4 / 12
『真昼間』
しおりを挟む
隣同士の部屋に住んでいる律悠と玖一。
彼らは付き合い始めてすぐの頃にこのマンションの空き部屋の話を持ちかけられ、そのまま入居を決めたため、すでにこの半同棲生活は5年近くにもなっている。
この5年の間、彼らは特に互いの生活を擦り合わせるようなことはしていないものの、かなり上手く生活していた。
もともと性格やライフスタイルがよく合っているということもあるが、やはり一番は互いを思いやる気持ちが深く、決して無理をせずに生活しようとしているからだろう。
また、頻繁に互いの家へ行き来できるときもあれば まったくできないときもあるという、普通とは少し事情の異なる生活をしていたこともあってか、今では2人一緒に行動したいという気持ちが付き合い始めた当初よりもいっそう強くなっている。
『近くにいるのに触れ合えない』という期間の辛さはなかなかのものだったと、彼らは今になって思うのだ。
そんな律悠と玖一の間には、互いに暗黙の了解のようにしてできた、1つの習慣と化していることがある。
それは『休日は必ず共に料理をして食事する』というものだ。
どちらが言い出したというわけでもないが、この決まり事はいつの間にか2人の間に定着していた。
いつからそうなったのかについてはあいまいだが、強いて言うなら『律悠が料理をしようとしていたところを玖一が手伝った』ことからだろう。
律悠は何でもそつなくこなす性格をしている上、それなりに1人暮らしの経験が長かったため一通りの料理ができる。
玖一は実家が洋食屋であることと、学生時代に居酒屋などのいくつかの飲食店でアルバイトをしていた経験が豊富にあるおかげで料理の腕前はかなりのものだ。
2人共 手際が良いため、キッチンに並んで立ち、それぞれ主菜と副菜とを担当して調理をすると食事の支度はすぐに済む。
なにより、そうして互いの調理の手助けを行う時間が2人にとっては非常に楽しいものなのだ。
ーーーーー
静かな休日。
やはり今日も律悠と玖一は並んでキッチンに立ち、調理をしている。
主菜の担当は玖一だ。
昨日玖一が買い物に行ったところ、アサリが安かったらしく、「明日のお昼はボンゴレ ビアンコにしようと思って」とわくわくした様子で帰ってきたのだ。
玖一の作る料理はどれもとてもおいしいのだが、その中でも特にパスタ料理は群を抜いている。
ボロネーゼはもちろん、カルボナーラにジュノベーゼ、アラビアータ、ペペロンチーノにたらこなどの和風まで。
どれもお世辞抜きに高級レストランをしのぐ味なのだ。
そんな玖一のパスタ料理の中でも、特に律悠が好きなのがこのボンゴレ・ビアンコだった。
もう随分と前のことになるが、玖一が作るボンゴレ・ビアンコを初めて食べたとき、律悠はそのあまりの美味しさに(僕はもうパスタは作らないでおこう…)とさえ思ったものだ。
久しぶりにそれが食べれると聞いて嬉しい律悠は、玖一の作るボンゴレ・ビアンコに合わせてサラダやスープなどを用意することにする。
食欲をそそる、オリーブオイルで温められたにんにくの香り。
それに引き寄せられるように律悠が何度も近寄って行くと、玖一は「油が跳ねたら危ないってば」と苦笑して少し離れさせた。
玖一が前日から丁寧に砂吐きをさせたアサリは白ワインで酒蒸しにされていて、頃合いを見計らってフタを開けると、モワモワとした湯気と共に これまたなんともいい香りがキッチン中に拡がっていく。
食器棚から器を出しながら出来上がりを心待ちにする律悠。
ところが、あと少しでパスタが茹で上がるという頃になって律悠の仕事用の携帯端末に一通のメールが届いた。
通知の明かりが光る携帯端末。
仕事用の携帯端末に届いたメールならばすぐに確認する必要があるため、律悠は「ごめん、玖」と声を掛けて食事の支度をしていた手を止めた。
「ちょっと仕事…1件だけ見てきてもいい?」
申し訳無さそうに言う律悠に、玖一はパスタの茹であがり加減をみながら「うん、もちろん」と答える。
「あとの盛り付けとかは全部俺がやっておくね」
「ありがと」
「ううん、大丈夫。でも時間がかかるようならまだパスタは和えないでおこうか。伸びちゃうし、しょっぱくなっちゃうよね」
そんな玖一からの提案に「いや、もう作っちゃっていいよ」と律悠は首を振った。
「少し目を通してくるだけだから、すぐ戻って来る」
「そう?それじゃ全部作っとくね」
後のことを玖一に任せ、携帯端末を持って仕事部屋へと戻った律悠はPCの電源を入れてメールボックスをクリックする。
もちろん携帯端末でもメールは確認できるのだが、それよりもこうしてPCで開いてしまう方がなにかと便利なのだ。
新着のタグが付いている今さっき届いたばかりのメールを見ると、それは急を要する案件ではないものの、せめて休み明けまでには欲しいと思っていた内容のものだった。
休日とはいえ、時間ができ次第このメールに関連する仕事に少し手を付けておく必要がありそうだ。
律悠は後ですぐ取り掛かれるように案件を軽くまとめると、キッチンの方から漂ってくる香りに急かされるようにPCをシャットダウンさせた。
ふぅっと息をついて席を立とうとした律悠。
だが腰を上げようとしたところで、ふと机の端で充電しておいた液晶端末の充電が完了していることに気が付き、それを手に取る。
この端末は律悠の私用の端末だ。
自室で使っている充電器の調子が悪かったため一時的にこうして仕事部屋に持ってきて充電をしていたのだが、朝から接続しておいたおかげですっかり満充電状態になっている。
充電器を取り外すと明るく点いた画面。
しっかりと充電ができているのを確認するために液晶へ指を滑らせると、マルチタスク画面が開き、それまでに使っていたアプリや検索画面などが表示された。
何気なくその数々に目を通していた律悠だったが、突然 彼は何を思ったのか、その中のとある一画面をタップして開く。
【マイコレクション】
そんな見出しの画面と、その下にずらずらと並ぶパッケージ画像。
…それは律悠御用達のアダルトビデオ購入サイトだ。
上から購入順にずらりと並んでいる数々のゲイビデオ作品は、もちろんそのすべてが『のす』の出演作である。
律悠がこういった作品を購入するのはひとえに『のす』の姿を見るためであって、その他の理由はまったく、何1つとして存在していないのだ。
『のす』が出演する作品はいわゆるゲイビデオ作品の中でも異彩を放つものだとよく知られている。
どの作品でも ただ男優同士の行為を映すのではなく、最大限 男優や周りの環境が美しく見えるように工夫されており、それまでの一般的なゲイ向けとされてきた作品とは全く雰囲気が異なるのだ。
その美しさから『ほとんど女優を映しているようなものだ』とも言われている。
だが、最近になって『のす』の引退作品となる最後の一本が発売された。
デビュー作をどこか踏襲したようなその一本はやはり『のす』の表情や体が非常に美しく映されていて、まさに男優活動における集大成ともいえるような作品だった。
律悠は購入順の一番上になっている最新作のパッケージ画像をまじまじと見る。
可愛らしさと妖艶さ、男らしさなどが詰まった魅力的な男優『のす』。
この先もう二度と、『のす』のタグが付いた新作の通知が届くことはない。
「なにしてんの?」
突然耳元から聞こえた声に律悠は思わず跳び上がった。
ドキッという激しい衝撃の後からバクバクと拍動し始めた心臓の苦しさに、律悠は胸を押さえてゆっくりと振り返る。
「なにしてんの」
今度は真正面から訊ねられる律悠。
そこにはこちらをまっすぐに見つめている玖一がいた。
「いや、別に…なんでもない」
律悠が何事もなかったかのように席を立とうとすると、玖一はそれよりも早く律悠の手の中から液晶端末を取り上げて画面をスクロールし、「へぇ…」と呟きながらそれを見る。
一体、何が『へぇ…』なのか。
律悠はバツの悪さから「ごはん、ごはんにしよ、せっかくのパスタが伸びるから。いい匂いがしてるね」と液晶端末を取り返そうとするものの、絶妙に手が届かない高さで躱されながら「いいじゃん、なにしてたのかくらい聞いても」とまったく返す気のない態度で言われてしまう。
「仕事のメールを確認しに行ったんだと思ってたのに。こんなお昼からゲイビ観てたのか…」
「ち、違っ…違うよ!」
慌てて強く否定する律悠だが、なんだかその焦り具合が却って怪しげだ。
「僕は本当にメールを…これは別にそんなんじゃ…ただ充電が、って思って、それで…」
すると玖一は「うん、分かってる」とあっけらかんとして言った。
「これ、見た感じだと全部『のす』の作品だよね。でも悠、前に言ってたじゃん『【のす】ってやつの作品は観ても勃たない』って」
「は…っ!?」
「だからこれを観て今 何かしようとしてたって訳じゃないんでしょ。俺はただ、なんで悠は彼氏をほったらかしにしてこんなのを真昼間から観てんのかなって思っただけ。ね、なにしてんの?なにしてたの」
何気ないようでありつつも、なんとも意地の悪い言い方だ。
律悠は隠していたものがバレてしまったという恥と、分かりやすく からかわれているという恥、そして仕事のためと部屋を移ったのにもかかわらず真昼間からこんなサイトを見てしまっていたという恥とを一度に味わって呻き声さえも出せない。
律悠が唇を噛みしめつつ わなわなと体を震わせると、玖一はぷっと吹き出して笑いながら「ごめん、ごめんってば!」と律悠の肩を優しく叩いた。
「まったくもう、悠は本っ当にからかい甲斐があるなぁ~。そんな反応をするからつい意地悪したくなっちゃうんだよ。ほら、好きな子には意地悪したくなるってやつ?」
宥められても まったく表情を変えずにいる律悠を再び椅子に座らせ、玖一はその隣に膝立ちになって顔を覗き込む。
「やっぱり仕事に時間がかかるんじゃないかなって思って、お昼は後で食べれるようにしておこうかって聞きに来たのに。悠があんまり真剣になってこんなの見てるもんだから、つい声をかけちゃった」
「あんなに跳びあがるとは思わなかったんだよ、びっくりさせてごめんね」
律悠の表情がいくらか和らいできたのを感じた玖一は再び液晶端末に視線を落とすと、そのパッケージ一つ一つを見ながら「…悠、ずっと見ててくれてたんだね」と静かに言った。
俯いている玖一の声は静かに、そして不思議なしっとりとした魅力的を秘めている。
「これまでの、全部…悠は見たくないんじゃないかと思ってたから、なんていうか…ただ俺のことを見て見ぬ振りをしてたんじゃなくて、見守ってくれてたんだなって感じがする」
「あらためて考えるとさ、ほんとに…よく俺と付き合ってくれたね、悠。俺は悠に甘えてばっかりで、嫌な気持ちにさせることだって沢山あったはずなのに。それでも俺を好きになってくれて、こうして一緒に過ごしてくれて…本当にありがたいよ。…ありがとう」
玖一の詫びと感謝のこもった言葉の数々を聞いた律悠は、いくらか心臓の拍動が落ち着きを取り戻していることを感じながら「…玖」と玖一の額と額にかかる前髪に触れて同じように静かに口を開いた。
「この仕事は…元々僕が『続けてもいいよ』って言ったでしょ。覚えてる?付き合い始めた日のこと…。玖は会社とのこともあったし、まだ辞められるような状況じゃなかったんだよね。だから、僕の方こそ玖とは付き合っちゃいけないんじゃないかって思ってた。出逢ってからしばらくして玖のことを意識しだしたけど、やっぱり付き合うのは玖の邪魔になるだろうし、迷惑だよなって、思って」
「でも、結局『付き合うなら玖じゃないとダメ』ってくらい玖のことが好きになっちゃって…玖からの告白を受けたんだ。本当に嬉しかった、今でもあの時のことを鮮明に覚えてるくらいにね。玖が僕と同じ想いでいてくれることが本当に嬉しくてありがたいことだし、なによりも玖がその気持ちを僕だけに向けてくれているのが よく分かるから…だからあの仕事を続けてても、不安にならなかったっていうか…ただの仕事でのことだと割り切って思えた」
律悠は「…だからって、まったく何も思わないってことはなかったけどね、さすがに」と少し肩をすくめる。
「でも、あんなに綺麗な姿で映るっていうのは誰にでもできるものじゃないから。すごいなって思うし…初めは『のす』の応援になればいいなって思って買ったけど、いつの間にか僕も普通にファンになってた。『のす』は本当に、綺麗でかっこいい男優だから」
そうして律悠が少し照れたような表情を見せると、玖一はいてもたってもいられなくなり、ほとんど飛びつくようにして抱きつきながら「もう…悠ってば!」と腕にありったけの力を込めた。
わずかに苦しささえ感じる抱擁だが、律悠はそれを受け入れて抱きしめ返し、背を摩る。
「俺、本当に本当に、本っ当に悠が好き!大好き、大好き!」
「わ、分かってるよ、玖。充分伝わってるって」
「大好き!」
無邪気な子供のように繰り返す玖一に、思わず律悠も苦笑してしまう。
なんだか玖一の背後にはぶんぶんと振り回される尻尾まで見えそうだ。
だがそうして存分に抱きしめあった後に体を離した玖一は、律悠の手を取りながら真剣な眼差しで真正面から向き合い、一呼吸おいてから口を開く。
「悠。『のす』はもう2度とカメラの前には出ないよ」
「うん、分かってる」
「今後一切、新作なんか出ないから」
「そうだね」
「俺は悠だけのそばにいる。悠だけを想ってる」
「愛してるよ律悠。心から、心の底から愛してる」
ほんの1、2分前までの様子からは想像もできないほどまっすぐに届けられる言葉。
それは律悠の心を完全に溶かし、自然と2人の距離を詰めさせて口づけさせていた。
「僕も」
額をくっつけ合いながら微笑み、さらにちゅっと軽い口づけをした玖一は手に持っていた液晶端末を律悠に返す。
「で、どれが一番のお気に入りなの?」
端末を手渡しながらニコニコと問いかけてきた玖一。
え、と律悠が聞き返すと、さらに玖一は「悠は『のす』の作品を全部観たってことでしょ。どれが一番お気に入りなの」と訊いてきた。
「ファンになったって言うくらいなんだもん、一本くらいはそういうのがあるでしょ」
「…パスタ伸びちゃうから、行こう」
「こらこら、逃げちゃだめ。ご飯は俺の質問に答えてからね」
律悠が椅子から立ちあがれないようにしながら、玖一は後ろから液晶画面を覗き込んで「これ?それとも…これ?」と指をさす。
「悠はどれが好きなのかな。『のす』がタチのやつ?それともネコのやつ?悠は元々ネコ専だもんね、だとしたらやっぱりタチの方がいい?」
「あ、好きなシチュは?こういうの…いや、こっちの方が悠は好きそうだな」
黙っている律悠をよそに玖一は好き勝手にあれこれと言い始める。
何も言うまいとして黙りこくっていた律悠。
しかし、やがて彼は我慢できなくなって「だから…別にそういうつもりで観てるんじゃないんだってば!」と声を上げた。
「僕はただ、これは…っ」
「分かってるって、これを観てエッチなことをしてるんじゃないんでしょ?でもそれにしたってお気に入りのはあるはずじゃん。つい何回も観ちゃうようなの、ないの?」
「あ、あるけど…!」
「ほら、あるんじゃん。それを教えてって言ってるだけ。ね、どれが一番いいと思うの?」
「~っ!!一番って、比べようがないじゃん!」
「なんで」
「それはっ、だから…!」
追い詰められた律悠はもはやどうにでもなれといった様子で、なげやりに「どれもいいところがあって、比べようがないから!」と言い放つ。
「いいところなんてどれにでもあるから、一番なんて…」
「どれにでも?本当に?」
「ほ、本当だよ!」
むきになっているらしい律悠に、玖一は一本のパッケージ画像を指して「じゃ、これは?この作品のいいところはどこなの」と問いかけた。
すると律悠は一瞥するやいなや「それは『のす』の声がすごく綺麗に録られてる」と語り始める。
「ちょっとした囁き声とか息遣いがきちんと録れてるのに、そのわりには雑音が少ない。だから話し声とかに集中できる」
「へぇ…そうなんだ」
「うん」
思いがけない答えに、玖一はさらに続けて「これは?」と他の作品を指した。
「この作品はどう?」
「はぁっ…これは本当に体の魅せ方が上手い。『のす』がタチ役だけど、どのカットでもネコ役を引き立たせるような感じにしててすごいと思う。同じ体位で撮ったとしても こうは綺麗に映らないでしょって」
「…これは?」
「それは髪型がすごく似合ってた、メイクも特によく似合ってるよね。いつもかっこいいけど、これはかっこよさがもっと増してる」
どの作品でもすぐに答えてくる律悠。
きっとすべての作品においてこうなのだろうということははっきりしていたが、極めつけは玖一が何気なく「えっと…それじゃ、これは?」と指した作品だった。
特に背景が明るいパッケージ写真の一本だ。
律悠はそれを見るなり「それはッ!」と溢れ出る熱量のままに話し始める。
「もうっ…なにが良いって、タチ役にさ、ゴムを口でつけてあげる時の仕草がすごく…すごかった。とにかくすごい。『妖艶』って言葉がぴったり。だってさ、ゴムを普通につけるんじゃないんだよ、完全に主導権を握ってた、それがすごく良かった。しかも、それだけじゃなくて他にも部屋の雰囲気とか相手とのやり取りとか…」
「……」
「とにかく、これは『のす』のいいところ全部が凝縮されてるって感じ。名作。間違いなく名作。もう、間違いない」
作品と『のす』を褒め称えるように何度も頷いている律悠だが、彼は自分が今、誰に何を言っているのかをきちんと分かっているのだろうか。
熱弁している相手は、その相手は…。
「…まぁ、とりあえずこの作品の魅力は『のす』が相手のゴムを口でつけてるってところなの?」
玖一が話を要約すると、律悠は満足したというような表情で大きく頷く。
液晶端末を何気なく指でスクロールしながら「ゴムを口で、ねぇ…」と呟く玖一。
「ふぅん…やっぱりさ、悠もそういうのされたいって思うわけ?それともやりたい側?どっちなの、言ってみてよ」
「えー?まぁ、それは…」
「いいじゃん、どっちか言ってみるくらい」
そうして促された律悠は あはは、と照れたように笑いながらついに「あんな風にゴムをつけられたら、きっと興奮せずにはいられないよね」と答える。
「僕は基本ネコが好きだけど、それでもゴムはつけるでしょ、片付けが楽になるから。この作品ではタチ役につけてたけど、別にそれはネコにするのでもいいわけだし…もしそうされたら すごいことになりそう。あははっ」
「へぇ~、なるほどね」
「でも つけてあげるのもいいかもね。口でしながらそのままゴムをつけ始めたら…結構良さそうじゃない?あははっ、ははっ」
「だけど、どっちかっていうとつけられたいんでしょ、悠はゴムを口で」
「ははっ、はh……」
「いいこと聞いたな」
「………………」
「………………」
突如シン…として静まり返った部屋。
空調の音がかすかにするくらいの他には何の音もない。
完全な無音状態だ。
いったいこれはどういった状況なのだろうか。
焚きつけられたからだとはいえ、自らの恋人に向けてAV作品の好みの点を熱弁した男。
そして恋人を散々焚きつけた挙句『いいことを聞いた』と満足そうにしている男。
そもそもこうなったのが特殊な事情絡みであるとはいえ、まさかこんなことになろうとは。
律悠は頭を抱え、椅子から崩れ落ちそうなほど身を縮こませてうずくまる。
どうやらこの静寂が彼を完全に正気に戻したらしい。
彼の表情は一切窺えないが、もはや頬が紅くなるどころか青ざめてしまっているようだということは分かる。
今の今まで『のす』の出演作品を購入していたことすらもひた隠しにしてきていたというのに、それがバレたどころか、感想まで詳細に語ってしまったのだ。
頭を抱えたくなって当然、顔を隠したくなって当然だろう。
一方玖一はというと、やけに落ち着いた口調で「5年付き合っててもまだ知らない一面っていうか…癖?ってのがあるんだね」と呟いている。
「そんなにしっかり観てるのに勃ったことがないってことはさ、本当にただ鑑賞してただけなんだね。妄想とかもしなかったわけだ、観ながら」
「…ん、よし。まぁ、とにかくご飯にしよ。さすがにパスタが伸びちゃうから」
まるで何事もなかったかのように食卓があるリビングの方へ戻ろうとする玖一に、律悠は「忘れて…今の…」と か細い声をかける。
「今の全部…忘れてくれないかな…」
「なんで、もう聞いちゃったものは忘れようにも忘れられないよ。悠、食言しないで。食べるのはパスタにしてよ。ほら行こ」
「……」
リビングへと続く扉を抑えて待つ玖一。
律悠はすごすごと椅子から立ち上がると、なるべく顔を上げないようにして部屋から出ていこうとしたが、ちょうど玖一の目の前を通り過ぎようとしたところで腕を掴んで引き止められる。
《ちゃんと『あと』でシよ》
「っ!!」
囁きに体をビクつかせると、玖一は優しく笑って「もう、やりたいことがあるなら何でも言っていいのに」と律悠の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「悠のやってみたいことは俺もやってみたいんだから。遠慮も恥もいらないって。俺は恥ずかしがってる悠も好きだし、大胆な悠も大好きだよ」
「きゅ、玖………」
「ちょうど この間『買い足した』からいっぱいあるしさ」
「~~~っ…!!」
「はははっ!」
ーーーーー
玖一がパスタを硬めに茹で上げつつソースの塩加減を抑えめにしていたことで、少しの間待ちぼうけさせられていたボンゴレ・ビアンコはいつも通りの美味しい一品に仕上がっていた。
2人でそれぞれ手分けして作った昼食は、自然と笑みをもたらすほどの温かさを秘めている。
その感想を言い合う内に、気まずくなっていた律悠も少し気が紛れたようだった。
その夜の寝室での盛り上がりは想像に難くないだろう。
付き合い始めて5年が経とうがなんだろうが、きっとこの2人の間には『飽き』などという言葉は存在していないのだ。
楽しむ手はいくらでも。試す手はいくらでも。
互いを求める気持ちはこの先何年経っても褪せずに情熱を焚きつけるはずだ。
「…~~っ!!!」
「ほら、悠。ちゃんと見ててよ」
「やっ…ちょっ、もうっそれやめて……」
「なんで?悠はこういうのがしたかったんでしょ。目を逸らさないで見てて、今『つけてあげる』からね」
「ひぅっ…~~っ!」
装着された途端に精液で満ちるコンドーム。
どうやら玖一が新たなコンドームを買い足さなければならないのも、時間の問題のようだ。
彼らは付き合い始めてすぐの頃にこのマンションの空き部屋の話を持ちかけられ、そのまま入居を決めたため、すでにこの半同棲生活は5年近くにもなっている。
この5年の間、彼らは特に互いの生活を擦り合わせるようなことはしていないものの、かなり上手く生活していた。
もともと性格やライフスタイルがよく合っているということもあるが、やはり一番は互いを思いやる気持ちが深く、決して無理をせずに生活しようとしているからだろう。
また、頻繁に互いの家へ行き来できるときもあれば まったくできないときもあるという、普通とは少し事情の異なる生活をしていたこともあってか、今では2人一緒に行動したいという気持ちが付き合い始めた当初よりもいっそう強くなっている。
『近くにいるのに触れ合えない』という期間の辛さはなかなかのものだったと、彼らは今になって思うのだ。
そんな律悠と玖一の間には、互いに暗黙の了解のようにしてできた、1つの習慣と化していることがある。
それは『休日は必ず共に料理をして食事する』というものだ。
どちらが言い出したというわけでもないが、この決まり事はいつの間にか2人の間に定着していた。
いつからそうなったのかについてはあいまいだが、強いて言うなら『律悠が料理をしようとしていたところを玖一が手伝った』ことからだろう。
律悠は何でもそつなくこなす性格をしている上、それなりに1人暮らしの経験が長かったため一通りの料理ができる。
玖一は実家が洋食屋であることと、学生時代に居酒屋などのいくつかの飲食店でアルバイトをしていた経験が豊富にあるおかげで料理の腕前はかなりのものだ。
2人共 手際が良いため、キッチンに並んで立ち、それぞれ主菜と副菜とを担当して調理をすると食事の支度はすぐに済む。
なにより、そうして互いの調理の手助けを行う時間が2人にとっては非常に楽しいものなのだ。
ーーーーー
静かな休日。
やはり今日も律悠と玖一は並んでキッチンに立ち、調理をしている。
主菜の担当は玖一だ。
昨日玖一が買い物に行ったところ、アサリが安かったらしく、「明日のお昼はボンゴレ ビアンコにしようと思って」とわくわくした様子で帰ってきたのだ。
玖一の作る料理はどれもとてもおいしいのだが、その中でも特にパスタ料理は群を抜いている。
ボロネーゼはもちろん、カルボナーラにジュノベーゼ、アラビアータ、ペペロンチーノにたらこなどの和風まで。
どれもお世辞抜きに高級レストランをしのぐ味なのだ。
そんな玖一のパスタ料理の中でも、特に律悠が好きなのがこのボンゴレ・ビアンコだった。
もう随分と前のことになるが、玖一が作るボンゴレ・ビアンコを初めて食べたとき、律悠はそのあまりの美味しさに(僕はもうパスタは作らないでおこう…)とさえ思ったものだ。
久しぶりにそれが食べれると聞いて嬉しい律悠は、玖一の作るボンゴレ・ビアンコに合わせてサラダやスープなどを用意することにする。
食欲をそそる、オリーブオイルで温められたにんにくの香り。
それに引き寄せられるように律悠が何度も近寄って行くと、玖一は「油が跳ねたら危ないってば」と苦笑して少し離れさせた。
玖一が前日から丁寧に砂吐きをさせたアサリは白ワインで酒蒸しにされていて、頃合いを見計らってフタを開けると、モワモワとした湯気と共に これまたなんともいい香りがキッチン中に拡がっていく。
食器棚から器を出しながら出来上がりを心待ちにする律悠。
ところが、あと少しでパスタが茹で上がるという頃になって律悠の仕事用の携帯端末に一通のメールが届いた。
通知の明かりが光る携帯端末。
仕事用の携帯端末に届いたメールならばすぐに確認する必要があるため、律悠は「ごめん、玖」と声を掛けて食事の支度をしていた手を止めた。
「ちょっと仕事…1件だけ見てきてもいい?」
申し訳無さそうに言う律悠に、玖一はパスタの茹であがり加減をみながら「うん、もちろん」と答える。
「あとの盛り付けとかは全部俺がやっておくね」
「ありがと」
「ううん、大丈夫。でも時間がかかるようならまだパスタは和えないでおこうか。伸びちゃうし、しょっぱくなっちゃうよね」
そんな玖一からの提案に「いや、もう作っちゃっていいよ」と律悠は首を振った。
「少し目を通してくるだけだから、すぐ戻って来る」
「そう?それじゃ全部作っとくね」
後のことを玖一に任せ、携帯端末を持って仕事部屋へと戻った律悠はPCの電源を入れてメールボックスをクリックする。
もちろん携帯端末でもメールは確認できるのだが、それよりもこうしてPCで開いてしまう方がなにかと便利なのだ。
新着のタグが付いている今さっき届いたばかりのメールを見ると、それは急を要する案件ではないものの、せめて休み明けまでには欲しいと思っていた内容のものだった。
休日とはいえ、時間ができ次第このメールに関連する仕事に少し手を付けておく必要がありそうだ。
律悠は後ですぐ取り掛かれるように案件を軽くまとめると、キッチンの方から漂ってくる香りに急かされるようにPCをシャットダウンさせた。
ふぅっと息をついて席を立とうとした律悠。
だが腰を上げようとしたところで、ふと机の端で充電しておいた液晶端末の充電が完了していることに気が付き、それを手に取る。
この端末は律悠の私用の端末だ。
自室で使っている充電器の調子が悪かったため一時的にこうして仕事部屋に持ってきて充電をしていたのだが、朝から接続しておいたおかげですっかり満充電状態になっている。
充電器を取り外すと明るく点いた画面。
しっかりと充電ができているのを確認するために液晶へ指を滑らせると、マルチタスク画面が開き、それまでに使っていたアプリや検索画面などが表示された。
何気なくその数々に目を通していた律悠だったが、突然 彼は何を思ったのか、その中のとある一画面をタップして開く。
【マイコレクション】
そんな見出しの画面と、その下にずらずらと並ぶパッケージ画像。
…それは律悠御用達のアダルトビデオ購入サイトだ。
上から購入順にずらりと並んでいる数々のゲイビデオ作品は、もちろんそのすべてが『のす』の出演作である。
律悠がこういった作品を購入するのはひとえに『のす』の姿を見るためであって、その他の理由はまったく、何1つとして存在していないのだ。
『のす』が出演する作品はいわゆるゲイビデオ作品の中でも異彩を放つものだとよく知られている。
どの作品でも ただ男優同士の行為を映すのではなく、最大限 男優や周りの環境が美しく見えるように工夫されており、それまでの一般的なゲイ向けとされてきた作品とは全く雰囲気が異なるのだ。
その美しさから『ほとんど女優を映しているようなものだ』とも言われている。
だが、最近になって『のす』の引退作品となる最後の一本が発売された。
デビュー作をどこか踏襲したようなその一本はやはり『のす』の表情や体が非常に美しく映されていて、まさに男優活動における集大成ともいえるような作品だった。
律悠は購入順の一番上になっている最新作のパッケージ画像をまじまじと見る。
可愛らしさと妖艶さ、男らしさなどが詰まった魅力的な男優『のす』。
この先もう二度と、『のす』のタグが付いた新作の通知が届くことはない。
「なにしてんの?」
突然耳元から聞こえた声に律悠は思わず跳び上がった。
ドキッという激しい衝撃の後からバクバクと拍動し始めた心臓の苦しさに、律悠は胸を押さえてゆっくりと振り返る。
「なにしてんの」
今度は真正面から訊ねられる律悠。
そこにはこちらをまっすぐに見つめている玖一がいた。
「いや、別に…なんでもない」
律悠が何事もなかったかのように席を立とうとすると、玖一はそれよりも早く律悠の手の中から液晶端末を取り上げて画面をスクロールし、「へぇ…」と呟きながらそれを見る。
一体、何が『へぇ…』なのか。
律悠はバツの悪さから「ごはん、ごはんにしよ、せっかくのパスタが伸びるから。いい匂いがしてるね」と液晶端末を取り返そうとするものの、絶妙に手が届かない高さで躱されながら「いいじゃん、なにしてたのかくらい聞いても」とまったく返す気のない態度で言われてしまう。
「仕事のメールを確認しに行ったんだと思ってたのに。こんなお昼からゲイビ観てたのか…」
「ち、違っ…違うよ!」
慌てて強く否定する律悠だが、なんだかその焦り具合が却って怪しげだ。
「僕は本当にメールを…これは別にそんなんじゃ…ただ充電が、って思って、それで…」
すると玖一は「うん、分かってる」とあっけらかんとして言った。
「これ、見た感じだと全部『のす』の作品だよね。でも悠、前に言ってたじゃん『【のす】ってやつの作品は観ても勃たない』って」
「は…っ!?」
「だからこれを観て今 何かしようとしてたって訳じゃないんでしょ。俺はただ、なんで悠は彼氏をほったらかしにしてこんなのを真昼間から観てんのかなって思っただけ。ね、なにしてんの?なにしてたの」
何気ないようでありつつも、なんとも意地の悪い言い方だ。
律悠は隠していたものがバレてしまったという恥と、分かりやすく からかわれているという恥、そして仕事のためと部屋を移ったのにもかかわらず真昼間からこんなサイトを見てしまっていたという恥とを一度に味わって呻き声さえも出せない。
律悠が唇を噛みしめつつ わなわなと体を震わせると、玖一はぷっと吹き出して笑いながら「ごめん、ごめんってば!」と律悠の肩を優しく叩いた。
「まったくもう、悠は本っ当にからかい甲斐があるなぁ~。そんな反応をするからつい意地悪したくなっちゃうんだよ。ほら、好きな子には意地悪したくなるってやつ?」
宥められても まったく表情を変えずにいる律悠を再び椅子に座らせ、玖一はその隣に膝立ちになって顔を覗き込む。
「やっぱり仕事に時間がかかるんじゃないかなって思って、お昼は後で食べれるようにしておこうかって聞きに来たのに。悠があんまり真剣になってこんなの見てるもんだから、つい声をかけちゃった」
「あんなに跳びあがるとは思わなかったんだよ、びっくりさせてごめんね」
律悠の表情がいくらか和らいできたのを感じた玖一は再び液晶端末に視線を落とすと、そのパッケージ一つ一つを見ながら「…悠、ずっと見ててくれてたんだね」と静かに言った。
俯いている玖一の声は静かに、そして不思議なしっとりとした魅力的を秘めている。
「これまでの、全部…悠は見たくないんじゃないかと思ってたから、なんていうか…ただ俺のことを見て見ぬ振りをしてたんじゃなくて、見守ってくれてたんだなって感じがする」
「あらためて考えるとさ、ほんとに…よく俺と付き合ってくれたね、悠。俺は悠に甘えてばっかりで、嫌な気持ちにさせることだって沢山あったはずなのに。それでも俺を好きになってくれて、こうして一緒に過ごしてくれて…本当にありがたいよ。…ありがとう」
玖一の詫びと感謝のこもった言葉の数々を聞いた律悠は、いくらか心臓の拍動が落ち着きを取り戻していることを感じながら「…玖」と玖一の額と額にかかる前髪に触れて同じように静かに口を開いた。
「この仕事は…元々僕が『続けてもいいよ』って言ったでしょ。覚えてる?付き合い始めた日のこと…。玖は会社とのこともあったし、まだ辞められるような状況じゃなかったんだよね。だから、僕の方こそ玖とは付き合っちゃいけないんじゃないかって思ってた。出逢ってからしばらくして玖のことを意識しだしたけど、やっぱり付き合うのは玖の邪魔になるだろうし、迷惑だよなって、思って」
「でも、結局『付き合うなら玖じゃないとダメ』ってくらい玖のことが好きになっちゃって…玖からの告白を受けたんだ。本当に嬉しかった、今でもあの時のことを鮮明に覚えてるくらいにね。玖が僕と同じ想いでいてくれることが本当に嬉しくてありがたいことだし、なによりも玖がその気持ちを僕だけに向けてくれているのが よく分かるから…だからあの仕事を続けてても、不安にならなかったっていうか…ただの仕事でのことだと割り切って思えた」
律悠は「…だからって、まったく何も思わないってことはなかったけどね、さすがに」と少し肩をすくめる。
「でも、あんなに綺麗な姿で映るっていうのは誰にでもできるものじゃないから。すごいなって思うし…初めは『のす』の応援になればいいなって思って買ったけど、いつの間にか僕も普通にファンになってた。『のす』は本当に、綺麗でかっこいい男優だから」
そうして律悠が少し照れたような表情を見せると、玖一はいてもたってもいられなくなり、ほとんど飛びつくようにして抱きつきながら「もう…悠ってば!」と腕にありったけの力を込めた。
わずかに苦しささえ感じる抱擁だが、律悠はそれを受け入れて抱きしめ返し、背を摩る。
「俺、本当に本当に、本っ当に悠が好き!大好き、大好き!」
「わ、分かってるよ、玖。充分伝わってるって」
「大好き!」
無邪気な子供のように繰り返す玖一に、思わず律悠も苦笑してしまう。
なんだか玖一の背後にはぶんぶんと振り回される尻尾まで見えそうだ。
だがそうして存分に抱きしめあった後に体を離した玖一は、律悠の手を取りながら真剣な眼差しで真正面から向き合い、一呼吸おいてから口を開く。
「悠。『のす』はもう2度とカメラの前には出ないよ」
「うん、分かってる」
「今後一切、新作なんか出ないから」
「そうだね」
「俺は悠だけのそばにいる。悠だけを想ってる」
「愛してるよ律悠。心から、心の底から愛してる」
ほんの1、2分前までの様子からは想像もできないほどまっすぐに届けられる言葉。
それは律悠の心を完全に溶かし、自然と2人の距離を詰めさせて口づけさせていた。
「僕も」
額をくっつけ合いながら微笑み、さらにちゅっと軽い口づけをした玖一は手に持っていた液晶端末を律悠に返す。
「で、どれが一番のお気に入りなの?」
端末を手渡しながらニコニコと問いかけてきた玖一。
え、と律悠が聞き返すと、さらに玖一は「悠は『のす』の作品を全部観たってことでしょ。どれが一番お気に入りなの」と訊いてきた。
「ファンになったって言うくらいなんだもん、一本くらいはそういうのがあるでしょ」
「…パスタ伸びちゃうから、行こう」
「こらこら、逃げちゃだめ。ご飯は俺の質問に答えてからね」
律悠が椅子から立ちあがれないようにしながら、玖一は後ろから液晶画面を覗き込んで「これ?それとも…これ?」と指をさす。
「悠はどれが好きなのかな。『のす』がタチのやつ?それともネコのやつ?悠は元々ネコ専だもんね、だとしたらやっぱりタチの方がいい?」
「あ、好きなシチュは?こういうの…いや、こっちの方が悠は好きそうだな」
黙っている律悠をよそに玖一は好き勝手にあれこれと言い始める。
何も言うまいとして黙りこくっていた律悠。
しかし、やがて彼は我慢できなくなって「だから…別にそういうつもりで観てるんじゃないんだってば!」と声を上げた。
「僕はただ、これは…っ」
「分かってるって、これを観てエッチなことをしてるんじゃないんでしょ?でもそれにしたってお気に入りのはあるはずじゃん。つい何回も観ちゃうようなの、ないの?」
「あ、あるけど…!」
「ほら、あるんじゃん。それを教えてって言ってるだけ。ね、どれが一番いいと思うの?」
「~っ!!一番って、比べようがないじゃん!」
「なんで」
「それはっ、だから…!」
追い詰められた律悠はもはやどうにでもなれといった様子で、なげやりに「どれもいいところがあって、比べようがないから!」と言い放つ。
「いいところなんてどれにでもあるから、一番なんて…」
「どれにでも?本当に?」
「ほ、本当だよ!」
むきになっているらしい律悠に、玖一は一本のパッケージ画像を指して「じゃ、これは?この作品のいいところはどこなの」と問いかけた。
すると律悠は一瞥するやいなや「それは『のす』の声がすごく綺麗に録られてる」と語り始める。
「ちょっとした囁き声とか息遣いがきちんと録れてるのに、そのわりには雑音が少ない。だから話し声とかに集中できる」
「へぇ…そうなんだ」
「うん」
思いがけない答えに、玖一はさらに続けて「これは?」と他の作品を指した。
「この作品はどう?」
「はぁっ…これは本当に体の魅せ方が上手い。『のす』がタチ役だけど、どのカットでもネコ役を引き立たせるような感じにしててすごいと思う。同じ体位で撮ったとしても こうは綺麗に映らないでしょって」
「…これは?」
「それは髪型がすごく似合ってた、メイクも特によく似合ってるよね。いつもかっこいいけど、これはかっこよさがもっと増してる」
どの作品でもすぐに答えてくる律悠。
きっとすべての作品においてこうなのだろうということははっきりしていたが、極めつけは玖一が何気なく「えっと…それじゃ、これは?」と指した作品だった。
特に背景が明るいパッケージ写真の一本だ。
律悠はそれを見るなり「それはッ!」と溢れ出る熱量のままに話し始める。
「もうっ…なにが良いって、タチ役にさ、ゴムを口でつけてあげる時の仕草がすごく…すごかった。とにかくすごい。『妖艶』って言葉がぴったり。だってさ、ゴムを普通につけるんじゃないんだよ、完全に主導権を握ってた、それがすごく良かった。しかも、それだけじゃなくて他にも部屋の雰囲気とか相手とのやり取りとか…」
「……」
「とにかく、これは『のす』のいいところ全部が凝縮されてるって感じ。名作。間違いなく名作。もう、間違いない」
作品と『のす』を褒め称えるように何度も頷いている律悠だが、彼は自分が今、誰に何を言っているのかをきちんと分かっているのだろうか。
熱弁している相手は、その相手は…。
「…まぁ、とりあえずこの作品の魅力は『のす』が相手のゴムを口でつけてるってところなの?」
玖一が話を要約すると、律悠は満足したというような表情で大きく頷く。
液晶端末を何気なく指でスクロールしながら「ゴムを口で、ねぇ…」と呟く玖一。
「ふぅん…やっぱりさ、悠もそういうのされたいって思うわけ?それともやりたい側?どっちなの、言ってみてよ」
「えー?まぁ、それは…」
「いいじゃん、どっちか言ってみるくらい」
そうして促された律悠は あはは、と照れたように笑いながらついに「あんな風にゴムをつけられたら、きっと興奮せずにはいられないよね」と答える。
「僕は基本ネコが好きだけど、それでもゴムはつけるでしょ、片付けが楽になるから。この作品ではタチ役につけてたけど、別にそれはネコにするのでもいいわけだし…もしそうされたら すごいことになりそう。あははっ」
「へぇ~、なるほどね」
「でも つけてあげるのもいいかもね。口でしながらそのままゴムをつけ始めたら…結構良さそうじゃない?あははっ、ははっ」
「だけど、どっちかっていうとつけられたいんでしょ、悠はゴムを口で」
「ははっ、はh……」
「いいこと聞いたな」
「………………」
「………………」
突如シン…として静まり返った部屋。
空調の音がかすかにするくらいの他には何の音もない。
完全な無音状態だ。
いったいこれはどういった状況なのだろうか。
焚きつけられたからだとはいえ、自らの恋人に向けてAV作品の好みの点を熱弁した男。
そして恋人を散々焚きつけた挙句『いいことを聞いた』と満足そうにしている男。
そもそもこうなったのが特殊な事情絡みであるとはいえ、まさかこんなことになろうとは。
律悠は頭を抱え、椅子から崩れ落ちそうなほど身を縮こませてうずくまる。
どうやらこの静寂が彼を完全に正気に戻したらしい。
彼の表情は一切窺えないが、もはや頬が紅くなるどころか青ざめてしまっているようだということは分かる。
今の今まで『のす』の出演作品を購入していたことすらもひた隠しにしてきていたというのに、それがバレたどころか、感想まで詳細に語ってしまったのだ。
頭を抱えたくなって当然、顔を隠したくなって当然だろう。
一方玖一はというと、やけに落ち着いた口調で「5年付き合っててもまだ知らない一面っていうか…癖?ってのがあるんだね」と呟いている。
「そんなにしっかり観てるのに勃ったことがないってことはさ、本当にただ鑑賞してただけなんだね。妄想とかもしなかったわけだ、観ながら」
「…ん、よし。まぁ、とにかくご飯にしよ。さすがにパスタが伸びちゃうから」
まるで何事もなかったかのように食卓があるリビングの方へ戻ろうとする玖一に、律悠は「忘れて…今の…」と か細い声をかける。
「今の全部…忘れてくれないかな…」
「なんで、もう聞いちゃったものは忘れようにも忘れられないよ。悠、食言しないで。食べるのはパスタにしてよ。ほら行こ」
「……」
リビングへと続く扉を抑えて待つ玖一。
律悠はすごすごと椅子から立ち上がると、なるべく顔を上げないようにして部屋から出ていこうとしたが、ちょうど玖一の目の前を通り過ぎようとしたところで腕を掴んで引き止められる。
《ちゃんと『あと』でシよ》
「っ!!」
囁きに体をビクつかせると、玖一は優しく笑って「もう、やりたいことがあるなら何でも言っていいのに」と律悠の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「悠のやってみたいことは俺もやってみたいんだから。遠慮も恥もいらないって。俺は恥ずかしがってる悠も好きだし、大胆な悠も大好きだよ」
「きゅ、玖………」
「ちょうど この間『買い足した』からいっぱいあるしさ」
「~~~っ…!!」
「はははっ!」
ーーーーー
玖一がパスタを硬めに茹で上げつつソースの塩加減を抑えめにしていたことで、少しの間待ちぼうけさせられていたボンゴレ・ビアンコはいつも通りの美味しい一品に仕上がっていた。
2人でそれぞれ手分けして作った昼食は、自然と笑みをもたらすほどの温かさを秘めている。
その感想を言い合う内に、気まずくなっていた律悠も少し気が紛れたようだった。
その夜の寝室での盛り上がりは想像に難くないだろう。
付き合い始めて5年が経とうがなんだろうが、きっとこの2人の間には『飽き』などという言葉は存在していないのだ。
楽しむ手はいくらでも。試す手はいくらでも。
互いを求める気持ちはこの先何年経っても褪せずに情熱を焚きつけるはずだ。
「…~~っ!!!」
「ほら、悠。ちゃんと見ててよ」
「やっ…ちょっ、もうっそれやめて……」
「なんで?悠はこういうのがしたかったんでしょ。目を逸らさないで見てて、今『つけてあげる』からね」
「ひぅっ…~~っ!」
装着された途端に精液で満ちるコンドーム。
どうやら玖一が新たなコンドームを買い足さなければならないのも、時間の問題のようだ。
応援ありがとうございます!
10
お気に入りに追加
9
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる