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後藤田医院の近くにはカフェーが並んでいた。見舞い客や病院の利用客を狙ったのか、どこもそれなりに繁盛している。最近は映画館までできたので人通りはますます増えていた。
通りに並び、大きな窓から現場が見える「カフェー・アトロピン」に入ると、クラシックな音楽が耳に届き、白いエプロンを身に着けた女給が笑顔を向けてくる。
窓際の席に腰を下ろし、せつなの隣に杠、机を挟んで向かい側に女学生が座った。
「私、天童亜里沙と言います。せつな……ちゃん、でいいかしら?」
「ええ」
亜里沙と名乗った女学生にせつなは短く答える。彼女はここからおよそ十粁ほどにある女学校に在籍しているらしい。
「お待たせいたしました。コーヒーとオレンジジュースです」
ウエイトレスが注文の品を持ってきたので、せつなが答える。
「コーヒーはこっち。オレンジジュースはそちらに」
「え?」
ウエイトレスはあからさまに動揺を見せる。訝しがりながらもせつなの前にコーヒーのカップを置き、向かいに座る亜里沙の前にオレンジジュースのグラスを置いた。
「せつなちゃん、コーヒー飲めるなんてすごいわね。しかもなんだか手慣れてる!」
感嘆の声をあげる亜里沙に対し、せつなはなにも言わずカップに手を伸ばす。
「そちらの方は頼まないんですか?」
亜里沙の視線は、せつなの隣に座る杠に向けられた。それを受け杠は苦笑する。
「私はせつな様に仕える身ですから。お気遣いありがとうございます」
その回答に亜里沙は目を見開き、亜里沙の顔は再びせつなに向いた。
「せつなちゃん、お嬢様なんだ! どこか爵位のある名家?」
興味深そうに亜里沙は尋ねてくる。しかし彼女はせつなの答えを待たずにはしゃぎ気味に続けていく。
「私、カフェーに入ったのも初めて!【カフェー・アトロピン】の看板は、よく目にしていたけれど、中がどういうふうになっているのかまではわからなかったから」
来られてよかった、と言いながら亜里沙はオレンジジュースのグラスに触れた。そして彼女の表情が急に曇る。
「……真知子とも来たかったな」
言うや否や亜里沙の瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。グラスを持つ手が震え、小さな嗚咽が漏れる。
「なん、で。なんで死んじゃったの? 真知子が死んだら、私も死ぬって言ったのに……」
なんとも物騒な発言だ。しかしせつなは眉ひとつ動かさない。おそるおそる杠が口を開く。
「真知子さん、というのは?」
杠の問いかけに亜里沙は手の甲で乱暴に涙を拭う。
「同じ女学校の私の親友です。高野真知子。今朝、後藤田医院から飛び降りたのが真知子だって聞いて、私、信じられなくて……」
先の男たちが話していた名前と一致する。亜里沙があそこで泣き崩れていた理由は、やはり飛び降りた女性と懇意にしていたかららしい。
「一目でいいから真知子に会いたいんです。でも軍の人たちに聞いてもなにも言ってくれなくて……。真知子の実家は爵位のある家だからか突然、行くわけにもいかないし……」
みるみる語尾が弱くなり、声が震える。亜里沙は再び泣き出した。せつなはそんな彼女をじっと見つめる。
「大事な人だったのね」
ぽつりと呟くと亜里沙が大きく頷いた。
「うん。私、女学校でまったく友達ができなくて、真知子だけが唯一の友達だったの。学校でのいい思い出なんてほとんどないけれど、真知子とふたりでたくさんおしゃべりして……それで十分だった」
彼女の前に置かれたオレンジジュースの氷が小さくカランと音を立てて崩れる。上澄みの色が薄くなり、グラスは汗をかいている。
せつなは一度、杠を見る。彼は目で応え、亜里沙を見つめた。
「真知子さんが、その……仮に自身で飛び降りたとするなら、亜里沙さんに心当たりはありますか?」
感情が昂っている彼女にしてもいい質問なのか。亜里沙は指で涙を拭い伏し目がちになった。
「真知子、家の都合で女学校をやめさせられて、親の決めた男性の元に婚約者として家に入らないとならないって言ってたの。真知子は顔に幼い頃の火傷の痕が残っていて、普通の男性とは結婚できないから、相手は親子ほど年が離れてるって……」
結婚相手を親が決めるのは珍しくはない。ましてや爵位を持っている家柄なら、政略結婚や家同士のための許嫁など普通だ。
しかし親子ほど年の離れた男性の元へ、学校をやめて家に入るようにと言われて、すんなり受け入れられる女性がどれほどいるのか。
「真知子、死にたいって言ってた。でも、私が絶対許さないって言ったの。真知子が死んだら私も死ぬから! だから、なにがあっても頑張って生きようって」
亜里沙は膝の上で握りこぶしを作った。
「そうしたら真知子、わかったって……。その代わり、私が死んだら真知子も死ぬから。お互いのために生きていこうって。なんで? 最後に会ったとき、映画を見に行く約束もしたのに……必ず行こうねって……」
それ以上は声にならず、肩を震わせ亜里沙は泣き出す。
その様子をせつなと杠はそれぞれ複雑そうな面持ちで見つめた。
通りに並び、大きな窓から現場が見える「カフェー・アトロピン」に入ると、クラシックな音楽が耳に届き、白いエプロンを身に着けた女給が笑顔を向けてくる。
窓際の席に腰を下ろし、せつなの隣に杠、机を挟んで向かい側に女学生が座った。
「私、天童亜里沙と言います。せつな……ちゃん、でいいかしら?」
「ええ」
亜里沙と名乗った女学生にせつなは短く答える。彼女はここからおよそ十粁ほどにある女学校に在籍しているらしい。
「お待たせいたしました。コーヒーとオレンジジュースです」
ウエイトレスが注文の品を持ってきたので、せつなが答える。
「コーヒーはこっち。オレンジジュースはそちらに」
「え?」
ウエイトレスはあからさまに動揺を見せる。訝しがりながらもせつなの前にコーヒーのカップを置き、向かいに座る亜里沙の前にオレンジジュースのグラスを置いた。
「せつなちゃん、コーヒー飲めるなんてすごいわね。しかもなんだか手慣れてる!」
感嘆の声をあげる亜里沙に対し、せつなはなにも言わずカップに手を伸ばす。
「そちらの方は頼まないんですか?」
亜里沙の視線は、せつなの隣に座る杠に向けられた。それを受け杠は苦笑する。
「私はせつな様に仕える身ですから。お気遣いありがとうございます」
その回答に亜里沙は目を見開き、亜里沙の顔は再びせつなに向いた。
「せつなちゃん、お嬢様なんだ! どこか爵位のある名家?」
興味深そうに亜里沙は尋ねてくる。しかし彼女はせつなの答えを待たずにはしゃぎ気味に続けていく。
「私、カフェーに入ったのも初めて!【カフェー・アトロピン】の看板は、よく目にしていたけれど、中がどういうふうになっているのかまではわからなかったから」
来られてよかった、と言いながら亜里沙はオレンジジュースのグラスに触れた。そして彼女の表情が急に曇る。
「……真知子とも来たかったな」
言うや否や亜里沙の瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。グラスを持つ手が震え、小さな嗚咽が漏れる。
「なん、で。なんで死んじゃったの? 真知子が死んだら、私も死ぬって言ったのに……」
なんとも物騒な発言だ。しかしせつなは眉ひとつ動かさない。おそるおそる杠が口を開く。
「真知子さん、というのは?」
杠の問いかけに亜里沙は手の甲で乱暴に涙を拭う。
「同じ女学校の私の親友です。高野真知子。今朝、後藤田医院から飛び降りたのが真知子だって聞いて、私、信じられなくて……」
先の男たちが話していた名前と一致する。亜里沙があそこで泣き崩れていた理由は、やはり飛び降りた女性と懇意にしていたかららしい。
「一目でいいから真知子に会いたいんです。でも軍の人たちに聞いてもなにも言ってくれなくて……。真知子の実家は爵位のある家だからか突然、行くわけにもいかないし……」
みるみる語尾が弱くなり、声が震える。亜里沙は再び泣き出した。せつなはそんな彼女をじっと見つめる。
「大事な人だったのね」
ぽつりと呟くと亜里沙が大きく頷いた。
「うん。私、女学校でまったく友達ができなくて、真知子だけが唯一の友達だったの。学校でのいい思い出なんてほとんどないけれど、真知子とふたりでたくさんおしゃべりして……それで十分だった」
彼女の前に置かれたオレンジジュースの氷が小さくカランと音を立てて崩れる。上澄みの色が薄くなり、グラスは汗をかいている。
せつなは一度、杠を見る。彼は目で応え、亜里沙を見つめた。
「真知子さんが、その……仮に自身で飛び降りたとするなら、亜里沙さんに心当たりはありますか?」
感情が昂っている彼女にしてもいい質問なのか。亜里沙は指で涙を拭い伏し目がちになった。
「真知子、家の都合で女学校をやめさせられて、親の決めた男性の元に婚約者として家に入らないとならないって言ってたの。真知子は顔に幼い頃の火傷の痕が残っていて、普通の男性とは結婚できないから、相手は親子ほど年が離れてるって……」
結婚相手を親が決めるのは珍しくはない。ましてや爵位を持っている家柄なら、政略結婚や家同士のための許嫁など普通だ。
しかし親子ほど年の離れた男性の元へ、学校をやめて家に入るようにと言われて、すんなり受け入れられる女性がどれほどいるのか。
「真知子、死にたいって言ってた。でも、私が絶対許さないって言ったの。真知子が死んだら私も死ぬから! だから、なにがあっても頑張って生きようって」
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「そうしたら真知子、わかったって……。その代わり、私が死んだら真知子も死ぬから。お互いのために生きていこうって。なんで? 最後に会ったとき、映画を見に行く約束もしたのに……必ず行こうねって……」
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