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19「かりん」
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牧草地の神は『かりん』として白馬のそばに約8年間 居続けた。
その年月は『あけび』や『やまもも』としての日々よりも濃く、『あけび』と過ごした11年に匹敵するか、もしくはそれ以上にも感じられるものだった。
なにせ牧草地の神は白馬と同じ家に暮らしていたも同然だったのだから。
牧草地の神は3つ目の『器』に猫を選んでいたが、その理由にはこうした日々への期待も込めていた。
茶トラの猫がなんとも自然に白馬達へ近づき、そして撫でられていたのを見た牧草地の神は(猫ならば今までよりもさらに白馬のそばにいることができるのではないか?)と考えたのだ。
そしてそんな牧草地の神の考えはまさにその通りで、『かりん』は追い出されるどころか白馬の家に住み着くことさえ許されてしまった。
これは牧草地の神にも予期していなかったことだが、なんとも幸福な日々の始まりでもあった。
酪農地域で主に馬の放牧場の管理を担当している白馬は朝早くに家を出て、夕方頃に家に戻ってくる。
牧草地の神は白馬が帰ってくる時刻になると、白馬の家に寝かせたままの『かりん』に魄を移し、白馬が眠るまでその傍らで過ごすのだ。
そんな生活を送る点においても猫は非常に都合が良かった。
牧草地の神が魄を移していない時の『かりん』は眠り続けているような姿をしているのだが、たとえその姿を見られたとしても猫はよく眠る動物として不思議には思われなかったからだ。
それ以外の部分に関しては共に暮らすうちに随分と不思議に思われたものだが…。
魄を初めて移した頃の、『あけび』だった頃は1ヶ月に1度だけ数時間を共に過ごしてはせいぜい頭を撫でられる程度なものだったのが、『やまもも』ではその腕に抱きかかえられるようになり、そして『かりん』ではこんなにも近づけるようになったとは…まさかこんなにも白馬と共に時を過ごすことができるようになるなど当初はまったく思いもしていなかったことであり、牧草地の神は時々信じられない気持ちでいた。
『かりん』は『あけび』や『やまもも』のように外に出て白馬を見守ることはなかったが、それでも白馬は撫でながら様々な話をしてくれる上に、時には白蛇を家に招いて賑やかな一時を過ごすことがあったため、牧草地の神も水の神との話のネタには苦労することがなかった。
『銀』という人間である白馬が22歳になる頃から約8年。
白馬達が神力を得るために必要な人間としての30年が、ついに過ぎようとしていた。
ーーーーーーーーー
『かりん』に魄を移している牧草地の神はいつものように白馬に撫でられながらゴロゴロと喉を鳴らし、親愛を示すように額を擦り寄せる。
白馬に額へ口づけられるのも、寝台から『こっちにおいで、かりん』と呼びかけるのも、初めは随分とドギマギしてそう簡単に応じることのできなかった牧草地の神だが、それも今ではすべて親愛の証として受け入れ、牧草地の神も手のひらや頬に口づけをするかのように鼻先をくっつけるまでになっていた。
親しい友として、兄弟として。
白馬のそばに居続けた牧草地の神。
だがそんな日々もいよいよ終りを迎える時が来た。
白馬達が転生を終え、【天界】に帰ってくるということ。
それはつまり、白馬が人間の『銀』としての暮らしを終えることでもある。
それがいつ、どのような『きっかけ』でそうなるのかは多少の未来を見通すことのできる力をもつ森の神の側仕えである梟にも分からないそうだ。
以前、牧草地の神はそのことに関して梟に色々と聞いたことがあるのだが、『転生の泉』を利用したことのある者が現時点ではあまりにも少ないため、「なにか規則性があるのかどうか、私にもはっきりと申し上げることはできません」という答えしか得られなかった。
ただ、梟は自身と風の神の側仕えである鶲が【天界】へ戻ってくるきっかけとなった出来事について話してくれた。
「あれは完全な事故でした。私と鶲君は一緒に道を歩いていたんですが、突然坂の上の方から荷車が滑り落ちてきたんです。おそらく輪止めが外れたんでしょう。坂の下には子供達がいて、私と鶲君は咄嗟にその子供達をかばいました。鶲君は少し小柄ではありましたけど、それでも私達は成人した男性でしたからね。幸いなことに私達以外の犠牲はなかったようです」
淡々とした様子でそう語る梟は「あれが偶然のことだったのかどうか、私にも分かりません」と続ける。
「『偶然』私と鶲君のいるところへ『偶然』坂の上から輪止めの外れた荷車が滑り落ちてきた。そして、『運良く』犠牲は私達2人だけで済んだ。結果的にそれは私達が【天界】に帰ってくるためのきっかけとなったわけですが…もしかしたら偶然ではなく、必然的なことだったのかもしれません。『すべては起こるべくして起こること』ということでしょう」
梟はそれから牧草地の神に向けて「ご心配なく」と軽く笑みを見せた。
「じきに白馬君はこの【天界】へ戻ってきます。どのような きっかけ かは分かりませんが、白馬君があなた様の隣に立つ姿を先日『見た』んです。あなた様もいずれそう遠くないうちに白馬君が『帰ってくる』という気配を感じることになるでしょう」
その言葉は牧草地の神の胸に期待と緊張と、やはり大きな期待を抱かせた。
白馬はいよいよ人間としての30年を過ごし終え、この【天界】に帰ってくるのだ。
ついに、いよいよだ。
『あけび』や『やまもも』『かりん』として白馬の姿を見守り続けてきたが、この再会はそれらとはまったくの別物だと言える。
白馬が【天界】に帰ってきてから何を思うのか、はもちろんのこととして、この30年間(正確には22年だが)言葉を介さずただ見守り続けてきた存在とついに直接話ができるようになるのだ。
会ったら何を言おう。
どんな話をしようか。
日を追うごとに牧草地の神はにわかに緊張し始めた。
ーーーーーーーーー
そう遠くないうちに【天界】へ帰ってくる白馬。
だが、牧草地の神が8年を共に過ごした『かりん』にも最期の時が迫っていた。
『あけび』の時よりも短い8年という年月だが、『あけび』よりも小さな体で、その上【地界】にいる時間が格段に長かった『かりん』は牧草地の神がいくら巡らせる神力を抑えていたとしてもすっかり老いていってしまっていたのだ。
牧草地の神は『かりん』にそのまま白馬の元で最期を迎えさせてやりたいと思っていた。
なにせ白馬が【天界】に先に帰ってきたとしたら、『かりん』は1人あの家に取り残されてしまうのだ。
【天界】に連れ帰ったとしても、すでに随分と年老いている『かりん』はただただ屋敷で眠り続けることになるだろう。
(それよりは あの丘で『あけび』や『やまもも』と共にいた方が『かりん』にとっても良いだろう)
そう考えてのことだった。
だが、そうとは知らない白馬は明らかに弱々しくなった『かりん』をひどく心配し、やがて「お前、大丈夫なのかよ」と白蛇から言われるほどにまでなってしまう。
『かりん』は次第に、体を動かすことさえままならなくなっていった。
「かりんのこと、獣医に診せたんだろ?なんだって言ってたんだよ」
白蛇に訊かれた白馬は魄が移されておらず眠り姿をした『かりん』の体をゆっくりと何度も擦りながら「なんともない、って…」と掠れたような声で答える。
「なんともないんだって、ただ随分と歳をとっただけだって……」
悲痛なその様子に白蛇が「そうなのか」と呟くと、白馬は勢いよく首を横に振った。
「違う、絶対にそうじゃない。だって僕が初めて会った時、どうみてもまだ1歳かそこらだったんだよ、この子。それから8年って、それなら大体今は9歳くらいのはずでしょ?よその飼い猫は15歳だって元気にしてるのに…それなのにこんなの、おかしいでしょ。おかしいの、絶対に歳をとったせいなんかじゃない」
「おい…落ち着けよ」
「絶対に、絶対に かりんはどこか具合が悪いんだよ、絶対にそうなの!でもそれがどこなのか、どこが悪いのかが分からない、なんの手当もしてあげられないんだよ、僕。僕はかりんに、この子に何もしてあげられない、ただじっと黙って弱っていくのを見ていることしかできないんだ」
白馬は眠っている姿の『かりん』を撫でながら1つ、また1つと頬に雫を伝わせる。
「ごはんも食べないし、お水も……だからきっとこんなに弱っちゃってるんだよ、だけど どんなに工夫しても かりんは食べようとも飲もうともしなくて……このままじゃ…このままじゃ かりんが……」
涙ながらに話すその様子は見ている白蛇の胸まで締めつけられるほどのものだ。
白蛇はかける言葉も見つからず、白馬の肩にそっと手をおいた。
牧草地の神が『かりん』としての日々を終えたのはそれから間もなくのことだった。
『あけび』の時のように、白馬に見守られながら。
当初は真夜中の白馬が眠っている隙にそっと『かりん』に別れを告げようかとも思っていたのだが、そんな牧草地の神の考えを先読みしていたかのように白馬は眠ることなく『かりん』を撫で続けていた。
悲しみと焦燥とが混ざった白馬の瞳を見つめ続けるのはひどく辛いことだった。
(ありがとう、銀。かりんを…この子を沢山愛してくれて)
牧草地の神は魄が『かりん』から引き剥がされようとしているのをなんとか留めながら、白馬と『かりん』に別れを告げる。
(私は…また君を悲しませてしまう。でも、先に【天界】で待っているからね。君に悲しい思いをさせるのはこれが最後だ。だから、君はそう辛がらずに…帰ってくるまでの時間をなるべく楽しく過ごしてほしい。いい人生だったと、言えるように)
(かりんも、ありがとう。君のおかげでとてもいい時間を過ごすことができたよ。本当に…本当に、ありがとう)
魄を留めているのがさらに難しくなっていく中、牧草地の神は最後に(銀)と心の中で呼びかけた。
(悲しみすぎないで…これは決して、永遠の別れなんかではないんだから)
牧草地の神が白馬に対してそう伝えるかのようにか細い鳴き声を『かりん』から出した瞬間、まるで砂浜に打ち寄せる波が引いていくかのような感覚に襲われ、魄は『かりん』から引き離されてしまう。
白馬の傍らに立った牧草地の神が『かりん』に微笑みかけると、不思議と『かりん』から声が聴こえてきた気がした。
それが『かりん』によるものなのかを確かめる間もなく、牧草地の神は強引に【天界】の自らの屋敷へと引き戻されていた。
牧草地の神は屋敷の庭から白馬と『かりん』のいる方角に向かい、胸に手を当てて目を閉じる。
(ありがとう…本当に、とても良い日々だったよ、かりん)
魄を失い、ただの『器』に戻ったはずの『かりん』。
白馬の前に横たわるその焦げ茶の猫から聞こえてきたその1言はどこかとても明るい響きに満ちていた。
《またね》
その年月は『あけび』や『やまもも』としての日々よりも濃く、『あけび』と過ごした11年に匹敵するか、もしくはそれ以上にも感じられるものだった。
なにせ牧草地の神は白馬と同じ家に暮らしていたも同然だったのだから。
牧草地の神は3つ目の『器』に猫を選んでいたが、その理由にはこうした日々への期待も込めていた。
茶トラの猫がなんとも自然に白馬達へ近づき、そして撫でられていたのを見た牧草地の神は(猫ならば今までよりもさらに白馬のそばにいることができるのではないか?)と考えたのだ。
そしてそんな牧草地の神の考えはまさにその通りで、『かりん』は追い出されるどころか白馬の家に住み着くことさえ許されてしまった。
これは牧草地の神にも予期していなかったことだが、なんとも幸福な日々の始まりでもあった。
酪農地域で主に馬の放牧場の管理を担当している白馬は朝早くに家を出て、夕方頃に家に戻ってくる。
牧草地の神は白馬が帰ってくる時刻になると、白馬の家に寝かせたままの『かりん』に魄を移し、白馬が眠るまでその傍らで過ごすのだ。
そんな生活を送る点においても猫は非常に都合が良かった。
牧草地の神が魄を移していない時の『かりん』は眠り続けているような姿をしているのだが、たとえその姿を見られたとしても猫はよく眠る動物として不思議には思われなかったからだ。
それ以外の部分に関しては共に暮らすうちに随分と不思議に思われたものだが…。
魄を初めて移した頃の、『あけび』だった頃は1ヶ月に1度だけ数時間を共に過ごしてはせいぜい頭を撫でられる程度なものだったのが、『やまもも』ではその腕に抱きかかえられるようになり、そして『かりん』ではこんなにも近づけるようになったとは…まさかこんなにも白馬と共に時を過ごすことができるようになるなど当初はまったく思いもしていなかったことであり、牧草地の神は時々信じられない気持ちでいた。
『かりん』は『あけび』や『やまもも』のように外に出て白馬を見守ることはなかったが、それでも白馬は撫でながら様々な話をしてくれる上に、時には白蛇を家に招いて賑やかな一時を過ごすことがあったため、牧草地の神も水の神との話のネタには苦労することがなかった。
『銀』という人間である白馬が22歳になる頃から約8年。
白馬達が神力を得るために必要な人間としての30年が、ついに過ぎようとしていた。
ーーーーーーーーー
『かりん』に魄を移している牧草地の神はいつものように白馬に撫でられながらゴロゴロと喉を鳴らし、親愛を示すように額を擦り寄せる。
白馬に額へ口づけられるのも、寝台から『こっちにおいで、かりん』と呼びかけるのも、初めは随分とドギマギしてそう簡単に応じることのできなかった牧草地の神だが、それも今ではすべて親愛の証として受け入れ、牧草地の神も手のひらや頬に口づけをするかのように鼻先をくっつけるまでになっていた。
親しい友として、兄弟として。
白馬のそばに居続けた牧草地の神。
だがそんな日々もいよいよ終りを迎える時が来た。
白馬達が転生を終え、【天界】に帰ってくるということ。
それはつまり、白馬が人間の『銀』としての暮らしを終えることでもある。
それがいつ、どのような『きっかけ』でそうなるのかは多少の未来を見通すことのできる力をもつ森の神の側仕えである梟にも分からないそうだ。
以前、牧草地の神はそのことに関して梟に色々と聞いたことがあるのだが、『転生の泉』を利用したことのある者が現時点ではあまりにも少ないため、「なにか規則性があるのかどうか、私にもはっきりと申し上げることはできません」という答えしか得られなかった。
ただ、梟は自身と風の神の側仕えである鶲が【天界】へ戻ってくるきっかけとなった出来事について話してくれた。
「あれは完全な事故でした。私と鶲君は一緒に道を歩いていたんですが、突然坂の上の方から荷車が滑り落ちてきたんです。おそらく輪止めが外れたんでしょう。坂の下には子供達がいて、私と鶲君は咄嗟にその子供達をかばいました。鶲君は少し小柄ではありましたけど、それでも私達は成人した男性でしたからね。幸いなことに私達以外の犠牲はなかったようです」
淡々とした様子でそう語る梟は「あれが偶然のことだったのかどうか、私にも分かりません」と続ける。
「『偶然』私と鶲君のいるところへ『偶然』坂の上から輪止めの外れた荷車が滑り落ちてきた。そして、『運良く』犠牲は私達2人だけで済んだ。結果的にそれは私達が【天界】に帰ってくるためのきっかけとなったわけですが…もしかしたら偶然ではなく、必然的なことだったのかもしれません。『すべては起こるべくして起こること』ということでしょう」
梟はそれから牧草地の神に向けて「ご心配なく」と軽く笑みを見せた。
「じきに白馬君はこの【天界】へ戻ってきます。どのような きっかけ かは分かりませんが、白馬君があなた様の隣に立つ姿を先日『見た』んです。あなた様もいずれそう遠くないうちに白馬君が『帰ってくる』という気配を感じることになるでしょう」
その言葉は牧草地の神の胸に期待と緊張と、やはり大きな期待を抱かせた。
白馬はいよいよ人間としての30年を過ごし終え、この【天界】に帰ってくるのだ。
ついに、いよいよだ。
『あけび』や『やまもも』『かりん』として白馬の姿を見守り続けてきたが、この再会はそれらとはまったくの別物だと言える。
白馬が【天界】に帰ってきてから何を思うのか、はもちろんのこととして、この30年間(正確には22年だが)言葉を介さずただ見守り続けてきた存在とついに直接話ができるようになるのだ。
会ったら何を言おう。
どんな話をしようか。
日を追うごとに牧草地の神はにわかに緊張し始めた。
ーーーーーーーーー
そう遠くないうちに【天界】へ帰ってくる白馬。
だが、牧草地の神が8年を共に過ごした『かりん』にも最期の時が迫っていた。
『あけび』の時よりも短い8年という年月だが、『あけび』よりも小さな体で、その上【地界】にいる時間が格段に長かった『かりん』は牧草地の神がいくら巡らせる神力を抑えていたとしてもすっかり老いていってしまっていたのだ。
牧草地の神は『かりん』にそのまま白馬の元で最期を迎えさせてやりたいと思っていた。
なにせ白馬が【天界】に先に帰ってきたとしたら、『かりん』は1人あの家に取り残されてしまうのだ。
【天界】に連れ帰ったとしても、すでに随分と年老いている『かりん』はただただ屋敷で眠り続けることになるだろう。
(それよりは あの丘で『あけび』や『やまもも』と共にいた方が『かりん』にとっても良いだろう)
そう考えてのことだった。
だが、そうとは知らない白馬は明らかに弱々しくなった『かりん』をひどく心配し、やがて「お前、大丈夫なのかよ」と白蛇から言われるほどにまでなってしまう。
『かりん』は次第に、体を動かすことさえままならなくなっていった。
「かりんのこと、獣医に診せたんだろ?なんだって言ってたんだよ」
白蛇に訊かれた白馬は魄が移されておらず眠り姿をした『かりん』の体をゆっくりと何度も擦りながら「なんともない、って…」と掠れたような声で答える。
「なんともないんだって、ただ随分と歳をとっただけだって……」
悲痛なその様子に白蛇が「そうなのか」と呟くと、白馬は勢いよく首を横に振った。
「違う、絶対にそうじゃない。だって僕が初めて会った時、どうみてもまだ1歳かそこらだったんだよ、この子。それから8年って、それなら大体今は9歳くらいのはずでしょ?よその飼い猫は15歳だって元気にしてるのに…それなのにこんなの、おかしいでしょ。おかしいの、絶対に歳をとったせいなんかじゃない」
「おい…落ち着けよ」
「絶対に、絶対に かりんはどこか具合が悪いんだよ、絶対にそうなの!でもそれがどこなのか、どこが悪いのかが分からない、なんの手当もしてあげられないんだよ、僕。僕はかりんに、この子に何もしてあげられない、ただじっと黙って弱っていくのを見ていることしかできないんだ」
白馬は眠っている姿の『かりん』を撫でながら1つ、また1つと頬に雫を伝わせる。
「ごはんも食べないし、お水も……だからきっとこんなに弱っちゃってるんだよ、だけど どんなに工夫しても かりんは食べようとも飲もうともしなくて……このままじゃ…このままじゃ かりんが……」
涙ながらに話すその様子は見ている白蛇の胸まで締めつけられるほどのものだ。
白蛇はかける言葉も見つからず、白馬の肩にそっと手をおいた。
牧草地の神が『かりん』としての日々を終えたのはそれから間もなくのことだった。
『あけび』の時のように、白馬に見守られながら。
当初は真夜中の白馬が眠っている隙にそっと『かりん』に別れを告げようかとも思っていたのだが、そんな牧草地の神の考えを先読みしていたかのように白馬は眠ることなく『かりん』を撫で続けていた。
悲しみと焦燥とが混ざった白馬の瞳を見つめ続けるのはひどく辛いことだった。
(ありがとう、銀。かりんを…この子を沢山愛してくれて)
牧草地の神は魄が『かりん』から引き剥がされようとしているのをなんとか留めながら、白馬と『かりん』に別れを告げる。
(私は…また君を悲しませてしまう。でも、先に【天界】で待っているからね。君に悲しい思いをさせるのはこれが最後だ。だから、君はそう辛がらずに…帰ってくるまでの時間をなるべく楽しく過ごしてほしい。いい人生だったと、言えるように)
(かりんも、ありがとう。君のおかげでとてもいい時間を過ごすことができたよ。本当に…本当に、ありがとう)
魄を留めているのがさらに難しくなっていく中、牧草地の神は最後に(銀)と心の中で呼びかけた。
(悲しみすぎないで…これは決して、永遠の別れなんかではないんだから)
牧草地の神が白馬に対してそう伝えるかのようにか細い鳴き声を『かりん』から出した瞬間、まるで砂浜に打ち寄せる波が引いていくかのような感覚に襲われ、魄は『かりん』から引き離されてしまう。
白馬の傍らに立った牧草地の神が『かりん』に微笑みかけると、不思議と『かりん』から声が聴こえてきた気がした。
それが『かりん』によるものなのかを確かめる間もなく、牧草地の神は強引に【天界】の自らの屋敷へと引き戻されていた。
牧草地の神は屋敷の庭から白馬と『かりん』のいる方角に向かい、胸に手を当てて目を閉じる。
(ありがとう…本当に、とても良い日々だったよ、かりん)
魄を失い、ただの『器』に戻ったはずの『かりん』。
白馬の前に横たわるその焦げ茶の猫から聞こえてきたその1言はどこかとても明るい響きに満ちていた。
《またね》
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