煙をあげるバイク。ぐにゃりとゆがんだガードレール。地面に倒れた制服姿の男子。
彼の赤い髪にまとわりつく、赤い血。
「……」
真木はうつぶせのまま、顔を上げた。
「……」
意識が途切れる最後の瞬間、バイクのうしろに乗っているアフロの男が、こっちを肩ごしにふりかえって口を斜めに曲げたのをみた。
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