牧草地の白馬

蓬屋 月餅

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18『1人と1匹』

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「ただいま~!」

 彼は家に帰り着くなり、何度も「ただいま」と繰り返しながら部屋の中を見渡す。
 1日の仕事を終え、水場で手などを洗ってから彼が部屋へ帰ってくるのは毎日これくらいの時間だ。
 日が沈み始めるくらいのこの時間。
 『ただいま』と声をかけていると、大体いつも窓際にある座布団の辺りから…。

「ははっ!やっぱりそこにいたんだね」

 にゃあと小さく鳴きながら足元に擦り寄ってくる焦げ茶の毛色をした猫。
 彼はその猫を抱き上げると、ゴロゴロという喉の鳴る音を耳のすぐ近くで聴きながら柔らかな毛並みの背中をそっと撫でた。

「ただいま、『かりん』」

 そう声をかけると、猫はそれに応えるかのように彼の頬に顔を擦り寄せてきた。

ーーーーーーーーー

 それは今から半年前のことだ。
 心の底から可愛がっていた愛鴨である『やまもも』を失った当時の彼は日々の生活になんの楽しみも希望も見出だせないほど憔悴しきり、なんとか生きているというような状態で毎日を過ごしていた。
 『やまもも』を目の前で狼に連れて行かれたあの衝撃的な夜の光景は彼の目に焼き付いて離れず、何をしていても悲しみと後悔がついて回っていたのだ。

もっとよく見張りをしていれば
もっと音に警戒していれば

あんなにも可愛がっていなければ…

 そうすればまだ『やまもも』は今も仲間達と一緒にあの鴨小屋で元気に暮らしていたかもしれない。
 そんな激しい後悔と深い悲しみはいつまで経っても彼の心に暗く影を落としていて、それは一生晴れることのないものかに思われていた。
 そう。彼はこの先何年経ったとしても晴れやかな気持ちになることはないと思っていたのだ。
 あんな形で『かりん』に出会うまでは…。

 『あけび』と『やまもも』の眠る丘に出向くことさえ辛い気持ちでいっぱいだった彼にとって、突然のその出会いはそれまでの生活を一変させるほどの影響を与えるものだった。
 
 どうせいつか別れが訪れる
 それなら二度と動物とは親しくしない

 そう心に決めていたにもかかわらず、丘から家まであとをついてきた猫を数日世話していると、そんな彼の決心は簡単に崩れ去ってしまった。
 その猫はあまりにも愛らしく、どうしても世話をせずにはいられなかったのだ。
 会ったばかりのはずだったその猫もどういうわけか外へ出ていこうとせず、かといって追い出すこともできない彼は結局猫と共に暮らし始めることにした。
 彼はその猫に出会った季節になぞらえて『かりん』という名をつけた。
 花梨の木は美しい色と木目をもち、さらにその実には様々な効能を秘めている。
 美しい毛並みをしている上、塞ぎ込んでいた彼の心をすっかり癒やしてしまったこの猫にはまさに『かりん』という名が相応しいだろう。
 彼は『かりん』と同じ屋根の下で暮らし、毎日、仕事以外の時間を片時も離れず一緒に過ごしていた。

ーーーーーーーーー

「よぉ、銀の猫!相変わらず綺麗な猫だな!」

 彼の後に続いて威勢のいい声をあげながら家に入ってきた『金』。
 『金』は時たまこうしてこの家を訪れ、独身の男同士で夕食を共にすることがある。
 どうやら今日もそのつもりで来たらしい。

 彼に抱き上げられている『かりん』を
前にした『金』だが、どうやら『かりん』という名前が出てこないらしく、しきりに「えーっと…えっ、と…まてよ、たしか…」と呟いている。
 彼はそんな『金』にやれやれというように首を振りながらため息をついた。

「だから『かりん』だってば」
「あぁそうそう!『かりん』だったよな、あはは!そうそう!」
「っとにもう…いつまで経っても覚えないなんて、ひどすぎる」
「違うって!今思い出すところだったんだ、それなのにお前が先に言うから…」
「うそだね。僕が言わなかったら適当に『猫ちゃん』とか言ってたでしょ、絶対にそう。分かってるんだからね、僕は」

 彼と『金』がそうして軽く言い合っていても『かりん』は変わらずゴロゴロと喉を鳴らしている。
 その可愛らしさは『金』の目をも惹くようで、『金』は「相変わらずお前にベッタリだな」と微笑みながら『かりん』に手を伸ばしてきた。

「こんなに騒がしくしててもお構いなしにゴロゴロして。よっぽどお前のことが好きらしい」

 『金』に頭を撫でられた『かりん』は少しゴロゴロという響きを抑える。
 何度か顔を合わせてきたのだが、未だに『かりん』は『金』に対して緊張しているように、どこかよそよそしい態度をとっている。
 『金』もそれを感じているらしく「やっぱり俺にはあんまり懐いてくれないんだよな」と少し寂しげに言った。

「なんで俺は動物に懐かれないんだか…ずっと昔からそうだ、他の奴らとおんなじことをしてるのに何故か俺にだけは近寄って来なかったりして」
「うん、なんか不思議だよね?…まぁ、でも かりんが好きなのは僕だけでいいから。ね?かりん~」
「うわっ羨ましいところを見せつけてくるなよ!俺も猫に懐かれたいのにさぁ…」

 彼が『かりん』の頬に軽く口づけると、少し静かになっていたゴロゴロという響きが再び大きくはっきりと聞こえ始める。
 そのままずっと抱き上げていたい気持ちは山々でも、そろそろ夕飯の支度をしようということになって彼は『かりん』をそっと床に下ろした。
 『金』が彼の家で夕飯を食べている間も『かりん』は彼の足元にいて、時々体を擦り寄せてきていた。

ーーーーーーーー

 『かりん』は本当に不思議な猫だ。
 初めて会った時からどこか普通の猫ではないような雰囲気を漂わせていた『かりん』。
 彼はそれが野良猫にしては綺麗な毛並みや整った顔立ちをしているからだろうと思っていたのだが、一緒に暮らし始めて何年も経てばその『不思議』に感じた理由が姿によるものではないことに気づく。

 餌をやっても食べないのに いつも体が綺麗で外に出ている様子は一切感じられず、用を足している様子さえもないのだ。

 あまりにも動物として不自然ではあるが、何度疑ってみたところで結局『かりん』はどう見てもただの猫でしかなく、『どこかの抜け道から外に出て、知らぬうちに色々としているに違いない』という結論に至る。
 どんな可能性を考慮しても、そうとしか思えない。

 不思議な猫、『かりん』。

 それは彼にとって1番の友人である『金』とは別の、文字通りかけがえのない存在となっていた。

ーーーーーーー

「んー?なに、かりん。また僕の邪魔をしにきたの?」

 夜も深まり、外がすっかり暗くなった頃。
 机に向かって書き物をしていた彼の元へやってきた『かりん』は長い尾をゆったりと揺らしながら字を書き出している彼の手元をじっと見つめてくる。
 わずかに頭を下げたようなその姿勢はまるで『撫でてくれ』と言っているかのようで、彼は我慢できずに手を伸ばした。

「もうちょっとだけ書くことがあるから待っててよ、ね?そうやってスリスリされると構いたくなっちゃうんだからさ…これ、今日の分の仕事の日誌を書いてるんだ。だからあと少しだけ集中させてほしいんだけどな…あぁ、それならせめて膝の上においでよ、その方が僕も楽だからさ」

 彼が誘導するように膝の上を叩いてみせると、『かりん』はその言葉の意味を理解しているように大人しく彼の膝の上で丸くなる。
 彼は『かりん』を片手で撫でながら書き物を終えると、ふぅっと息をつき、膝の上にいる『かりん』に向かって今日一日の出来事をまるで日記に記しでもしているかのように話し始めた。

 今は馬の放牧場で仕事をしていること。
 馬の扱いが上手いと周りからよく褒められること。
 青々とした牧草を食む馬や牛達を見るとなぜだかとても嬉しくてたまらないこと…。

 そうした取り留めのない話を、彼は一体どれだけ『かりん』にしてきたことだろうか。
 彼がついついそうして話してしまうのは『かりん』が人の言葉を理解しているように思えてならないからだ。
 初めはじっと話を聞くような素振りをする『かりん』に対して(撫でてもらえるのが嬉しいのかな…?)と思っていたのだが、どうやらそうではないらしいとある日彼は気づいた。
 それは仕事で落ち込むことがあり、暗い顔のまま帰ってきた日のこと。
 あまり表情には出すまいとしていたにもかかわらず、『かりん』はいつにもまして甘えるような素振りをみせ、ついには彼の寝台にも上がって共に眠ろうとしたのだった。
 それまで寝台にあがることさえしなかった『かりん』がまさかそんな風に寄り添ってくれるとは思いもせず、彼はすっかり落ち込んだ気分を明るく温かなものに変えられていた。

 直接言葉を交わさなくても理解し合える。
 
 そんな『かりん』との関係性が彼には特別で、とても大切だった。

「…またこんなに長く話しちゃったよ。もう寝なきゃね…かりんもおいで、一緒に寝ようよ」

 膝から下りた『かりん』にそう声をかけると、彼は部屋の灯りを消してから寝台の片隅に『かりん』が丸くなれるような空間を作って横になる。 
 『かりん』がそこにやってくると、彼は「いい子…本当に僕の言う事が分かってるんだね」と微笑んだ。

「本当に不思議な子だな、君は…どうして君といるとこんなに心が安らぐんだろう?とても綺麗で、撫で心地も最高で、お利口さんで…本当に不思議。どうしてか分からないんだけど、僕は君の匂いも好きなんだよ。なんていうのかな、牧草みたいな…?とにかく懐かしい感じがするんだ」

 満月の灯りが窓から彼と『かりん』を照らす。

「この模様も…不思議だね、かりん…ここだけ真っ白だなんて…輪っかを首にかけてるみたい。前にもこんな模様の子がいたんだけど…もしかしてこれは神様からもらった首輪なの?君は神様の猫なのかな…だからこんなに綺麗で不思議な感じがするの?そうなのかな、本当に…もしかしたら本当にそうなのかもしれないね……?」

 部屋中に響きわたるほどのゴロゴロという低い音。
 彼はくすくすと笑いながら『かりん』の額を撫でる。

「はぁ…君と話ができたらいいのに。そうしたら、きっと もっと楽しいよね?もし君が話せたなら…君に聞いてみたいことがたくさんあるのに」

 愉快そうに尾を揺らす『かりん』。
 彼はそんな『かりん』の額に軽く口づけてから囁いた。

「おやすみ、かりん。また明日ね」

ーーーーーーーーー

 そうして彼は、実に8年にわたって猫の『かりん』と共に暮らした。
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