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六章 キューピットは見誤る

試されるのは己の心

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 シャワーを浴び終わった航さんが、静かに私の隣に入ってきた。いつもと変わらない動きで私の背中に擦り寄ってくる。彼は私のお腹に手を回し、顎の下に私の頭が納まった。
 いつもと同じ、なのに私の心臓はド煩かった。
 ちゃんと帰ってきたんだし、こうやって私にくっついてくるんだから何もなかったに決まっている。それに航さんが一緒にいたのがあの人だとは限らない。
 男の人は付き合いで二次会、三次会と渡り歩くんだもの。女の人に接待される店なんて腐る程ある。

 私が敏感にになっているだけだ。
 航さんに限って大丈夫よ。
 私は彼の一番なんだから。
 そうでしょう?





 寝たのか寝ていないのかよく分からないまま朝が来た。時計はまだ5時になったばかり。
 今日は早出出勤ではない。

 航さんは私とは反対を向いて眠っていた。その背中に、今度は私から擦り寄った。大きく息を吸うといつもの彼の香りがする。

「航さん……」

 私は寝ぼけたふりをして彼の背中に顔を押しつけた。

(誰にもあげない。航さんは私のものなんだから!)

 見えないものに嫉妬し独占欲を爆発させるのは、やっぱり自分に自信がないのかもしれない。航さんは私を選んでくれた、私の大切な人だ。

 神様お願い! 私に自信をください!

「んっ、んー」

 航さんが寝返りをうとうとしたので、私は慌てて目を閉じた。

「おっと……羽七。危ねえ、下敷きにする所だった。ごめんな」

 私に乗り上げそうになった航さんは、少し後ろに下がって私の頬に掛かった髪をよけてくれる。太くて逞しい指は私に触れる時、とても優しく繊細な動きをする。
 私はとうとう目を開けた。そこにはいつもの航さんがいた。

「おはよう航さん」
「おはよう。起こしたな。ごめん」
「ううん。昨日は遅かったの?」
「ああ、ちょっと長引いてさ1時くらいだったかな」
「そっか、起きてなくて良かった」
「だな……」

 ねえ、誰とどこで飲んでいたの?
 もしかして藤本美咲さんと知り合いなの?
 何か私には話せないことがあるの?

 私は心の中で航さんを問い詰める。

「羽七どうかした?」
「え?」
「ココ、皺が入ってるぞ」

 航さんは私の眉間を人差し指でツンツンと差していた。そうだ、私は顔に出てしまうんだ。

「まだ眠いからかなぁ。それとも主任のがうつったのかも」
「ああ? それはダメだな」

 航さんはそう言うと私の眉間にキスをした。
 航さん、私はあなたを信じます。信じていいですよね?
 私は航さんに抱きついた。航さんは優しく包み込むように抱きしめ返してくれる。

「今日は定時で上がるようにするよ。やっと週末だな。明日、どこか行くか?」
「明日?」
「リフト免許のお祝い」
「え! そんなお祝いって。大袈裟だよ」
「なんだよ、いいだろ? 俺が祝いたいんだって」
「じゃあ、美術館に行きたい。今、有名な書道家の展示やってるの」
「書道家?」

 私は祖父の影響でソフトボールの傍ら、書道もかじっていた。精神統一になるからと勧められたからだ。

「知らないかなぁ。ほら、このシングルジャケットの文字を書いた人だよ」
「マジか! 分かった。行こう」

 もう、くよくよ考えるのはよそう。
 私の心がしっかりしていれば何も恐れるものはないのだから。





「おはようございます」
「おう。昨日はご苦労だったな」
「主任こそ、お疲れ様でした」

 取材が終わり、またいつものペースで仕事が始まる。羽七はパソコンを立ち上げて、事務処理から始めた。
 しかし先ほどから、安藤の妙な視線が気になる。

「主任、どうかしましたか?」
「うん? いや、何でもない」
「そうですか」

(変なの)

 気をとりなした羽七がメールを確認していると、船社からコンテナ運賃改定の知らせが届いていた。見ると、FAFとYASはコンテナ運賃に込とすると補足があった。
※FAF:燃料割増調整費、YAS:円高損失補填料

「河本さん、FAFとYASが運賃込になりましたよ」
「え、マジですか。おお、安くなりましたね」

 河本と運賃の話をしている時も、やはり安藤の視線がいつもと違う。しかも少し眉を下げていて、いつものあの強面ではない。

「主任……さっきから何ですか? 気になるんですけど」

 羽七がたまりかねてそう言うと、安藤が「ちょっとこい」と応接室に入って行った。やはり何かあるのだと羽七は思い、安藤のあとを黙ってついていった。

「あの、なにかありましたか?」
「羽七。夕べあいつ、帰ってきたか?」
「あいつって?」
「原田だよ。おまえたち、一緒に住んでるんだろ?」
「はい。航さんなら帰ってきましたけど、それが何か」
「いや、帰ってきたんならいいんだ」
「は? それだけですか?」
「あいつはお前にゾッコンだから心配するな」
「主任。それって、どういう意味ですか」
「・・・」
「主任!」
「バカっ。声がデカイんだよ」

 羽七は安藤を睨んでいた。こんな中途半端な説明と慰めの様な言葉をかけられて、はいそうですかと仕事に戻れるわけがない。

「分かったよ。昨夜、たまたま、あいつを見かけたんだよ。それだけだ」
「航さん。どこで、誰と一緒にいましたか?」
「以上だ。仕事に戻れ」

 航は羽七に業者との飲み会だと言っていた。業者ならたまたま見かけた安藤なら、それが誰なのか分かるはずだ。しかし、今の安藤の言いっぷりでは業者ではなかったと思われる。

「主任。一緒にいた人って、女の人ですか」

 羽七は疑問形でも肯定に近い言い方をした。きっと安藤なら察してくれるはずだと思った。

「その女の人は私も知ってる人。しかも、最近会った人なんじゃないですか」
「だったらどうする」
「どうもしませんよ。私は、自分の目では見てないんですから」
「そうか」

 羽七の割り切った言い方に、安藤は優しく羽七の頭を撫でた。
 その労るような仕草に、羽七は胸の奥が締め付けられたように苦しくなった。安藤のその行為に、これは決して楽観的に考えられるものではないと感じたからだ。

(主任は何か知っているのかもしれない)





 その日の夕方、羽七は定時を少し過たくらいで仕事を終わらせ航を待っていた。今朝、定時で上がると航が言っていたからだ。
 ロッカーから出て事務所の廊下に出たとき、航が誰かと電話で話しているのが見えた。航はいつになく、とても厳しい表情をしていた。仕事のトラブルでもそんな顔はなかなかしない。少なくとも羽七がロジスティクスに来てからは見たことがない。

 羽七の視線に気づいた航は、スマートフォンをポケットに入れて走ってきた。

「羽七、すまない。今日も遅くなるかもしれない」
「えっ。仕事大丈夫、なの?」

 航は一瞬片方の眉をピクんと揺らしたが、すぐに笑顔を見せる。

「大丈夫だ。羽七は心配しなくていいから」
「航さんっ! わたしっ、待ってるから。航さんが、帰ってくるの待ってる」
「ああ」

 羽七は唇を噛みながら、俯いた。

「羽七。俺はやましい事は何もしていない。それだけは誓える。今はまだ言えないけど、片付いたら必ず話すから、だから俺の事を信じて欲しい」

 羽七はそれを聞いて、今からあの女の所に行くんだと確信した。羽七は気道が締めつけられたように苦しくなる。
 でも、航はやましいことはないといいきった。そして、片付いたらちゃんと話してくれると。
 あとは羽七の気持ち次第だ。航の言葉を信じきれるのかどうか、羽七の心の強さが試される。

「私、信じてます!」

 羽七はそれだけを言い、航の顔を見ないまま足早にその場を去った。それが羽七にできる、航に対する細やかな抵抗だった。





 その晩、航は帰って来なかった。
 羽七は何もなかったかのようにベッドから起き、身支度をして部屋を出た。

 久しぶりの我が家へ足を向けて。

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