失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。

久遠翠

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第6話「偽りの幸福」

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 雫の様子がおかしい。隣を歩く彼女の横顔を盗み見ながら、俺は胸の内で重い息を吐いた。

 最近、彼女は時々ふっと意識がどこかへ飛んでしまったかのように、遠い目をするようになった。そしてその度に悲しそうな、怯えたような表情を浮かべるのだ。

「雫さん? どうかしたのか、顔色が悪い」

 海沿いの公園で彼女の顔色が変わったあの日から、何かが変わり始めてしまった。おそらく、記憶の断片が蘇り始めているのだろう。それは喜ぶべきことなのかもしれない。けれど断片的な記憶は、かえって彼女を混乱させ、苦しめているように見えた。

 真実を、話すべきだろうか。

『ごめん……ごめんな、雫』

 あの日、俺は泣いている彼女にそう言って四つ葉のクローバーを渡した。引っ越すことが決まり、もう会えなくなる寂しさから、つい意地悪なことを言って彼女を泣かせてしまったのだ。そしてその直後に、彼女は事故に遭った。

 俺のせいだ。俺が彼女を泣かせなければ、彼女は事故に遭わなかったかもしれない。記憶を失うこともなかったかもしれない。その罪悪感は、十五年経った今も鉛のように俺の心に沈殿している。

 この真実を話せば、彼女はきっと自分を責めるだろう。そして、俺を責めるかもしれない。俺たちの関係は、終わってしまうかもしれない。

 今のこの穏やかで幸せな日々は、彼女の記憶がないという土台の上に成り立つ、偽りの幸福なのではないか。そんな考えが頭をよぎり、ぞっとする。

 失いたくない。雫を、もう二度と失いたくない。

 その一心で、俺は口を閉ざすことを選んだ。彼女を苦しめるくらいなら、俺が一人ですべてを背負えばいい。臆病だと罵られても構わない。

 だが、俺の沈黙は、静かに、しかし確実に二人を引き裂いていくようだった。

 ある夜、設計事務所でコンペの最終準備に追われていると、雫から「今、少しだけ会えませんか」とメッセージが届いた。胸騒ぎを覚えながらオフィスの近くの公園へ向かうと、彼女は小さなブランコに座って俯いていた。

「ごめん、急に呼び出して」

「いや、大丈夫。仕事もちょうど一区切りついたところだから」

 嘘だ。本当はまだ山のように仕事が残っている。でも、そんなことはどうでもよかった。

「あのね、湊さん」

 彼女は顔を上げないまま、か細い声で話し始めた。

「私、怖いんです。最近よく昔の夢を見るの。男の子が出てくる夢。その子と、何か大事な約束をした気がするんだけど……思い出せない。思い出そうとすると、頭が痛くなって……」

 彼女の声は震えていた。俺はかけるべき言葉が見つからないまま、ただ黙って隣に立った。

「湊さんは……何か、知ってるんじゃないですか? 私の、過去のこと」

 ついに核心を突かれた。心臓が大きく脈打つ。ここで「ああ、知っているよ」と告げてしまえば、どれだけ楽だろう。けれど唇は縫い付けられたように動かない。

「……俺は、何も」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

 雫がゆっくりと顔を上げる。その瞳には、深い絶望と諦めの色が浮かんでいた。俺の嘘を、彼女は完全に見抜いていた。

「そっか……ごめんなさい、変なこと聞いて」

 彼女は力なく笑うと、静かに立ち上がった。

「もう遅いから、帰りますね。お仕事、頑張ってください」

 そう言って、俺に背を向けて歩き出す。その小さな背中があまりにもか弱く、頼りなく見えて、引き止めたい衝動に駆られた。でも、できなかった。

『ごめん、雫』

 心の中で、何度目かわからない謝罪を繰り返す。

 偽りの幸福に溺れていたのは、俺の方だった。彼女を傷つけたくないという大義名分を掲げて、本当は自分が傷つくことから逃げているだけだ。

 公園のベンチに一人座り込み、冷え切った手を握りしめる。冬に逆戻りしたかのような夜気が、身に染みた。このままでは駄目だ。いつか俺は、彼女にすべてを話さなければならない。たとえそれで、全てを失うことになったとしても。

 けれど、その「いつか」は一体いつ訪れるのだろう。俺は、その覚悟を決められないまま、ただ時間だけが過ぎていくのを無力に見つめることしかできなかった。
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