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第一部

2、そして色々と思い出す

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 ひよりは男に連れられて、居酒屋の地下にあるバーに入った。渋い色のフローリングと、レトロな照明は大人の世界だった。賑やかでリーズナブルな居酒屋の下に、こんなお洒落で静かなバーがあったことを初めて知った。

「おや、あずまさん珍しいね。若い女の子を連れてくるなんて。そろそろお迎えが?」
「ひどいなマスター。俺はまだ死にやしませんよ」
「あはは、そうだった。あなたは生かす方のプロだったね」
「ええ、まあ」

 男は常連なのか、カウンターに立つマスターと挨拶を交わした。とはいえ、やはり会話が物騒な気がしてならない。

(お迎えとか死なないとか、生かす方のプロって何? 絶対に危ない仕事なんだわ)

「カウンターでいいかな?」
「は、はい! カウンターでいいです」

 ひよりにとって、カウンターの方が都合がいい。ゆっくりソファーにでも座ったら、帰してもらえないかもしれない。それに、二人きりは怖い。頼りになるかわからないけれど、お店の人が近くにいる方がいいと思った。

「さて、何から飲みますか。もしかして、こういうところは初めて?」
「初めてです。いつも会社の飲み会は居酒屋ばかりなので」
「うちもそうですよ。特に若い連中の胃袋は底を知らない。安くて美味くて、周りに目があるところの方が節度をたもてる」
「そうなんですね」

 ひよりは思った。あれで節度を守っていたのかと。
 男は「いつものを」とマスターに告げ、ひよりには彼女に飲めそうなカクテルをと頼む。
 しばらくすると、ひよりの前にピンク色の可愛らしい飲み物が置かれた。

「ピンク・レディといいます。口あたりは優しいものです。ゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」

 そして、男には大きな氷がごろごろと入ったグラスに、琥珀色の液体が注がれた。とてもきれいな色だとひよりは思う。

「飲んだことない? バーボンだよ」
「バーボンはないです。強いお酒は飲めませんから」
「そう。じゃあ、お嬢さんはそれがちょうどいいね。一時間もしたら雨も止むだろうし。自分の時間稼ぎに付き合わせて悪いね」
「いえ」

 ヤクザのわりには言葉遣いが丁寧だ。偉い人になると怖いものはないからそうなのかもしれない。ひよりは頭の中はそんな事ばかり考えてしまう。

「お嬢さんはOLさん?」
「はい。あの、私は西と言います」
「西さんね。ふっ……俺はヒガシと書いてアズマだ。西と東か、なかなか面白い。ところで、OLさんは大変だね。飲み物作ったり、皿を変えたり、タクシーまで呼んで送り出して。ホステス並だ」
「なんと言いますか、古い会社なので。東さんはいつも男性ばかりと?」

 ひよりは聞いておきながら後悔をした。探るような質問をしてどうするつもりだ。これ以上、ヤクザの世界に関わってはいけないのにと。

「うちはね、野郎ばっかりなんですよ。職業柄っていいますかね。これでも女性も増えたんですよ。たまにああやって、外に連れ出して飯を食わせてやらないと、ストレスがたまってしまう。ずっと檻の中に入れられてるようなもんですから」
「檻……き、気分転換て、大事ですよね」
「特殊な環境に身を置いていますからね。シャバの空気を吸うのは大事です。ああ、シャバって言い方は良くないか。まあ、いいか」
「知ってますよ、シャバ。大丈夫です」

 ひよりは、とにかくこの場は愛想笑いで乗り切るしかないと思っていた。下手に興味を示しても危険だし、かといって知らないふりをするのはもっと危険な気がしていた。

「あれ? もしかして、もうバレてるのかな。俺たちのこと」
「え、いえバレてないです」
「そうなの?」

 そんなおかしな返答しかできなかった。

(どうしよう。勘付いたってバレたら、私はどうなるんだろう。誰か、助けてー)

「お嬢さん、東さんはおすすめ物件ですよ」
「えっ」

 その時、マスターがひよりに助け舟を出した。

「ちょっと年はいってますけど、お堅い世界だし、手に職持ってるんでかなり稼いでいます。絶賛嫁さん募集中ですよ」
「おいおいマスター、なにを急に。彼女、困ってるじゃないか」

 全然、助け舟じゃなかった。それどころか、男を勧められてひよりは硬直した。

「お堅い、仕事……」
「ええ。とてもお堅い仕事です。なかなか出会えませんよ。さて、次は何を召し上がりますか?」

 マスターの意味深な笑みに、ひよりは逃げ道を失った。このまま怯えていてはいいように遊ばれてしまう。
 ひよりは大人しく内気なだけの人間ではない。この場をやり過ごすには、もう少し対等にならなければと思った。

(舐められて、たまるか。私はか弱い小娘じゃない。こう見えても私の声一つで、男たちはひれ伏すんだから!)

 ひよりは管理部の総務・経理課で働いている。おじさんたちの給与の行方は彼女が握っているようなものだ。

「東さんと、同じものをください!」
「えっ」
「かしこまりました」

 驚いた男はひよりを大きな目で見つめる。ひよりはその目を真っ直ぐに見つめ返した。

「一杯くらい平気です」

 この一杯が、運命を大きく変えてしまうなんて。この時のひよりは夢にも思わなかっただろう。

 ここまでが、ひよりが必死に思い出した内容である。



「おいおいおい、全然平気じゃないじゃないか。参ったな。お嬢さん、君はいつ目を覚ますんだ。マスターも笑ってないで、何とかしてくれよ」
「お客様のお連れ様には手を出せませんので、ご了承ください。それより東さんチャンスですよ。あなた幹部だし、営外にお住みでしょう。お持ち帰り、いかがですか」
「バカなこと言うなよ。民間人に酒を飲ませて手を出したなんてニュースにでもなってみろ。停職じゃすまんぞ」
「でも、このまま放置していたほうが危険ですよ。こんな可愛い無防備なお嬢さんは、ストレス抱えたサラリーマンの格好の餌食です。まさか見捨てるのですか? それの方が罪ですよ」
「なんてこった……こんなはずではなかったんだがな」

 勿論ひよりは、二人のこんなやりとりも知らない。



 ◇



「あの、私っ」
「頭が痛い以外に、どこか具合の悪いところは?」
「ないです! それよりここ、どこですか。あと、私の……服、服を取ってください! っ、いった」
「あはははっ。大丈夫そうだな。しかし、それじゃしばらくは動けんだろ。薬を持ってきてあげるから、とりあえずまだ寝ていなさい」
「でもっ。ひあっ」

 ひよりは早くここから出たかった。なのに、大きな手がひよりの額を覆って、ベッドにゆっくり押し倒してしまった。しかしそれは決して乱暴なものではなく、むしろ、とても優しかった。

「早く帰りたければ、早く治すんだな」
「すみません」

 男は鎮痛剤を持って戻ってきた。今度は服を着ている。
 実はこの部屋はホテルではなく、男の自宅だった。男は酔いつぶれたひよりを担いで帰り、一晩の宿を与えてくれたのだ。

「水分はたくさん摂るように。痛みが引いたら服を着て出ておいで。私は隣の部屋にいる」
「はい……」

 ひよりに言えることは何もなかった。とにかくひよりがすることは、自身が早く回復して、男に頭を下げて家に帰る事だ。ひよりは痛む頭を押えながら、薬を飲んだ。

 男はそれを見届けると、静かに部屋を出て行った。

「ああああ、こんなはずじゃなかったのにぃぃぃ。いった、たたたた……」


 ◇


 それでも薬の力は素晴らしい。すぐに効果は表れ、ひよりは深い睡眠に落ちていく。

 次に目を覚ましたのは時計が正午をさそうとしている頃だった。

「しまった! 寝すぎたっ」

 ひよりは大急ぎでベッドから起き、投げ散らかした服を着ようとソファーに行く。

「なにこれ!」

 なんとひよりの洋服は、売り物のようにきれいに畳まれて、そこに鎮座していた。間違いなくあの男がしたのだ。まさか、こんな丁寧な仕事をするとは思わなかった。

「というか、最低っ。なに他人に片付けさせてるのよぅ。しかも、男の人にっ。恥ずかしすぎる……」

 ひよりは打ちひしがれながらも服を身につけ、髪を整えた。とにかくお礼を述べて、ここから脱出しなければならない。
 ひよりはドアに手をかけ、忘れ物はないか念のため振り返った。

(あっ……ベッド、ぐちゃぐちゃ)

 さすがにこれはダメだと思い、もう一度ベッドに戻った。シワシワになったシーツは取り外すべきだろう。
 カバーはどうしたらよいものか。よく見たらダブルベットで、周辺の装飾品はお高そうだ。
 それを一人で占領していたことに愕然とした。

「ヤクザさんのベッドで、寝てしまったなんて」

 自分の軽率な行動は、悔いても悔いきれない。
 ひよりはとうとう、床に座り込んでしまった。どう考えても自分は、元の暮らしに戻れないだろう。このあと無事に家に帰っても、弱みを握られて脅されるに決まっている。

「私、売られちゃうのかな」

 激しい脱力感に襲われた。

「おい。大丈夫か」
「うわっ! ごめんなさい。すぐに出て行きますからっ。きゃぁぁっ」
「こら、静かにしなさい」

 様子を見に来た男は、座り込んだひよりを見て大慌てで抱き上げた。そして部屋を移動し、ダイニングテーブルの前にひよりを下ろす。

「あ、あのっ」

 男は無言で椅子を引いた。そこに座れと、言っているのだ。

「し、失礼します」

 ひよりはとうとう来るべき時が来たと、思った。
 目をぎゅっと瞑って、覚悟を決める。

(でも! でも! 命だけは助けてくださいー!)
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