終わらない日常のノイズが、僕らを腐らせる前に

月下花音

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第6話

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 リビングのローテーブルに、二つの弁当が並べられる。
 唐揚げ弁当と、ハンバーグ弁当。
 コンビニの袋から取り出される時、プラスチック容器同士が擦れ合ってカサカサと乾いた音を立てた。
 その音は、部屋の湿った空気に馴染まず、異物のように浮いている。

「どっちにする?」
 恒一が訊いた。
 紗季はテレビから視線を移し、二つの弁当を見下ろした。
 どちらもカロリーは高く、野菜は少なく、そして完全に冷えている。
 選択肢は二つあるように見えて、実質的には一つしかない。「妥協」という名の選択肢だ。
「……ハンバーグでいい」
 紗季が選んだ。
 投げやりな選択。でも、もし恒一が唐揚げを先に選んでいたら、彼女は「じゃあ唐揚げがいい」と言ったかもしれない。
 自分の意思ではなく、残された余白を埋めること。それが彼女の今の生き方だったから。

 ビニールを剥がす。
 蓋を開ける。
 割り箸を割る。パキッ。
 乾いた音が二回、部屋に響く。
 いただきます、とは誰も言わなかった。
 誰に感謝すればいいのかわからなかったからだ。
 もそもそと、冷えた白米を口に運ぶ。
 硬くなった油脂が舌にまとわりつく。
 味は濃い。塩分と化学調味料の味が、舌の感覚を麻痺させていく。
 咀嚼音だけが、BGMのように流れる。
 クチャ、クチャ。
 以前なら「音を立てないで」と言い合えたかもしれない。
 でも今は、その不快な音さえも、沈黙よりはマシなものとして許容されている。

「プリンも、買ってきた」
 恒一が唐揚げを噛み砕きながら言った。
「ありがとう」
 紗季はハンバーグの角を箸で突きながら応えた。
 視線は合わない。
 恒一は弁当の隅にある桜大根を見つめ、紗季はハンバーグのソースの照りを見つめている。
 視線を合わせれば、そこにある空虚さに気づいてしまう。
 だから二人は、目の前のプラスチック容器の中だけに世界を限定する。

 ふと、テレビの画面がCMに切り替わった。
 幸せそうな家族が、湯気の立つ鍋を囲んでいる映像。
 嘘くさい笑顔。過剰な湯気。
 紗季の手が止まった。
「……ねえ」
「ん?」
「私たち、いつまでこうしてるのかな」
 恒一の箸が、唐揚げの衣を掴んだまま止まる。
 核心に近い問いかけ。
 でも、それは「いつ結婚するの?」という意味でも、「いつ別れるの?」という意味でもない。
 ただ、「いつまで腐りかけのままでいるのか」という、状態への問いだ。
 恒一は数秒間考え、それから唐揚げを口に放り込んだ。
 咀嚼する。飲み込む。
「……食ったら、考えよう」
 先送り。
 一番簡単な解決策。
 紗季は短く息を吐き、またハンバーグを突き始めた。
「そうだね」
 同意の言葉。
 でもその響きは、「諦め」と全く同じ周波数を持っていた。

 部屋の隅で、冷蔵庫がブーンと唸った。
 その音は、まるで二人の会話の終わりの合図のように聞こえた。
 食事は続く。
 冷たいカロリーが、二人の胃袋に重く溜まっていく。

∞ ――――――――― ∞

 次回予告:
 食後のプリン。
 プラスチックのスプーンが底を打つ音。
 甘さが喉に残る。
 「甘いね」という言葉が、苦味を持って響く。
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