失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。

久遠翠

文字の大きさ
3 / 15

第2話「雪解けの距離」

しおりを挟む
「こんばんは」

 静寂を破ったのは、鈴を転がすような澄んだ声だった。振り返った先に立っていたのは、ずっと待ち焦がれていた彼女――小鳥遊雫だった。俺、冬月湊は高鳴る鼓動を懸命に抑え、できる限り穏やかな表情を作った。

 十五年。毎年この日、この場所で、ただ一人彼女を待ち続けた。七歳の時に事故に遭い、記憶を失ってしまったと人づてに聞いたのは、約束を交わした翌年のことだった。それでも俺は信じていた。いつか彼女が、この場所を思い出してくれることを。

 だからここ数年、彼女がこの教会の前に姿を現すようになった時、奇跡が起きたのだと思った。けれど彼女は俺に気づくことなく、すぐに踵を返してしまう。その背中を見送るたび、胸が張り裂けそうになるのを堪えてきた。

 そんな彼女が、今、目の前にいる。勇気を振り絞って、俺に声をかけてくれた。

「毎年、いらっしゃいますよね」

 彼女の言葉に、どれだけ心が震えただろう。ああ、彼女も俺の存在に気づいてくれていたのだ。それだけで、十五年という途方もない時間が報われた気がした。

「思い入れ、というよりは……約束、かな」

 本当は、君との約束なんだよ。そう喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。彼女の瞳は俺を映しながらも、そこには見知らぬ他人を見る色が浮かんでいた。やはり、覚えていないのだ。

 切なさが胸を締め付ける。けれど同時に、安堵している自分もいた。もし彼女が約束を覚えていて、それを重荷に感じていたら? 俺が待ち続けていることが、彼女を苦しめることになったら? それだけは避けたかった。

「冬月……湊さん」

 彼女が俺の名前を口にする。それだけで、世界が祝福の光に満たされるような心地がした。忘れていてもいい。思い出せなくてもいい。もう一度、ゼロから始められるのなら。

 だから、彼女からお茶に誘われた時、俺は神に感謝した。

「はい、ぜひ。俺も、あなたともっと話してみたいと思っていました」

 これは嘘じゃない。ずっと、ずっと君と話したかった。

 約束の週末、俺たちは駅前のカフェで会った。窓の外では粉雪が舞っている。緊張した面持ちでメニューを眺める彼女の横顔を、盗み見る。昔の面影は確かにあるが、すっかり綺麗な大人の女性になっていた。

「湊さんは、お仕事何をされているんですか」

「建築家をしています。主に公共施設や住宅の設計を」

「わあ、すごいですね。私、そういうの全然詳しくなくて……」

 恐縮したように笑う彼女に、「雫さんは、お花の仕事なんですよね」と尋ねる。すると、彼女の表情がぱっと明るくなった。

「はい! 小さい頃から、お花が大好きで」

『それ、知ってるよ』

 心の中で呟く。幼い頃、彼女はいつもシロツメクサで花冠を作っては、俺の頭に乗せてくれた。その時の太陽みたいな笑顔は、今も鮮明に覚えている。

「素敵ですね。花は、人の心を癒してくれます」

「湊さんも、お花好きなんですか?」

「ええ。特に……霞草が好きです」

 その瞬間、雫さんの動きがぴたりと止まった。彼女の瞳が揺れている。

「霞草……」

「どうかしましたか?」

「いえ……なんだか、とても懐かしい響きで。どうしてでしょう……」

 戸惑う彼女に、俺はそれ以上何も言えなかった。霞草は、彼女が昔一番好きだと言っていた花だ。「主役にはなれないけど、どんな花も引き立ててくれるでしょう? 優しいところが好き」そう言って笑っていた。

 俺は、この十五年間、真実を告げるべきかずっと悩んできた。記憶を失った彼女に過去を押し付けるのは、果たして正しいことなのか。俺のエゴではないのか。

 けれど今、こうして彼女と話していると確信する。俺は今の彼女に恋をしているのだと。過去の思い出の中の少女ではなく、目の前で微笑み、戸惑い、一生懸命に言葉を探す、小鳥遊雫という一人の女性に。

 だから決めた。俺は何も言わない。彼女がもし、新しい関係の中で再び俺を好きになってくれるのなら、それ以上の幸せはない。過去は、彼女が自ら取り戻したいと願った時に、そっと寄り添えばいい。

「雫さん」

「はい?」

「また、会ってもらえませんか」

 俺の言葉に、彼女は一瞬きょとんとした後、頬をほんのり赤く染めて小さくうなずいた。

「はい、喜んで」

 その笑顔を守りたい。心からそう思った。雪が降り積もるように、ゆっくりと静かに、二人の時間を重ねていこう。失われた十五年を取り戻すのではなく、新しい未来を二人で築いていくために。雪解け水が新たな流れを作るように、俺たちの関係もここから始まっていくのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約者が記憶喪失になりました。

ねーさん
恋愛
 平凡な子爵令嬢のセシリアは、「氷の彫刻」と呼ばれる無愛想で冷徹な公爵家の嫡男シルベストと恋に落ちた。  二人が婚約してしばらく経ったある日、シルベストが馬車の事故に遭ってしまう。 「キミは誰だ?」  目を覚ましたシルベストは三年分の記憶を失っていた。  それはつまりセシリアとの出会いからの全てが無かった事になったという事だった─── 注:1、2話のエピソードは時系列順ではありません

(完結)婚約者の勇者に忘れられた王女様――行方不明になった勇者は妻と子供を伴い戻って来た

青空一夏
恋愛
私はジョージア王国の王女でレイラ・ジョージア。護衛騎士のアルフィーは私の憧れの男性だった。彼はローガンナ男爵家の三男で到底私とは結婚できる身分ではない。 それでも私は彼にお嫁さんにしてほしいと告白し勇者になってくれるようにお願いした。勇者は望めば王女とも婚姻できるからだ。 彼は私の為に勇者になり私と婚約。その後、魔物討伐に向かった。 ところが彼は行方不明となりおよそ2年後やっと戻って来た。しかし、彼の横には子供を抱いた見知らぬ女性が立っており・・・・・・ ハッピーエンドではない悲恋になるかもしれません。もやもやエンドの追記あり。ちょっとしたざまぁになっています。

身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~

ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。 彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。 ――死んだはずの彼女が、生きている? 同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。 「今さら、逃げ道があると思うなよ」 瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。 秘された皇子と、選び直した愛。 三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?    * * * 後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。

【完結】そんなに嫌いなら婚約破棄して下さい! と口にした後、婚約者が記憶喪失になりまして

Rohdea
恋愛
──ある日、婚約者が記憶喪失になりました。 伯爵令嬢のアリーチェには、幼い頃からの想い人でもある婚約者のエドワードがいる。 幼馴染でもある彼は、ある日を境に無口で無愛想な人に変わってしまっていた。 素っ気無い態度を取られても一途にエドワードを想ってきたアリーチェだったけど、 ある日、つい心にも無い言葉……婚約破棄を口走ってしまう。 だけど、その事を謝る前にエドワードが事故にあってしまい、目を覚ました彼はこれまでの記憶を全て失っていた。 記憶を失ったエドワードは、まるで昔の彼に戻ったかのように優しく、 また婚約者のアリーチェを一途に愛してくれるようになったけど──…… そしてある日、一人の女性がエドワードを訪ねて来る。 ※婚約者をざまぁする話ではありません ※2022.1.1 “謎の女”が登場したのでタグ追加しました

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

この度娘が結婚する事になりました。女手一つ、なんとか親としての務めを果たし終えたと思っていたら騎士上がりの年下侯爵様に見初められました。

毒島かすみ
恋愛
真実の愛を見つけたと、夫に離婚を突きつけられた主人公エミリアは娘と共に貧しい生活を強いられながらも、自分達の幸せの為に道を切り開き、幸せを掴んでいく物語です。

記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?

ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」 バシッ!! わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。 目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの? 最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故? ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない…… 前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた…… 前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。 転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?

処理中です...