その杯に葡萄酒を

蓬屋 月餅

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第二章

12「秋の儀礼」

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 陸国における『秋の儀礼』。
 それは陸国に実る豊かな農作物などの収穫を祝うと共に、陸国中にいるとされている様々な神へ一年の感謝を捧げるために行われる行事だ。
 野菜や果実を収穫することができる農業地域。
 魚介類を獲ることができる漁業地域。
 畜産物を得ることのできる酪農地域。
 石材や金属を山などから得る鉱業地域。
 そして木材や木の実を収穫することのできる工芸地域。
 それぞれの地域ではその地域を統括している領主が神々のために特有の舞具を使用した舞を奉納するほか、農業地域にある大木に実った果実を方々から集まった人達総出で収穫するなどしてどこも大賑わいになる。
 収穫した果実や作物、そしてその他の恵みを皆で分かち合って過ごす1日。
 どの食堂、酒場、通りにも楽しげな声があふれる…それが『秋の儀礼』だ。


ーーーーーー


 秋の儀礼の日は【觜宿の杯】や【柳宿の器】も大鍋料理を作って人々に振る舞うため、いつも昼過ぎから始める食材の下処理などは午前中から始める必要があり、1日中忙しくなる。
 さらに大鍋料理が煮込むだけの段階になる頃には収穫されたばかりの果実が荷車いっぱいになって農業地域から届くため、それらを切って、煮て、夕方の一番人が集まる時間に合わせて伝統的な菓子などの用意もしなければならないのだ。
 周りの食堂などとも連携して完全に分業するとはいえ、普段より数倍忙しく、なにより自分達の工程が遅れてしまっては後々大きな遅延を引き起こすことになるという責任もあってなかなか大変である。
 【觜宿の杯】と【柳宿の器】は規模が小さいため割り振られる果実などの量は他と比べるとずっと少ないが、それでもやはりせん達4人は昼頃からひたすら果実を切って、切って、さらに切り分けていたのだった。


「そろそろ料理を配り始めないといけないな…まだ2人で何とかなるだろうけど、そのうち混み始めたらここは璇に任せたいと思ってる」

 果実を切る手を止めた兄が調理場の明かりを灯しながら言うと、璇は「うん、分かった」と頷いて応える。

「ここは俺に任せて、兄さん達は外の方をお願い」
「ありがとう。なるべく早く休みが取れるようにするからね」
「いいよ、別に毎年のことだし…慣れてるから」

 調理台を広く片付け終えた璇の兄と手伝いの兄弟の1人が外の鉱酪通りに出て行った後しばらくしてから、もう1人の手伝いの男も外の方の手伝いに呼ばれて出て行ってしまい、璇は黙々と1人でまだかご山盛りになっている果実に向き合い続けることになった。
 『秋の儀礼』とはつまり、陸国を挙げての祭りの日なのである。
 そのため人々はいつものようにどこかの食堂に集まって飲食をするのではなく、中央広場やあちこちの大通りに並べられた沢山の机や椅子の好きなところに陣取って思い思いに料理や酒、会話を楽しむのだ。
 基本的には勝手にそれぞれが料理などを持っていってもいいのだが、結局のところ料理や酒の配膳はそれを担う者がいた方がなにかと混乱が少なく済むものであり、璇の兄達はまさにそのために外へ出て行っていた。
 そんな中、1人調理場に残って黙々と作業を続けるのは言うまでもなく骨の折れることだ。
 しかし忙しければ忙しいほど後で得られる休息がより素晴らしいものになると理解している璇は、それでもめげず、怪我にだけ気をつけながらひたすら果実を切った。
 紅くツヤツヤとした果実が1つ、また1つと減ると同時に次の煮る工程を担う食堂へと引き渡すための大鍋の中は下処理を終えた果実の切り分けたものでいっぱいになっていく。
 最初は空だったものが自らの作業の積み重ねによっていっぱいになっていくのを見るのは大きな達成感があり、自然と心も満たされていく璇。
 …だが最後の1つを切り終えたところで調理場の裏口が開き、外から「誰かいる?」と人が訪ねてきた。

「大鍋を受け取りに来たんだけど…あっ、ちょうど最後の1つが終わったところだったのね?」

 訪ねてきたその壮年の女性は次の工程を担う食堂の関係者であり、璇が大鍋を託す人だ。

「はい、今ここにあるのはとりあえず全部終わりました。後はよろしくお願いします」

 璇は大鍋の縁を拭って引き渡そうとする。
 しかしそこで女性は「あの…ごめんなさいね、実は…」と申し訳なさそうに打ち明けた。

「今年は収穫量も特に多いし、お菓子に使う生地も少し余りそうだっていうんで急遽もうちょっとずつ果実を煮ることになったのよ。だから今他のところもかご半分もないくらいの量だけやってもらってて…できればあと少しだけやってもらいたいんだけど、いいかしら?」

 璇1人で作業していたことを気遣いながら言う壮年の女性。
 本当のことを言うと璇はちょうど(やっと全部終わった)と思っていたところだったので少々グッと堪える思いがなかったわけではないのだが、しかし「いいですよ、やっておきますね」と快諾することにした。
 実際、果実を切り分けるのが終わったからといってそのまま休めるわけではなく、兄達のように外での仕事に変わるだけなので引き続き調理場にこもっていても大して変わらない。
 ほんの少しだけこうが外のどの辺りで飲食しているのかということが気になっていたのだが、外の人通りの多さは凄まじいはずなので さすがの璇にも見つけられるという保証はなく、あまりそれについて気にしすぎると手を怪我しそうでもあったので意識しないようにしようと決める。

「それならこの追加分は終わり次第そちらの食堂まで運びますよ。どこも忙しくなっているでしょう?」
「あら、そうしてくれたらとっても助かるわ、ごめんなさいね…そのお詫びといっては何だけど仕上げを担当している食堂で焼きあがった菓子をもらってきたから、後でこちらの皆さんでいただいてちょうだい。今年もいい出来なのよ、とっても美味しくできてるから」
「わっ、丸ごと1つを?ありがとうございます、いただきます」

 女性が持ってきた菓子は甘く煮た果実をさらに生地で包んでこんがりと良い焼き色がつくまで焼き上げたもので、調理場に持ち込まれた途端に辺りを甘い香りで包み込む。
 菓子の表面の生地には果実の葉の模様が描かれており、璇も思わず香りを確かめるようにしながら美しいそれを上から覗き込んだ。

「それじゃ追加分の果実もここに置いていくわね」

 女性の声かけに答えようと顔を上げた璇。
 その瞬間、彼はハッとして驚いた。
 果実の入ったかごを抱えて入ってきたのは…なんと夾だったのだ。
 女性によると「外で声をかけてくれたのよ、『運ぶのをお手伝いしましょうか』ってね。力持ちのかっこいい職人のお兄さんがいてくれてとっても助かったわ」ということだった。
 夾は璇に会釈をすると「この大鍋も外の荷車まで運びますよ。そのまま荷台に乗せたらいいですか?」と女性とやり取りをしつつ、持って来た果実の入ったかごを置き、その代わりに大鍋を軽々と持ち上げて外へ向かっていく。

「それじゃお願いね、引き受けてくれてどうもありがとう」

 壮年の女性はそれから裏口の戸を閉めて出ていった。

 まさかこうして夾と顔を合わせるとは思っていなかった璇は、驚きと多少の胸の高鳴りによって昂ぶった心臓を落ち着けるべく果実をかごから洗い場にすべて移し、1つずつ丁寧に洗う。
 しかしどうしても彼は手を動かしながら夾のことを考えてしまうのだった。
 またも見せつけられた夾の『純粋な優しさ』と『力強さ』はきっと自分にだけ向けられているものではなく、他の人達も知っているに違いないのだと思い知る。
 その上あれだけ温和な性格をしているのだ。それこそ女性達からの人気も高いだろう。
 かつて夾が言っていたように『同性同士の仲を目にすることに対して抵抗はない』としても、それはつまり『同性に対して恋愛感情を持つ』というのとは異なっており、結局のところ女性達に好意を寄せられれば夾がどんな選択をするかは想像するに難くない。

(あいつはすごくいいやつだ。誰もが知ってる、いいやつなんだ)

(けど、まさかこんな本気になるとは俺自身も思ってなかったんだよ、本当に。しかもこんな不毛な…)

 考えれば考えるほど気分が沈んでいってしまう璇。
 小さくため息をついたところでどうにもなりはしないのだが、裏口の戸が控えめに叩かれて来客を知らせたため「開いてますよ、どうぞ」と気を取り直して声を上げた。
 (どうせどこか他の食堂からまた人が訪ねて来たのだろう)と思っていた璇だったが、戸を開けて姿を現したのは、なんと夾だった。

「あの…璇さん」

「俺もそれ、手伝っていいですか」

 袖をまくりながら調理場へと入ってきた夾。
 良いとも悪いとも答える前から夾が隣に立って同じように果実を洗い出したため、璇は「いや…せっかくの秋の儀礼なんだし、手伝わなくていいよ」と戸惑いながら言った。

「好きに外で飲み食いすればいいのに…それにほら、工房の親方達とかとも そういう付き合いがあるだろ」

 すると夾は「いえ、もう親方達とは朝から散々一緒だったのでいいんです」と首を振る。

「職人達は朝から通りを行き交う荷車のちょっとした修理のために集まっていて、そのまま昼を中央広場で過ごすんです。もう仕事の仲間は皆解散しましたから好きにしていいんです」
「でもお兄さんとか家族とは…」
「昼に会いましたよ、中央広場で」
「けど、だからってこんな…手伝いなんかしなくても良いのに…」
「………」
「………」

「「………」」

 璇は『これが自分の仕事の一環だから』と納得して作業をしていたが、そうではない夾が、好きに過ごして良いはずの彼がそこまでして手伝いたいと言う理由が分からず、手伝おうとしてくれているその姿勢を素直に受け入れることができなかった。
 すぐ隣にいてくれるのは存外嬉しい。
 同じ作業をして過ごせるのも、実は結構嬉しい。
 しかし……なぜか『じゃあ手伝いを頼む』という1言は言えないのだ。

「俺がここにいたら、邪魔になりますか」
「えっ…」

 果実を洗う手を止めた夾のしんみりとした声に驚いて思わず隣を見た璇。
 夾は洗い場に溜めた水の上に浮かぶ果実をじっと見つめながらさらに言う。

「俺は…璇さんが1人でこれを全部やるのは大変なんじゃないかと、思って。それで手伝えたら…と」

「俺は料理もしますし、果実を切るのも普通にできます。邪魔にはならないと思います、少しくらいは助けになるはずです」

「ここにいて手伝っては…いけませんか」

 目を伏せた夾のその様子はひどく寂しげで、なんだか妙に璇の胸を打つ。
 自らが夾の『手伝いたい』という申し出に肯定的ではないことを言ったばかりにそんな表情をさせてしまったのだと気付き、璇は(また…また俺はこんな…)と狼狽えながら「い、いや…!?そうじゃなくて…」と必死になった。

「別に邪魔とかってことじゃなくて俺はただ…ただせっかくの秋の儀礼なんだから好きに過ごしたらいいんじゃないかと…」
「それなら手伝わせてください。いいですよね?」
「あ…あぁ、もちろんいいよ、うん。そうだな、こっちこそ頼む」

 それから璇は夾に洗い終わった果実を布巾で拭って作業台の上にあるかごへ移すように言い、2人でそれぞれ手分けして作業をし始めた。
 果実を洗い終えた璇が夾のためにもう一組の包丁とまな板を用意すると、夾も果実を拭い終わって切る作業に取り掛かれるようになる。
 璇がまず手本として1つ切って見せると、夾もそれとまったく同じように切り始め、今度は2人して黙々と果実を切り分けていったのだった。
 夾も普段料理をしているというだけあって包丁の扱いに慣れており、手際がとても良い。
 そのため2人がかりでの作業は想像していた以上に早く済んでしまった。
 2人きりの調理場で同じ作業をするというのは、緊張するような気恥ずかしいような…それでいて楽しいものであり、終わってしまうことが惜しいとさえ思った璇。
 夾が「それじゃ、この鍋は俺が届けてきます。場所は5軒先の食堂ですよね?」と言ったのに対し、璇は頷いて応えつつ少しばかりの勇気を振り絞った。

「あの…さっきもらったこの菓子をさ、切り分けておくから」

「だからまたここへ来いよ、その鍋を届けた後に」

 たったそれだけを言うのにもかなり緊張してしまい、璇自身にも今自分が何をどう言ったのかさえほとんど分からないほどだ。
 しかし夾は微笑みながら鍋を抱え上げ、頷いて応えたのだった。

「はい。またここへ戻ってきますね」


ーーーーー


 調理場の一切を片付け終え、円形の菓子を切り分け終わった頃。
 ちょうど他の食堂へ果実を届け終えた夾が裏口から「璇さんによろしく、と皆さん仰ってましたよ」と帰ってきた。
 その言葉に「こんなに早く終えられたのはあんたのおかげでもある。…ありがとう、また助けられたな」と応える璇はそっぽを向きながらも照れたような表情を浮かべる。
 夾が鍋を届けに行っている間に外で配膳をしていた兄から「追加分があったんだって?任せちゃって悪かったね、こっちは忙しいのも一段落ついたよ。だから外へ来て食事するでもそのまま休むでも、好きにしていいからね」と言われていた璇は自由な時間ができたこともあり、この後はどうしようかと実は内心そわそわしていた。

 たった今この瞬間、夾とは2人きり。

 外の鉱酪通りからかすかに聞こえてくる賑やかな様子とは対照的に静かな調理場で、妙な緊張に見舞われた璇は無意識のうちにその緊張を誤魔化そうとし始めた。
 そう。つまり、彼のいつもの《悪い癖》がでたのだ。

「しっ…かし、あんたは本当にお人よしだよな、あはは。人助けばっかりしてさ、皆と同じように好きに飲み食いすればいいのに わざわざ よその食堂まで行ったりして…あはは」

 お優しいんだな、力持ちだし。と言う璇の言葉は夾にはどう聞こえただろうか。
 「この菓子、持って帰るか?包もうか」と璇が夾の方を振り向くと、彼は言った。

「俺は…本当に璇さんの力になりたいと、そう思っただけですよ」

 それは真剣さのこもった声音でのものだ。
 しかし璇は「うん、俺は今までにも何度もそうやって助けられてきたんだったよな」と軽く受け流す。

「でもそうやっていつも人のことを助けてばっかりじゃ大変だろ?ほどほどにしろよ、ずっとそんな調子でいると疲れるぞ」

 それは彼なりの照れ隠しのつもりだった。の、だが…夾はそれからより一層真剣に、そしてなんともいえないような寂しげな声音になって言ったのだった。

「俺はそんなつもりじゃ、ありません」

「……好きな人の力になりたいと思うことは、いけないことではありませんよね」

「「………」」

「……?」

 流れる沈黙。
 思わずポカンとしてしまう璇。
 賑やかなはずの外の音もすべて消え失せてしまったかのように思えるその一瞬。

(な、何言ってんだ?こいつ…好きっつったか、今)

(なんだよ、今の流れだと俺のことが好きって言ったみたいだぞ?ありえないだろ、そんなの。ありえない…そんなわけ、ない)

 本気で自身の耳がおかしくなったらしいと、幻聴を聞いたらしいと思った彼は「え…なに?」と聞き返す。

「あ…なんて?」
「…ですから、俺は璇さんのことが…」
「は……ぁ?」

 璇の口から なんとも力のない、間の抜けたような声が漏れる。
 『好き』という言葉には本来『友愛的なもの』『親愛的なもの』など様々な意味が含まれているはずなのだが、璇はすでに夾のことを『恋愛的な意味』で好きになっていたため、夾が言ったのも『友人などに対する《それ》かもしれない』というような考えは一切なかった。
 夾が、自分のことを想っている、と。
 そういう意味にしか捉えることができなくなっていた。

「あ…ありえないだろ、そんなの。お前が俺を?ありえない…ありえない」
「…どうしてありえないことだと思うんですか」
「え、いや、だってそれは…俺はお前に散々…なぁ?印象最悪だろ、どう考えても好きになる要素なんかどこにも…そうだろ?あ…ありえない」

「俺は始めっからお前に…それに怪我までさせたし、そんなやつのこと好きって、ありえない」

 ありえないことだと自らに言い聞かせるようにして繰り返す璇。
 頭の中によぎる『もしかして、本当に俺のことを好きなんじゃないか?』という考えは、自分の都合のいい解釈だとすぐにかき消してどこかへと放ってしまう。
 すると夾は真っすぐに璇を見据えながら「…どうしてあなたは、いつもそうして自分の考えだけで物事を考えてしまうんですか」とはっきりとした口調で言った。

「あなたは自分が『こうだ』と思ったら『相手もきっとそうに違いない』と考えてしまうんですね。『自分だったらこうは思わないから相手もそうだろう』と。でも他人の考えていることなんて、その人の心の中のことなんて、分かるわけがないでしょう。どうやって正確に他人の考えていることを寸分の違いなく理解するというんですか、そんなことできるはずがない」

「璇さんはありえないと言いましたけど、俺がどう考えているか何を思っているのかは絶対に知るはずがないし、俺本人が言ったことをそうやって否定することはできないはずです。それにもし本気で俺のことを理解できていると思っているのだとしたら、少なくとも『ありえない』とは言えないはずですよ。そうでしょう」

 真正面からの言葉は璇を捉える。
 夾がさらに「…まぁ、その…たしかに初めて会ったときに股に膝を当てられたり…しましたけど…」と肩をすくめてぼそりとこぼすと、璇は再び自らの耳を疑う。

「は…?なんだそれ、俺がお前に…な、なんだって?どこに膝を……はぁ?」
「…俺を脅かすつもりだったんでしょうね」
「俺がまさかそんなこと…はっ…え…??」

 自身の勘違いから夾を脅迫するように迫ったあの夜の様子を思い出す璇は、ますます昔の自分がしたことに絶望し、狼狽えながら額に手を当てる。
 そんな璇に、夾は「でも、それでも俺は」と続けて口を開いた。

「それでも俺は、あなたのことが気になっていって、そしてその…好きになってしまったんです。あなたにとってはありえないことかもしれません、でも本当のことなんです」

「俺の気持ちを…否定しないでください」

 話しているうちに『告白した』ということを改めて実感したのか、夾の声は徐々に控えめなものになっていく。
 それは間違いなく、疑いようのないほど明らかな夾の本心からの言葉だった。
 眼差しとその声音に包まれた璇はもはや認めざるをえなかった。

 彼はこの自分に恋をしているのだ、と。
 そして自らもまったく同じように彼に恋をしているのだと。

 たしかに、彼に自分の想いが伝わればいいと思っていたのは事実だ。
 そして密かに伝えようと気を引くようなことをしてみたり、酒言葉などというものを使ってみたりもした。
 『彼が自分のことを同じように想ってくれたらいい』と、そう思っていた。
 しかし、そんな思いとは裏腹にまさか本当にそうなるとは思っていなかったのも事実なのだ。

「俺は…お前が好きになってくれるはずが…ないと思って…」

「だって俺は印象が…悪すぎるから…」

 璇がそう呟くと、夾は「それは…こうは考えられませんか」と口を開く。

「初めの印象が悪かったらあとは良い印象ばかりになる、と」

「觜宿を仕切る姿の素敵さだけでも十分だったのに、特別に飲み物や料理を作ってくれたり、中央広場まで付き合って歩いてくれたり…そのどれもが俺は嬉しくてたまらなかったんです」

「…好きになったんです」

 まるで璇の『好意をなんとか表現したい』という気持ちを知っていたかのようにくすぐったそうな笑みを浮かべる夾。
 その笑みには璇もはにかむ表情を抑えきれず、彼は一度だけ深呼吸をすると、背筋を伸ばして夾に一歩近づいた。
 璇は、今こそ今まで聞けずにいた『あのこと』について訊ねるべき時だと感じていたのだ。
 そしてあの美しい黄水晶のような瞳を見つめながら「俺の名前は…さ」と自身の名前を口にした。

「…っていうんだ。この名前は酪農地域の言葉で『輝く美しい玉のような子』っていう意味がある」

「お前は…なんていう名前なんだ?」

「…教えてくれないか、お前の…名前を」

 どうか教えてほしい、というようにそっと訊ねると、それに応えるように夾も名を名乗る。

「俺のこの名前も酪農地域の言葉で名付けられているんです。意味は『夾白のもとに生まれたうつくしい子』…です」

 それは彼らが初めて本名を明かし合った瞬間だ。

「…あっ、あの、夾白って何だと思いますよね?夾白というのは漁業地域での『とある星』の呼び名のことで…」

 聞き慣れないであろう語について説明しようとする夾だが、璇は「漁業地域での星の名前か…うん」と笑みを浮かべる。

「はは…漁業地域では『天璇』と呼ばれる星があるらしい」
「えっ…」
「俺達は名前に星が関係している同士なのかもしれない。それに『うつくしい』という意味も」

 思わぬところで共通点を見つけ、なんだか気恥ずかしくなる2人。
 璇は何度か夾の本名を口に出して呼んでみた。
 あまり聞き慣れない響きではあるものの、しかしだんだんと特別な、唯一無二の響きに思えてくる。

(いい名前だな…)

 しみじみと思う璇だが、しかしふと1つの疑問を抱く。
 夾のその名前ならば、陸国においては『こう』ではなく『しょう』の部分を愛称とする方が一般的のはずだと。
 それについて訊ねてみると、夾は「それは…そうなんですが」と少々言いにくそうに答える。

「実は俺がいた工芸地域の周りには同じ『しょう』が愛称となるような子がけっこういて…それも女の子ばかりに。なんとなく恥ずかしくて物心ついた時から自分で『こう』を愛称にするようにしたんです。祖父母は『しょうの方が馴染みがあるし 可愛くて似合ってるから』という理由でそう呼び続けていましたけど、今は兄が時々呼ぶくらいで『こう』と呼ばれることの方が…」
しょう
「っ……」

 話している最中に突然呼びかけられ、驚きと戸惑いのために言葉を切った夾。
 璇はもう一度「しょう」と呼びながらさらにもう一歩夾に近づいた。

「あの、そう呼ぶのはやめてもらえませんか、それはちょっと…」
「どうしてだよ、しょう
「ちょっ、ちょっとあの……っ!」

 近づいてくる璇から逃れようと後退るものの、夾は調理台に阻まれてそれ以上 下がることができなくなってしまう。
 かつてないほど縮まる2人の距離。
 どちらも同じに思えていた背は、この瞬間、ほんの少しだけ璇の方が高かったことに気付いた。

「『夾白のもとに生まれたうつくしい子』、しょう…」

 互いの息遣いまでもが聞こえるような中、璇は囁くように、それでいてはっきりと夾に届くように言った。

「…好きだ」

しょう、俺もあんたのことが…好きなんだ」

 うるさく思えるほどの心臓の音を振り切るように、璇は睫毛を震わせる夾の頬に片手を添えた。
 揺れる黄水晶の瞳の奥を覗き込むようにして、さらにゆっくりと近づく。

「……」

 そうして間近で見つめ合い、どれだけの時間が経っただろう。
 何分か、それとも何秒かのつかの間のことだったかもしれない。
 璇の手のひらに夾の頬から伝わる体温が馴染んだ頃、夾はゆっくりと、そっと、その形のいい唇を差し出すようにして顎をかすかに上向けた。

「………」

 その仕草を見たことで溢れ出す喜びと言葉にならない想いはもはや抑えることができない。
 微笑んだ璇はそのままゆっくり、ごくゆっくりとさらに近づいて自らの唇を夾の唇へと重ね合わせた。
 触れるだけの軽い口づけ。
 初めて唇で感じ合う互いの体温。
 2人の胸はどちらも苦しいほどに高鳴っていた。


ーーーーー


 静かな【觜宿の杯】の中。
 ずらりと並んだ酒瓶の壁の前にある長机。
 そこには切り分けた菓子を1つずつ載せた2枚の皿と、やけによそよそしい様子の2人の男がいる。
 
「なんか…飲むか」
「あ…そう、ですね」

 誰もが外で飲み食いしているため【觜宿の杯】の中でも璇と夾は2人きりだ。
 妙なくすぐったさと緊張の入り混じる中、璇は「…せっかくならこういうのを飲んでみないか?」と夾に1本の酒瓶を見せる。
 それは美しい葡萄の絵と農業地域特有の文字による表記が目を引く1本だ。

「白の葡萄酒…そんなに酒が強くないやつなんだ、これは。これを炭酸水で割ったらもっと飲みやすくなるし、きっと気に入るんじゃないかと…思う、んだけど…」

 様子を窺いながら「他のが良ければ…」と続けようとする璇に、夾は「いえ、それをお願いします、ぜひ」と応える。

「璇さんが勧めるものに、間違いはありませんから」

 全幅の信頼を寄せていると言わんばかりの夾。
 璇は「…じゃ、今用意するから」と言葉少なに言ってから、炭酸水の入った瓶を取り出すために後ろを向き、照れたようなその表情を隠した。
 そうして璇が用意した白の葡萄酒を炭酸水で割ったそれは夾に「これ…美味しいです、とても!」というキラキラとした瞳と共に称賛される。
 よほど気に入ったらしいとみえるその様子に、璇も「それは良かった」とふくふくとした嬉しい気持ちになってしまう。

「その、気に入ってもらえて良かった、うん。実はその葡萄酒は、さ…」

 しかし璇がそう言いかけたところで【觜宿の杯】の戸が開き、鉱酪通りの喧騒と共に「「コウちゃん、セン~!いる~??」」というはしゃぐ声が聞こえてきた。
 突然の騒々しさに驚きながら戸の方に目を向けると、外で振る舞われていたらしいおつまみを何種類か抱えた琥珀と黒耀が入ってきたのだった。

「あっ!2人共いたいた~!もう、ずっと探してたんだよ~」

「センのお兄ちゃんに聞いてみたらここにいるはずだっていうからさ、外の賑やかなのもいいけど僕と黒耀はやっぱりいつもみたい、に…って思っ…」

「………」

 元気に話していた琥珀だったが、ふと璇と夾の間に漂う雰囲気がいつもと違っていることに気付き言葉を切る。
 黒耀の方もそれを感じ取っているに違いない。
 そしてしばしの間の後、琥珀は「へぇ…?そっか、そっか!」と嬉しそうに笑って言った。

「え~、邪魔になるかなぁ、僕達。でもこれからはさ、2 人一緒にいようと思えばいくらでもそうできるんだもんね?だから今日はお祝いってことで皆で飲もうよ、だめ?ねぇ、だめ?」

 琥珀の提案。
 なんとなく2人きりの空気が気恥ずかしくてたまらなかった璇と夾にとっては、琥珀と黒耀という馴れた存在の登場はむしろ救いのように思えて、そのまま【觜宿の杯】の中、4人で過ごそうということになる。
 まるで自分のことかのようにはしゃいで喜ぶ琥珀とその隣で静かに笑みを浮かべている黒耀。
 4人で酒杯を合わせて乾杯し、『秋の儀礼』という陸国の特別な一日を祝って過ごした夜。
 朗らかな笑い声の溢れるその夜は、璇と夾の2人にとって間違いなく生涯忘れることのできないものとなったのだった。



~第二章 終~
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