上 下
7 / 60
一章 キューピットのお戯れ

主任の女

しおりを挟む
 月曜日に安藤とランチをしてからというもの、羽七を見る周りの目が少し変わった気がする。
 火曜日の朝から連日、本社ロビー前のバス乗り場付近で必ず声をかけられるようになったのだ。

「羽七姉さん、おはようございます!」
「うわっ。お、おはようございます」

 気付いただろうか。三課の羽七さんから、羽七姉さんに呼び方が変わっているという事を。それはロジスティクス社員に限ってだ。
 羽七は逃げるようにエレベーターホールに急いだ。変なな方向に流れていないだろうかと不安にる。羽七は無意識に耳を両手で塞いで、イヤイヤと頭を振っていた。

「おい、佐藤じゃないか。何をしている」

 羽七が声がするほうに目を向けると、怪訝な顔をした通関課の沢柳が立っていた。
 彼は今日も几帳面な雰囲気を醸し出している。濃紺の細身のスーツ、真っ白な皺のないシャツ、キュッと歪みなく結ばれたネクタイ。きっとメガネは専用の液で磨いているに違いない。

「沢柳さん、おはようございます」
「君は朝から挙動不審だな。何かあったのか」

 乗り込んだエレベーターは二人の他に誰も居なかった。通関で世話になっている沢柳に月曜日にあった話と、最近のロジスティクス社員の態度について簡単に話をした。

「たぶんですが、そのせいでわたしが安藤主任の女だと思われているみたいで……」
「それはまた、コメントに困る話だな」

 いつも冷静沈着な沢柳が目を泳がせながら驚き、最後には同情するように目を伏せた。

「ただ、仕事の流れでランチを一緒に取っただけですよ? しかも社食で。あぁ、社食がいけなかったのかなぁ。うわぁっ」

 頭を抱えて項垂れる羽七に沢柳はぎょっとした。

「あまり自分を追い詰めるな。そのうちほとぼりは冷めるだろう」
「はい。そう願いながら仕事を頑張ります」
「ああ」

 エレベーターは通関課のフロアに到着し、沢柳は静かに降りて行った。ドアが閉まる直前に一瞬沢柳が振り返る。羽七を見る目は、まるで戦地に赴く戦士を見送るようだった。

(沢柳さんさえも動揺する安藤主任って、なんなのよ……)

 心も踊る金曜日が最も気持ちの重い日となった。





 羽七は人が集まる社員食堂に行くのが怖くなり、休憩室で総務の朱音とお弁当を食べることにした。
 とにかく今は人が集まるところには行きたくないのだ。

「ねえ、安藤主任とは違うんだよね」
「朱音までっ。違うに決まってるでしょ!」
「だってあんた、主任からアプローチ掛けられてるじゃん」
「かけられてないよ。ってか勘弁してください」
「そうなの? 安藤主任も案外いいのかもよ?」
「は……なんてことを」

 朱音は冗談を言っているのではない。これは真面目な話だと安藤について語り始めた。
 安藤は見ての通り強面だが、仕事はできるし部下からの信頼が厚い。俺様のような傲慢な態度に見えるけれど、何事にも筋を通し、アルバイトだろうが正社員だろうが関係なく、平等に接する人だと。

「朱音、詳しいね。だったらこの役、朱音に譲るよ」
「やだー! それは無理。ドSな彼は遠慮するわ」
「え、主任ってドSなの?」
「そんな気がしない? あれはMじゃないでしょうよ」
「うん、まぁ」
「羽七はMっ気があるから、何気に上手くいくと思うのよ」
「もうその話はやめようよ」
「ごめん、ごめん」

 こうして隠れていても何の解決にもならないのは分かっている。けれど、静かに過ごし時間が過ぎるのを待つほうが利口な気がする。大丈夫、時間が経てばきっとみんな忘れてくれる。羽七は自分にそう言い聞かせた。

(あと数時間を乗り越えれば、楽しい週末がやって来る。だから頑張ろう!)





 午後も淡々と仕事を捌いた。
 三課は相変わらず平和なもので、日々の業務を難なくこなしている。羽七にとってここがいちばん安全な場所だった。

 終業時間になったので、羽七はパソコンを速やかに落とし、残業する気満々の同僚に向けてこう言った。

「今週は色々な事で疲れたので、先に上がります。お疲れ様でした」

 するといつもは画面を見たまま、作業をしながら言葉を交わす同僚や先輩が一斉に顔を羽七に向けた。

「佐藤くん! お疲れ様」
「羽七ちゃん! 月曜日も来てね」
「え?」

 羽七が思った以上にみんな心配をしてくれていたのだ。それに気づいた羽七は、不覚にも感動してしまい感極まる。

「ううっ、あっ、ありがとうございます!」

 と叫んでいた。
 今日ほど、三課の仲間が優しく温かいと思った事はなかっただろう。感謝の気持ちを胸いっぱいに抱えて、三課をあとにした。

 が、しかし。
 羽七が会社を出てすぐに雨が降り始めた。急ぎ足で駅に向かうも、雨はだんだんと強くなっていく。

(しまった。今日に限って天気予報チェックしてなかった)

 いつもなら、天気を確認して折りたたみ傘を持ってきたはずだ。しかし、今週は色んな事で疲れ切っていたせいで、天気予報さえも見る余裕がなかった。
 羽七は雨を睨みながら、引き返すか駅に向かうかを悩んだ。会社に戻れば置き傘がある。

(いや! 駅、一択でしょ! 会社なんてもうもどりたくない)

 帰るだけだから濡れてもかまわない。羽七は歩く速度を更に上げ駅に向かって突き進んだ。
 その時、「ピッ、ピッ」と車のクラクションが鳴った。何事かと目をやると、その車はハザードをつけて羽七の前方に停車した。
 足早に通り過ぎようする羽七に向かって車の窓が開いた。

「羽七ちゃん!」
「ひゃっ!」

 羽七はこの一週間、びくびくしながら過ごしていたせいで、その声かけに驚きすぎて飛び上がった。

「ごめん、驚かせて。送って行くから乗って」
「あれ? 原田さん?」

 声をかけてきたのはロジスティクスの原田だ。土曜日に【小春】で食事をして以来だった。

「早く乗って! この雨、土砂降りになるぞ」
「えっ。あ、すみません。お邪魔します!」

 羽七は言われるがまま、急いで車の助手席に乗り込んだ。それを確認した原田は丁寧なハンドルさばきで車を発進させる。

(あ! 助手席に乗ってしまった!)

 独身の男性は助手席には特別な人しか乗せなかったのではないか? と急に思い出したのだ。
 慌てていたとはいえ、どうして後部座席のドアを開けなかったのだろう。しかも自分は濡れているじゃないと羽七は焦る。

 羽七はバッグからハンカチを取り出し、慌ててそれを自分のお尻の下に敷いた。気休めにもならないと思いながらも。

「ああ、気にしなくていいのに。これレザーだし防水になってるから。それより羽七ちゃん」
「はい?」

 赤信号で停車したのと同時に原田がジャケット脱いだ。そして、羽七の胸を隠すように被せる。

「え? え?」
「ごめん、取りあえずそのままで。シャツが雨で濡れて、透けてる」
「え! きゃっ、ごめんなさい!」

 今日に限って前にボタンがない春ジャケットを着ていた。ジャケットの下に着た薄手のシャツが濡れて透けてしまったのだ。
 さらにその下に着ていたキャミソールが見えてしまったのだろう。

「ははっ、そんなに謝らないで。俺はラッキーって思ってるし」
「ラッキー?」
「だから謝んなくていい」
「は、い?」

 原田は慌てる羽七を見てケラケラと笑った。

(やだっ、だったらもっと大人っぽいの着てくればよかった!)

「耳まで真っ赤だぞ。大丈夫か?」
「やー、言わないで下さい。死ぬほど恥ずかしいです」

 恥ずかしさにうつむくと、原田のジャケットから爽やかな匂いがした。その匂いにドキリとしてしまい、顔の熱は引かない。顔から火がでそうとはこのことなのだ。

「そう言えば、羽七ちゃん、彼氏できたんだな」
「彼氏、私に? あっ、それって、もしかして!」
「安藤さん」
「安藤主任!」

 二人の声が車内で重なった。原田の低い声と、羽七の高くて焦る声。その二人のトーンは全く異なるものだ。

「ちっ、違いますよ! あれは勝手に皆がっ思い込んだだけでっ」
「違うのか?」
「本当に違います! 検品したときにランチを社食でご馳走になっただけですから!」
「なんだ、そっか。よかった……」
「え? よかった?」
「うん? 何でもない。マンションってどれだっけ?」

 気がつくともう羽七の家の近くまで来ていた。羽七は慌てて「あれです!」と指をさして叫んだ。

 原田はそんな羽七を見て、肩を揺らして笑った。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

伯爵令嬢は執事に狙われている

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:449

冷徹王太子の愛妾

恋愛 / 完結 24h.ポイント:269pt お気に入り:2,193

鉱夫剣を持つ 〜ツルハシ振ってたら人類最強の肉体を手に入れていた〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,002pt お気に入り:160

【完結】転生後も愛し愛される

恋愛 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:858

甘い婚約~王子様は婚約者を甘やかしたい~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:385

依存彼女

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:2

隣の部屋の社畜さん

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:7

羽柴弁護士の愛はいろいろと重すぎるので返品したい。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:279

処理中です...