統合失調症〜百人に一人がかかる病い

あらき恵実

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声の囚人 〜 損なわれた兄らしさと、夏の思い出

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看護師が部屋から出て行ったのち、
私は兄に尋ねた。

「今は療養中でしょう?

それなのに、看護師にまで優しさを振りまいていたら、気が休まらないわ」

ベッドに腰掛けた兄は、力なく笑って、 
「その通りだね」
と言った。

「だけど、それが僕の生き方なんだ。
これまでも、これからも、ずっとそうだよ」

私は、ハアとため息をついて、
椅子に腰を下ろした。

「人という人、みんなに優しくしようなんて無理な話よ。
そんな生き方をしていたら、心がすりきれちゃうわ」

兄は、暗い目をして私を見た。
そんな目をしていても、
習慣的に口端をもちあげて微笑む。

「もうすでに擦り切れちゃってるよ」

兄は冗談めかせて笑って言った。

私は、
こんな時にまで冗談を言って、
人を笑わせようとする兄の姿に、
少し胸が苦しくなった。

「どうして、無理して人に優しくするの」

その問いに、
兄は一言、こう答えた。

「声がするんだ。すぐ耳元で」

私は、自分の心臓をギュッと誰かに握りつぶされたみたいな心地がした。

「ずっと見てるぞって。

おまえが〝善人〟かどうか、
〝生きる価値〟があるかどうか、
ずっと見てるぞって。

病室に一人でいる時も、
誰かと話をしている時も、
消灯して眠ろうとしていても、
どんな時でも、

耳に吐息を感じられそうなくらい至近距離から、
はっきりと声が聞こえるんだ」

兄は、捕らえられ、監視されている囚人のように暗い顔をしてうつむいた。  

「いつから、そんな声が聞こえていたの?」
  
兄は力なく首を横にふった。

「わからない。

学生時代は、声は聞こえなかった。

でも、だれかに見張られているような気分が、
ずっとしていたんだ。

それが、いつからか、
見張っている人の声が聞こえる気がするようになって……。
 
そうやって、
だんだん僕の周りがおかしくなっていったんだ。
気がついたら、僕は一日中声に取り囲まれていた」

兄は、そう言ってから、
しばらく不自然に黙り込んだ。

おびえるような目をして、オーバーテーブルの影をじっとみている。
私が兄の前に立って、兄の目をのぞきこんでも、視線が合わなかった。

今も、聞こえないはずの声が、
聞こえているのかもしれない。

私はそう思った。

愛する兄が病んでしまった。

しかも、病んだのは精神だった。
目の前にいる兄は、
昔の兄と雰囲気がどこかしら異なっていた。

どこがどうとは言えないけど、
〝兄らしさ〟のようなものが、
わずかに失われてしまった気がした。

それは想像以上の衝撃だった。
明日日本が海に沈みます、と言われても、
これほど衝撃を受けないかもしれない。

うまく息が吸えなかった。
胸が苦しい。
頭が真っ白くなっていく気がした。

「夏音」

兄の声がしてハッとした。

「こんなふうになってごめん」

私はそれを聞いて泣き出したいほど悲しくなった。

「もう、見舞いにはこなくていいよ」

そう言う兄に、私はすぐさま首を横にふった。

「明日もくるわ。
明後日も。
その次の日も」

どんな兄でも、兄は兄だ。

幼い頃、夏になると、プールに連れて行ってくれた兄。
その帰り、家まで背負って歩いてくれた兄。

兄と私がつむいできた時間は、
今日までずっとつながっている。

兄とのたくさんの記憶を思い返しながら、
病室の窓を見た。

そこには、
窓に四角く切り取られた夏の空があった。

絵画みたいに、
真っ青な空が、
白い窓枠に縁取られている。

そこにある景色というより、
思い出をのぞきこんでいるような気持ちがした。

ふいに、兄と通った市営プールのにおいを思い出した。

市営プールは、うっすらと塩素のにおいがした。
プールの帰りは、私の体も兄の体も、
わずかに塩素のにおいがしていた。

私は背負われながら、兄の首筋や背中のにおいをかいだ。
うっすらとした塩素のにおいと、
日差しのにおい、
そして兄の汗のにおいが混ざっていた。

私はそのにおいが好きだった。
兄の背中も好きだった。

目を閉じて、兄の背に身を預けると、
とても安らかな気持ちがした。
どんな悪いことも、怖いことも、
ここにいたら起こらないという気がした。

記憶をたくさん手繰り寄せるたび、
愛している、という気持ちがわいた。

愛しいる、愛している。
私は深く兄を愛している。

「毎日くるわ。桜良のそばに」

依然として見えない何かにおびえるような目をしている兄に、私はそう約束した。

「絶対よ」

私はそう言って、兄のそばに腰かけると、
兄の手を両手で包み込んだ。

兄は、そんな私をじっと見つめていた。
表情が抜き取られたような不思議な顔をしていた。
私は兄の手を離しかけた。
一瞬のうちに、兄の魂が抜き取られて、
抜け殻だけが残されているみたいに見えたからだ。

しかし、
手が離れる前に、兄の顔に表情が戻ってきた。

兄は苦労していびつな笑みを浮かべ、
私の後頭部をゆっくりとなでた。
優しく、ゆっくりと。

兄の手のひらの感触が懐かしかった。
でも、兄の笑顔は昔と違っていた。
私と兄は、思い出の中のような青い空の下にはおらず、白い壁に囲またこんな場所にいた。

私は、思わず泣き出してしまった。

続く~
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