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私は今日、6歳の少女に誘拐される……
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1章 小さな誘拐犯
「今からお姉ちゃんを誘拐します。無駄な抵抗はやめて大人しくついて来て下さい!」
宮崎志穂、中学3年生。今日私は下校中に小さな女の子に誘拐された。
まだ小学1年生くらいかな? ピンク色のワンピースを着た女の子が私の右手をギュッと握りしめる。
(えっ、何これ? 可愛い‼︎)
誘拐すると言われたが、むしろ私がこの子を誘拐したい! つぶらな瞳で私を見上げる姿は、抱きしめたいくらい可愛かった。
あれかな? 最近こういう遊びが流行っているのかな? だったら少しだけ遊んであげよ♪
「分かったわ。大人しくついて行くね」
女の子は私の返事に満足そうに頷くと、家に案内してくれた。すれ違う人たちは皆んな優しく微笑んでいく。
きっと年の離れた姉妹が仲良く下校をしている。っと思ったに違いない。まさか私がこの子に誘拐されているなんて、夢にも思わないだろうな~
宮崎志穂は何処にでもある普通の家庭で育った。幼少期は男の子たちと走り回ったり、泥団子を作ったりして遊ぶ活発な女の子だった。
そのため中学に上がると陸上部に入部して、毎日休む事なく部活動に励んでいる。
元から面倒見のいい性格のおかげか、後輩にもよく慕われており、中3の時に部長を頼まれた。
「ねぇ、お姉ちゃんって学校でモテるでしょ?」
前を歩く女の子はクルリと振り返ってそう聞いてきた。
「えっ、どうして?」
「う~ん、だってお姉ちゃん可愛いもん!」
「そっそう? ありがとう」
あまり意識した事はなかったけど、鏡の前に映る自分は、まぁ確かに悪くないかな? 程度には評価していた。
清潔感のある爽やかショートボブに整った顔立ち。10代特有のあどけなさがあるが、内に秘めた魅力が瞳に宿っていた。
「さぁ、入って、ここが今日からお姉ちゃんが住むお家です! 逃げようとしても無駄ですからね」
女の子が足を止めた先には、2階建ての綺麗な一軒家が建っていた。白を基調としたオシャレな造りで、庭の手入れもよくされている。
「これがお姉ちゃんが最後に見るお外です。よーく目に焼き付けて下さいね!」
女の子が悪戯っぽい笑みを浮かべる。それにしても何処でそんな言葉を覚えたのだろう?
「うん、分かった。綺麗なお庭だね。お邪魔しま~す」
私は言われた通り外を見渡すと、女の子の後ろをついて部屋に上がった。どうやら親はまだ帰って来ていないみたい……
「わたしのお部屋は2階なの。ついて来て!」
階段を上がり廊下を進み、1番奥の部屋に案内された。一体どんな部屋なんだろ?
「さぁ、ここがわたしのお部屋です。トイレやお風呂に行く時以外はここで過ごしてもらいます!」
女の子の部屋は想像通り可愛かった。ベットの上には大量の人形が置いてあるし、本棚には絵本が収納されている。カーテンはピンク色で、ハート柄のラグマットが敷いてあった。
「ここで大人しく待っていて下さい! 逃げ出したらダメですからね!」
「大丈夫。逃げないよ~」
「じゃあ手を貸して下さい!」
女の子は白いハンカチを取り出すと、私の両手首を優しく結ぶ。これは……手錠のつもりかな?
「これで安心。すぐに戻ってくるからね」
女の子はトットットッと小走りに部屋を飛び出して行く。しばらく待っていると、お盆にオレンジジュースとビスケットを乗せて戻って来た。
「えっ、私にくれるの?」
「うん、今はおやつの時間なの。お姉ちゃんも食べていいよ!」
女の子は私の手錠? を外すと、コップにオレンジジュースを注いでくれた。私もこんな妹が欲しかったなぁ~
「ねぇ、お名前はなんて言うの?」
「えっと……言えない! だってわたしはお姉ちゃんの誘拐犯だよ。犯人は名前を教えちゃダメなの!」
「そっか~ 残念。でもいつか教えてね」
女の子はコックリと頷くと、両手にビスケットを掴んで小さなお口に放り込む。その姿は小動物みたいだった。
「次はトランプをします。わたしね、ババ抜きなら負けたことないの!」
女の子はおやつを片付けると、今度はトランプを取り出した。ババ抜きかぁ~ 子どもの頃によくやったな~
私は配られたカードを確認すると、ペアのカードを捨てていった。今現在ジョーカーはない。つまり女の子が持ってる。さぁ、どれを選ぼうかな?
女の子は口元にギュッと力を入れてトランプを見つめている。でも私が1番右のカードを取ろうとすると、一瞬だけ女の子の表情が緩いだ。多分これね。
「あちゃ~ ジョーカーだったよ~」
私が引いたカードは案の定ジョーカーだった。女の子は嬉しそうに跳ねて喜ぶ。
今度は女の子が選ぶ番だ。そこで私は1枚だけぴょんっとカードを上に出してみた。
「ねぇ~ 何それ? ジョーカーなの?」
「ふふっ さぁ、どうだろうね?」
女の子はう~んっと唸り声を出す。あれこれ考えた結果、女の子はぴょんっと上に飛び出したカードを選んだ。
そしてムッと頬を膨らませて私を見る。ふふっ、それジョーカーなんだよね~
ゲームは終盤戦でお互い後1枚ペアが出来たら勝利になる。激闘の末、勝利したのは女の子だった。正確には勝たせてあげたのだけど、喜んでいる姿が見れたから私としても満足だ。
「ねぇ、お姉ちゃん、今度は一緒にアニメを観よ!」
女の子はテレビのスイッチを付けると、私のお膝の上にちょこんっと座って来た。
「知ってる? ここはね、特等席なんだよ!」
女の子は私にもたれると、今度は小さな両手を広げて抱きついてきた。やばい、もうダメだ、可愛すぎで死んでしまいそうだ……
「お姉ちゃんはわたしが捕まえたの。だからもう離さないからね!」
女の子の手に力が籠る。必死に私にしがみつく姿には愛おしさすら感じる。でも流石にそろそろ帰らないと親に怒られる……
「ねぇ、私そろそろ行かないとダメなの、また今度遊びに来るから今日は帰るね」
「……………」
お別れを言って帰ろうとしたが、女の子の返事が無い。その代わりにスヤスヤと寝息が聞こえて来た。どうやら遊び疲れたみたい。
「おやすみ、また来るからね」
私は女の子の頭を優しく撫でると、メモ用紙を取り出して『今日はもう帰るね』っと置き手紙を残して部屋を出た。
でもそこに広がっていたのは……
「えっ、何これ?」
まず目に入って来たのは大きなベットだった。その上には大量の人形が置いてある。
さらに見覚えがある本棚が置いてあった。そこには絵本が収納されている。カーテンはピンク色で、床に敷いたラグマットはハート柄だ。
そしてテーブルの上には『今日はもう帰るね』っと書かれた置き手紙が乗っていた。
間違いない。ここは私が今までいた女の子の部屋だ。これは一体?
「言ったじゃないですか…… お姉ちゃんはわたしに誘拐されたの。逃げようとしても無駄ですからね」
女の子は目を擦りながら起きると、両手を広げて私に抱きついた。
2章 不思議な扉
「ねぇ、どうして勝手に出て行こうとしたの!」
女の子は顔をプクッと膨らませると、大声で泣き出してしまった。
「お姉ちゃんの嘘つき! 逃げないって言ったのに‼︎」
大粒の涙がポタポタと女の子の着ているワンピースに落ちていく。
「どうして皆んなわたしを置いていくの! わたしも連れて行ってよ!」
女の子の悲痛な叫びが鋭い矢となって胸に刺さる。私はとにかく女の子が落ち着くまで謝り続けた。
「ごめんね、勝手に行こうとして。もう行かないから許してくれるかな?」
「本当に? 本当にもう勝手に行かない?」
「うん、行かないよ」
どうやら少し落ち着いてくれたみたい。でも……これからどうしよう?
「あのさ……この部屋ってどうなっているの? 扉を開けた先も同じ部屋に繋がっていたんだけど……」
女の子は涙を拭くと、自慢げな様子で説明を始めた。
「ふふっ、不思議でしょ? この扉はね……ど◯でもドアなの! 行きたい場所に連れて行ってくれるんだよ!」
「えっ、ど◯でもドア⁉︎」
それって青いたぬきが持ってるあれだよね? まさかまさか……
「ねぇ、お姉ちゃん、これ持って!」
女の子は私にコップを持たせると、オレンジジュースを注いだ。
「さぁ、一気に飲み干して!」
「えっ、飲めばいいの?」
言われた通りに飲み干すと、またコップにギリギリまで注がれた。
「もっと飲んで!」
「うっ、うん」
結局3杯くらい飲まされた。流石にお腹がチャポチャポする。それに猛烈にトイレに行きたくなって来た。
「ねぇ、お手洗いを借りてもいいかな?」
「うん、いいよ。じゃあ、トイレに行きたいって! って念じて扉を開けてみて」
「念じる?」
それで本当に行けるのか不安だけどもう限界が近い。迷っている暇はない! 私はトイレに行きたいと心の底から念じて扉を開けてみた。そこに現れたのは……
「凄い! 本当にトイレだ!」
扉の先は廊下……ではなくて、トイレになっていた。
「ふぅ~ 危なかった~」
とりあえず用を済まして扉を開けると、やっぱりそこは女の子の部屋だった。試しに自宅と念じたらどうなるのかな? よし、やってみよう!
「ねっ、この扉不思議だね! 色々試してみてもいいかな?」
「いいけど……ちゃんと帰ってきてね!」
「うん。約束する」
私は自宅に帰りたい! っと念じて扉を開けてみた。でもその先は女の子の部屋に繋がっていた。そう簡単にはいかないか……
「ねぇ、お姉ちゃん、今、家に帰りたいって思って扉を開けたでしょ?」
「えっ、まぁ~うん、よく分かったね」
女の子はまるで心の中を見透かすように私の気持ちを言い当てる。
「でも、ここに繋がっていたでしょ? どうしてか知ってる?」
「分からない。教えて」
私が顔の前で両手を合わせてお願いすると、女の子は得意げな様子で教えてくれた。
「簡単な事だよ。この扉は本人の行きたい場所に繋がってるの。つまり、お姉ちゃんが本当に行きたい場所は自宅じゃなくてわたしの部屋って事だよ。ねぇ、今日はもう遅いから家に泊まっていってよ!」
女の子は引き出しから私にピッタリサイズのパジャマと下着を取り出す。なぜそんな物が小さな女の子の部屋にあるのかは分からないけど、不思議なドアに比べたら大した事ないかな?
「あのさ……流石に家に連絡を入れないとお婆ちゃんが心配するの。だから少しだけ待っていてくれるかな?」
女の子がコックリと頷くのを確認すると、私はスマホを取り出して家に電話をかけてみた。
とりあえず今日は帰れない事と心配しなくていい事を伝えよう。
電話に出るのを待つ間、話す内容を頭の中でまとめていたが、いつまで経っても繋がらない。おかしいな……
もう一度かけ直してみたけど結果は同じで繋がらない。3度目の正直に期待してかけ直してみると、やっと繋がった。でも声の主は……
「現在この電話番号は使われておりません」
心のこもっていない機械の声が電話越しに聞こえてきた。この電話番号は使われていない? どう言う事? じゃあ他の人は?
試しに幼馴染の隼斗にもかけてみたけど、今度は「ただいま電話に出る事が出来ません」っと機械音に言われた。
「ねぇ、お姉ちゃんまだ?」
「うん、ちょっと繋がらなくてね……」
仕方ない。私はメッセージを送っておいた。気づいてくれたらいいけど……
「ねぇ、お姉ちゃん、一緒にお風呂に入ろ!」
「えっ、うん、いいよ」
女の子は着替えとタオルを持つと扉の前に立って「お風呂!」っと言って扉を開けた。予想通りそこは浴室だった。
誰かと一緒にお風呂に入るのなんていつぶりだろう? 小さい頃は幼馴染の隼斗と一緒に入った気がする。今思い返すと少し恥ずかしいなぁ……
「ねぇ、お姉ちゃん、早く来て!」
女の子はワンピースを脱いで脱衣カゴに入れる。私も着ていた服と下着を脱いで浴室に向かった。
「お姉ちゃん、背中洗ってあげるね!」
「えっ、本当? じゃあお願いしようかな?」
女の子はボディタオルを泡立てると、私の背中を一生懸命洗ってくれた。
「お客様、かゆい所はありませんか?」
「お客様? ふふっ、大丈夫だよ」
そういえば昔、隼斗とお風呂に入った時もこんな風に背中を洗ってあげた気がする。
「よし! じゃあ、お姉ちゃん、一緒に入ろ!」
「うん、分かった」
浴槽は広々としていて、女の子と一緒に入っても問題なかった。
「はぁ~ いい湯だね~」
今日は色々あったせいで疲れた。親は心配していないか? メールはちゃんと読んでくれたのか? そしてこの部屋から私は出られるのか?
心配事は次から次へと湧いてくる。でもこの家に誘拐されてから昔の事をよく思い出す。
もうしばらくここに居れば、何か大切な事を思い出せるような……そんな気がする。
「ねぇ、お姉ちゃん聞いてる?」
「えっ、あっ、ごめん聞いてなかった。何だった?」
「お姉ちゃんのお父さんとお母さんはどんな人なの?」
「お父さんとお母さん? う~ん、そうだね……実は幼い時に事故で亡くなっちゃたの。でも凄く優しくていい人だったよ」
いつも優しくて料理が上手なお母さん。そしてお父さんは真面目で働き者。
「そうなんだ……寂しくない?」
「うん、今はもう大丈夫だよ」
「そっか、よかった~ わたしのお父さんとお母さんさんも凄く優しくていい人だよ!」
女の子は無邪気な表情で微笑む。そういえばこの子のご両親はいつ帰って来るのだろう?
「わたし、先に上がって夕飯の準備をしてくるね! お姉ちゃんはゆっくり入っていて」
女の子はバスタオルで体を拭いて先に出て行く。まぁ後で聞けばいいか。
私は体を拭いてパジャマに着替えると、髪を乾かして浴室を出た。
* * *
「「頂きます!」」
今日の夕飯はカレーだった。少し辛くて野菜やお肉がゴロゴロ入っている。カレーは家庭によって味が違うと言われるが、この子の家のカレーは私の家のカレーとよく似ている。
「ふぅ~ ご馳走様。美味しかったよ」
「よかった~ わたしは洗い物をしておくから、お姉ちゃんは先にベットで休んでいて」
「えっ、でもそれは悪い気がするし……」
「気にしないで、お姉ちゃん疲れているでしょ? 洗面所にお姉ちゃんの歯ブラシを準備しておいたからね!」
女の子はお盆に食器を乗せて部屋を出ていく。確かに疲れているのは本当だからお言葉に甘えようかな?
私は『洗面所』と念じて扉を開けてみると案の上扉の先には洗面所が現れた。大きな鏡やドライヤーなどが揃っている。
私は口をゆすいで歯を磨くと、女の子の部屋に向かった。不思議な扉だなぁ……
「お待たせ~」
部屋に戻ると、ベットの上で女の子がちょこんと座って待っていた。
「ねぇ、お姉ちゃん、お願いがあるの。わたし1人で寝れないの。だから一緒に寝て欲しいの」
女の子はまるで小動物の様に小刻みに震えている。そんな風に言われたら断れるはずがない。
「もちろん。じゃあ一緒に寝よっか」
「本当? ありがとう!」
女の子は私の隣に来ると、ギュッとしがみついてきた。やばい、可愛すぎて萌え死にそう。
「ねぇ、お姉ちゃんっていい匂いだね!」
「えっ、そうかな? どんな匂い?」
「う~ん……石鹸の匂いがするの!」
女の子は私の胸に顔を埋めると、満足そうにそう答えた。
「そういえば、ご両親はいつ帰って来るの? 流石に知らない人が居たら驚かないかな?」
「う~ん、大丈夫だよ。お父さんもお母さんもしばらく帰ってこないの。わたしがいい子にしていたら帰ってくるって言ってたよ!」
女の子はニカっと白い歯を見せて笑顔を見せる。だけど目の奥には悲しみが混じっていた。
「ねぇ、わたしって悪い子なのかな? だかから帰ってこないのかな?」
突然、女の子のつぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「えっ、そんな事は……」
「じゃあ、どうしてお父さんとお母さんは帰ってこないの!」
女の子の声が悲痛な叫び声に変わる。その痛々しい姿に気がつくと私は女の子を優しく抱きしめていた。
「大丈夫。悪い子じゃないよ。だから安心して」
「でっでも、わたし、お姉ちゃんを誘拐したんだよ! だからお父さんもお母さんも帰ってこないのかな? わたしはただ寂しくて!」
「うん、大丈夫、分かっているよ。ご両親が戻って来るまで私も一緒に待ってあげる。だから泣かないで」
「えっ、本当? 本当に一緒に待ってくれるの⁉︎」
「うん、約束する」
女の子は涙を拭くと、キラキラした目で私を見つめる。
「ありがとうお姉ちゃん! 大好き‼︎」
女の子は私の唇にキスをすると、少しだけ恥ずかしそうに笑って「おやすみ」っと言った。
もしや今のって……おやすみのキス⁉︎ まさか私の初めてがこんな小さな子に奪われるとは思わなかった……
女の子は安心したのか、スヤスヤと小さな吐息を立てながら眠りにつく。
「おやすみ、また明日」
この子のご両親はいったいどんな人なのか? いつになったら帰って来るのか? 分からない事がまた増えてしまった。でも、1つだけ確かな事がある。
私はこの子を見捨てたくない! 必ずご両親に会わせてあげたい。それまでは側にいてあげよう!
私は女の子の頭を優しく撫でると、耳元で小さく「おやすみ」っと言って眠りについた。
* * *
「ねぇ、お姉ちゃん、起きて!」
誘拐2日目。目を覚ますと昨日と同じように女の子がピンク色のワンピースを着て、朝食の準備をしていた。
「おはよう~ もう起きていたの? 早いね」
「うん、だって朝ごはんの準備をしてたの! 一緒に食べよ」
女の子はパンとサラダ、それからオレンジジュースをコップに注いでいく。小さいのにしっかりしてるなぁ~
「あっ、ちょっと待ってね」
私はポケットからスマホを取り出すと、昨日送ったメールが届いているか確認してみた。
なんとなく予感はしていたけど、未読となっている。やっぱり心配しているよね? 隼斗も大丈夫かな?
「ねぇ、お姉ちゃんって何年生なの?」
「えっ、私? 中学3年生だよ」
「学校は楽しい?」
「うん、楽しいよ」
「そっか……昔と今、どっちが楽しい?」
「う~ん、今かな? 私ね陸上部に入っているの。毎日練習が大変だけど、楽しいよ。それに……どうしても勝たないといけない理由があるの」
そう、私にはどうしても勝たないといけない理由がある。だから何としてでもここから脱出しないと!
でも、その前に女の子をご両親に会わせてあげよう。そうしないと、またこの子が泣き出してしまう。それだけはしたくない。
「そっか……わたしも今が凄く楽しいよ。だから大人になりたくない! ずっと子どものままがいい。お姉ちゃんともずっとずっと一緒がいい!」
女の子は両手を広げて抱きつくと、満面の笑みを見せる。はぁ~ 可愛いな~ この子は天使なのかな?
「ねぇ、お姉ちゃん、今日もいっぱい遊ぼうね!」
女の子は目をキラキラ輝かせてトランプや本を取り出す。結局この日も2人で遊んで1日が過ぎていった。
流石にみんな心配しているよね? 隼斗も大丈夫かな?
女の子と遊ぶのは確かに楽しいけど、その反面、焦りと不安がより強まってきた。
もうすぐ今日が終わる。私はこんな事をしていてもいいのかな?
3章 志穂ちゃんとの思い出
※隼斗視点
9年前
あれはボクがまだ4歳の頃だった。一人っ子のボクにとって2つ年上のしほちゃんはお姉ちゃんみたいな存在だった。
保育園では一緒に泥団子や色水を作ったり、家に遊びに行ったりもした。
「隼斗です。遊びに来ました~」
ボクは背伸びをしてインターホンを押した。今日は待ちに待ったしほちゃん家のお泊まり会。でもこれはただのお泊まりじゃない。なんと翌日は海に行く事になっている。
「いらっしゃい、待っていたわよ。しほ~ 隼斗くんが遊びに来てくれわよ~」
扉が開いてしほちゃんのお母さんがボクの顔を見てにっこりと微笑む。
「分かった~ 今行く~」
2回からドタドタと階段を降りてくる足音が近づいてくる。
「いらっしゃい隼斗、早くおいで!」
しほちゃんはボクの手を繋ぐと自分の部屋に案内してくれた。まだボクには自分の部屋がないから羨ましい。
「さぁ、入って、入って!」
しほちゃんの部屋には大きなベットがあるし人形も沢山ある。それに絵本もある。カーテンはピンク色で、ハート柄のラグマットが可愛かった。
自分の好きなものが詰まった宝箱みたいなお部屋は、ボクにとって憧れの場所だった。
「ねぇ、何して遊びたい?」
「う~ん、じゃあババ抜きがしたい!」
「いいね~ やろやろ!」
しほちゃんは机からトランプを取り出すと器用にシャッフルをして1枚ずつ配っていく。
「隼斗から引いていいよ!」
「分かった」
ボクは1番右のカードを抜こうとした。その瞬間、しほちゃんの表情が少しだけ緩む。多分これがジョーカーだな。
「じゃあ、これにしよ!」
ボクは1番左のカードを抜いた。スペードの1、よし揃った!
「次はわたしの番ね!」
しほちゃんは真ん中のカードを抜くと、ペアのカードを重ねて捨てた。ゲームもいよいよ終盤戦だ。
「さぁ、好きなのを選んでいいよ!」
ボクは1枚だけカードをぴょんっと上に出してみた。
「ねぇ~ 何それ? ジョーカーなの?」
「さぁ、どうだろうね?」
しほちゃんはう~んっと唸り声を出す。あれこれ考えた結果、ぴょんっと上に飛び出したカードを選んだ。
そしてムッと頬を膨らませてボク
を見る。それジョーカーなんだよね~ 最終的にババ抜きはボクの勝利で終わった。
「2人とも、夕飯が出来る前にお風呂に入ってらっしゃい」
1階からしほちゃんのお母さんの声がする。
「隼斗、早く行こ!」
しほちゃんはタンスから着替えを取り出してボクを急かす。
「えっ、まさか一緒に入るの? ボクは男の子だよ?」
「いいじゃん別に、一緒に入ろうよ~」
しほちゃんはボクの手を引っ張って浴室に向かうと、目の前で服を脱いで素っ裸になった。まぁ、気にしていてもしょうがないか……
「ほら、隼斗も!」
しほちゃんに急かされてボクは着ていた服を脱いでカゴの中に詰め込んだ。
「隼斗、背中を洗ってあげるね!」
しほちゃんはフワフワの泡を作るとボクの背中を洗ってくれた。
「かゆい所はありませんか? お客さん?」
「お客さん? うん、大丈夫だよ」
しほちゃんはボクの背中を流すと、今度は頭も洗ってくれた。全身がサッパリして気持ちがいい。
「ありがとう、今度はボクが洗ってあげるね」
「本当? じゃあお願いしようかな?」
ボクは石鹸で綿飴みたいな泡を作ると、しほちゃんの背中を洗ってあげた。
「かゆい所はありませんか? お客さん」
「ふふっ、うん大丈夫だよ」
ボクはしほちゃんの真似をして背中を流すと、髪も洗ってあげた。女の子は髪が長くて大変だなぁ……短くすればいいのに。
「ねぇ、どうしてしほちゃんの髪は長いの?」
「えっ? う~ん、何となくかな? 隼斗は短い髪のわたしの方が好き?」
「う~ん、どっちも好きだよ!」
髪の長さなんて関係ない。優しくて面白くてお姉ちゃんみたいなしほちゃんがボクは大好きだった。
「2人とも~ そろそろ晩御飯が出来るから出てらっしゃーい」
台所からボクたちを呼ぶ声がする。それと一緒にカレーのいい匂いがしてきた。
「隼斗、体拭いてあげるからバンザイして」
「うん」
ボクらは髪を乾かしてパジャマに着替えた。リビングに向かうと、会社から帰って来たしほちゃんのお父さんがいた。
「おや、隼斗くん、いらっしゃい」
「お邪魔しています!」
スーツ姿のしほちゃんのお父さんはボクの頭をワシャワシャと撫でる。しほちゃん家の家族は皆んな優しくて大好きだ。
「さぁ、皆んなで頂きましょう」
この家のカレーはピリ辛で凄く美味しい。野菜やお肉も沢山入っていて豪華だ!
「ふぅ~ ご馳走様! 隼斗は先に部屋に戻っていて」
「えっ、でもしほちゃんは?」
「わたしもすぐ行くから大丈夫だよ」
「うん、分かった」
ボクは食べ終わった食器を片付けると、しほちゃんの部屋に向かった。
翌日
「おはよ~ 隼斗~ 起きて!」
翌朝、カーテンから差し込む光としほちゃんの声に起こされて、ボクは大きく伸びをした。
「おはよ~ って、あれ? しほちゃんだよね⁉︎」
目の前の女の子は、ピンク色のワンピースを着て椅子に座っていた。
「どうかな? せっかくのお出かけだからおしゃれしてみたよ! 似合うかな?」
「うん! 凄く似合ってるよ!」
普段は男の子が着るようなTシャツや短パンを履いているから一瞬誰なのか分からなかった。それにしても昨日と今日でまるで別人みたいだ!
「ほら、早く、隼斗も着替えて行くよ!」
「あっ、うん」
ボクは水着を履いてその上にズボンを履くと、部屋を飛び出した。
それにしても……ワンピース姿のしほちゃんは可愛いなぁ~
* * *
「よし、じゃあ出発しようか!」
しほちゃんのお父さんは車のエンジンをかけると、バックミラー越しにボクらの方を確認した。
「いよいよだね隼斗! 着いたらまず何する?」
「えっと……かき氷が食べたい! 後は砂浜でお城も作りたいし、お魚も見たい!」
「いいね! 面白そう!」
退屈な移動時間もしほちゃんと一緒なら凄く楽しい。もっとお喋りしていたい!
「さぁ、そろそろ着くから準備しておいてくれ」
運転席からしほちゃんのお父さんがボクたちに声をかける。あの急カーブを曲がれば海が広がっている。
絵本で見た空と海は青色だった。でも実際は青じゃなくて白だった。
一瞬目の前が真っ白になって何も見えなくなる。これが海? いや違う、眩しい、朝日だ!
急カーブを曲がった途端、顔を出した太陽がボクたちの目に飛び込んでくる。そして次の瞬間、悲鳴が聞こえてきた。
「あなた、前! 危ない‼︎」
しほちゃんのお母さんの声がしたと思ったが、何かがぶつかる音でかき消された。
そして謎の浮遊感に襲われた。何だこれ? 突然の出来事に頭の中が真っ白になる。
「いかん、早く車から出るんだ!」
しほちゃんのお父さんも何かを叫ぶ。車はガードレールを突き破って海に飛び込んでしまった。
窓の隙間から海水が侵入して来て冷たい。言われた通りドアを開けようとしたけどびくともしない。
そうこうしている間に窓の隙間から海水はどんどん侵入して車は沈んでいく。
「しほ、隼斗くんと逸れないようにしっかり手を繋いでいてくれ!」
しほちゃんはコックリ頷いてボクの手を痛いくらいギュッと握り締める。
「あなた、早くここから逃げないと……」
「大丈夫だ。必ず何とかする!」
しほちゃんのお父さんは窓ガラスに向かって何度も蹴ったり叩いたりして割ろうとした。その度に手から血が吹き出して赤く滲んでいく。
「頼む、割れてくれ!」
バギッと嫌な音がしてしほちゃんのお父さんは顔を顰める。そしてついに窓ガラスが割れた。
「さぁ、車が沈む前に早く脱出するんだ!」
ボクとしほちゃんは割れた窓ガラスから出て陸に向かった。なんとか無事にたどり着いたけど、しほちゃんのお父さんとお母さんがまだ来ない……
「あなた、シートベルトが外れない!」
「なんだって? 見せてくれ!」
沈みかけた車から2人の叫び声が聞こてきた。
「ねぇ、お父さん、お母さん、早くきて! 沈んじゃうよ! お願い!!!」
しほちゃんはパニックになって泣き叫ぶ。
でも、しほちゃんの願いは叶わなかった……
* * *
黒い服を着た大人たちが手を合わせながら泣いている。今日はしほちゃんのご両親のお葬式。ボクは動きづらい黒い服とズボンを履かされてじっと椅子に座らされた。
大人たちはヒソヒソと話をしたり、シクシクと泣いているが、ボクには全く聞こえなかった。とにかく今はしほちゃんの事が心配でそれ以外の事は一切頭に入ってこない……
いつの間にか葬式は終わっていた。ボクはすぐに席を立つと、大人たちの間を抜けてしほちゃんの元に向かった。
いつもの面影がどこにもない。こんなに悲しそうな姿は初めて見た……
「ねぇ、しほちゃん、その……」
普段なら会話に困ることはなかった。でも今日は上手く話せない。言いたい事はたくさんあるのに……
「しほちゃん、お父さんとお母さんは……」
「ねぇ、どうしてお父さんとお母さんが死んじゃったの!」
しほちゃんは大粒の涙を流して悲痛な叫びをあげる。遠くの方にいた大人たちは、何も言えずに悲しそうな目で見守っていた。
「どうして、どうしてわたしを置いていくの!」
しほちゃんが放つ言葉の1つ1つがボクの胸に深く刺さる。
もし逆の立場だったら間違いなくボクも泣いていると思う。じゃあそんな時、しほちゃんはなんて励ましてくれるのか? きっとしほちゃんならこう言う。
「大丈夫。ボクはしほちゃんを置いていかないよ。ずっと側にいるよ。だから泣かないで。しほちゃんが悲しむとボクも悲しくなるよ……」
本当はもっと他の事も言いたかった。もっと良い事を言いたかった。でも今のボクにはこれしか言えなかった。それがもどかしくて悔しい。
「隼斗……ありがとう」
しほちゃんは小さな声でお礼を言うと、ボクに抱きついてもう一度泣き崩れた。こんなに怯えているしほちゃんは初めてだった。
2つ年上のお姉さんみたいな存在。これまではずっと頼りっぱなしだった。でもこれからは違う。ボクがしほちゃんを守る番だ!
ボクはハンカチを取り出してしほちゃんの涙を拭いてあげた。そして、もう2度とこんな顔をさせない! っと胸に誓った。
4章 志穂ちゃんとの思い出②
※隼斗視点
あの事故から数年が経ち、ボクたちは小学生になっていた。少しずつしほちゃんは昔のような明るさを取り戻していった。
学年が違うため、毎日一緒に過ごす事は出来ないけど、休み時間や放課後はできるかぎり会いにいった。
でも、しほちゃんが中学に上がってからはほとんど会う事がなくなってしまった。
しほちゃんがいない小学校は退屈で仕方がなかった。早く中学に上がって前みたいに一緒に過ごしたい。その一心で卒業まで息を潜めるように静かに日々を過ごした。
そしてついに、その時が来た。
「卒業おめでとう!」
校長先生が体育館のステージの上からボクらを見渡す。ようやく……ようやく終わった。これでまたしほちゃんと一緒に過ごせる。
「これまでの小学校での学びを活かし、今後は中学でも……」
校長先生が何かを話しているけど、ボクの耳には全く入ってこない。ボクの頭の中はしほちゃんの事でいっぱいだった。
これでまた昔のように過ごせる。そう信じていた。でも現実は違っていた。2年という空白は子どものボクらにとってはあまりにも長過ぎた。
* * *
「隼斗も中学生かぁ~ 早いわね~」
今日は待ちに待った入学式。ボクは制服に着替えてリビングに向かうと、母親がボクの晴れ姿を見てしみじみと感想を述べた。
「忘れ物はない? ハンカチは持った?」
「大丈夫だよ。ボクはもう中学生だよ。子どもじゃないよ」
ボクは家を出ると、新しい学校に向かって一歩を踏み出した。初めて着た学ランはまだ硬くて、窮屈な感じがする。
「よう、隼斗、一緒に行こうぜ」
慣れない通学路を歩きながら中学校に向かっていると、後ろから自転車に乗った真也がやった来た。
「うん、いいよ!」
真也とは小学5年生の時に仲良くなった。確かあれは……野外学習の時だったかな?
それまではあまり話す事はなかったけど、班が同じになって一緒に活動をしていく中で仲良くなった。今では親友と呼べるほどの仲だ。
「なぁ、隼斗は部活どうするか決めたか?」
「もちろん、陸上部に入ろうと思う」
「陸上部か~ 隼斗は足が速いしすぐにエースになれるだろ」
「う~ん、そうなれるように頑張るよ」
本当は志穂ちゃんが陸上部だったから入る事にしたのだけどなぁ……
「よし、じゃあ早速中学まで競争しようぜ、次期エースさん!」
真也はそういうと、自転車を立ち漕ぎした。
「おい、待てよ、それはずるいだろ!」
ボクは鞄を脇に挟んで落ちないようにすると、真也の後を追いかけた。
* * *
教室に着くと既に各学校ごとにグループが分かれていた。ボクが通っていた小学校は人数が少なくてクラス替えというものがなかったから、知らない生徒と過ごすのは新鮮だった。
教室を見渡すと賑やかな奴もいれば、ずっと本を読んでいる奴もいる。中学校、様々な人種が集まったテーマパークの様な場所だった。
「なぁ、隼斗、放課後に部活見学があるんだってよ。一緒に行こうぜ」
「そうだね。早く放課後にならないかな~」
最初の1日は自己紹介や先生の紹介で終わった。正直どうでも良かった。早く志穂ちゃんに会いたい。
「お~い、隼斗、何ぼぉ~っとしてるんだ?」
真也がボクの目の前で手をひらひらと振る。ハッと我に返ると、他のクラスメイトは既にいなかった。
「早く行かないと部活見学に遅れるぜ」
「そうだね、よし、行こ!」
ボクは荷物をまとめると、グランドに向かった。野球部やサッカー部は全力で部活動に打ち込んでいる。
お目当ての陸上部はまさにグランドの中央でリレーの練習をしていた。
声をかけていいのかよくわからずぼんやりと眺めていると、さっきまでリレーをしていた男子が駆け寄って来た。
「君たち部活の見学?」
「あっ、はいそうです」
「そうか、ちょうど良かった、この後、男女混合のリレーがあるんだけどさ、1人たりなくてさぁ……良かったら練習に参加してみないか?」
突然の誘いに驚いたが、すぐに真也がボクの背中を押した。
「隼斗、これはチャンスだ。お前の足の速さを証明してこい!」
「えっ、でも、相手は陸上部だよ。流石にキツくないか?」
「なに、弱気な事、言ってるんだよ。ほら、行ってこい!」
真也に言われ仕方がなくボクは陸上部の先輩と共にグランドの中央に向かった。確かに足の速さなら自信があるけど……大丈夫かな?
「位置について……よ~い、どん!」
スタートの合図と共に陸上部がロケットダッシュを決める。第1走は男子同士の戦い。互角の接戦だった。
2走目は女子同士の戦い。これも男子に負けず劣らずの接戦だ。3走目で少し間が開いてボクらのチームが負けている。やばい緊張してきた……
「ねぇ、もしかして緊張してる?」
固唾を飲んで見守っていたから、対戦相手の存在を忘れていた。ボクと一緒に走る子は……
「えっ、しっ志穂ちゃん⁉︎」
まさかの対戦相手にボクは思わず二度見してしまった。2年ぶりの志穂ちゃんは昔の面影を残しつつも、より可愛くなっていた。
「お~い、隼斗、しっかりしろ!」
外で見守っていた真也の声に呼び戻されてボクは頭を振った。今はこのリレーに集中しないと。
「じゃあ、先に行ってるね!」
志穂ちゃんはバトンを受け取ると、一気にボクから距離を広げていく。それは空白の2年間とよく似ていた。
このままだと小学生の時と同じようにまた置いていかれてしまう。そんなのはもう嫌だ!
「待って、行かないで!」
ボクはバトンを受け取ると、腕がちぎれそうなくらい振って志穂ちゃんの背中を追いかけた。
肺が潰れそうなくらい苦しい、頭もクラクラする。でも、もう置いていかれるのはごめんだ!
「行け~ 後少し!」
「隼斗、最後まで気を抜くなよ!」
周りで見学していた生徒の歓声がぼんやりと聞こえてくる。ゴールまで後10メートル。負けてたまるか!
体は今すぐ止まりたいと訴えてくる。でもそれを無視してボクは最後の力を振り絞った。そして、大接戦の末、わずか数センチの差で志穂ちゃんに勝利した。
* * *
「ねぇ、隼斗待って~」
部活見学が終わり、真也とも別れて自宅に向かっていると、後ろから体操着姿の志穂ちゃんが走ってきた。
「さっきのリレー凄かったよ! 隼斗、足速かったんだね」
久しぶりにあった志穂ちゃんは昔の様に明るく元気だった。でも、それに比べてボクは変わってしまった……
「えっと、はい、ありがとうございます」
何故かボクの口から出て来たのは、堅苦しい敬語だった。おかしいな……昔は普通に話せたのに。
「今は学校じゃないから敬語じゃなくていいんだよ」
志穂ちゃんはそう言ってくれたけど、何故か普通の喋り方が分からない。やはり2年という空白がボクたちの距離感を狂わせてしまったようだ。
「隼斗はもう陸上部にするって決めたの?」
「えっと、はい、志穂ちゃ……志穂先輩が陸上部って聞いたからそれで気になっていて……」
一瞬昔の様にちゃんと言いそうになってボクは慌てて言い直した。中学に上がると上下関係がとても厳しくなる。
特に運動部だと、先輩に片付けをやらせたらだめ、先輩よりも早く着いていないと怒られる。などと噂で聞いた。
「そっか、じゃあお互い頑張ろうね!」
志穂ちゃんはニコッと微笑を浮かべる。ボクもぎこちなく笑みを浮かべて返事をした。それにしても……2年間で随分と雰囲気が変わった気がする。
顔つきが女性らしくなっているし、性格も少し落ち着いた気がする。それに体操着の胸部がふっくらと膨らんでいた。
「あっ、ごめん、ちょっと病院に寄って行くから、隼斗は先に帰っていて」
「えっ、病院? どこか悪いのですか?」
「ちょっとお婆ちゃんの体調が悪くてね……でも大丈夫心配しないで」
志穂ちゃんはそう言うと、ボクに手を振って市内の病院に向かって行く。
本当はもっと話したい事があった。もっと聞きたいこともあった。それなのに上手く言葉が出て来ない。それがもどかしくて仕方ない。
次は小学校の事やよく家で遊んだ事を話そう。きっと昔の楽しかった思い出を話題にすれば上手くいくはずだ。
(よし、まだまだこれから、次は絶対に成功させる!)
ボクは気持ちを切り替えると自宅に向かった。でも、この日を境に志穂ちゃんは学校に来なくなった。
5章 志穂の家
※隼斗視点
あの男女混合リレーをした翌日、陸上部の男子生徒がボクのクラスに来た。そしてスカウトをされた。
最初の1週間程は部活動の流れや先輩の名前を覚えるのに忙しくて大変だったけどすぐに慣れた。でも1つだけ心配なことがある。
リレーをして一緒に帰った日から志穂ちゃんが学校に来なくなってしまった。
「なぁ隼斗、志穂と幼馴染だろ? あれ以来、学校に来ていないから様子を見て来てくれないか?」
1週間位経ったある日、陸上部の顧問の先生がボクに声をかけてきた。
「はい、分かりました」
ボクはシューズを脱いで通学用の靴に履き替えると、志穂先輩の家に向かった。
* * *
「志穂先輩、居ますか?」
チャイムを押しても返事がない。しばらく待ってからもう一度押してみたけどやっぱり駄目だ。
軽く扉に手をかけると、ゆっくりとドアが開いた。入っても大丈夫かな?
「志穂先輩~ 入りますよ~」
中は電気が付いていないため薄暗くて不気味だった。一瞬外出中なのかと思ったけど、靴はあるし鍵が掛かっていないからそれはない。
「志穂先輩、居ますか~?」
廊下を進み、リビングを覗くと、食べ終わった食器がテーブルに置いたままだった。キッチンを覗くと、そこも洗い終わっていない食器で山積みだ。
醤油や味噌やキムチなどの様々な匂いが入り混じっていて鼻がおかしくなりそうだ。
フライパンやまな板も出しっぱなしで片付けられていない。お鍋の蓋も出してある。でもここで、ふとボクは気づいた。
包丁だけが何処にも見当たらない。床に落ちているわけでもない。変だな……料理をするには絶対に必要なはずなのに……
「志穂先輩、上にいますか?」
ボクはキッチンを後にして2階に上がった。手すりを掴むと、糊を触ったようなネチャネチャとした感触がした。
気持ち悪っ! と思って手を離すと、ボクの右手が赤く染まっていた。これは……血だ!
さっきから感じていた嫌な予感が確信に変わる。ボクは階段を駆け上がると、志穂ちゃんの部屋に向かった。
息を整えるのも忘れて扉を開けると……
「なんだよ、なんだよこれ……」
あまりにも悲惨な状況に頭の整理が追いつかない。ボクは震える手を支えてすぐに救急車を呼んだ。
床に飛び散った真っ赤な血、赤く染まった包丁の刃、そしてベットの上で志穂ちゃんが薄っすらと目を開けたまま倒れていた。
その手首からは大量の血を流して……
6章 あの日の事故
※志穂視点
女の子に誘拐されてどれくらい経ったのだろう? この部屋にはカレンダーがないため曜日の感覚が分からなくなってしまった。
「ねぇ、お姉ちゃん、今日は何をして遊ぶ」
今日も女の子は可愛らしいピンク色のワンピースを着て私にピタッとくっ付いて来た。
毎日トランプをしたりアニメを見たり一緒にお昼寝をする。そんな緩やかな日々が続いていた。
でも、漠然とした不安が日に日に強くなってきた。
本当に私はこんな事をしていてもいいのかな? 何かやらなければいけない気がする。そんな目に見えない焦りが押し寄せてくる。
「ねぇ、お姉ちゃん聞いてる?」
「えっ、あっ、ごめん、何して遊ぶ?」
肩を揺すられて我に返ると、女の子はぷくぅ~ っと頬を膨らませていた。
「お姉ちゃん、わたしとの遊びに飽きたでしょ?」
「えっ、いやそんな事はないよ。ただ学校の事とかが心配になって……」
今頃皆んなどうしているかのかな? 捜索願いとか出ていたらどうしよう? 出来ることなら早くここから抜け出したいけど、外には出れないしな……
それに、この子の両親が戻ってくるまで一緒に待つと約束したし……
「そうだ、ねぇ、言いこと思いついた!」
私はぽんっと手を叩いて立ち上がった。
「ねぇ、一緒にご両親を探しに行かない?」
「えっ、探す? でもどうやって?」
「簡単だよ。このど◯でもドアを使えばいいんだよ!」
女の子の部屋の扉は不思議で、行きたい場所を願うとそこに繋がっている。
以前、大量のジュースを飲まされてトイレに行きたいと念じたら、本当にトイレに繋がっていた。
でも、家に帰りたいと願うと何故かこの部屋に戻ってきてしまう。女の子曰く『お姉ちゃんが本当に行きたい場所はここなんだよ』っと言われた。
まだまだ謎は多いけど試してみる価値はある!
「さぁ、そうと決まったら一緒にご両親を探しに行くよ!」
「うん、行こ!」
女の子は嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。それと一緒に着ていたワンピースがヒラヒラ揺れる。
その瞬間、私の中に眠る古い記憶が蘇った。あれは確か……隼斗と海に行く日だったかな? 前日はお泊まりをして次の日は海に行くはずだった。
翌日、私は気合を入れておしゃれをして可愛らしいワンピースを着たはずだ。でも、どうしてそんな事を思い出したのだろう……この子を見ていると、昔の自分を思い出す。
「お姉ちゃん、準備はいい?」
「あっ、うん、大丈夫だよ」
「本当に? 怖かったらまだいいんだよ」
珍しく女の子が弱気な発言をする。普段なら『早く行こうよ!』などと急かしてきそうなのに。
「心配しないで、一緒に行こ!」
私は女の子の手を握ると、『ご両親の元に行きたい!』っと願って扉を開けた。
* * *
青い空、青い海、そして心安らぐ波の音……ではなくて慌てふためく人の声。
「あれ? まさかここって……」
扉の先はあの日、隼斗と行こうとした海が広がっていた。
「なぁ、聞いたか、事故だってよ」
「車が海に突っ込んだんだろ? 中に乗ってた人は大丈夫なのか?」
「なんか、大人2人と子供が2人いたらしいぜ」
ガヤガヤと話し声が聞こえてくる。事故? 車が海に?
私は野次馬の間を抜けて状況を確認した。砂浜に警察やお医者さんがいる。その近くで小さな子供が2人いた。
女の子は泣き喚いていて、男の子はその子の手を握りしめて海を見つめている。
あの男の子は……間違いない、隼斗だ! じゃあ隣にいるのって……
遠目からでもよく分かる。ピンク色のワンピースを着た女の子は6歳の頃の私だ。そして今隣にいる女の子と容姿が同じだった。
「お姉ちゃん……帰ろ」
女の子が私の手を引っ張ると、野次馬の間を抜けていつもの部屋に戻った。
* * *
「ねぇ、貴方はもしかして……私なの?」
いつもの部屋に戻ると、私は疑問に思った事をストレートに聞いてみた。すると女の子がペコリと頭を下げた。
「今まで黙っていてごめんなさい。わたしの名前は宮崎志穂。お姉ちゃんがまだ6歳だった頃の姿だよ」
「6歳の私……ごめん、ちょっと待ってね……」
衝撃の事実に頭が混乱する。確かにこの子は幼い日の私だ。だとしたら……
「ねぇ、ここは一体何処なの? もしかして天国とか?」
「う~ん、ちょっと違うよ。ここはお姉ちゃの大切な物が詰まった思い出の場所だよ」
「思い出の場所……」
うん、確かにその通りだ。ベットの周りを囲うようにあるぬいぐるみ、綺麗に整頓された本棚。ピンク色のカーテンにハート柄のラグマット。
自分の好きなものが詰まった宝箱みたいなこの部屋は、私にとって大切な場所だった。
「お父さんとお母さんはもういないけど……ここには沢山思い出が詰まっているんだよ。だから何処にも行かないで! ずっとここにいていいんだよ!」
確かに女の子──昔の私の提案は魅力的だ。でも……
「ごめんね……隼斗やお婆ちゃんが待っているの。だから……」
だから……さようなら。そう言おうとしたが……
「どうして、どうしてお父さんもお母さんもお姉ちゃんもわたしを置いていくの! わたしも連れて行ってよ!」
女の子は目を潤ませると、大声で泣き叫んだ。悲痛な叫びが私の胸に鋭い矢となって深く突き刺さる。
「もう嫌だ、生きていたって悲しいだけだよ。もう死にたい!」
女の子は机の引き出しを開けると、中からハサミを取り出した。その瞬間、私は女の子に飛びついて腕を捕まえた。
「離してよ、わたしもみんなの所に行くの!」
「何するつもり⁉︎ ダメでしょ、そんな事したら! 貴方が死んだら皆んなが悲しむでしょ!」
「悲しんでくれる家族なんていないよ!」
「そんな事ない! お婆ちゃんや隼斗がいるでしょ? だから命を粗末にしないで!」
私は無理やり女の子からハサミを取り上げて厳しく叱りつけた。
「大丈夫だよ、貴方は1人じゃないからね」
私は女の子の頭を優しく撫でてあげた。確か隼斗もこんな風に私を慰めてくれた気がする。今度は私が幼い日のわたしを慰めてあげなくちゃ!
一体どれくらい時間が経過したのだろう? 私は女の子が落ち着くまで優しくあやしてあげた。
「ごめんね、お姉ちゃん……」
「もう、大丈夫?」
「うん、平気だよ。やっぱり行っちゃうの?」
「そうだね、いつまでも過去にいるわけにはいかないからね……」
私は過去のわたしにお別れを告げると、思い出の詰まった部屋をしっかり目に焼き付けて扉を開けた。
7章 お婆ちゃんと過ごした日々
※志穂視点 小学生~中学生
「志穂~ 早く起きないと、遅刻するよ~」
一階から聞こえてきた声に起こされて私は重たい瞼を持ち上げた。あれいつの間に寝ていたのだろう? あとここは……
ベットの周りにある大量のぬいぐるみ、整頓された本棚、ピンク色のカーテンにハート柄のラグマット。
間違いない。女の子の部屋だ。でもどうして? 確かにお別れをしたはずなのに……
「志穂~ もうご飯が出来たよ~」
それと……さっきから私を呼んでいるのは誰だろう?
「ちょっと待って~ 今行く!」
私はベットから出ると部屋の扉に手をかけた。あれ? おかしいな? ドアノブが前よりも高い位置にある気がする。こんなもんだったかな?
とりあえず部屋を出ると、廊下が広がっていた。行きたい場所に連れて行ってくれる不思議なドアじゃない!
階段を降りてリビングに向かうと、お婆ちゃんが朝食の準備をしていた。
「おはよう志穂、今日からいよいよ小学生だね。とりあえず顔を洗っておいで~」
いよいよ小学生? とりあえず顔を洗いに洗面所に向かうと、背が低くて顔も幼い私が鏡に写っていた。
今日から小学生……という事はここは8年前の自宅だ。でも、どうしてこんな所に繋がっていたのかな?
まだ分からない事が多すぎる。でももう少し過ごせば何かが分かりそうな気がした。
私は朝食を済ませて着替えると、ランドセルを背をって軽く身だしなみを整えた。朝食の後片付けをしていたお婆ちゃんが手を止めて私に手招きをする。
「うん、似合っているね。お父さんとお母さんにも見せてあげて」
お婆ちゃんが私をお仏壇の前に連れていく。そこにはお父さんとお母さんの顔写真が飾ってあった。
分かってはいたけど、改めてもう会えないと分かると胸が苦しくなる。
「大丈夫だよ、きっと天国にいるお父さんとお母さんも志穂の晴れ姿を見て喜んでいるよ」
私は涙を堪えて頷くと、元気な声で「行って来ます!」っと言って家を飛び出した。
小学校の生活はあっという間に時間が過ぎていった。運動会や授業参観の時は必ずお婆ちゃんが来てくれたし、放課後は隼斗と日が暮れるまで遊んだ。
でも中学に上がると、平和な日常が崩れていった……
* * *
「志穂~ 早く行かないと遅れるよ~」
一階から聞こえてきた声に起こされて私は重たい瞼を持ち上げた。朝からうるさいな……
「志穂~ 起きてる?」
「うるさいな~ 今行くって!」
私はざっとSNSの確認を終えると、リビンングに向かった。ここ最近、無性にお婆ちゃんに対してイライラする。そして……そんな自分にもイライラする。
「おはよう志穂、今日からいよいよ中学生だね。とりあえず顔を洗っておいで」
中学生……という事は2年前か……この謎の日々は文字通りあっという間に時間が過ぎていく。一体私は何を見せられているの?
起きたばかりの頭は働かない。とりあえず私は洗面所で顔を洗った。小学生の時よりも身長が伸びている。それに顔つきも少しだけ大人びた気がする。
私はリビングに戻って朝食を済ませると、制服に着替えて身だしなみを軽く整えた。
朝食の後片付けをしていたお婆ちゃんが手を止めて私に手招きをする。
「うん、似合っているね。お父さんとお母さんにも見せてあげて」
仕方がなく私は仏壇の前に座って手を合わせた。
「行ってきます、お父さん、お母さん」
どうせこんな事をしても意味がない。もうこの世にいない人に私の声は届くはずがない。
私は軽くため息をつくと、重い足取りで家を出た。
* * *
「はぁ~ やっと放課後だ~」
中学校生活が始まって数ヶ月。正直退屈だった。勉強は苦手じゃないけど、好きなわけではない。でも、部活は違った。
陸上部に入部した私は毎日練習に打ち込んだ。基礎体力をつけるために筋トレをしたり長距離を走ってスタミナもつけた。
1ヶ月後には大会がある。そこに向けて来る日も来る日も練習を続けた。そして当日を迎えた。
* * *
「続きましては……中学女子の部、中距離走です」
ついに始まった。私は深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、位置についた。
審判のスタートの合図とともに一斉にみんなが飛び出していく。私は上位走のポジションに着いた。
上位走はグングンペースを上げていく。私は置いていかれないように必死に食らいつた。
いよいよ終盤戦。私はここで勝負に出た。ペースを上げて1人、また1人と抜いて今の順位は2位だ。
残り1週、観覧席の方から熱狂的な応援の声が微かに聞こえてくる。
トップの子とは10メートル程距離がある。まだいける。ラストスパートに向けてさらにペースを上げようとすると……
(えっ……嘘……)
足からガクッと力が抜けて転んでしまった。その間に後方にいた子たちが私を追い抜いて行く。すぐに立ち上がって走り出そうとしたが、右足に激痛が走る。
(痛った! やばい! どうしよう⁉︎)
どうやら転んだ時に足を痛めてしまったようだ。順位は最下位。トップの子と半周ほど距離がひらいてしまった。
足を止めた瞬間、疲れが一気に押し寄せて来る。
(もうダメだ。勝てるはずがない)
まさに諦めかけた時だった、毎朝聞き慣れた大きな声が私の耳に届いてきた。
「志穂、まだ諦めたらダメだよー!」
嘘でしょ? っと思って観覧席の方を見ると、そこにはお婆ちゃんがいた。どうしてここに?
「大丈夫、志穂ならまだ行けるよー!」
普段はうるさいと思っていたのに、この時はすごく頼もしい。
私は最下位。正直ここからどう頑張っても勝てない。でも、手を抜いて走ったら自分に負ける気がする。それだけは嫌だ!
私は『もう走りたくない!』っと訴える足に力を入れて最後の一周を走り切った。結果は最下位……分かってはいたけど、やっぱり悔しい……
右足の痛みと涙を堪えて応援席の方に戻ると、顧問と部員が拍手で迎えてくれた。
「志穂、よく最後まで走り切ったな!」
「志穂ちゃん、お疲れ様! 私感動したよ!」
みんなが私に労いの言葉をかける。その中にはお婆ちゃんもいた。
「志穂、よく頑張ったね」
他の部員の親は見学に来ていない。私のお婆ちゃんだけが見に来ていた。中学というのは周りと少し違うだけで目立ってしまう。
だから授業参観の日にお婆ちゃんが来るのが嫌だった。他のクラスメイトはお父さんかお母さんが観に来るから……
でも、今日だけは心の底から嬉しいと思えた。
* * *
「志穂~ 早く行かないと遅れるよ~」
「うん、分かってる。今行くね~」
私はベットから出ると軽く伸びをしてリビングに向かった。
あの大会の一件があってから私とお婆ちゃんの関係は昔のように良くなった。今思い返せば反抗期だったのかもしれない。どうしてあんなにイライラしていたのか不思議だ。
「おはよう志穂、もう中学2年生だね。早いね~」
「うっ、うん、そうだね」
私は曖昧に返事をして朝食のトーストにかぶりついた。本当にあっという間だ。一体この先に何が待っているのだろう?
「ごちそう様、行ってくるね」
私は食器を片付けると、軽く身だしなみを整えて学校に向かった。
* * *
「志穂、お前、部長にならないか?」
放課後、いつも通り練習をしていると、顧問の先生が話しかけてきた。
「部長ですか? 私に務まりますか?」
「あぁ、志穂は向いていると思う。どうだ? やってみないか?」
正直、本当に私に務まるのか不安だった。でも先生の言った通りだった。
元から面倒見のいい性格のおかげか、後輩たちからは慕われたし、先輩からも「志穂が部長なら引退しても安心だな~」っと言ってもらえた。
部長になってしばらく経ったある日、顧問の先生から相談室に呼び出された。
「志穂、お前スポーツ推薦を狙ってみないか?」
「なんですかそれ?」
どうやら話によると、大会などで優秀な成績を収め、高校でも部活を続ける事を条件に学費や入学金が軽減されるそうだ。
先生の提案はとても魅力的だった。もしスポーツ推薦がもらえたらお金の面でお婆ちゃんに迷惑をかけずに済む。
「なるほど……先生、私推薦が貰える様に頑張ります!」
「そうか、なら一層、練習を頑張らないとな」
「はい!」
新しい目標が生まれてやる気が湧き上がって来た。お婆ちゃんにお金の面で迷惑をかけたくない。その一心で前よりも練習に打ち込んだ。
でもそんな思いとは裏腹になかなかタイムが上がらない。何だか最近頭と腰が痛い。今までこんな事はなかったのに……
一体何が起きているのか? その答えは翌朝トイレに行った時に判明した。どうやら生理が訪れたようだ……
* * *
中学1年生の時はお婆ちゃんに対するイライラや周囲の目線など心の変化に悩まされた。でも次は体の変化が訪れた。
お婆ちゃんは喜んでいたが、私としては勘弁してほしい。今はスポーツ推薦を狙うために結果が欲しい。成長期なんて来なければいいいのに……
あれこれ練習方法を変えてみたけど思うように結果が出ない。でも体の成長は止まる事がない。
最近胸が膨らんできた。体操服姿だとそれがより一層分かる。しかも走ると揺れるから男子たちに見られている気がして嫌だった。
クラスの女子の会話は男子の事ばかりだった。誰が好きだの、誰々が付き合っているなど、部活一筋の私には関係ない。だから実は自分がモテている事なんて知るよしもなかった。
中学2年の時は自分の体の変化に戸惑ったが、3年生に上がるとだいぶ落ち着いてきた。
始業式が終わり、そろそろ新1年生が部活の見学に来る時期だ。数名の女子のグループや男子たちが見学をしている。
その中に隼斗の姿を見つけた。
* * *
「いちについて、よ~い、ドン!」
男子陸上部の子の提案で、男女混合のリレーが始まった。
スタートの合図と共に陸上部がロケットダッシュを決める。第1走は男子同士の戦い。互角の接戦だった。
2走目は女子同士の戦い。これも男子に負けず劣らずの接戦だ。3走目で少し間が開いて私たちのチームがリードしている。
「ねぇ、もしかして緊張してる?」
アンカーを任された私は、同じくアンカーを任された隼斗に話しかけてみた。もう2年ぶりかな? あんなに小さかったのに今は私と同じくらい背が高くなっていた。
「えっ、しっ志穂ちゃん⁉︎」
隼斗は大きく目を見開いて私の顔を2度見する。その声は前みたいに高くなくて、こもった低い声だった。本当に少し見ない間に大きくなったなぁ~
「お~い、隼斗、しっかりしろ!」
外で見守っていた子が隼斗に声をかける。あの子は友達かな?
「じゃあ、先に行ってるね」
私はバトンを受け取ると、ゴールに向かって全力で走った。その後ろを隼斗がものすごいスピードで追いかけてくる。
「行け~ 後少し!」
「隼斗、最後まで気を抜くなよ!」
周りで見学していた生徒の歓声がぼんやりと聞こえてくる。ゴールまで後10メートル。大接戦の末、わずか数センチの差で私は負けてしまった。
* * *
「ねぇ、隼斗、待って~」
部活が終わり家に向かっていると、隼斗の後ろ姿を見つけて私は声をかけてみた。
「さっきのリレー凄かったよ! 隼斗、足速かったんだね」
小学生の時は毎日一緒に帰っていた。でも中学に上がると部活動が忙しくて会う機会も無くなってしまった。
だからこんな風にまた一緒に帰るのは久しぶりだった。嬉しいな~
「えっと、はい、ありがとうございます」
隼斗は律儀に頭を下げる。あれ? なんだろう、言葉使いは丁寧なのにどこか距離を感じる。そうか、敬語だからか。
「今は学校じゃないから敬語じゃなくていいんだよ」
私は緊張をほぐすつもりで言ってみたが、隼斗はぎこちなく笑みを浮かべる。どうやら2年という空白が私たちの距離感を狂わせてしまったようだ。
「隼斗はもう陸上部にするって決めたの?」
「えっと、はい、志穂ちゃ……志穂先輩が陸上部って聞いたからそれで気になっていて……」
「そっか、じゃあお互い頑張ろうね!」
まぁ、最初は緊張していると思うから仕方がない。慣れてきたらきっと昔みたいに気兼ねなく話せるはず。でも、このままずっとこの調子だったらどうしよう……
「あっ、ごめん、ちょっと病院に寄って行くから、隼斗は先に帰っていて」
「えっ、病院? どこか悪いのですか?」
「ちょっとお婆ちゃんの調子が悪くてね……でも大丈夫心配しないで」
実は1ヶ月ほど前からお婆ちゃんは体調を崩してしまい今は入院している。だから部活の後は病院に寄ってから家に帰るのが習慣になっていた。
「じゃぁ、また明日!」
私は手を振って隼斗と別れると市内の病院に向かった。
8章 お婆ちゃんとの思い出②
※志穂視点
「あら、志穂ちゃんいらっしゃい。今日もお婆ちゃんのお見舞いかしら?」
「はい、そうです」
ここ最近、ずっとお見舞いに通っているため、病院で働いている人とは顔馴染みになっていた。
階段を上がり廊下を進み1番奥の部屋にお婆ちゃんがいる。せっかくだし久しぶりに隼斗に会った事を話してあげよ。
「お婆ちゃん、来たよ~」
ここは4人部屋だけど、残りの3つは誰も使っていない。だから実質個室みたいな感じだった。
普段は私が声をかけるとすぐに返事がある。でも今日は返事がない。それにベットの周りを囲うようにカーテンが閉められている。普段はこんな事しないのに……
「ねぇ、お婆ちゃん、寝てるの?」
私はそっとカーテンをめくってみた。予想通りお婆ちゃんは眠っていた。でも、こんなに呼びかけても気づかないのはおかしいな……
「お婆ちゃん、ねぇ、聞いて」
軽く肩を揺すってみたけど反応がない。まさかと思って口元に手を当ててみると……
(えっ、嘘でしょ⁉︎)
お婆ちゃんは呼吸をしていなかった。きっと何かの間違いだと思ってもう一度確認してみたけど、結果は同じ。私はすぐにナースコールのボタンを押した。
* * *
「17時48分、ご臨終です」
主治医の先生が腕時計を確認してそう告げると、静かに部屋を出ていく。一歩後ろで様子を見ていた看護師はそっと私の肩に手を置く。
その後の事はまるで夢の中の出来事みたいでよく覚えていない。書類を書いたり手続きをする事が多くて大変だったのは覚えているけど……
気がつくと私は自宅に戻っていた。2階建の一軒家。私1人にはこの家は大き過ぎる。
「ねぇ、お婆ちゃん……」
もしかしたら全部これは夢で、お婆ちゃんは自分の部屋にいるんじゃないか? そんな淡い希望を持って扉を開けてみたが、当然誰もいなかった。
8畳ほどのこの部屋からはお婆ちゃんの香りがする。6歳の頃に両親を失った私にとってお婆ちゃんは親みたいな存在だった。
お婆ちゃんはいつも私の側にいてくれた。困った時は何でも相談したし、反抗期の時は強く当たってしまった事もあるけど、決して私を見捨てる事はなかった。
だから何か恩返しがしたくて、せめてお金の面で迷惑をかけたくなくてスポーツ推薦を狙った。それも今は無意味となってしまった……
「ねぇ、どうしてみんな私を置いていくの?」
お父さんもお母さんもお婆ちゃんも、みんな私を置いていく。もう私には家族がいない。その孤独感が私を狂わせた。
それから数日が経過した。葬式は無事に終わり、私は顔も知らない遠くの親戚に引き取ってもらう事になった。
「もう……いいや、生きてたって何もいい事なんてない」
正直、もうどうでもよかった。この先、ずっと私は1人ぼっちなんだ……
私はおもむろにキッチンに向かうと、包丁を取り出した。刃先に触れると手から赤い血がポタポタとこぼれ落ちる。その瞬間だけ生きている事が実感出来た。
しばらく掃除をしていなかったため、部屋は散らかっている。私は床に落ちているゴミを踏みつけながらリビングを後にした。
「ねぇ、みんな……私もそっちに行ってもいいかな? いいよね?」
私は階段の手すりを掴みながらゆっくりと自分の部屋に向かった。
ベットの周りを囲う様にいるぬいぐるみ。これはお婆ちゃんが買ってくれたものだ。壁際にある本棚と絵本はお父さんとお母さんが私の誕生日の時に買ってくれたもの。
この部屋は私の──私の家族の思い出が沢山詰まっている。以前女の子が『この扉は行きたい場所に繋がってるの!』っと説明してくれた。
うん、確かにその通りだと思う。こうして今もこの部屋にいるのだから……
「ごめんね、私、頑張るって言ったのに……やっぱり無理だったよ……」
私は自分の部屋を見渡すと、袖をめくって包丁を振り下ろした。
* * *
生暖かい何かが床に広がっていく。これは……私の血だ。これでやっと家族の元に行ける。はずだったのに……
「ちょっとお姉ちゃん! 何やってるの‼︎」
重たい瞼を持ち上げて辺りを見渡すと、6歳のわたしがプクッと頬を膨らませて立っていた。
「あれ? どうしてここに?」
「お姉ちゃんが心配だったから見に来たの。ねぇ、一体何をしたの!」
女の子は腰に手を当てると、厳しい口調で私を叱りつける。
「ダメでしょ! 死んだらお婆ちゃんや隼斗が悲しむ。だから命を粗末にしちゃダメってお姉ちゃん言ってたよね?」
そうだ、うん、確かにその通りだ。以前は女の子を慰めてあげたのに、いざ自分の事になると分からなくなってしまった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
私はまるで親に怒られた子どもみたいに、何度も何度も女の子に謝った。私はなんてバカな事をしようとしたのだろう……
これまで生きてこれたのは、決して私1人の力ではない。両親がいて、お婆ちゃんが支えてくえたから今日まで生きてこれた。
それを自分の手で終止符を打つのは、皆んなを裏切る様な行為だ。
「全くしょうがないなぁ~ お姉ちゃんは1人じゃないよ! 大切な人が待ってるでしょ?」
女の子はまるで私が以前やったように優しく頭を撫でてあやしてくれた。まさか幼い自分に励まされるとは思わなかった。
「さぁ、早く元の場所に戻って! 隼斗が呼んでるよ!」
その言葉を最後に私の意識は完全になくなった。
最終章
「志穂ちゃん、そろそろ目を覚ましてよ。ねぇ、聞いてる?」
誰かが私を呼んでいる声がする。おかしいなぁ……もう朝なのかな?
「はぁ……ダメか……また、明日も来るね」
なんとなく気配で誰かが私の元から離れていくのが分かる。
(ちょっと待って! 行かないでよ!)
何故か分からないけど、置いていかれるのが凄く怖い。すぐに起き上がって後を追いかけたいのに体が重くて動かない……どうして?
(お願い、行かないで、お願いだから!)
「だめ……行かないで……」
ようやく口から出て来た言葉が、離れていく人の足を止めた。
「えっ、志穂ちゃん? 今、何か言った?」
その声の主は男の子だった。昔から何度も聞いたその声は安心するし、懐かしい気持ちになる。
「お願い……行かないで……」
弱々しく伸ばした私の手を誰かが優しく握り締める。
「よかった……心配したんだよ」
男の子の声は涙まじりで、聞いているこっちが苦しくなる。私はゆっくりと起き上がると、その子に抱きついて顔を埋めた。
「心配かけてごめんね……隼斗」
数日後
「あのね、私……1週間も昏睡状態だったみたい……」
私は家族のお墓の前で手を合わせると、これまでの事を軽く説明した。
「昏睡状態の時にね、私……幼い自分に誘拐されたの」
今思い返してもあの出来事は不思議だった。幼い日の自分と遊んだり、小学生と中学生をもう一度体験するとは思わなかった。
「それでね、目が覚めたら隼斗がいて思わず抱きついちゃったの。ちょっと恥ずかしかったなぁ~」
私は家族に報告を終えると、もう一度手を合わせて目を閉じた。そこに誰かの足音が近づいて来る。
「志穂ちゃん、もう終わった?」
ゆっくりと目を開けると、一歩離れた場所に隼斗が立っていた。
「うん、もう終わったよ。行こっか」
「あのさ……お墓の前で何を話していたの?」
「ふふっ、気になる?」
「まぁ、うん、結構長い間話しているなぁ~ っと思って」
隼斗の言葉はもう敬語じゃなかった。中学特有の空気感に最初は困惑したけど、今はすっかり昔のような関係に戻っていた。
「実は私……誘拐されていたんだよ」
「誘拐? 何それ?」
隼斗はキョトンっと首を傾げる。まぁ、そうなるよね。
「ふふっ、なんでもない」
私は冗談ぽく言うと、今度は真剣な表情で隼斗を見つめた。
「あのね、よく聞いて。私……顔もよく分からない親戚の人に引き取られるの。だから隼斗ともお別れなんだ……」
「えっ、そっそうなの!?」
隼斗は大きく目を見開いて驚く。出来る事なら私だって隼斗の側にいたい。でも、中学生の私では1人で生きていくのは難しい……
「そっか……そうだよね」
隼斗は自分に言い聞かせるように呟くと、ギュッと拳を握り締めて私を見あげた。
「じゃあ、大きくなったらボクが志穂ちゃんを誘拐しに行くね」
「えっ、誘拐?」
冗談だと思ったが、隼斗の目は本気だった。誘拐しに行くって……迎えに来るって事だよね? それってつまり……
言葉の裏に隠された意味を理解した瞬間、頬が赤く染まって火照り出す。
「だから……それまで待っていてくれる?」
隼斗もどこか恥ずかしそうに目を逸らして聞いてきた。
「うん、わかった。待ってるね!」
私は笑みを浮かべて頷くとお墓を後にした。沈みかけたオレンジ色の夕日が2人を優しく照らす。
どうやら次は、隼斗に誘拐されるようだ。
─完─
「今からお姉ちゃんを誘拐します。無駄な抵抗はやめて大人しくついて来て下さい!」
宮崎志穂、中学3年生。今日私は下校中に小さな女の子に誘拐された。
まだ小学1年生くらいかな? ピンク色のワンピースを着た女の子が私の右手をギュッと握りしめる。
(えっ、何これ? 可愛い‼︎)
誘拐すると言われたが、むしろ私がこの子を誘拐したい! つぶらな瞳で私を見上げる姿は、抱きしめたいくらい可愛かった。
あれかな? 最近こういう遊びが流行っているのかな? だったら少しだけ遊んであげよ♪
「分かったわ。大人しくついて行くね」
女の子は私の返事に満足そうに頷くと、家に案内してくれた。すれ違う人たちは皆んな優しく微笑んでいく。
きっと年の離れた姉妹が仲良く下校をしている。っと思ったに違いない。まさか私がこの子に誘拐されているなんて、夢にも思わないだろうな~
宮崎志穂は何処にでもある普通の家庭で育った。幼少期は男の子たちと走り回ったり、泥団子を作ったりして遊ぶ活発な女の子だった。
そのため中学に上がると陸上部に入部して、毎日休む事なく部活動に励んでいる。
元から面倒見のいい性格のおかげか、後輩にもよく慕われており、中3の時に部長を頼まれた。
「ねぇ、お姉ちゃんって学校でモテるでしょ?」
前を歩く女の子はクルリと振り返ってそう聞いてきた。
「えっ、どうして?」
「う~ん、だってお姉ちゃん可愛いもん!」
「そっそう? ありがとう」
あまり意識した事はなかったけど、鏡の前に映る自分は、まぁ確かに悪くないかな? 程度には評価していた。
清潔感のある爽やかショートボブに整った顔立ち。10代特有のあどけなさがあるが、内に秘めた魅力が瞳に宿っていた。
「さぁ、入って、ここが今日からお姉ちゃんが住むお家です! 逃げようとしても無駄ですからね」
女の子が足を止めた先には、2階建ての綺麗な一軒家が建っていた。白を基調としたオシャレな造りで、庭の手入れもよくされている。
「これがお姉ちゃんが最後に見るお外です。よーく目に焼き付けて下さいね!」
女の子が悪戯っぽい笑みを浮かべる。それにしても何処でそんな言葉を覚えたのだろう?
「うん、分かった。綺麗なお庭だね。お邪魔しま~す」
私は言われた通り外を見渡すと、女の子の後ろをついて部屋に上がった。どうやら親はまだ帰って来ていないみたい……
「わたしのお部屋は2階なの。ついて来て!」
階段を上がり廊下を進み、1番奥の部屋に案内された。一体どんな部屋なんだろ?
「さぁ、ここがわたしのお部屋です。トイレやお風呂に行く時以外はここで過ごしてもらいます!」
女の子の部屋は想像通り可愛かった。ベットの上には大量の人形が置いてあるし、本棚には絵本が収納されている。カーテンはピンク色で、ハート柄のラグマットが敷いてあった。
「ここで大人しく待っていて下さい! 逃げ出したらダメですからね!」
「大丈夫。逃げないよ~」
「じゃあ手を貸して下さい!」
女の子は白いハンカチを取り出すと、私の両手首を優しく結ぶ。これは……手錠のつもりかな?
「これで安心。すぐに戻ってくるからね」
女の子はトットットッと小走りに部屋を飛び出して行く。しばらく待っていると、お盆にオレンジジュースとビスケットを乗せて戻って来た。
「えっ、私にくれるの?」
「うん、今はおやつの時間なの。お姉ちゃんも食べていいよ!」
女の子は私の手錠? を外すと、コップにオレンジジュースを注いでくれた。私もこんな妹が欲しかったなぁ~
「ねぇ、お名前はなんて言うの?」
「えっと……言えない! だってわたしはお姉ちゃんの誘拐犯だよ。犯人は名前を教えちゃダメなの!」
「そっか~ 残念。でもいつか教えてね」
女の子はコックリと頷くと、両手にビスケットを掴んで小さなお口に放り込む。その姿は小動物みたいだった。
「次はトランプをします。わたしね、ババ抜きなら負けたことないの!」
女の子はおやつを片付けると、今度はトランプを取り出した。ババ抜きかぁ~ 子どもの頃によくやったな~
私は配られたカードを確認すると、ペアのカードを捨てていった。今現在ジョーカーはない。つまり女の子が持ってる。さぁ、どれを選ぼうかな?
女の子は口元にギュッと力を入れてトランプを見つめている。でも私が1番右のカードを取ろうとすると、一瞬だけ女の子の表情が緩いだ。多分これね。
「あちゃ~ ジョーカーだったよ~」
私が引いたカードは案の定ジョーカーだった。女の子は嬉しそうに跳ねて喜ぶ。
今度は女の子が選ぶ番だ。そこで私は1枚だけぴょんっとカードを上に出してみた。
「ねぇ~ 何それ? ジョーカーなの?」
「ふふっ さぁ、どうだろうね?」
女の子はう~んっと唸り声を出す。あれこれ考えた結果、女の子はぴょんっと上に飛び出したカードを選んだ。
そしてムッと頬を膨らませて私を見る。ふふっ、それジョーカーなんだよね~
ゲームは終盤戦でお互い後1枚ペアが出来たら勝利になる。激闘の末、勝利したのは女の子だった。正確には勝たせてあげたのだけど、喜んでいる姿が見れたから私としても満足だ。
「ねぇ、お姉ちゃん、今度は一緒にアニメを観よ!」
女の子はテレビのスイッチを付けると、私のお膝の上にちょこんっと座って来た。
「知ってる? ここはね、特等席なんだよ!」
女の子は私にもたれると、今度は小さな両手を広げて抱きついてきた。やばい、もうダメだ、可愛すぎで死んでしまいそうだ……
「お姉ちゃんはわたしが捕まえたの。だからもう離さないからね!」
女の子の手に力が籠る。必死に私にしがみつく姿には愛おしさすら感じる。でも流石にそろそろ帰らないと親に怒られる……
「ねぇ、私そろそろ行かないとダメなの、また今度遊びに来るから今日は帰るね」
「……………」
お別れを言って帰ろうとしたが、女の子の返事が無い。その代わりにスヤスヤと寝息が聞こえて来た。どうやら遊び疲れたみたい。
「おやすみ、また来るからね」
私は女の子の頭を優しく撫でると、メモ用紙を取り出して『今日はもう帰るね』っと置き手紙を残して部屋を出た。
でもそこに広がっていたのは……
「えっ、何これ?」
まず目に入って来たのは大きなベットだった。その上には大量の人形が置いてある。
さらに見覚えがある本棚が置いてあった。そこには絵本が収納されている。カーテンはピンク色で、床に敷いたラグマットはハート柄だ。
そしてテーブルの上には『今日はもう帰るね』っと書かれた置き手紙が乗っていた。
間違いない。ここは私が今までいた女の子の部屋だ。これは一体?
「言ったじゃないですか…… お姉ちゃんはわたしに誘拐されたの。逃げようとしても無駄ですからね」
女の子は目を擦りながら起きると、両手を広げて私に抱きついた。
2章 不思議な扉
「ねぇ、どうして勝手に出て行こうとしたの!」
女の子は顔をプクッと膨らませると、大声で泣き出してしまった。
「お姉ちゃんの嘘つき! 逃げないって言ったのに‼︎」
大粒の涙がポタポタと女の子の着ているワンピースに落ちていく。
「どうして皆んなわたしを置いていくの! わたしも連れて行ってよ!」
女の子の悲痛な叫びが鋭い矢となって胸に刺さる。私はとにかく女の子が落ち着くまで謝り続けた。
「ごめんね、勝手に行こうとして。もう行かないから許してくれるかな?」
「本当に? 本当にもう勝手に行かない?」
「うん、行かないよ」
どうやら少し落ち着いてくれたみたい。でも……これからどうしよう?
「あのさ……この部屋ってどうなっているの? 扉を開けた先も同じ部屋に繋がっていたんだけど……」
女の子は涙を拭くと、自慢げな様子で説明を始めた。
「ふふっ、不思議でしょ? この扉はね……ど◯でもドアなの! 行きたい場所に連れて行ってくれるんだよ!」
「えっ、ど◯でもドア⁉︎」
それって青いたぬきが持ってるあれだよね? まさかまさか……
「ねぇ、お姉ちゃん、これ持って!」
女の子は私にコップを持たせると、オレンジジュースを注いだ。
「さぁ、一気に飲み干して!」
「えっ、飲めばいいの?」
言われた通りに飲み干すと、またコップにギリギリまで注がれた。
「もっと飲んで!」
「うっ、うん」
結局3杯くらい飲まされた。流石にお腹がチャポチャポする。それに猛烈にトイレに行きたくなって来た。
「ねぇ、お手洗いを借りてもいいかな?」
「うん、いいよ。じゃあ、トイレに行きたいって! って念じて扉を開けてみて」
「念じる?」
それで本当に行けるのか不安だけどもう限界が近い。迷っている暇はない! 私はトイレに行きたいと心の底から念じて扉を開けてみた。そこに現れたのは……
「凄い! 本当にトイレだ!」
扉の先は廊下……ではなくて、トイレになっていた。
「ふぅ~ 危なかった~」
とりあえず用を済まして扉を開けると、やっぱりそこは女の子の部屋だった。試しに自宅と念じたらどうなるのかな? よし、やってみよう!
「ねっ、この扉不思議だね! 色々試してみてもいいかな?」
「いいけど……ちゃんと帰ってきてね!」
「うん。約束する」
私は自宅に帰りたい! っと念じて扉を開けてみた。でもその先は女の子の部屋に繋がっていた。そう簡単にはいかないか……
「ねぇ、お姉ちゃん、今、家に帰りたいって思って扉を開けたでしょ?」
「えっ、まぁ~うん、よく分かったね」
女の子はまるで心の中を見透かすように私の気持ちを言い当てる。
「でも、ここに繋がっていたでしょ? どうしてか知ってる?」
「分からない。教えて」
私が顔の前で両手を合わせてお願いすると、女の子は得意げな様子で教えてくれた。
「簡単な事だよ。この扉は本人の行きたい場所に繋がってるの。つまり、お姉ちゃんが本当に行きたい場所は自宅じゃなくてわたしの部屋って事だよ。ねぇ、今日はもう遅いから家に泊まっていってよ!」
女の子は引き出しから私にピッタリサイズのパジャマと下着を取り出す。なぜそんな物が小さな女の子の部屋にあるのかは分からないけど、不思議なドアに比べたら大した事ないかな?
「あのさ……流石に家に連絡を入れないとお婆ちゃんが心配するの。だから少しだけ待っていてくれるかな?」
女の子がコックリと頷くのを確認すると、私はスマホを取り出して家に電話をかけてみた。
とりあえず今日は帰れない事と心配しなくていい事を伝えよう。
電話に出るのを待つ間、話す内容を頭の中でまとめていたが、いつまで経っても繋がらない。おかしいな……
もう一度かけ直してみたけど結果は同じで繋がらない。3度目の正直に期待してかけ直してみると、やっと繋がった。でも声の主は……
「現在この電話番号は使われておりません」
心のこもっていない機械の声が電話越しに聞こえてきた。この電話番号は使われていない? どう言う事? じゃあ他の人は?
試しに幼馴染の隼斗にもかけてみたけど、今度は「ただいま電話に出る事が出来ません」っと機械音に言われた。
「ねぇ、お姉ちゃんまだ?」
「うん、ちょっと繋がらなくてね……」
仕方ない。私はメッセージを送っておいた。気づいてくれたらいいけど……
「ねぇ、お姉ちゃん、一緒にお風呂に入ろ!」
「えっ、うん、いいよ」
女の子は着替えとタオルを持つと扉の前に立って「お風呂!」っと言って扉を開けた。予想通りそこは浴室だった。
誰かと一緒にお風呂に入るのなんていつぶりだろう? 小さい頃は幼馴染の隼斗と一緒に入った気がする。今思い返すと少し恥ずかしいなぁ……
「ねぇ、お姉ちゃん、早く来て!」
女の子はワンピースを脱いで脱衣カゴに入れる。私も着ていた服と下着を脱いで浴室に向かった。
「お姉ちゃん、背中洗ってあげるね!」
「えっ、本当? じゃあお願いしようかな?」
女の子はボディタオルを泡立てると、私の背中を一生懸命洗ってくれた。
「お客様、かゆい所はありませんか?」
「お客様? ふふっ、大丈夫だよ」
そういえば昔、隼斗とお風呂に入った時もこんな風に背中を洗ってあげた気がする。
「よし! じゃあ、お姉ちゃん、一緒に入ろ!」
「うん、分かった」
浴槽は広々としていて、女の子と一緒に入っても問題なかった。
「はぁ~ いい湯だね~」
今日は色々あったせいで疲れた。親は心配していないか? メールはちゃんと読んでくれたのか? そしてこの部屋から私は出られるのか?
心配事は次から次へと湧いてくる。でもこの家に誘拐されてから昔の事をよく思い出す。
もうしばらくここに居れば、何か大切な事を思い出せるような……そんな気がする。
「ねぇ、お姉ちゃん聞いてる?」
「えっ、あっ、ごめん聞いてなかった。何だった?」
「お姉ちゃんのお父さんとお母さんはどんな人なの?」
「お父さんとお母さん? う~ん、そうだね……実は幼い時に事故で亡くなっちゃたの。でも凄く優しくていい人だったよ」
いつも優しくて料理が上手なお母さん。そしてお父さんは真面目で働き者。
「そうなんだ……寂しくない?」
「うん、今はもう大丈夫だよ」
「そっか、よかった~ わたしのお父さんとお母さんさんも凄く優しくていい人だよ!」
女の子は無邪気な表情で微笑む。そういえばこの子のご両親はいつ帰って来るのだろう?
「わたし、先に上がって夕飯の準備をしてくるね! お姉ちゃんはゆっくり入っていて」
女の子はバスタオルで体を拭いて先に出て行く。まぁ後で聞けばいいか。
私は体を拭いてパジャマに着替えると、髪を乾かして浴室を出た。
* * *
「「頂きます!」」
今日の夕飯はカレーだった。少し辛くて野菜やお肉がゴロゴロ入っている。カレーは家庭によって味が違うと言われるが、この子の家のカレーは私の家のカレーとよく似ている。
「ふぅ~ ご馳走様。美味しかったよ」
「よかった~ わたしは洗い物をしておくから、お姉ちゃんは先にベットで休んでいて」
「えっ、でもそれは悪い気がするし……」
「気にしないで、お姉ちゃん疲れているでしょ? 洗面所にお姉ちゃんの歯ブラシを準備しておいたからね!」
女の子はお盆に食器を乗せて部屋を出ていく。確かに疲れているのは本当だからお言葉に甘えようかな?
私は『洗面所』と念じて扉を開けてみると案の上扉の先には洗面所が現れた。大きな鏡やドライヤーなどが揃っている。
私は口をゆすいで歯を磨くと、女の子の部屋に向かった。不思議な扉だなぁ……
「お待たせ~」
部屋に戻ると、ベットの上で女の子がちょこんと座って待っていた。
「ねぇ、お姉ちゃん、お願いがあるの。わたし1人で寝れないの。だから一緒に寝て欲しいの」
女の子はまるで小動物の様に小刻みに震えている。そんな風に言われたら断れるはずがない。
「もちろん。じゃあ一緒に寝よっか」
「本当? ありがとう!」
女の子は私の隣に来ると、ギュッとしがみついてきた。やばい、可愛すぎて萌え死にそう。
「ねぇ、お姉ちゃんっていい匂いだね!」
「えっ、そうかな? どんな匂い?」
「う~ん……石鹸の匂いがするの!」
女の子は私の胸に顔を埋めると、満足そうにそう答えた。
「そういえば、ご両親はいつ帰って来るの? 流石に知らない人が居たら驚かないかな?」
「う~ん、大丈夫だよ。お父さんもお母さんもしばらく帰ってこないの。わたしがいい子にしていたら帰ってくるって言ってたよ!」
女の子はニカっと白い歯を見せて笑顔を見せる。だけど目の奥には悲しみが混じっていた。
「ねぇ、わたしって悪い子なのかな? だかから帰ってこないのかな?」
突然、女の子のつぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「えっ、そんな事は……」
「じゃあ、どうしてお父さんとお母さんは帰ってこないの!」
女の子の声が悲痛な叫び声に変わる。その痛々しい姿に気がつくと私は女の子を優しく抱きしめていた。
「大丈夫。悪い子じゃないよ。だから安心して」
「でっでも、わたし、お姉ちゃんを誘拐したんだよ! だからお父さんもお母さんも帰ってこないのかな? わたしはただ寂しくて!」
「うん、大丈夫、分かっているよ。ご両親が戻って来るまで私も一緒に待ってあげる。だから泣かないで」
「えっ、本当? 本当に一緒に待ってくれるの⁉︎」
「うん、約束する」
女の子は涙を拭くと、キラキラした目で私を見つめる。
「ありがとうお姉ちゃん! 大好き‼︎」
女の子は私の唇にキスをすると、少しだけ恥ずかしそうに笑って「おやすみ」っと言った。
もしや今のって……おやすみのキス⁉︎ まさか私の初めてがこんな小さな子に奪われるとは思わなかった……
女の子は安心したのか、スヤスヤと小さな吐息を立てながら眠りにつく。
「おやすみ、また明日」
この子のご両親はいったいどんな人なのか? いつになったら帰って来るのか? 分からない事がまた増えてしまった。でも、1つだけ確かな事がある。
私はこの子を見捨てたくない! 必ずご両親に会わせてあげたい。それまでは側にいてあげよう!
私は女の子の頭を優しく撫でると、耳元で小さく「おやすみ」っと言って眠りについた。
* * *
「ねぇ、お姉ちゃん、起きて!」
誘拐2日目。目を覚ますと昨日と同じように女の子がピンク色のワンピースを着て、朝食の準備をしていた。
「おはよう~ もう起きていたの? 早いね」
「うん、だって朝ごはんの準備をしてたの! 一緒に食べよ」
女の子はパンとサラダ、それからオレンジジュースをコップに注いでいく。小さいのにしっかりしてるなぁ~
「あっ、ちょっと待ってね」
私はポケットからスマホを取り出すと、昨日送ったメールが届いているか確認してみた。
なんとなく予感はしていたけど、未読となっている。やっぱり心配しているよね? 隼斗も大丈夫かな?
「ねぇ、お姉ちゃんって何年生なの?」
「えっ、私? 中学3年生だよ」
「学校は楽しい?」
「うん、楽しいよ」
「そっか……昔と今、どっちが楽しい?」
「う~ん、今かな? 私ね陸上部に入っているの。毎日練習が大変だけど、楽しいよ。それに……どうしても勝たないといけない理由があるの」
そう、私にはどうしても勝たないといけない理由がある。だから何としてでもここから脱出しないと!
でも、その前に女の子をご両親に会わせてあげよう。そうしないと、またこの子が泣き出してしまう。それだけはしたくない。
「そっか……わたしも今が凄く楽しいよ。だから大人になりたくない! ずっと子どものままがいい。お姉ちゃんともずっとずっと一緒がいい!」
女の子は両手を広げて抱きつくと、満面の笑みを見せる。はぁ~ 可愛いな~ この子は天使なのかな?
「ねぇ、お姉ちゃん、今日もいっぱい遊ぼうね!」
女の子は目をキラキラ輝かせてトランプや本を取り出す。結局この日も2人で遊んで1日が過ぎていった。
流石にみんな心配しているよね? 隼斗も大丈夫かな?
女の子と遊ぶのは確かに楽しいけど、その反面、焦りと不安がより強まってきた。
もうすぐ今日が終わる。私はこんな事をしていてもいいのかな?
3章 志穂ちゃんとの思い出
※隼斗視点
9年前
あれはボクがまだ4歳の頃だった。一人っ子のボクにとって2つ年上のしほちゃんはお姉ちゃんみたいな存在だった。
保育園では一緒に泥団子や色水を作ったり、家に遊びに行ったりもした。
「隼斗です。遊びに来ました~」
ボクは背伸びをしてインターホンを押した。今日は待ちに待ったしほちゃん家のお泊まり会。でもこれはただのお泊まりじゃない。なんと翌日は海に行く事になっている。
「いらっしゃい、待っていたわよ。しほ~ 隼斗くんが遊びに来てくれわよ~」
扉が開いてしほちゃんのお母さんがボクの顔を見てにっこりと微笑む。
「分かった~ 今行く~」
2回からドタドタと階段を降りてくる足音が近づいてくる。
「いらっしゃい隼斗、早くおいで!」
しほちゃんはボクの手を繋ぐと自分の部屋に案内してくれた。まだボクには自分の部屋がないから羨ましい。
「さぁ、入って、入って!」
しほちゃんの部屋には大きなベットがあるし人形も沢山ある。それに絵本もある。カーテンはピンク色で、ハート柄のラグマットが可愛かった。
自分の好きなものが詰まった宝箱みたいなお部屋は、ボクにとって憧れの場所だった。
「ねぇ、何して遊びたい?」
「う~ん、じゃあババ抜きがしたい!」
「いいね~ やろやろ!」
しほちゃんは机からトランプを取り出すと器用にシャッフルをして1枚ずつ配っていく。
「隼斗から引いていいよ!」
「分かった」
ボクは1番右のカードを抜こうとした。その瞬間、しほちゃんの表情が少しだけ緩む。多分これがジョーカーだな。
「じゃあ、これにしよ!」
ボクは1番左のカードを抜いた。スペードの1、よし揃った!
「次はわたしの番ね!」
しほちゃんは真ん中のカードを抜くと、ペアのカードを重ねて捨てた。ゲームもいよいよ終盤戦だ。
「さぁ、好きなのを選んでいいよ!」
ボクは1枚だけカードをぴょんっと上に出してみた。
「ねぇ~ 何それ? ジョーカーなの?」
「さぁ、どうだろうね?」
しほちゃんはう~んっと唸り声を出す。あれこれ考えた結果、ぴょんっと上に飛び出したカードを選んだ。
そしてムッと頬を膨らませてボク
を見る。それジョーカーなんだよね~ 最終的にババ抜きはボクの勝利で終わった。
「2人とも、夕飯が出来る前にお風呂に入ってらっしゃい」
1階からしほちゃんのお母さんの声がする。
「隼斗、早く行こ!」
しほちゃんはタンスから着替えを取り出してボクを急かす。
「えっ、まさか一緒に入るの? ボクは男の子だよ?」
「いいじゃん別に、一緒に入ろうよ~」
しほちゃんはボクの手を引っ張って浴室に向かうと、目の前で服を脱いで素っ裸になった。まぁ、気にしていてもしょうがないか……
「ほら、隼斗も!」
しほちゃんに急かされてボクは着ていた服を脱いでカゴの中に詰め込んだ。
「隼斗、背中を洗ってあげるね!」
しほちゃんはフワフワの泡を作るとボクの背中を洗ってくれた。
「かゆい所はありませんか? お客さん?」
「お客さん? うん、大丈夫だよ」
しほちゃんはボクの背中を流すと、今度は頭も洗ってくれた。全身がサッパリして気持ちがいい。
「ありがとう、今度はボクが洗ってあげるね」
「本当? じゃあお願いしようかな?」
ボクは石鹸で綿飴みたいな泡を作ると、しほちゃんの背中を洗ってあげた。
「かゆい所はありませんか? お客さん」
「ふふっ、うん大丈夫だよ」
ボクはしほちゃんの真似をして背中を流すと、髪も洗ってあげた。女の子は髪が長くて大変だなぁ……短くすればいいのに。
「ねぇ、どうしてしほちゃんの髪は長いの?」
「えっ? う~ん、何となくかな? 隼斗は短い髪のわたしの方が好き?」
「う~ん、どっちも好きだよ!」
髪の長さなんて関係ない。優しくて面白くてお姉ちゃんみたいなしほちゃんがボクは大好きだった。
「2人とも~ そろそろ晩御飯が出来るから出てらっしゃーい」
台所からボクたちを呼ぶ声がする。それと一緒にカレーのいい匂いがしてきた。
「隼斗、体拭いてあげるからバンザイして」
「うん」
ボクらは髪を乾かしてパジャマに着替えた。リビングに向かうと、会社から帰って来たしほちゃんのお父さんがいた。
「おや、隼斗くん、いらっしゃい」
「お邪魔しています!」
スーツ姿のしほちゃんのお父さんはボクの頭をワシャワシャと撫でる。しほちゃん家の家族は皆んな優しくて大好きだ。
「さぁ、皆んなで頂きましょう」
この家のカレーはピリ辛で凄く美味しい。野菜やお肉も沢山入っていて豪華だ!
「ふぅ~ ご馳走様! 隼斗は先に部屋に戻っていて」
「えっ、でもしほちゃんは?」
「わたしもすぐ行くから大丈夫だよ」
「うん、分かった」
ボクは食べ終わった食器を片付けると、しほちゃんの部屋に向かった。
翌日
「おはよ~ 隼斗~ 起きて!」
翌朝、カーテンから差し込む光としほちゃんの声に起こされて、ボクは大きく伸びをした。
「おはよ~ って、あれ? しほちゃんだよね⁉︎」
目の前の女の子は、ピンク色のワンピースを着て椅子に座っていた。
「どうかな? せっかくのお出かけだからおしゃれしてみたよ! 似合うかな?」
「うん! 凄く似合ってるよ!」
普段は男の子が着るようなTシャツや短パンを履いているから一瞬誰なのか分からなかった。それにしても昨日と今日でまるで別人みたいだ!
「ほら、早く、隼斗も着替えて行くよ!」
「あっ、うん」
ボクは水着を履いてその上にズボンを履くと、部屋を飛び出した。
それにしても……ワンピース姿のしほちゃんは可愛いなぁ~
* * *
「よし、じゃあ出発しようか!」
しほちゃんのお父さんは車のエンジンをかけると、バックミラー越しにボクらの方を確認した。
「いよいよだね隼斗! 着いたらまず何する?」
「えっと……かき氷が食べたい! 後は砂浜でお城も作りたいし、お魚も見たい!」
「いいね! 面白そう!」
退屈な移動時間もしほちゃんと一緒なら凄く楽しい。もっとお喋りしていたい!
「さぁ、そろそろ着くから準備しておいてくれ」
運転席からしほちゃんのお父さんがボクたちに声をかける。あの急カーブを曲がれば海が広がっている。
絵本で見た空と海は青色だった。でも実際は青じゃなくて白だった。
一瞬目の前が真っ白になって何も見えなくなる。これが海? いや違う、眩しい、朝日だ!
急カーブを曲がった途端、顔を出した太陽がボクたちの目に飛び込んでくる。そして次の瞬間、悲鳴が聞こえてきた。
「あなた、前! 危ない‼︎」
しほちゃんのお母さんの声がしたと思ったが、何かがぶつかる音でかき消された。
そして謎の浮遊感に襲われた。何だこれ? 突然の出来事に頭の中が真っ白になる。
「いかん、早く車から出るんだ!」
しほちゃんのお父さんも何かを叫ぶ。車はガードレールを突き破って海に飛び込んでしまった。
窓の隙間から海水が侵入して来て冷たい。言われた通りドアを開けようとしたけどびくともしない。
そうこうしている間に窓の隙間から海水はどんどん侵入して車は沈んでいく。
「しほ、隼斗くんと逸れないようにしっかり手を繋いでいてくれ!」
しほちゃんはコックリ頷いてボクの手を痛いくらいギュッと握り締める。
「あなた、早くここから逃げないと……」
「大丈夫だ。必ず何とかする!」
しほちゃんのお父さんは窓ガラスに向かって何度も蹴ったり叩いたりして割ろうとした。その度に手から血が吹き出して赤く滲んでいく。
「頼む、割れてくれ!」
バギッと嫌な音がしてしほちゃんのお父さんは顔を顰める。そしてついに窓ガラスが割れた。
「さぁ、車が沈む前に早く脱出するんだ!」
ボクとしほちゃんは割れた窓ガラスから出て陸に向かった。なんとか無事にたどり着いたけど、しほちゃんのお父さんとお母さんがまだ来ない……
「あなた、シートベルトが外れない!」
「なんだって? 見せてくれ!」
沈みかけた車から2人の叫び声が聞こてきた。
「ねぇ、お父さん、お母さん、早くきて! 沈んじゃうよ! お願い!!!」
しほちゃんはパニックになって泣き叫ぶ。
でも、しほちゃんの願いは叶わなかった……
* * *
黒い服を着た大人たちが手を合わせながら泣いている。今日はしほちゃんのご両親のお葬式。ボクは動きづらい黒い服とズボンを履かされてじっと椅子に座らされた。
大人たちはヒソヒソと話をしたり、シクシクと泣いているが、ボクには全く聞こえなかった。とにかく今はしほちゃんの事が心配でそれ以外の事は一切頭に入ってこない……
いつの間にか葬式は終わっていた。ボクはすぐに席を立つと、大人たちの間を抜けてしほちゃんの元に向かった。
いつもの面影がどこにもない。こんなに悲しそうな姿は初めて見た……
「ねぇ、しほちゃん、その……」
普段なら会話に困ることはなかった。でも今日は上手く話せない。言いたい事はたくさんあるのに……
「しほちゃん、お父さんとお母さんは……」
「ねぇ、どうしてお父さんとお母さんが死んじゃったの!」
しほちゃんは大粒の涙を流して悲痛な叫びをあげる。遠くの方にいた大人たちは、何も言えずに悲しそうな目で見守っていた。
「どうして、どうしてわたしを置いていくの!」
しほちゃんが放つ言葉の1つ1つがボクの胸に深く刺さる。
もし逆の立場だったら間違いなくボクも泣いていると思う。じゃあそんな時、しほちゃんはなんて励ましてくれるのか? きっとしほちゃんならこう言う。
「大丈夫。ボクはしほちゃんを置いていかないよ。ずっと側にいるよ。だから泣かないで。しほちゃんが悲しむとボクも悲しくなるよ……」
本当はもっと他の事も言いたかった。もっと良い事を言いたかった。でも今のボクにはこれしか言えなかった。それがもどかしくて悔しい。
「隼斗……ありがとう」
しほちゃんは小さな声でお礼を言うと、ボクに抱きついてもう一度泣き崩れた。こんなに怯えているしほちゃんは初めてだった。
2つ年上のお姉さんみたいな存在。これまではずっと頼りっぱなしだった。でもこれからは違う。ボクがしほちゃんを守る番だ!
ボクはハンカチを取り出してしほちゃんの涙を拭いてあげた。そして、もう2度とこんな顔をさせない! っと胸に誓った。
4章 志穂ちゃんとの思い出②
※隼斗視点
あの事故から数年が経ち、ボクたちは小学生になっていた。少しずつしほちゃんは昔のような明るさを取り戻していった。
学年が違うため、毎日一緒に過ごす事は出来ないけど、休み時間や放課後はできるかぎり会いにいった。
でも、しほちゃんが中学に上がってからはほとんど会う事がなくなってしまった。
しほちゃんがいない小学校は退屈で仕方がなかった。早く中学に上がって前みたいに一緒に過ごしたい。その一心で卒業まで息を潜めるように静かに日々を過ごした。
そしてついに、その時が来た。
「卒業おめでとう!」
校長先生が体育館のステージの上からボクらを見渡す。ようやく……ようやく終わった。これでまたしほちゃんと一緒に過ごせる。
「これまでの小学校での学びを活かし、今後は中学でも……」
校長先生が何かを話しているけど、ボクの耳には全く入ってこない。ボクの頭の中はしほちゃんの事でいっぱいだった。
これでまた昔のように過ごせる。そう信じていた。でも現実は違っていた。2年という空白は子どものボクらにとってはあまりにも長過ぎた。
* * *
「隼斗も中学生かぁ~ 早いわね~」
今日は待ちに待った入学式。ボクは制服に着替えてリビングに向かうと、母親がボクの晴れ姿を見てしみじみと感想を述べた。
「忘れ物はない? ハンカチは持った?」
「大丈夫だよ。ボクはもう中学生だよ。子どもじゃないよ」
ボクは家を出ると、新しい学校に向かって一歩を踏み出した。初めて着た学ランはまだ硬くて、窮屈な感じがする。
「よう、隼斗、一緒に行こうぜ」
慣れない通学路を歩きながら中学校に向かっていると、後ろから自転車に乗った真也がやった来た。
「うん、いいよ!」
真也とは小学5年生の時に仲良くなった。確かあれは……野外学習の時だったかな?
それまではあまり話す事はなかったけど、班が同じになって一緒に活動をしていく中で仲良くなった。今では親友と呼べるほどの仲だ。
「なぁ、隼斗は部活どうするか決めたか?」
「もちろん、陸上部に入ろうと思う」
「陸上部か~ 隼斗は足が速いしすぐにエースになれるだろ」
「う~ん、そうなれるように頑張るよ」
本当は志穂ちゃんが陸上部だったから入る事にしたのだけどなぁ……
「よし、じゃあ早速中学まで競争しようぜ、次期エースさん!」
真也はそういうと、自転車を立ち漕ぎした。
「おい、待てよ、それはずるいだろ!」
ボクは鞄を脇に挟んで落ちないようにすると、真也の後を追いかけた。
* * *
教室に着くと既に各学校ごとにグループが分かれていた。ボクが通っていた小学校は人数が少なくてクラス替えというものがなかったから、知らない生徒と過ごすのは新鮮だった。
教室を見渡すと賑やかな奴もいれば、ずっと本を読んでいる奴もいる。中学校、様々な人種が集まったテーマパークの様な場所だった。
「なぁ、隼斗、放課後に部活見学があるんだってよ。一緒に行こうぜ」
「そうだね。早く放課後にならないかな~」
最初の1日は自己紹介や先生の紹介で終わった。正直どうでも良かった。早く志穂ちゃんに会いたい。
「お~い、隼斗、何ぼぉ~っとしてるんだ?」
真也がボクの目の前で手をひらひらと振る。ハッと我に返ると、他のクラスメイトは既にいなかった。
「早く行かないと部活見学に遅れるぜ」
「そうだね、よし、行こ!」
ボクは荷物をまとめると、グランドに向かった。野球部やサッカー部は全力で部活動に打ち込んでいる。
お目当ての陸上部はまさにグランドの中央でリレーの練習をしていた。
声をかけていいのかよくわからずぼんやりと眺めていると、さっきまでリレーをしていた男子が駆け寄って来た。
「君たち部活の見学?」
「あっ、はいそうです」
「そうか、ちょうど良かった、この後、男女混合のリレーがあるんだけどさ、1人たりなくてさぁ……良かったら練習に参加してみないか?」
突然の誘いに驚いたが、すぐに真也がボクの背中を押した。
「隼斗、これはチャンスだ。お前の足の速さを証明してこい!」
「えっ、でも、相手は陸上部だよ。流石にキツくないか?」
「なに、弱気な事、言ってるんだよ。ほら、行ってこい!」
真也に言われ仕方がなくボクは陸上部の先輩と共にグランドの中央に向かった。確かに足の速さなら自信があるけど……大丈夫かな?
「位置について……よ~い、どん!」
スタートの合図と共に陸上部がロケットダッシュを決める。第1走は男子同士の戦い。互角の接戦だった。
2走目は女子同士の戦い。これも男子に負けず劣らずの接戦だ。3走目で少し間が開いてボクらのチームが負けている。やばい緊張してきた……
「ねぇ、もしかして緊張してる?」
固唾を飲んで見守っていたから、対戦相手の存在を忘れていた。ボクと一緒に走る子は……
「えっ、しっ志穂ちゃん⁉︎」
まさかの対戦相手にボクは思わず二度見してしまった。2年ぶりの志穂ちゃんは昔の面影を残しつつも、より可愛くなっていた。
「お~い、隼斗、しっかりしろ!」
外で見守っていた真也の声に呼び戻されてボクは頭を振った。今はこのリレーに集中しないと。
「じゃあ、先に行ってるね!」
志穂ちゃんはバトンを受け取ると、一気にボクから距離を広げていく。それは空白の2年間とよく似ていた。
このままだと小学生の時と同じようにまた置いていかれてしまう。そんなのはもう嫌だ!
「待って、行かないで!」
ボクはバトンを受け取ると、腕がちぎれそうなくらい振って志穂ちゃんの背中を追いかけた。
肺が潰れそうなくらい苦しい、頭もクラクラする。でも、もう置いていかれるのはごめんだ!
「行け~ 後少し!」
「隼斗、最後まで気を抜くなよ!」
周りで見学していた生徒の歓声がぼんやりと聞こえてくる。ゴールまで後10メートル。負けてたまるか!
体は今すぐ止まりたいと訴えてくる。でもそれを無視してボクは最後の力を振り絞った。そして、大接戦の末、わずか数センチの差で志穂ちゃんに勝利した。
* * *
「ねぇ、隼斗待って~」
部活見学が終わり、真也とも別れて自宅に向かっていると、後ろから体操着姿の志穂ちゃんが走ってきた。
「さっきのリレー凄かったよ! 隼斗、足速かったんだね」
久しぶりにあった志穂ちゃんは昔の様に明るく元気だった。でも、それに比べてボクは変わってしまった……
「えっと、はい、ありがとうございます」
何故かボクの口から出て来たのは、堅苦しい敬語だった。おかしいな……昔は普通に話せたのに。
「今は学校じゃないから敬語じゃなくていいんだよ」
志穂ちゃんはそう言ってくれたけど、何故か普通の喋り方が分からない。やはり2年という空白がボクたちの距離感を狂わせてしまったようだ。
「隼斗はもう陸上部にするって決めたの?」
「えっと、はい、志穂ちゃ……志穂先輩が陸上部って聞いたからそれで気になっていて……」
一瞬昔の様にちゃんと言いそうになってボクは慌てて言い直した。中学に上がると上下関係がとても厳しくなる。
特に運動部だと、先輩に片付けをやらせたらだめ、先輩よりも早く着いていないと怒られる。などと噂で聞いた。
「そっか、じゃあお互い頑張ろうね!」
志穂ちゃんはニコッと微笑を浮かべる。ボクもぎこちなく笑みを浮かべて返事をした。それにしても……2年間で随分と雰囲気が変わった気がする。
顔つきが女性らしくなっているし、性格も少し落ち着いた気がする。それに体操着の胸部がふっくらと膨らんでいた。
「あっ、ごめん、ちょっと病院に寄って行くから、隼斗は先に帰っていて」
「えっ、病院? どこか悪いのですか?」
「ちょっとお婆ちゃんの体調が悪くてね……でも大丈夫心配しないで」
志穂ちゃんはそう言うと、ボクに手を振って市内の病院に向かって行く。
本当はもっと話したい事があった。もっと聞きたいこともあった。それなのに上手く言葉が出て来ない。それがもどかしくて仕方ない。
次は小学校の事やよく家で遊んだ事を話そう。きっと昔の楽しかった思い出を話題にすれば上手くいくはずだ。
(よし、まだまだこれから、次は絶対に成功させる!)
ボクは気持ちを切り替えると自宅に向かった。でも、この日を境に志穂ちゃんは学校に来なくなった。
5章 志穂の家
※隼斗視点
あの男女混合リレーをした翌日、陸上部の男子生徒がボクのクラスに来た。そしてスカウトをされた。
最初の1週間程は部活動の流れや先輩の名前を覚えるのに忙しくて大変だったけどすぐに慣れた。でも1つだけ心配なことがある。
リレーをして一緒に帰った日から志穂ちゃんが学校に来なくなってしまった。
「なぁ隼斗、志穂と幼馴染だろ? あれ以来、学校に来ていないから様子を見て来てくれないか?」
1週間位経ったある日、陸上部の顧問の先生がボクに声をかけてきた。
「はい、分かりました」
ボクはシューズを脱いで通学用の靴に履き替えると、志穂先輩の家に向かった。
* * *
「志穂先輩、居ますか?」
チャイムを押しても返事がない。しばらく待ってからもう一度押してみたけどやっぱり駄目だ。
軽く扉に手をかけると、ゆっくりとドアが開いた。入っても大丈夫かな?
「志穂先輩~ 入りますよ~」
中は電気が付いていないため薄暗くて不気味だった。一瞬外出中なのかと思ったけど、靴はあるし鍵が掛かっていないからそれはない。
「志穂先輩、居ますか~?」
廊下を進み、リビングを覗くと、食べ終わった食器がテーブルに置いたままだった。キッチンを覗くと、そこも洗い終わっていない食器で山積みだ。
醤油や味噌やキムチなどの様々な匂いが入り混じっていて鼻がおかしくなりそうだ。
フライパンやまな板も出しっぱなしで片付けられていない。お鍋の蓋も出してある。でもここで、ふとボクは気づいた。
包丁だけが何処にも見当たらない。床に落ちているわけでもない。変だな……料理をするには絶対に必要なはずなのに……
「志穂先輩、上にいますか?」
ボクはキッチンを後にして2階に上がった。手すりを掴むと、糊を触ったようなネチャネチャとした感触がした。
気持ち悪っ! と思って手を離すと、ボクの右手が赤く染まっていた。これは……血だ!
さっきから感じていた嫌な予感が確信に変わる。ボクは階段を駆け上がると、志穂ちゃんの部屋に向かった。
息を整えるのも忘れて扉を開けると……
「なんだよ、なんだよこれ……」
あまりにも悲惨な状況に頭の整理が追いつかない。ボクは震える手を支えてすぐに救急車を呼んだ。
床に飛び散った真っ赤な血、赤く染まった包丁の刃、そしてベットの上で志穂ちゃんが薄っすらと目を開けたまま倒れていた。
その手首からは大量の血を流して……
6章 あの日の事故
※志穂視点
女の子に誘拐されてどれくらい経ったのだろう? この部屋にはカレンダーがないため曜日の感覚が分からなくなってしまった。
「ねぇ、お姉ちゃん、今日は何をして遊ぶ」
今日も女の子は可愛らしいピンク色のワンピースを着て私にピタッとくっ付いて来た。
毎日トランプをしたりアニメを見たり一緒にお昼寝をする。そんな緩やかな日々が続いていた。
でも、漠然とした不安が日に日に強くなってきた。
本当に私はこんな事をしていてもいいのかな? 何かやらなければいけない気がする。そんな目に見えない焦りが押し寄せてくる。
「ねぇ、お姉ちゃん聞いてる?」
「えっ、あっ、ごめん、何して遊ぶ?」
肩を揺すられて我に返ると、女の子はぷくぅ~ っと頬を膨らませていた。
「お姉ちゃん、わたしとの遊びに飽きたでしょ?」
「えっ、いやそんな事はないよ。ただ学校の事とかが心配になって……」
今頃皆んなどうしているかのかな? 捜索願いとか出ていたらどうしよう? 出来ることなら早くここから抜け出したいけど、外には出れないしな……
それに、この子の両親が戻ってくるまで一緒に待つと約束したし……
「そうだ、ねぇ、言いこと思いついた!」
私はぽんっと手を叩いて立ち上がった。
「ねぇ、一緒にご両親を探しに行かない?」
「えっ、探す? でもどうやって?」
「簡単だよ。このど◯でもドアを使えばいいんだよ!」
女の子の部屋の扉は不思議で、行きたい場所を願うとそこに繋がっている。
以前、大量のジュースを飲まされてトイレに行きたいと念じたら、本当にトイレに繋がっていた。
でも、家に帰りたいと願うと何故かこの部屋に戻ってきてしまう。女の子曰く『お姉ちゃんが本当に行きたい場所はここなんだよ』っと言われた。
まだまだ謎は多いけど試してみる価値はある!
「さぁ、そうと決まったら一緒にご両親を探しに行くよ!」
「うん、行こ!」
女の子は嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。それと一緒に着ていたワンピースがヒラヒラ揺れる。
その瞬間、私の中に眠る古い記憶が蘇った。あれは確か……隼斗と海に行く日だったかな? 前日はお泊まりをして次の日は海に行くはずだった。
翌日、私は気合を入れておしゃれをして可愛らしいワンピースを着たはずだ。でも、どうしてそんな事を思い出したのだろう……この子を見ていると、昔の自分を思い出す。
「お姉ちゃん、準備はいい?」
「あっ、うん、大丈夫だよ」
「本当に? 怖かったらまだいいんだよ」
珍しく女の子が弱気な発言をする。普段なら『早く行こうよ!』などと急かしてきそうなのに。
「心配しないで、一緒に行こ!」
私は女の子の手を握ると、『ご両親の元に行きたい!』っと願って扉を開けた。
* * *
青い空、青い海、そして心安らぐ波の音……ではなくて慌てふためく人の声。
「あれ? まさかここって……」
扉の先はあの日、隼斗と行こうとした海が広がっていた。
「なぁ、聞いたか、事故だってよ」
「車が海に突っ込んだんだろ? 中に乗ってた人は大丈夫なのか?」
「なんか、大人2人と子供が2人いたらしいぜ」
ガヤガヤと話し声が聞こえてくる。事故? 車が海に?
私は野次馬の間を抜けて状況を確認した。砂浜に警察やお医者さんがいる。その近くで小さな子供が2人いた。
女の子は泣き喚いていて、男の子はその子の手を握りしめて海を見つめている。
あの男の子は……間違いない、隼斗だ! じゃあ隣にいるのって……
遠目からでもよく分かる。ピンク色のワンピースを着た女の子は6歳の頃の私だ。そして今隣にいる女の子と容姿が同じだった。
「お姉ちゃん……帰ろ」
女の子が私の手を引っ張ると、野次馬の間を抜けていつもの部屋に戻った。
* * *
「ねぇ、貴方はもしかして……私なの?」
いつもの部屋に戻ると、私は疑問に思った事をストレートに聞いてみた。すると女の子がペコリと頭を下げた。
「今まで黙っていてごめんなさい。わたしの名前は宮崎志穂。お姉ちゃんがまだ6歳だった頃の姿だよ」
「6歳の私……ごめん、ちょっと待ってね……」
衝撃の事実に頭が混乱する。確かにこの子は幼い日の私だ。だとしたら……
「ねぇ、ここは一体何処なの? もしかして天国とか?」
「う~ん、ちょっと違うよ。ここはお姉ちゃの大切な物が詰まった思い出の場所だよ」
「思い出の場所……」
うん、確かにその通りだ。ベットの周りを囲うようにあるぬいぐるみ、綺麗に整頓された本棚。ピンク色のカーテンにハート柄のラグマット。
自分の好きなものが詰まった宝箱みたいなこの部屋は、私にとって大切な場所だった。
「お父さんとお母さんはもういないけど……ここには沢山思い出が詰まっているんだよ。だから何処にも行かないで! ずっとここにいていいんだよ!」
確かに女の子──昔の私の提案は魅力的だ。でも……
「ごめんね……隼斗やお婆ちゃんが待っているの。だから……」
だから……さようなら。そう言おうとしたが……
「どうして、どうしてお父さんもお母さんもお姉ちゃんもわたしを置いていくの! わたしも連れて行ってよ!」
女の子は目を潤ませると、大声で泣き叫んだ。悲痛な叫びが私の胸に鋭い矢となって深く突き刺さる。
「もう嫌だ、生きていたって悲しいだけだよ。もう死にたい!」
女の子は机の引き出しを開けると、中からハサミを取り出した。その瞬間、私は女の子に飛びついて腕を捕まえた。
「離してよ、わたしもみんなの所に行くの!」
「何するつもり⁉︎ ダメでしょ、そんな事したら! 貴方が死んだら皆んなが悲しむでしょ!」
「悲しんでくれる家族なんていないよ!」
「そんな事ない! お婆ちゃんや隼斗がいるでしょ? だから命を粗末にしないで!」
私は無理やり女の子からハサミを取り上げて厳しく叱りつけた。
「大丈夫だよ、貴方は1人じゃないからね」
私は女の子の頭を優しく撫でてあげた。確か隼斗もこんな風に私を慰めてくれた気がする。今度は私が幼い日のわたしを慰めてあげなくちゃ!
一体どれくらい時間が経過したのだろう? 私は女の子が落ち着くまで優しくあやしてあげた。
「ごめんね、お姉ちゃん……」
「もう、大丈夫?」
「うん、平気だよ。やっぱり行っちゃうの?」
「そうだね、いつまでも過去にいるわけにはいかないからね……」
私は過去のわたしにお別れを告げると、思い出の詰まった部屋をしっかり目に焼き付けて扉を開けた。
7章 お婆ちゃんと過ごした日々
※志穂視点 小学生~中学生
「志穂~ 早く起きないと、遅刻するよ~」
一階から聞こえてきた声に起こされて私は重たい瞼を持ち上げた。あれいつの間に寝ていたのだろう? あとここは……
ベットの周りにある大量のぬいぐるみ、整頓された本棚、ピンク色のカーテンにハート柄のラグマット。
間違いない。女の子の部屋だ。でもどうして? 確かにお別れをしたはずなのに……
「志穂~ もうご飯が出来たよ~」
それと……さっきから私を呼んでいるのは誰だろう?
「ちょっと待って~ 今行く!」
私はベットから出ると部屋の扉に手をかけた。あれ? おかしいな? ドアノブが前よりも高い位置にある気がする。こんなもんだったかな?
とりあえず部屋を出ると、廊下が広がっていた。行きたい場所に連れて行ってくれる不思議なドアじゃない!
階段を降りてリビングに向かうと、お婆ちゃんが朝食の準備をしていた。
「おはよう志穂、今日からいよいよ小学生だね。とりあえず顔を洗っておいで~」
いよいよ小学生? とりあえず顔を洗いに洗面所に向かうと、背が低くて顔も幼い私が鏡に写っていた。
今日から小学生……という事はここは8年前の自宅だ。でも、どうしてこんな所に繋がっていたのかな?
まだ分からない事が多すぎる。でももう少し過ごせば何かが分かりそうな気がした。
私は朝食を済ませて着替えると、ランドセルを背をって軽く身だしなみを整えた。朝食の後片付けをしていたお婆ちゃんが手を止めて私に手招きをする。
「うん、似合っているね。お父さんとお母さんにも見せてあげて」
お婆ちゃんが私をお仏壇の前に連れていく。そこにはお父さんとお母さんの顔写真が飾ってあった。
分かってはいたけど、改めてもう会えないと分かると胸が苦しくなる。
「大丈夫だよ、きっと天国にいるお父さんとお母さんも志穂の晴れ姿を見て喜んでいるよ」
私は涙を堪えて頷くと、元気な声で「行って来ます!」っと言って家を飛び出した。
小学校の生活はあっという間に時間が過ぎていった。運動会や授業参観の時は必ずお婆ちゃんが来てくれたし、放課後は隼斗と日が暮れるまで遊んだ。
でも中学に上がると、平和な日常が崩れていった……
* * *
「志穂~ 早く行かないと遅れるよ~」
一階から聞こえてきた声に起こされて私は重たい瞼を持ち上げた。朝からうるさいな……
「志穂~ 起きてる?」
「うるさいな~ 今行くって!」
私はざっとSNSの確認を終えると、リビンングに向かった。ここ最近、無性にお婆ちゃんに対してイライラする。そして……そんな自分にもイライラする。
「おはよう志穂、今日からいよいよ中学生だね。とりあえず顔を洗っておいで」
中学生……という事は2年前か……この謎の日々は文字通りあっという間に時間が過ぎていく。一体私は何を見せられているの?
起きたばかりの頭は働かない。とりあえず私は洗面所で顔を洗った。小学生の時よりも身長が伸びている。それに顔つきも少しだけ大人びた気がする。
私はリビングに戻って朝食を済ませると、制服に着替えて身だしなみを軽く整えた。
朝食の後片付けをしていたお婆ちゃんが手を止めて私に手招きをする。
「うん、似合っているね。お父さんとお母さんにも見せてあげて」
仕方がなく私は仏壇の前に座って手を合わせた。
「行ってきます、お父さん、お母さん」
どうせこんな事をしても意味がない。もうこの世にいない人に私の声は届くはずがない。
私は軽くため息をつくと、重い足取りで家を出た。
* * *
「はぁ~ やっと放課後だ~」
中学校生活が始まって数ヶ月。正直退屈だった。勉強は苦手じゃないけど、好きなわけではない。でも、部活は違った。
陸上部に入部した私は毎日練習に打ち込んだ。基礎体力をつけるために筋トレをしたり長距離を走ってスタミナもつけた。
1ヶ月後には大会がある。そこに向けて来る日も来る日も練習を続けた。そして当日を迎えた。
* * *
「続きましては……中学女子の部、中距離走です」
ついに始まった。私は深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、位置についた。
審判のスタートの合図とともに一斉にみんなが飛び出していく。私は上位走のポジションに着いた。
上位走はグングンペースを上げていく。私は置いていかれないように必死に食らいつた。
いよいよ終盤戦。私はここで勝負に出た。ペースを上げて1人、また1人と抜いて今の順位は2位だ。
残り1週、観覧席の方から熱狂的な応援の声が微かに聞こえてくる。
トップの子とは10メートル程距離がある。まだいける。ラストスパートに向けてさらにペースを上げようとすると……
(えっ……嘘……)
足からガクッと力が抜けて転んでしまった。その間に後方にいた子たちが私を追い抜いて行く。すぐに立ち上がって走り出そうとしたが、右足に激痛が走る。
(痛った! やばい! どうしよう⁉︎)
どうやら転んだ時に足を痛めてしまったようだ。順位は最下位。トップの子と半周ほど距離がひらいてしまった。
足を止めた瞬間、疲れが一気に押し寄せて来る。
(もうダメだ。勝てるはずがない)
まさに諦めかけた時だった、毎朝聞き慣れた大きな声が私の耳に届いてきた。
「志穂、まだ諦めたらダメだよー!」
嘘でしょ? っと思って観覧席の方を見ると、そこにはお婆ちゃんがいた。どうしてここに?
「大丈夫、志穂ならまだ行けるよー!」
普段はうるさいと思っていたのに、この時はすごく頼もしい。
私は最下位。正直ここからどう頑張っても勝てない。でも、手を抜いて走ったら自分に負ける気がする。それだけは嫌だ!
私は『もう走りたくない!』っと訴える足に力を入れて最後の一周を走り切った。結果は最下位……分かってはいたけど、やっぱり悔しい……
右足の痛みと涙を堪えて応援席の方に戻ると、顧問と部員が拍手で迎えてくれた。
「志穂、よく最後まで走り切ったな!」
「志穂ちゃん、お疲れ様! 私感動したよ!」
みんなが私に労いの言葉をかける。その中にはお婆ちゃんもいた。
「志穂、よく頑張ったね」
他の部員の親は見学に来ていない。私のお婆ちゃんだけが見に来ていた。中学というのは周りと少し違うだけで目立ってしまう。
だから授業参観の日にお婆ちゃんが来るのが嫌だった。他のクラスメイトはお父さんかお母さんが観に来るから……
でも、今日だけは心の底から嬉しいと思えた。
* * *
「志穂~ 早く行かないと遅れるよ~」
「うん、分かってる。今行くね~」
私はベットから出ると軽く伸びをしてリビングに向かった。
あの大会の一件があってから私とお婆ちゃんの関係は昔のように良くなった。今思い返せば反抗期だったのかもしれない。どうしてあんなにイライラしていたのか不思議だ。
「おはよう志穂、もう中学2年生だね。早いね~」
「うっ、うん、そうだね」
私は曖昧に返事をして朝食のトーストにかぶりついた。本当にあっという間だ。一体この先に何が待っているのだろう?
「ごちそう様、行ってくるね」
私は食器を片付けると、軽く身だしなみを整えて学校に向かった。
* * *
「志穂、お前、部長にならないか?」
放課後、いつも通り練習をしていると、顧問の先生が話しかけてきた。
「部長ですか? 私に務まりますか?」
「あぁ、志穂は向いていると思う。どうだ? やってみないか?」
正直、本当に私に務まるのか不安だった。でも先生の言った通りだった。
元から面倒見のいい性格のおかげか、後輩たちからは慕われたし、先輩からも「志穂が部長なら引退しても安心だな~」っと言ってもらえた。
部長になってしばらく経ったある日、顧問の先生から相談室に呼び出された。
「志穂、お前スポーツ推薦を狙ってみないか?」
「なんですかそれ?」
どうやら話によると、大会などで優秀な成績を収め、高校でも部活を続ける事を条件に学費や入学金が軽減されるそうだ。
先生の提案はとても魅力的だった。もしスポーツ推薦がもらえたらお金の面でお婆ちゃんに迷惑をかけずに済む。
「なるほど……先生、私推薦が貰える様に頑張ります!」
「そうか、なら一層、練習を頑張らないとな」
「はい!」
新しい目標が生まれてやる気が湧き上がって来た。お婆ちゃんにお金の面で迷惑をかけたくない。その一心で前よりも練習に打ち込んだ。
でもそんな思いとは裏腹になかなかタイムが上がらない。何だか最近頭と腰が痛い。今までこんな事はなかったのに……
一体何が起きているのか? その答えは翌朝トイレに行った時に判明した。どうやら生理が訪れたようだ……
* * *
中学1年生の時はお婆ちゃんに対するイライラや周囲の目線など心の変化に悩まされた。でも次は体の変化が訪れた。
お婆ちゃんは喜んでいたが、私としては勘弁してほしい。今はスポーツ推薦を狙うために結果が欲しい。成長期なんて来なければいいいのに……
あれこれ練習方法を変えてみたけど思うように結果が出ない。でも体の成長は止まる事がない。
最近胸が膨らんできた。体操服姿だとそれがより一層分かる。しかも走ると揺れるから男子たちに見られている気がして嫌だった。
クラスの女子の会話は男子の事ばかりだった。誰が好きだの、誰々が付き合っているなど、部活一筋の私には関係ない。だから実は自分がモテている事なんて知るよしもなかった。
中学2年の時は自分の体の変化に戸惑ったが、3年生に上がるとだいぶ落ち着いてきた。
始業式が終わり、そろそろ新1年生が部活の見学に来る時期だ。数名の女子のグループや男子たちが見学をしている。
その中に隼斗の姿を見つけた。
* * *
「いちについて、よ~い、ドン!」
男子陸上部の子の提案で、男女混合のリレーが始まった。
スタートの合図と共に陸上部がロケットダッシュを決める。第1走は男子同士の戦い。互角の接戦だった。
2走目は女子同士の戦い。これも男子に負けず劣らずの接戦だ。3走目で少し間が開いて私たちのチームがリードしている。
「ねぇ、もしかして緊張してる?」
アンカーを任された私は、同じくアンカーを任された隼斗に話しかけてみた。もう2年ぶりかな? あんなに小さかったのに今は私と同じくらい背が高くなっていた。
「えっ、しっ志穂ちゃん⁉︎」
隼斗は大きく目を見開いて私の顔を2度見する。その声は前みたいに高くなくて、こもった低い声だった。本当に少し見ない間に大きくなったなぁ~
「お~い、隼斗、しっかりしろ!」
外で見守っていた子が隼斗に声をかける。あの子は友達かな?
「じゃあ、先に行ってるね」
私はバトンを受け取ると、ゴールに向かって全力で走った。その後ろを隼斗がものすごいスピードで追いかけてくる。
「行け~ 後少し!」
「隼斗、最後まで気を抜くなよ!」
周りで見学していた生徒の歓声がぼんやりと聞こえてくる。ゴールまで後10メートル。大接戦の末、わずか数センチの差で私は負けてしまった。
* * *
「ねぇ、隼斗、待って~」
部活が終わり家に向かっていると、隼斗の後ろ姿を見つけて私は声をかけてみた。
「さっきのリレー凄かったよ! 隼斗、足速かったんだね」
小学生の時は毎日一緒に帰っていた。でも中学に上がると部活動が忙しくて会う機会も無くなってしまった。
だからこんな風にまた一緒に帰るのは久しぶりだった。嬉しいな~
「えっと、はい、ありがとうございます」
隼斗は律儀に頭を下げる。あれ? なんだろう、言葉使いは丁寧なのにどこか距離を感じる。そうか、敬語だからか。
「今は学校じゃないから敬語じゃなくていいんだよ」
私は緊張をほぐすつもりで言ってみたが、隼斗はぎこちなく笑みを浮かべる。どうやら2年という空白が私たちの距離感を狂わせてしまったようだ。
「隼斗はもう陸上部にするって決めたの?」
「えっと、はい、志穂ちゃ……志穂先輩が陸上部って聞いたからそれで気になっていて……」
「そっか、じゃあお互い頑張ろうね!」
まぁ、最初は緊張していると思うから仕方がない。慣れてきたらきっと昔みたいに気兼ねなく話せるはず。でも、このままずっとこの調子だったらどうしよう……
「あっ、ごめん、ちょっと病院に寄って行くから、隼斗は先に帰っていて」
「えっ、病院? どこか悪いのですか?」
「ちょっとお婆ちゃんの調子が悪くてね……でも大丈夫心配しないで」
実は1ヶ月ほど前からお婆ちゃんは体調を崩してしまい今は入院している。だから部活の後は病院に寄ってから家に帰るのが習慣になっていた。
「じゃぁ、また明日!」
私は手を振って隼斗と別れると市内の病院に向かった。
8章 お婆ちゃんとの思い出②
※志穂視点
「あら、志穂ちゃんいらっしゃい。今日もお婆ちゃんのお見舞いかしら?」
「はい、そうです」
ここ最近、ずっとお見舞いに通っているため、病院で働いている人とは顔馴染みになっていた。
階段を上がり廊下を進み1番奥の部屋にお婆ちゃんがいる。せっかくだし久しぶりに隼斗に会った事を話してあげよ。
「お婆ちゃん、来たよ~」
ここは4人部屋だけど、残りの3つは誰も使っていない。だから実質個室みたいな感じだった。
普段は私が声をかけるとすぐに返事がある。でも今日は返事がない。それにベットの周りを囲うようにカーテンが閉められている。普段はこんな事しないのに……
「ねぇ、お婆ちゃん、寝てるの?」
私はそっとカーテンをめくってみた。予想通りお婆ちゃんは眠っていた。でも、こんなに呼びかけても気づかないのはおかしいな……
「お婆ちゃん、ねぇ、聞いて」
軽く肩を揺すってみたけど反応がない。まさかと思って口元に手を当ててみると……
(えっ、嘘でしょ⁉︎)
お婆ちゃんは呼吸をしていなかった。きっと何かの間違いだと思ってもう一度確認してみたけど、結果は同じ。私はすぐにナースコールのボタンを押した。
* * *
「17時48分、ご臨終です」
主治医の先生が腕時計を確認してそう告げると、静かに部屋を出ていく。一歩後ろで様子を見ていた看護師はそっと私の肩に手を置く。
その後の事はまるで夢の中の出来事みたいでよく覚えていない。書類を書いたり手続きをする事が多くて大変だったのは覚えているけど……
気がつくと私は自宅に戻っていた。2階建の一軒家。私1人にはこの家は大き過ぎる。
「ねぇ、お婆ちゃん……」
もしかしたら全部これは夢で、お婆ちゃんは自分の部屋にいるんじゃないか? そんな淡い希望を持って扉を開けてみたが、当然誰もいなかった。
8畳ほどのこの部屋からはお婆ちゃんの香りがする。6歳の頃に両親を失った私にとってお婆ちゃんは親みたいな存在だった。
お婆ちゃんはいつも私の側にいてくれた。困った時は何でも相談したし、反抗期の時は強く当たってしまった事もあるけど、決して私を見捨てる事はなかった。
だから何か恩返しがしたくて、せめてお金の面で迷惑をかけたくなくてスポーツ推薦を狙った。それも今は無意味となってしまった……
「ねぇ、どうしてみんな私を置いていくの?」
お父さんもお母さんもお婆ちゃんも、みんな私を置いていく。もう私には家族がいない。その孤独感が私を狂わせた。
それから数日が経過した。葬式は無事に終わり、私は顔も知らない遠くの親戚に引き取ってもらう事になった。
「もう……いいや、生きてたって何もいい事なんてない」
正直、もうどうでもよかった。この先、ずっと私は1人ぼっちなんだ……
私はおもむろにキッチンに向かうと、包丁を取り出した。刃先に触れると手から赤い血がポタポタとこぼれ落ちる。その瞬間だけ生きている事が実感出来た。
しばらく掃除をしていなかったため、部屋は散らかっている。私は床に落ちているゴミを踏みつけながらリビングを後にした。
「ねぇ、みんな……私もそっちに行ってもいいかな? いいよね?」
私は階段の手すりを掴みながらゆっくりと自分の部屋に向かった。
ベットの周りを囲う様にいるぬいぐるみ。これはお婆ちゃんが買ってくれたものだ。壁際にある本棚と絵本はお父さんとお母さんが私の誕生日の時に買ってくれたもの。
この部屋は私の──私の家族の思い出が沢山詰まっている。以前女の子が『この扉は行きたい場所に繋がってるの!』っと説明してくれた。
うん、確かにその通りだと思う。こうして今もこの部屋にいるのだから……
「ごめんね、私、頑張るって言ったのに……やっぱり無理だったよ……」
私は自分の部屋を見渡すと、袖をめくって包丁を振り下ろした。
* * *
生暖かい何かが床に広がっていく。これは……私の血だ。これでやっと家族の元に行ける。はずだったのに……
「ちょっとお姉ちゃん! 何やってるの‼︎」
重たい瞼を持ち上げて辺りを見渡すと、6歳のわたしがプクッと頬を膨らませて立っていた。
「あれ? どうしてここに?」
「お姉ちゃんが心配だったから見に来たの。ねぇ、一体何をしたの!」
女の子は腰に手を当てると、厳しい口調で私を叱りつける。
「ダメでしょ! 死んだらお婆ちゃんや隼斗が悲しむ。だから命を粗末にしちゃダメってお姉ちゃん言ってたよね?」
そうだ、うん、確かにその通りだ。以前は女の子を慰めてあげたのに、いざ自分の事になると分からなくなってしまった。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
私はまるで親に怒られた子どもみたいに、何度も何度も女の子に謝った。私はなんてバカな事をしようとしたのだろう……
これまで生きてこれたのは、決して私1人の力ではない。両親がいて、お婆ちゃんが支えてくえたから今日まで生きてこれた。
それを自分の手で終止符を打つのは、皆んなを裏切る様な行為だ。
「全くしょうがないなぁ~ お姉ちゃんは1人じゃないよ! 大切な人が待ってるでしょ?」
女の子はまるで私が以前やったように優しく頭を撫でてあやしてくれた。まさか幼い自分に励まされるとは思わなかった。
「さぁ、早く元の場所に戻って! 隼斗が呼んでるよ!」
その言葉を最後に私の意識は完全になくなった。
最終章
「志穂ちゃん、そろそろ目を覚ましてよ。ねぇ、聞いてる?」
誰かが私を呼んでいる声がする。おかしいなぁ……もう朝なのかな?
「はぁ……ダメか……また、明日も来るね」
なんとなく気配で誰かが私の元から離れていくのが分かる。
(ちょっと待って! 行かないでよ!)
何故か分からないけど、置いていかれるのが凄く怖い。すぐに起き上がって後を追いかけたいのに体が重くて動かない……どうして?
(お願い、行かないで、お願いだから!)
「だめ……行かないで……」
ようやく口から出て来た言葉が、離れていく人の足を止めた。
「えっ、志穂ちゃん? 今、何か言った?」
その声の主は男の子だった。昔から何度も聞いたその声は安心するし、懐かしい気持ちになる。
「お願い……行かないで……」
弱々しく伸ばした私の手を誰かが優しく握り締める。
「よかった……心配したんだよ」
男の子の声は涙まじりで、聞いているこっちが苦しくなる。私はゆっくりと起き上がると、その子に抱きついて顔を埋めた。
「心配かけてごめんね……隼斗」
数日後
「あのね、私……1週間も昏睡状態だったみたい……」
私は家族のお墓の前で手を合わせると、これまでの事を軽く説明した。
「昏睡状態の時にね、私……幼い自分に誘拐されたの」
今思い返してもあの出来事は不思議だった。幼い日の自分と遊んだり、小学生と中学生をもう一度体験するとは思わなかった。
「それでね、目が覚めたら隼斗がいて思わず抱きついちゃったの。ちょっと恥ずかしかったなぁ~」
私は家族に報告を終えると、もう一度手を合わせて目を閉じた。そこに誰かの足音が近づいて来る。
「志穂ちゃん、もう終わった?」
ゆっくりと目を開けると、一歩離れた場所に隼斗が立っていた。
「うん、もう終わったよ。行こっか」
「あのさ……お墓の前で何を話していたの?」
「ふふっ、気になる?」
「まぁ、うん、結構長い間話しているなぁ~ っと思って」
隼斗の言葉はもう敬語じゃなかった。中学特有の空気感に最初は困惑したけど、今はすっかり昔のような関係に戻っていた。
「実は私……誘拐されていたんだよ」
「誘拐? 何それ?」
隼斗はキョトンっと首を傾げる。まぁ、そうなるよね。
「ふふっ、なんでもない」
私は冗談ぽく言うと、今度は真剣な表情で隼斗を見つめた。
「あのね、よく聞いて。私……顔もよく分からない親戚の人に引き取られるの。だから隼斗ともお別れなんだ……」
「えっ、そっそうなの!?」
隼斗は大きく目を見開いて驚く。出来る事なら私だって隼斗の側にいたい。でも、中学生の私では1人で生きていくのは難しい……
「そっか……そうだよね」
隼斗は自分に言い聞かせるように呟くと、ギュッと拳を握り締めて私を見あげた。
「じゃあ、大きくなったらボクが志穂ちゃんを誘拐しに行くね」
「えっ、誘拐?」
冗談だと思ったが、隼斗の目は本気だった。誘拐しに行くって……迎えに来るって事だよね? それってつまり……
言葉の裏に隠された意味を理解した瞬間、頬が赤く染まって火照り出す。
「だから……それまで待っていてくれる?」
隼斗もどこか恥ずかしそうに目を逸らして聞いてきた。
「うん、わかった。待ってるね!」
私は笑みを浮かべて頷くとお墓を後にした。沈みかけたオレンジ色の夕日が2人を優しく照らす。
どうやら次は、隼斗に誘拐されるようだ。
─完─
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