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第1話「聖夜の邂逅」
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吐く息が白く染まる十二月の夜。街は祝福の光に満ち、恋人たちが寄り添う歩道には楽しげな讃美歌が流れている。
私はその喧騒を背に、毎年決まって同じ場所へと向かっていた。小鳥遊雫、二十四歳。駅前の小さな花屋で働いている。
なぜこんなことをしているのか、自分でもはっきりとわからない。ただ、十二月二十五日の夜になると、まるで何かに導かれるように足が勝手に街外れの古い教会へと向かうのだ。物心ついた頃からの、不思議な習慣だった。
石畳の坂を上りきると、凛とした空気に包まれたレンガ造りの教会が見えてくる。降り積もった雪が尖塔の十字架を白く縁取り、ステンドグラスの淡い光が静寂の中に幻想的な影を落としていた。
教会の門の前。そこには、今年も彼がいた。
すらりとした長身に、黒いロングコート。雪景色に溶けてしまいそうなほど静かで、どこか儚げな佇まい。名前も知らない。言葉を交わしたこともない。けれど、彼の存在は私の胸に不思議な安らぎを灯す。彼もまた、毎年この日にこの場所に立っているのだ。
ここ数年、彼がいることを確認するとすぐに踵を返していた。声をかける勇気も理由もなかったから。もうすぐ、私も二十五歳になる。来年も彼がここにいる保証はない。
もし彼がここに来なくなってしまったら。そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
『今年こそ、声をかけてみよう』
冷たい指先をコートのポケットの中で握りしめる。心臓が、雪を踏む足音に合わせてトクントクンと鳴っていた。ゆっくりと彼に近づく。十歩、五歩。私の気配に気づいたのか、彼が静かにこちらを振り返った。
切れ長の瞳が、少しだけ見開かれる。月明かりに照らされた彼の顔は、まるで精巧な彫刻のようだった。緊張で喉が渇く。それでも私は凍える唇を震わせ、やっとの思いで言葉を紡いだ。
「あ、あの……こんばんは」
我ながら、か細く情けない声だった。彼は驚いたように瞬きを数回繰り返した後、ふわりと優しい花のつぼみが綻ぶように微笑んだ。
「こんばんは」
低く穏やかな声が鼓膜を揺らす。その響きは、凍てついた心をじんわりと溶かす陽だまりのようだった。
「毎年、いらっしゃいますよね」
彼が言う。私の心を見透かしたような言葉に、どきりとした。
「あなたも……」
「ええ。ずっと、昔から」
彼は懐かしむように目を細め、教会のステンドグラスへ視線を移した。その横顔は喜びと、ほんの少しの寂しさが入り混じった複雑な色を浮かべている。
「何か、特別な思い入れでもあるんですか。この教会に」
尋ねると、彼は再び私に視線を戻し、小さく首を横に振った。
「思い入れ、というよりは……約束、かな」
「約束?」
「はい。とても大切な、約束なんです」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。その深い眼差しに見つめられていると、胸の奥にしまい込んで忘れていた何かが、むずがゆく疼くような感覚に襲われた。思い出せないけれど、何かを知っている。そんな奇妙な感覚。
私には、幼い頃の記憶がほとんどない。七歳の時に遭った交通事故。それが原因で事故の前後の記憶が曖昧なのだと、両親から聞かされていた。目の前の彼といると感じるこの懐かしさも、失われた記憶と関係があるのだろうか。
「私は、小鳥遊雫です。駅前の花屋で働いています」
唐突に自己紹介をしていた。この不思議な感覚の正体を確かめたくて、彼との繋がりが欲しくてたまらなくなったのだ。
「雫さん。綺麗な名前ですね」
彼は嬉しそうに呟くと、「俺は冬月湊です」と名乗った。
「冬月……湊さん」
その名前を口にした瞬間、脳裏に陽だまりの中で笑う男の子の姿が、一瞬だけ掠めた気がした。けれどそれはすぐに霧散し、後には温かい余韻だけが残る。
「もし、よかったら……今度、お茶でもしませんか」
気づけば、私はそんな大胆なことを口走っていた。湊さんは少しだけ目を見開いた後、先ほどよりももっと嬉しそうに、幸せそうに微笑んだ。
「はい、ぜひ。俺も、あなたともっと話してみたいと思っていました」
その言葉に、冷え切っていた身体の芯からじんわりと熱が広がっていくのを感じた。
降りしきる雪が、私と湊さんの間に静かで優しい時間を紡いでいく。この出会いが、止まっていた私の時間を動かす運命の序章になるとは、この時の私はまだ知る由もなかった。ただ、彼の隣にいると失くしてしまった自分の一部を取り戻せるような、そんな予感だけが胸を満たしていた。
私はその喧騒を背に、毎年決まって同じ場所へと向かっていた。小鳥遊雫、二十四歳。駅前の小さな花屋で働いている。
なぜこんなことをしているのか、自分でもはっきりとわからない。ただ、十二月二十五日の夜になると、まるで何かに導かれるように足が勝手に街外れの古い教会へと向かうのだ。物心ついた頃からの、不思議な習慣だった。
石畳の坂を上りきると、凛とした空気に包まれたレンガ造りの教会が見えてくる。降り積もった雪が尖塔の十字架を白く縁取り、ステンドグラスの淡い光が静寂の中に幻想的な影を落としていた。
教会の門の前。そこには、今年も彼がいた。
すらりとした長身に、黒いロングコート。雪景色に溶けてしまいそうなほど静かで、どこか儚げな佇まい。名前も知らない。言葉を交わしたこともない。けれど、彼の存在は私の胸に不思議な安らぎを灯す。彼もまた、毎年この日にこの場所に立っているのだ。
ここ数年、彼がいることを確認するとすぐに踵を返していた。声をかける勇気も理由もなかったから。もうすぐ、私も二十五歳になる。来年も彼がここにいる保証はない。
もし彼がここに来なくなってしまったら。そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
『今年こそ、声をかけてみよう』
冷たい指先をコートのポケットの中で握りしめる。心臓が、雪を踏む足音に合わせてトクントクンと鳴っていた。ゆっくりと彼に近づく。十歩、五歩。私の気配に気づいたのか、彼が静かにこちらを振り返った。
切れ長の瞳が、少しだけ見開かれる。月明かりに照らされた彼の顔は、まるで精巧な彫刻のようだった。緊張で喉が渇く。それでも私は凍える唇を震わせ、やっとの思いで言葉を紡いだ。
「あ、あの……こんばんは」
我ながら、か細く情けない声だった。彼は驚いたように瞬きを数回繰り返した後、ふわりと優しい花のつぼみが綻ぶように微笑んだ。
「こんばんは」
低く穏やかな声が鼓膜を揺らす。その響きは、凍てついた心をじんわりと溶かす陽だまりのようだった。
「毎年、いらっしゃいますよね」
彼が言う。私の心を見透かしたような言葉に、どきりとした。
「あなたも……」
「ええ。ずっと、昔から」
彼は懐かしむように目を細め、教会のステンドグラスへ視線を移した。その横顔は喜びと、ほんの少しの寂しさが入り混じった複雑な色を浮かべている。
「何か、特別な思い入れでもあるんですか。この教会に」
尋ねると、彼は再び私に視線を戻し、小さく首を横に振った。
「思い入れ、というよりは……約束、かな」
「約束?」
「はい。とても大切な、約束なんです」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。その深い眼差しに見つめられていると、胸の奥にしまい込んで忘れていた何かが、むずがゆく疼くような感覚に襲われた。思い出せないけれど、何かを知っている。そんな奇妙な感覚。
私には、幼い頃の記憶がほとんどない。七歳の時に遭った交通事故。それが原因で事故の前後の記憶が曖昧なのだと、両親から聞かされていた。目の前の彼といると感じるこの懐かしさも、失われた記憶と関係があるのだろうか。
「私は、小鳥遊雫です。駅前の花屋で働いています」
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「はい、ぜひ。俺も、あなたともっと話してみたいと思っていました」
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