牧草地の白馬

蓬屋 月餅

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17「焦げ茶の毛色」

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 猫の言っていた通り、白馬は月に1度あの丘を訪れては少しばかりの時をそこで過ごしていく。
 牧草地の神はその姿を木陰から眺めた後、しばしその場に留まって茶トラの猫と様々な話をすることも楽しむようになっていた。
 時には辺りが暗くなり始めるのに気づくことが遅れることさえあるほどで、牧草地の神と猫との親交はぐんぐん深まっていく。

『その【】というのはいつからなの?』

 そう牧草地の神が尋ねると、猫は《いつからって、ずっと昔からなのだよ》と尾をゆらゆらと揺らしながら答える。

《吾は生まれた時から『吾』なんだ。吾の親兄弟も『吾』だったし、他の猫達も『吾』。いつからかは知らないけど、吾は吾で、とにかく吾というのは……》
『えっと…そ、そう?』

 気さくな猫と共に白馬の姿を見守るこの生活はやがて白馬が【天界】に戻ってくるその日まで続くのだろうと思っていた牧草地の神。
 だが、そうした日々が半年と少し過ぎた頃になって、猫から思いがけない話をされることになる。
 猫はある日突然、《あなた様は、もう自らあの子のそばへ行こうとは思っていないのかね》と言い出したのだ。

《その『器』へ魄とやらを移しさえすれば、好きにあの子のそばへ行けるのだろう?そうはしないのかね》

 猫からの率直なその問いに、牧草地の神は『うん…そうだね』と眉をひそめて答える。

『もう私は銀をさんざん悲しませてしまったから…あまり考えてはいないんだ。君とこうしてあの子の姿をここから見ていれば、もうそれで充分だと思っているんだよ』

 牧草地の神が『あけび』として白馬に会いに行き始めた日から数えてすでに約14年もの月日が経過し、待つのも残りあと8年ほどになっている。
 これまでの長い年月を思えば残りのこの8年はこうして猫と共に姿を見守るだけで構わないという気持ちになっていた牧草地の神。
 しかし、猫は《うん…ても、吾はあなた様に話があるのだよ》と神妙な様子で話し始めた。

《実は、吾は【地界】を去ろうかと思っているのだよ。だから、もしあなた様がこれからもあの子のことを見守りたいのなら、やはり以前のようにした方がいいのではないかと思ってね》

 あまりにも突然の話に牧草地の神が『い、今…【地界】を去るって、言ったの?』と動揺すると、猫は尾を振って《【地界】を去るというか…まぁ、なんというか》と答える。

《吾は、実はずっと昔から花の女神様に…というよりもその側仕えの蝶に『【天界】へ来てくれないか』と言われていたのだよ。だけど吾はそのつもりなんかなくて、ずっと拒んできた。吾が【天界】に だなんて…そんな器でもないし、きっと馴染めないだろうと思っていたから。他の猫達のようにいつか輪廻の輪にのるのだと言い続けてきたのだよ。でも…》

 猫は牧草地の神の手のひらに頭を擦り寄せて《なんだか【天界】に行くのも悪くないのではないかという気がしてきたんた》と続けた。

《あなたがどれだけあの子のことを大切に思っているのかを知れば知るほど、【天界】に生きる神様や側仕え達はとても…なんというか……行動に起こすときにはよほどの深い想いをそこに込めているのではないかという気がして。もしかしたら蝶や花の女神様が吾に【天界】に来てほしいと言っているのも、ただ単に知り合いだからというのではないのではないか、と思えてきたのだよ。それでためしに蝶に聞いてみたら、そうしたら…》

 蝶は《もちろんだよ、そうでなければ花の神様に君のことを沢山頼み込んだりしないもの》と答えたそうだ。

《吾は知らなかったけど、蝶は随分と花の女神様に吾のことを頼み込んでいたらしいのだよ。でも『無理には【天界】へ連れてくることはできないから』と言われて諦めるしかないと思っていたって。…それを聞いて吾は思ったんだ、『こんなに思ってくれる存在があるというのは、とても幸せなことなんじゃないか』ってね》

 猫はそうして【天界】への思いを強めていったのだという。

《花の女神様は吾に『体の小さな蝶だけにこれからも増えていく務めの一端を担わせるのも心配だし、あなたが来てくれたら私も嬉しい』とも言ってくださって。なんというか…あなた様もいることだし、【天界】での暮らしも悪くないのでは、とね》

 牧草地の神はそれを聞いてとても嬉しくなった。
 たしかにこの猫とは知り合ってまだ半年くらいのものだが、それでも互いにとても気が合うと感じていたため、この猫が【天界】に来ることになればさらに語り合う時間も長くなり、より友情を深めることができるだろうと思えたからだ。
 なにより、花の女神の側仕えである蝶とは白馬の分の代わりをしてもらっていることで随分と気心のしれた仲になっているため、その蝶の『どうしても猫を【天界】に呼びたい』という思いが叶えば牧草地の神にとっても嬉しいことこの上ない。
 牧草地の神が素直にそう伝えると、猫は《吾が【天界】に…まさかそう思う日が来るとはね》と喉を鳴らした。
 となれば、牧草地の神にとっての問題はただ1つだ。

『そうか…いつ君は【天界】へ?日は決めてあるの?』
《うん、吾は今まさにそれをどうしようかと思ってるのだよ。吾はずっと一匹だったから【地界】には特にやり残したこともないし…心を決めた以上は【天界】での暮らしに早く慣れたいとも思っていてね。だからあなた様のことだけどうにかできたら、もう【天界】に行こうと思うのだよ》
『私の…ことを』

 猫は《吾がここを去ったら、今までのようにはいかなくなるのだからね》と言う。
 つまりそれはこうして白馬の姿を見守り続けることも難しくなるということだ。
 悩む牧草地の神に、猫は《ねぇ、神様》と声をかける。

《吾は知っているよ、あの丘に眠る子達との別れを あなた様とあなた様の側仕えであるあの子がどれだけ悲しんだか。でも、あなた様にはそれを癒やすことだってできるんだ》
『癒やす…』
《うん、吾がしたように。いや、それ以上にね》

 猫は言う。

《本当は、あなた様はあの子のそばにいたいのでは?見ているだけで充分だと、あなた様はご自身にそう言い聞かせているだけなのだよ》
『それは…』
《あの子だってあなた様を求めているのだよ、分かるだろう?あの子を見ていれば分かる、吾にだって分かる》

 猫が鼻で指した先には、『やまもも』の一件から半年以上が経っても未だに寂しそうな表情をした白馬がいた。

ーーーーーーーーーー

「…と、いうことなんです」

 その夜、牧草地の神がすっかり親友となっている水の神に猫との事を話すと、水の神は考える間もなく「それがいいね」と答える。

「いや…君のことを考えれば私は勝手なことを言える立場ではない。すでに以前、私は半ば強引に君を鴨小屋へ向かわせたし、そのために君は…」
「水の神、もうその事はいいんです。だって…あの時、水の神が私に話を持ちかけてくださらなかったら、きっと私達はこうして語り合う仲にはなっていなかったでしょう?」

 牧草地の神は「それに」と続ける。

「やまももは…あの子は最後に『いつの日かきっとまた会えますから』と私に言ったんです、それもやけに確信めいたような口ぶりで…どうしてそんな風に言ったのか、それがどういうことなのか、私には分かりません。でも、私にできるのは『ただ信じて待つことだけ』だと…ようやく今になってそう思えるようになったんです。やまももがまた会おうと言ったのだから、いつかそんな日が来ると私は信じて待つ他ない、と」
「…そうか」

 茶を淹れながら静かに頷いた水の神が「では、再び『器』を?」と問うと、牧草地の神はふとため息をついて「それは…迷っているんです」と答えた。

「またいずれ銀を苦しめてしまうことになると思うと、このまま8年を待った方がいいように思えて……」
「では、これから8年もの間、君は白馬に寂しい顔をさせ続けるということになるね」

 水の神の言葉にハッとして顔を上げる牧草地の神。

「あの一夜から半年が経っても、君の白馬は悲しみの中にいるんだろう?たしかに、いずれ『器』には最期が来るものだ。しかし、その別れを8年間白馬に引きずらせるのと、君がそばにいて悲しみを一時でも和らげてあげるのと、どちらの方が良いのか…それは君の判断次第だろう」
「一時でも…和らげる…」
「まぁ、僕は白蛇の人生ができる限り明るいものであってほしいと思っているよ」

 牧草地の神はその水の神の言葉に激しく心を揺さぶられ、それから数日間に渡って深く考え込んだ。
 それまで(このままでもいい)と思い込んできたのだが、やはり心の奥底には『あけび』や『やまもも』として白馬のそばで過ごした穏やかな日々が今も残っていて、事あるごとにその思い出達は鮮明に蘇ってくる。
 その中の白馬はいつも明るく優しい笑みを見せていた。
 しかし、今の白馬はどうだろう。
 あの日以降その明るい笑みはどこかへ隠れてしまい、悲しげな表情ばかりになっている。
 きっと丘以外の所では元気にしているのだろうと思いたくても、とてもそうは見えなかった。

【見ているだけで充分だと、あなた様はご自身にそう言い聞かせているだけなのだよ】

【別れを8年間白馬に引きずらせるのと、君がそばにいて悲しみを一時でも和らげてあげるのと、どちらの方が良いのか…それは君の判断次第だろう】

 牧草地の神は1人で誰もいない丘を訪れ、『あけび』と『やまもも』の眠る前に立ちながら幾日にも渡って考え続けた。

ーーーーーーーー

『君とここでこうして話をするのも これが最後になるんだね』

 牧草地の神が茶トラの猫にそう話しかけると、猫は《次からは【天界】でいくらでも話せるのだよ》と尾を振って答える。

《しばらくは花の女神様のおそばで色々と教えていただかないといけないけれどね。でもすぐにあなた様にも会いに行きたいと思っているのだよ》
『うん、ぜひそうしてよ。…そうだ、きっと私の所には水の神もいるだろうから、会ったらあの白蛇のことも話してあげてね』
《それは、うーん…何を話せばいいのか分からないのだよ。水の神様もあなた様があの馬の子を想っているのと同じように蛇の子を想っているのだろう?だけど吾は…あの蛇の子は……うぅん……》

 白蛇との相性はあまりいいとは言えない、といわんばかりに渋る猫。
 牧草地の神はそんな猫に『水の神はどんな話であれ聞きたいと思っているはずだよ』と微笑みかける。
 猫はそれでも《しかしだね…》と唸っていたが。

《あぁ…いや……まぁ、それはさておき。神様、それじゃ行こう》
『うん』

 茶トラの猫についていく牧草地の神。
 その姿は焦げ茶の毛色の、緑がかった目をした成猫だった。

ーーーーーーーーーー

「あれ…猫ちゃん、その隣の子は新しい子だよね?」

 白馬は茶トラの猫の隣にいる焦げ茶の猫に向かって「はじめまして」と手の甲をゆっくりと差し出す。
 猫の姿をした牧草地の神がその手の甲に口づけをするように鼻をくっつけると、白馬はふふっ、と軽く微笑んだ。

「可愛いね、2匹一緒にどこかへ行くの?」

 茶トラの猫のことも撫でながら空に目を向ける白馬。

「もうじき日が暮れちゃうね、僕はもう帰るところなんだ。また今度会おうね」

 白馬がそう言いながら立ち上がると、茶トラの猫は《馬の子、良い日々を送るようにね》と言って白馬の足に頬を擦り寄せる。

《それじゃ、吾はこれで失礼するのだよ》

 丘を取り囲む木々の方へと歩き出した茶トラの猫。
 牧草地の神はその後ろ姿に『ありがとう、また【天界】でね』と声をかけた。

 茶トラの猫が去るのを追おうともしない焦げ茶の猫を心配したのか、白馬は「君はどうしたの?」と再びかがんで話し始める。

「あの子、行っちゃったよ?一緒に行かないの?」

 手のひらで焦げ茶の猫の額を包み込むように撫でる白馬は「困ったな…僕、もう帰るのに」と眉をひそめて呟く。

「ねぇ、君のお家はどこなの?あの茶トラの子と同じ野良なのかな?」

 白馬はしばらくそうして話しかけながら牧草地の神を撫でていたが、空が随分と暗くなり始めたために「もういい加減帰らないと」と立ち上がった。

「またね、猫ちゃん」

 踵を返し、灯りがポツポツと灯る集落の方へ歩きだした白馬だったが、猫の姿の牧草地の神は茶トラの猫のように木々の方へ向かうことはせず、白馬の後をついて行く。
 しばらく道を行ったところで焦げ茶の猫があとをついてきていることに気づいた白馬は「君、本当にどうしたの?」と首を傾げた。

「僕について来てるの?…いや、もしかして途中まで一緒なのかな?」

 白馬はまったく離れる気配のない牧草地の神に「じゃあ、しばらく一緒に歩こっか」と柔らかな声をかけて歩き出した。
 白馬は牧草地の神が『あけび』として訪れたあの家からはすでに引っ越していて、今はあまりたくさんの家が建ち並んでいない辺りに建つ広めの一軒家に住んでいるらしい。
 夕日が落ちきる前に白馬は自宅に到着したのだが、それでも牧草地の神はそこを離れなかった。
 家の戸の前に座り、ただただじっと白馬の目を見つめる。
 白馬から「もう自分のお家に帰りなね」と言われても、そこに端座して動かない。
 すると、いつまで経っても一向にそこから動く気配がない焦げ茶の猫に根負けしたらしい白馬は「その…僕の家、入ってみる?」と戸を少し開いてみせた。

「君にあげられるような ごはんも なにもないんだけど…もう暗くなってきちゃったし、ずっとそこに居続けるつもりなら中でお水だけでもあげようか?」

 白馬にそう声をかけられた猫の姿の牧草地の神は、(やっぱり、放ってはおかなかったね)と温かな気持ちになりながら白馬の足と家の戸に額を擦り寄せ、ゆっくりと家の中に足を踏み入れる。
 暗かった室内は白馬がともした灯りによってたちまち暖かな色に包まれた。
 牧草地の神が白馬に差し出された水入りの皿へ鼻先を近づけて飲むフリをし始めると、白馬は「君、どうして僕についてきたの?」と困ったような表情を見せる。

「どうして僕についてきたんだろう、特にいい匂いなんかもさせていないはずなのにな…干し草の匂いしか しないんじゃないかな?撫でたのもさっきが初めてのはずだし、懐かれるようなことをした憶えだってないのに…」

 白馬は猫の姿の牧草地の神をじっと見つめる。

「もう夜だし外を出歩くのはやめたほうがいいと思うけど、お外に出たくなったら教えてね。すぐに戸を開けてあげるから」

 牧草地の神が顔をあげると、白馬と真正面から視線が合った。
 今までにも何度も覗き込んできた白馬の美しい瞳。
 すでに高い神力が宿っているかのような深い魅力に満ちたその目は牧草地の神の視線を強く惹きつけたが、それはどうやら白馬の方も同じだったらしい。

「困ったな……」

 白馬はそっと手を伸ばして焦げ茶の猫の額を撫でる。

「なんだか君があまりにも可愛くて綺麗で……離れがたくなっちゃいそうだよ」

 【地界】での3度目の再会を果たした牧草地の神と白馬。
 牧草地の神は白馬が夕飯の支度をしても、湯浴みからあがってきても、寝台に横たわって灯りを消しても、じっと部屋の片隅に居続けた。
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