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三年目の夏の話

四 夢の記憶

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「本当にすみません……」

 急いで寝間着を着なおして、レンはあわててベッドを出た。ルイスも寝間着を着る。

「いえ、僕はいいですけど」
「中途半端になってしまって」
「気にしないでください」

 熱をはかったが、平熱より少しだけ高い程度だ。おそらく身体を冷やしたせいだ。台風の暴風雨を全身に浴びた。風呂で温まったものの、体の芯まで冷えてしまった。
 自分がぼんくらなのはいつものことだが、ルイスに迷惑はかけられない。

「レン、どうするんです」
「今日は自分の部屋で寝ます。冷えただけなので、寝たら治ると思います」

 少し重い身体を気を引き締めることでなんとか動かして、レンは水やタオルを用意する。

「すみません、食材はあるので、しばらくごはんはご自身でしていただけると」
「それは構いませんが」

 ルイスはレンの後を追う。
 レンは自室の前に立って、手の平を向けた。

「入ってきたらだめですよ。もし風邪ひいてたらうつすかもしれません。もううつってるかも。本当にすみません」
「気にしないで、僕の方が、もう少し早くに気づくべきでした」
「いえ、体調管理できてないのは、俺のせいです……」

 レンは後悔しきりだ。
 ルイスは苦笑する。

「……もういいから。何かあったら呼んでくださいね」
「はい。おやすみなさい。もしルイスさんも体調が悪くなったら、教えてください」
「ふふ。僕、相当丈夫なほうです」
「俺もそうなんですけど、すみません」

 そこでわかれて、レンは自室に入った。一度も使ったことのない客用布団を敷いて倒れる。枕元に色々置いていく。
 さいきん顔色が悪いとは、恭介にもいわれていたし、ルイスも、なんとなく気づいていた様子だった。気づいていなかったのは自分だけだ。情けない。
 だが、五日間も休みがあってよかった。せっかくの休みではあるが、仕事に出られないよりいい。しばらく忙しくしていたから、気が抜けた面もあるだろうと思われた。具合が悪くなったとしても、栄養と睡眠をとっていればすぐにけろっと治るほうだ。
 水を飲んで、布団にもぐりこむ。真新しい布団が冷たくて気持ちいい。
 うつらうつらしてくる。
 静かだ。自分の部屋で眠るのは初めてのことだ。外の嵐の音も、シャッターを閉めているのであまり聞こえない。
 恭介は大丈夫だろうか。
 ルイスは恭介はレンよりもしっかり者だからとは言っていたし、レンもそれには同意するのだが、築三十年の建物だ。両隣りに物件があって、アーケードの内側なので建物自体は大丈夫だろうが、裏口のほうは雨に濡れる。雨漏りするかもしれない。それに二階建てだから音が響く。
 高校を卒業するまで、レンはよぞらの二階で育った。高校を卒業する直前に、一人暮らしをしていた祖母がなくなり、しばらくのあいだ祖母の家に住んでいた。といっても、専門学生のあいだだけだ。古い家だった。レンが就職して家を出るときに、両親は祖母の家を売って、よぞらのローンを一括返済している。
 だから、嵐の夜にあの建物の中がどんな感じなのかをよく覚えている。小学校低学年のころ、とても大きな台風が来たことがある。
 怖がりのレンは嵐や雷を怖がって、まったく寝られなかった。
 がらがらと何かが転がるような音や、遠雷、土砂降り、暴風雨。建物は時々風に揺れる。夜になって停電した。怖いから、手をつないでいてほしい。

 ――廉は本当に怖がりね。

 と、母の呆れるような笑い声が聞こえる気がする。父は母の向こう側ですでにいびきをかいていた。
 いつもはうるさいのに、そのときばかりはいつもと変わらない音に安心したのをよく覚えている。真ん中にしてとねだって、両親のあいだに寝かせてもらった。そこならば怖くないと思ったからだ。

 ――……会いたいなあ。
 どうしてふたりとも、もうどこにもいないの。今度の休みこそは帰ってこいというから、面倒だけど帰るつもりでいたのに。
 いきなりいなくなるなんて、そして二度と会えないなんて、約束を守らせてくれないなんて、ひどいよ。
 面倒だなんて、嘘だよ。本心じゃないよ。いつでも会えるのだから、後回しになっていただけ。
 だってそんな急にいなくなるなんて、思わないじゃんか……。

 ひとりでいるのは怖い。いつも、これでいいのか自問自答するけれど、誰も正解を教えてくれないので、とても不安になる。
 ひとりで頑張っていて偉いといわれることがある。だが、ひとりで立っていることがどれほど怖くても、自分にできることは、立っていることだけだ。
 座り込みたいときもある。時々、泣き出したいときがある。そうしたくても、できない。
 もう一度立たないといけないのに、立てなくなる気がしてとても怖い。
 頭が痛くなってきて、意識が遠のく。
 大きな音がする。
 暗くて怖いところにひとりぼっちだ。
 こわい。つらい。息ができない。助けてほしい。

「――お母さん、お父さん」

 はあ、と息を吐いて、レンは目覚めた。
 身体が汗だくで、吐息が熱い。熱が上がっている。意識が朦朧とする。
 暗い部屋。静かだ。知らない天井だ。
 ここどこだろうと思いながら、レンは身動ぎをする。部屋の明かりは完全には消しておらず、オレンジ色の薄明りだ。頭に濡れたタオルが置かれているが、すっかり乾いて熱い。となりに誰かがいる。規則的な呼吸音がする。
 レンはぐったりしながら隣を見た。
 一瞬、誰だかわからなかった。
 なんだか美しいひとが眠っていると思いながら、意識を取り戻そうとするうちに、彼が目覚める。ゆっくりと目を開けて、微笑みながら、彼はレンに手を伸ばした。
 汗で濡れたレンの額に、大きくて冷たい手の平が触れる。熱いタオルを取って裏返して乗せ、何のためらいもなく、汗を拭うようにレンの濡れたこめかみのあたりにそうっと触れる。

「レン。まだ熱いね」

 低くて、やさしい声。
 ああ、そうだ。ルイスさんだ、とレンは思った。
 喉が渇いて声が出ない。珍しく夢を見たのに、霧が晴れるように夢の記憶が遠ざかって切ない。内容どころか、夢を見たことさえ忘れてしまう。待ってほしい。忘れたくない。こんなに辛いのに、忘れることのほうがずっと辛いと知っている。

「お水を飲みましょうか。起き上がれる?」

 ルイスは軽く半身を起こしながら、腕を伸ばしてレンの頭の向こうにあるペットボトルの水を、コップに半分ほど注ぐ。

「あら、なくなった。新しいの持ってきますね」

 そう言って起き上がろうとするので、レンは思わず手を伸ばして服の裾を掴んだ。ルイスは動きを止め、寂しがるレンを覗き込む。
 心配そうに眉を寄せつつ、レンが安心するように微笑む。

「寒くない? 苦しくない? 大丈夫?」

 濡れた前髪を横にずらしながら、ルイスはレンの額に口づける。大きな手の平でレンの汗だくの頭を支える。

「レン、ご両親の夢を見たんですね。かわいそうに」

 ルイスがそう言った瞬間、レンは声を放って泣いた。大粒の涙が溢れて、止まらなくなる。こみあげてくるものをこらえられず、喉が震えて叫び声をあげる。

「うわああん」

 ルイスは、レンの頭を抱いて、背を撫でた。

「しんどいね、レン」
「ごめん、なさ、い。しんどい、です。あいたい、お母さん、お父さん……」
「うん」

 ルイスは、レンを胸の中に抱く。必死に胸に縋りついてしゃくりあげる様子が、小さな子どものようで、哀れだとルイスは思う。
 普段は気丈に振舞っているものの、レンは以前、心の整理がまだついていないと言っていた。ルイスの仕事の仕方を咎めるのも、ただ心配しているというよりも、失うことを恐れているようなふしがある。喪失感を知っているせいだ。
 レンはひとりぼっちだ。時間という薬で解決するほかない、レンの中のもっとも繊細な部分に、ルイスは触れられない。自分では、ぽっかりと空いた心の隙間を埋められない。
 レンは泣きじゃくる。

「あいたい、かなしいです、なんで、なんでふたりとも、死んじゃったの……今度、帰るって、言ったのに、どうして……どうして……」
「うん」

 気の毒だと思う。今の自分にできることは、レンの傍にいることだけだ。
 ルイスはそう思いながら、レンを撫でつづけた。
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