牧草地の白馬

蓬屋 月餅

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16「猫」

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 突然の別れほど、苦しいものはないだろう。
 沢山の時間をかけて備えた『あけび』のときとはまったく違う『やまもも』との別れ。
 牧草地の神は深く悲しみ、水の神の胸を借りながらさめざめと涙を流して【天界】の夜を過ごした。
 牧草地の神がもし水を扱う神であったなら、きっと雨雲を適切に抑えることを忘れ、陸国に大きな嵐をもたらしていたに違いない。
 そう、かつて白蛇が転生して【天界】を去った後の水の神のように…。

 丸1夜を泣き明かし、牧草地の神の涙がいよいよ涸れ果てるだろうという時になって陸国は朝を迎えた。
 神はたとえその身に何が起ころうとも自身の務めを怠ってはいけない。
 ましてや季節は早春であり、牧草地の神は冬を乗り越えた家畜達のために よりいっそう青々とした良い牧草を用意してやらなければならないのだ。
 それは牧草地の神にしかできないことであり、他のどの神であってもその務めを代わってやることはできない。
 やがて牧草地の神は日々の日課でもある牧草地の見回りをしに行くため、ふらふらと立ち上がった。
 水の神もかつて務めを放棄しかけ、数日間にも及ぶ大雨を陸国にもたらしたことのある身だ。
 そのため、今 務めに向かおうとしている牧草地の神がどれだけ辛いかはよくよく理解していた。

「牧草地の神、また後で会おう。今夜も…いや、いくらでも付き合うから」

 そう声をかける水の神に対し、弱々しい笑みで応える牧草地の神。
 2神はそれぞれの務めをはたすべく、分かれて歩き出した。

ーーーーーーー

 酪農地域に広がる広大な牧草地は陸国の人々が時々行う開拓によって年々その範囲をわずかに広めており、もはや神力を分けながらそのすべてを1人で見回るのではとても間に合わないくらいになっている。
 毎日白馬の代わりに牧草地の一部の様子を確認している蝶との情報の共有を済ませた牧草地の神は、その後も努めて平静を装いながら淡々と見回りをし、その忙しさでもってなんとか気を紛らわせていた。
 しかし、それでもやはり遠くからかすかに感じられる『やまもも』のものらしき神力が牧草地の神の足を留めさせてしまう。

(あの山に…いるんだろうか)

 牧草地の神が目を向けるずっと先には高くそびえる岩山がある。
 牧草地から離れたところにある、険しい岩山。
 おそらく、昨夜の母狼はあの岩山から来たのだろう。
 遠く離れたその辺りから感じ取れる 牧草地の神のものとよく似た神力は、連れ去られた『やまもも』がその辺りにいるということを物語っている。

(あの山は岩山だ…だから森の神でさえもその実情を探ることはできない。もっと高い神格の、地の神でないと……)

 地の神は森の神や風の神よりもずっと高い神格をもつ、類稀な神だ。
 地の神や陽の神といった、存在が陸国以外にも影響する神々は常に【天界】のさらに上の世界にいて、森の神達ですらも対面が叶わない。

 存在は感じられる、けれども会うことはない。

 それは人間にとっての神と同じような存在であり、【天界】のさらに上の世界にいる存在というのは、牧草地の神達にとっての神だといえるだろう。
 いわゆる『運命』というものも、その高位の神によって決定づけられているものらしい。
 牧草地の神はそんな高位の神々に対しても(もしあの山が森の神の加護の及ぶところであったなら…少しは事態が変わっていたのだろうか)とまで思ってしまうほどに憔悴していた。
 あの岩山の付近には牧草がないため、牧草地の神はそこへ近付くことすらできない。
 つまり、『やまもも』の神力をもっとも近くまで辿ることができるのは、『やまもも』が鴨小屋に遺していった羽根に宿るわずかな分のみということだ。
 見回りを終えた牧草地の神は酪農地域に遺されたそのわずかな『やまもも』の神力を辿り、あの場所・・・・へと向かった。

ーーーーーーーー

「うぅ……」

 酪農地域がよく見渡せる静かな丘の上に2人の男がいる。
 声を押し殺しながら肩を震わせる男と、その男の肩に手を置いて慰める男の2人。

「ここならあけびもいるし、寂しくないよな。な、やまもも」

 そう目の前の地面に声をかける男は白蛇。
 そして、その隣りにいるのはもちろん白馬だ。

「僕の…僕のせいだ」

 白馬は震える涙声で言う。

「僕のせいで…」
「違う、そうじゃないだろ」
「ううん、僕のせいなんだ……あの子、すごく人懐っこかったから……だから狼に捕られちゃったんだ、僕が沢山抱っこしたりして、警戒心が無くなっちゃってて……」

 しきりに「僕のせいだ」と言って自らを責める白馬を、白蛇は「そうじゃない、お前のせいじゃないんだ」と慰めている。
 そんな2人の様子を、牧草地の神は周りを取り囲む木々の陰から見守っていた。
 1晩中泣きはらした後である今の牧草地の神には自らの神力を抑え込むだけの気力さえもなく、【地界】に降りていてもその姿を現すことはできない。
 そのため木陰に隠れる必要もないのだが、それでも牧草地の神は2人のそばに近寄ることができなかった。
 …どうやら白馬も牧草地の神同様に1晩中涙を流していたらしく、その目元や鼻先は熱をもっているように紅くなっている。
 自らを責めながら涙を流す白馬を見ると、牧草地の神はよりいっそう深い悲しみに包まれ、さらに(銀をあんなにも苦しめてしまった)という思いにもなっていた。

「僕のせいでやまももが…」

(違うよ、銀、君のせいじゃない)

「僕があんなに懐かせなければ、あの子はきっとまだ…まだあの小屋にいたのに…なのに、僕のせいで……」

(銀…そんな風に自分を責めないで、本当に君のせいじゃないんだよ)

「見回りだって、他の人達だったら狼が来る前に気付けてたかもしれない…やまもも…ごめん、ごめんね……」

 丘の一部分には新しく掘られた跡がある。
 そこに『やまもも』が遺していった羽根が埋められているのは明らかだ。
 『やまもも』はこれを見越してあの母狼に『羽根を遺していってくれ』と言ったに違いない。

(私も銀を慰めてあげたい…だけど、今の私に一体何ができるというのだろう。銀をあんなにも深く傷つけたのは、私なのに…)

《おや、ここでなにを?》

「っ…!」

 じっと白馬達を見つめていた牧草地の神は、突然足元の方から聞こえてきた声に思わず飛び上がりそうになる。
 軽く胸を抑えながら足元を見ると、そこには一匹の茶トラの猫がいた。
 誰もいないと思っていたのに…いつの間に近寄ってきたのだろうか?
 猫は《やぁやぁ》と尾を振りながら話しかけてくる。

《ここで【天界】の方に、それも神様にお会いするのは珍しいと思ってね。声をかけてみたのだよ》
『な、なに、君は…【天界】を知っているの?』
《うん、もちろん知っているとも》

 猫は辺りの草の匂いを嗅ぎながら言う。

《ほら、花の女神のとこに蝶がいるだろう。が仔猫の時分にその蝶を追っかけ回してね、花の女神に『その子は私の側仕えだから、見逃してあげてね』と頭を撫でられたことがあるのだよ。それからとあの蝶はよく顔を合わせては遊ぶ仲さ》
『花の神の…そうか、だから私達のことを知っているんだね』
《まぁね。で、そうやって【天界】の者と関わってると色々と分かってくるものなのだよ、あなたが神様だってことも》

 猫が【天界】と、それも花の神の側仕えである蝶と関わりがあるというのは本当に違いない。
 【地界】に生きている動物は皆大抵 単語のみ、もしくは片言で話をするのだが、この猫はわりと流暢に話している。
 おそらく、長年蝶や花の神と会話をしてきたことで、自然と会話の仕方を覚えたのだろう。
 猫は牧草地の神を丸い目でじっと見上げながら《どうしたのだね、神様》とゆったりとした声で尋ねた。

《浮かない顔をして。あの2人に何かあるのかな》
『うん…』
《よければ吾にわけを話してみないか、神様》

 足元に座り込んだ猫。
 まっすぐなその瞳は、猫がただの興味本位から尋ねたのではないということを真剣に物語っているようで、牧草地の神も心を動かされる。
 なぜか、この猫ならばこの悲しみを和らげてくれそうな気がするのだ。
 牧草地の神はかがんで猫の頭を撫でてやると、事の次第をかいつまんで話した。
 そう詳しく話したわけでは無いが、猫には牧草地の神とあの2人がいかに深く悲しんでいるかが伝わったらしい。
 猫は牧草地の神の手のひらに頭を擦り寄せる。

《ふぅん…そうか、あの2人も普通の人間とはなにか違うと思ったら。元は【天界】の、蝶と同じ側仕え達なのだね》
『うん、そうなんだ。あの泣いている子が…私の側仕えの子だよ。大切な子なのに、私はあんなにも苦しめてしまった…それが私も苦しいんだ』

 胸の内を吐露する牧草地の神に対し、何度もスリスリと頭を擦り寄せる猫。
 それまでじっと牧草地の神の話に耳を傾けていた猫は、やがて《うん…では、あの子達を慰めてあげられれば、あなた様も少しは気が安らぐのかな》と言い出した。

《吾が行って、あなた様の代わりにあの2人を慰めてきてあげよう》
『え、君が?』
《うん。あなた様は今、あの2人を直接慰めてあげることができないのだろう。だから吾が代わりに伝えてあげよう、あなた様が心配しているってことをね》

 思いがけない提案に目を瞬かせる牧草地の神をよそに、猫は《任せて、ちょっと行ってくるから》と尾を振りながら2人の元へと向かっていった。
 すぐそばまで行った猫がニャアと呼びかけると、白蛇は「わ、なんだ、猫」とわずかに驚いて目線を落とす。

「どっから来たんだ?音もなく近寄ってきて…」
《なんだね、わざと音をたてたほうが良かったとでも?》
「あっ、こいつ、前にどっかで見かけた気がするぞ」
《そう?吾は君を知らないけどね》
「お前、この辺りを仕切ってる野良猫だろ、違うか?やたらでかい茶トラの猫がいるって聞いたことがあるぞ、それってお前のことじゃないのか、なぁ?」
《なんだ君は……まったく、元気な蛇がいるものだ。吾はどちらかといえばそっちの彼に用があってきたのだよ…あぁっ、そんな撫で方をするんじゃない!な、なんということだ…躾のなっていない蛇だな、君は》

 白蛇は「おやつも何も持ってきてないぞ」などと言いながら猫をワシワシと撫でており、猫は《やめないか、この蛇め》と呟きながら結局は白蛇の好きにさせている。
 鬱陶しがってはいるものの、あの猫は元来世話好きな性格をしているらしい。

「う…やめなよ、金。この子嫌がってるでしょ」
「そうか?撫でてほしくてきたんじゃないのか?なぁ?」
「僕が…見る限り、うんざりしているみたいだけど」

 白馬は声をつまらせながら涙を拭い、その場に屈んで猫に「ごめんね」と詫びる。

「この人に荒っぽくされて、嫌だったでしょ」
「おい!別に俺は荒っぽくなんかしてないだろ?」
「そうかな…見てよ、頭がボサボサになっちゃってるじゃん。もっと優しく撫でてあげなきゃ。ね?猫ちゃん」

 白馬は白蛇によって乱された猫の毛並みを優しい手つきで整えていく。
 それは猫にも安らぎをもたらしたようで《あぁ、さすがはあなた様の側仕えだね》と喉を鳴らした。

《あなた様とこの人。お二方とも心安らかな、とても良く似た雰囲気を漂わせている。悲しみの中にあっても吾を気遣ってくれるとは、良い方を側仕えにされているのだね、あなた様は》
『うん…そうなんだ、とても良い子なんだよ』

 牧草地の神は猫と神力で会話をしながらその風景を見守る。
 猫は存分に撫でられた後、白馬の膝にスリスリと体を擦りつけながら《君、神様が心配しているのだよ》と話しかけた。

《君があまりにも辛そうにしているから、神様がとても心配している。そこに埋められた子は君のせいでこうなったわけではないのだ、とも言っているのだよ。君、あまり自分を責めてはいけないよ。その『やまもも』という子だって君が涙に暮れる姿を見るのは辛いだろうから》

 もちろん、猫の言葉は白馬には聞こえていないのだが、それでもこうした真摯な思いは『なんとなく』伝わるものだ。
 白馬は鼻をすすりながら「なんだか…慰めてくれてるみたい」と涙で潤む目を柔らかく細める。

「不思議だね…ありがとう、猫ちゃん」
「えぇー?なんだよ、俺だってお前のこと慰めてたのに…猫には礼を言うんだな、俺には言わないで」
「あぁ、うん、そうだね…ありがとう、金」
「はぁ…取ってつけたように言いやがって」
「ううん、そんなことないよ」

 そのやり取りでわずかばかりの笑みが戻った白馬。
 それを見た牧草地の神もようやく胸につかえていたものが少し下りたような気がした。

ーーーーーーー

 その夜、屋敷を訪れた水の神にあの猫の話をすると、水の神は「それもまた、新たな出会いということか」と静かに応える。

「その猫はとても良い子だね。猫というのは元々【天界】の者を見抜く力がある動物なのだと聞いたことがある。そう、たとえ私達が神力で姿を隠していたとしてもなにかの折に気がつくんだ。神力に特に敏感な動物なのかもしれないね。…それにしても、理解がある上に良く気配りのできる猫、か…」

 水の神は話しながらちらりと牧草地の神を見やる。
 膝に手を置いている牧草地の神はいかにも淋しげだが、だからといって会話を避けようとしている様子でもない。
 屋敷には昨夜の出来事がもたらした寂しく暗い雰囲気がまだ濃厚に漂っているが、そんな中でも2神が互いにこうしていくらか口数多く話すことができるのはあの猫のおかげだと言えるだろう。
 水の神は牧草地の神が今夜も しとしと と涙を流すだろうと思ってきたのだが、どうやらそうはならなさそうだ。

「その猫が…私に言ってくれたんです、銀の姿は時々ここで見かける、と。そして『この丘は毎日見回っているから、またあの2人が来たらあなたを呼ぶようにする』とも…私は本当にいい子に出会えました」

 目を伏せてそう呟く牧草地の神に、水の神は「そうだね」と声をかける。
 
「自分にとっての『良い出会い』というのは、それはつまりその相手にとっての『良い出会い』にもなるんじゃないかと思う。君は神や人間や動物に対してとても優しい眼差しを向ける存在だから、きっとその猫にも何かしらのいい影響を与えることだろう。知らず知らずのうちにね」

 水の神のその言葉に、牧草地の神は思わず伏せていた目を上げる。
 水の神がそんな風に他の神を評するなど、いまだかつて見たことも、聞いたこともない。
 牧草地の神が驚きながら「み、水の神が…まさかそんな風に言うとは……」と言うと、水の神はゆったりとした手付きで茶器を口に運びながら「どうして?僕はいつもそう思っているけどね」と微笑んだ。

「うん…毎日同じ茶ばかりではなんだか趣がない気がする。よし、次は酒でも持ってこよう」
「えっ」
「酒だよ、酒。御神酒。秋の祭事なんかでよくお供えされているだろう、あれを持ってこよう。【天界】に置いて長いものなら清めの力も備えたものになっているんじゃないかと思うし。…まぁ、僕達は茶に関しても香りを楽しんでいるようなものだから、酒を呑んでも人間のように酔うことはないだろう」

 水の神は「だから今は茶を飲むと良い、ほら」とさらに牧草地の神の茶器に茶を注ぐ。
 いつもと同じように振る舞いながらも端々に気遣いの後をみせる水の神が、牧草地の神にはとてもありがたかった。
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