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梨華についての大きな謎は、その日の夜のうちにとけた。
「ああ。西島さんっていったら、関急グループのご令嬢さんでしょう?」
夕食中に梨華のことをお父さんに話すと、すぐにそんな返事がかえってきた。それを聞いた遥香は、口の中に入っていたご飯を思わずふき出しそうになってしまう。
関急グループといったら、すごく巨大な企業グループだ。東京周辺を走っている私鉄を中心に、バスやフェリー、不動産、地方のリゾート開発などといった、いろんな事業を行っている。ほとんど東京に行ったことがない遥香でさえ、その名前は何度となく耳に入っているくらいだ。お金持ちのお嬢様に違いないとは思っていたけど、真実は遥香の予想を上回りすぎていた。
「ほら、去年から丘の上ですごく大きなお屋敷の建設工事があっただろう?あそこにご両親と引っ越ししてきたんだよ」
「ああ、そうなんだ」
一年以上も前から丘のてっぺんの近くで始まった工事は、普通の一軒家とは思えないスケールの大きさから町中で話題になっていた。完成した家は外国の映画に出てくるような真っ白でキレイなお屋敷だったけれど、月浦の古い街並みの中では目立ちすぎているようでもあった。
「でもさ、どうしてそんな大きな会社の人たちが月浦に引っ越してきたの?」
「鈴浜にもうすぐ『グランドオーシャンシティ』がオープンするからだよ。あそこの家のご主人が施設の総合支配人をつとめるんだってさ。創業者の家系とはいえまだ若いから、修行っていう意味でまかされたんじゃないのかなあ」
その施設の名前を聞いて、遥香はどきりとした。
「グランドオーシャンシティ」というのは、鈴浜に新しくオープンするリゾート施設の名前だ。
海岸に関急グループのフェリーが停まるフェリーポートを建設し、その周辺にショッピングモールのついた複合ホテルや高級マンションなどを建てていく。つまり月浦のように小さい港町だった鈴浜を、関急グループが観光地につくりかえてしまったというわけだった。それはさびれていく町の活性化を望んでいる自治体や県も巻き込むほどの、すごく大きなものだったようだ。
お父さんの話では施設の建物もほとんど完成していて、これから来年のオープンに向けて本格的な準備が始まるところらしい。だから梨華もこのタイミングで、両親と一緒に月浦に引っ越してきたのだろう。
「でもさ、隣町っていってもグランドオーシャンシティのある港と月浦はけっこう離れてるよね。どうして梨華ちゃんたちはここに住むことにしたんだろう?」
「町と一体の事業とはいっても、鈴浜には昔から守られてきた街並みや自然が壊されるって理由で反対していた人も多いからね。中には西島さん一家を恨んでいるって人もいるだろうし、娘さんが学校でいじめられる心配だってある。そんな人間関係の問題をさけるために、わざわざ離れている月浦に住むことに決めたんじゃないかな」
「そっか。確かにそうかもしれないね」
その時遥香の頭の中には、梨華が今日のうちに何度も見せた暗い表情やその時の言葉なんかが、はっきりとよみがえってきた。
(そのうちにきっと、私のことを嫌いになると思うから)
(イルカさんも私のことが嫌いなんだね)
鈴浜の人たちがこのリゾート開発に対して向けた言葉のいくつかは、梨華の耳にも届いていたにちがいない。だから月浦に住む遥香や海の生き物たちも海を汚した自分たちをうらみ、嫌いになると信じこんでいるんだろう。月浦に住む人の中にも「鈴浜の工事のせいで海が汚れた」と渋い顔をする人が少なくはない。
何より鈴浜の埋め立て工事といえば、月浦ではミノリイシの絶滅を招いた原因として悪名高い存在だった。それを思うと、遥香も胸がざわざわして落ち着かなくなるほどだ。
メリーが梨華にひどい言葉を叫んだ理由もそのためだったのだろう。それがスナメリ独特の感覚によるものなのか、それとも乙姫様からもらった力の一つなのかは分からないけれど、メリーはすぐに梨華とミノリイシ絶滅との関係に気がついたらしい。竜宮に暮らすメリーは、彼女を自分たちの世界をおびやかす敵の一人みたいに思ったのかもしれない。
だけどそれを知った遥香は梨華を嫌いになるどころか、ますますかわいそうになった。
(もしかしたら誰より梨華ちゃんのことを嫌いになってるのは、梨華ちゃん自身なのかもしれない。だって梨華ちゃんは、あんなに海の動物のことが好きなんだから)
自分の家族がかかわっている工事のせいで大好きな海が汚れてしまって、なのに自分たちはその海を見下ろす丘の上のお屋敷で暮らしているというのは、梨華の性格を考えたらすごくつらいことかもしれない。
(でも…港の工事もリゾート施設の建設もみんな大人がはじめたことで、梨華ちゃんは何も悪くないはずだ。だから私が梨華ちゃんと仲良くしたり、水族館に案内したりするのも全然いけないことじゃないんだ)
遥香はそう思い、これからも梨華と仲良くしていく決意を固めることができた。
だけど…残念なことに、遥香のその決意がすぐに実ることはなかった。
それから三日後の放課後。遥香はマリンパークのバックヤードでせっせと水槽の掃除にはげんでいた。今日は一週間に一回の、水槽を本格的に掃除する日だったのだ。
「っていうかさ、なんで俺まで手伝わないといけないんだよ」
遥香の横で裕一が、水槽のガラスをみがきながら文句を言う。マリンパークとは無関係なはずなのに、呼び出されて手伝いをさせられているのが納得いかないらしい。
「どうせ今日もぼんやり船を見てるつもりだったんでしょう?こっちは元山さんがまた港に行っちゃって大変なんだもん。ちょっとくらいは手伝ってよ」
だけど遥香にきっぱりと言い返されてしまって、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それにしても、すごいことになってるよな。今日は港にテレビが来てるんだろ?」
「珍しい魚があんなに港にあがってくるんだもん。取材くらい来たっておかしくないよ」
遥香の言葉に裕一が大きくうなずいた。
最近はなぜか地元の漁師さんも知らないほど珍しい魚が網にかかったり発見されることが多く、そのたびに専門家である元山さんが港に呼び出されている。近ごろ元山さんが朝のマリンパークに来れないのはそのためだった。
「三日前はタコブネ、昨日はフリソデウオ、それに今朝も何かあがったらしいな。遥香、元山さんから聞いてる?」
「うん。ラブカ。それも三匹もだって」
裕一がぽかんと口を開けて絶句する。ラブカというのは深海に住むサメの仲間で、ふだんなら一匹だって網にかかることのない魚のはずだ。それが一回の漁で三匹もとれるなんて、異常事態としか言いようがない。
「でもさ…あんな怖い顔の魚が海から出てきたら、すごい迫力なんだろうなあ」
裕一は自分が掃除をしている水槽の中をのぞきこみながら、遠くを見るような眼差しでつぶやいた。その場面を想像しているのか、口元がにんまりとゆるんでいる。そんな裕一の横顔を見ているうちに、遥香はなんだか彼のことが気の毒に思えてきた。
裕一の家は昔から漁師をしていた家系で、彼もお父さんやおじいちゃんの運転する船に乗せてもらうことが多かった。そんな彼が船に乗らなくなり、夢だった父親や祖父のような漁師になることをあきらめてから一年以上になる。
それでも心の中では海への憧れが強く残っているらしく、毎朝のように港がよく見える防波堤に座って漁船が出たり入ったりするのをながめていた。ほとんど遅刻ギリギリ、または思いっきり遅刻してしまうのも、遅い時間に戻ってくる漁船を見届けようとするからだった。
「ねえ、よけいなお世話かもしれないけどさ…思いきってお母さんに打ち明けてみたら?本当はまだ、漁師になりたいって思ってるんでしょう?」
遥香の言葉を聞いた裕一の顔から笑顔が消え、ひどく深刻な表情になる。
「俺もそうしたいんだけど、やっぱり母さんには言いだしにくいんだよ。それだけでショックを受けるんじゃないかって思ってさ」
しばらく黙りこんだあと、裕一は沈んだ声でそう言った。聞いただけでも申しわけなかった気がして、遥香は「ごめん」と謝る。だけど「大丈夫」とこたえてふり返った裕一はもう、いつもの笑顔に戻っていた。
裕一の協力のおかげで掃除をスムーズに終わらせることができたけれど、遥香にはまだ解決しなければいけないことが起こっていた。
「はあ。キィちゃんはどうしようかなあ」
「キィちゃん?」
「そう。白点病で別の水槽に移していたキイロハギのことなの。一匹だけにして面倒を見てたら愛着がわいて、名前までつけちゃったんだよね」
もちろんそれは梨華が発見した、あのキイロハギのことだった。他の二匹はもう展示用の水槽に移っていたけど、別の水槽で薬浴をさせていたこの子だけはまだ時間がかかりそうだった。だけど明日にはここに新しいお魚を入れることになっていたので、その前にこの水槽もあけておきたかったのだ。
「はあ。できたら梨華ちゃんにあずかってほしかったんだけどなあ」
ため息まじりにつぶやくと、裕一がびっくりした顔で遥香を見た。
「え?それって西島のことだよな。西島って、遥香と仲良かったのか?」
「たぶん…いっぱいお話したし。転入してきたその日だけだったけど」
そもそもこのキイロハギの病気に最初に気が付いたのは梨華だった。魚好きで知識もある梨華にあずかってもらえたら一番嬉しいと思うけど、今の梨華は遥香にとってだいぶ遠い存在になってしまっていた。
それは遥香が梨華と仲良くしようと決めた、まさにその次の日から始まった。親しげに話しかけた遥香を、梨華が無視するようになってしまったのだ。
今の梨華はマリンパークに来なくなったどころか、学校でもほとんど口をきくことはない。かと言って梨華に別の友達ができたというわけでもなく、彼女は休み時間も一人で席についてじっとしているだけだった。
遥香はあきらめずに何度も声をかけてみたけれど、梨華は何も言わないか、「ごめんなさい」と小さい声でつぶやくだけ。理由がありそうだったけど、それを聞くこともできないほど梨華の態度はかたくなだった。このお掃除のこともいちおう伝えてはみたけれど、やっぱり梨華は現れなかった。
何か理由があるのだろうか?あるとしたらあのお母さんっぽいけど…なんて色々考えてみるけれど、今の遥香にはどうにもならないことだった。
だけど、その時だった。
「おい遥香…噂をすれば、だぜ」
裕一の言葉に、遥香ははっとしてふり返った。
裕一は再び目の前の水槽をのぞきこんでいる。遥香も近づいて見下ろしてみると、ゆらめく水面の下のアクリルガラスの先に、ぽつんとたたずんでいる女の子の姿が見えた。月浦の町では浮いてしまうフリルの付いたお洋服。軽くウェーブのかかった長い髪。まぎれもなく梨華だった。
しかも、なぜか梨華はランドセルを背負ったままだった。学校が終わったあと、家に帰らないでここに来たのだろうか。放課後の寄り道は禁止されていると言っていたのに。
遥香は展示室に急いだ。駆けてくる遥香に気がついた梨華は、ためらいながらも遥香に話しかけてくる。二人が顔を合わせて会話をするのも三日ぶりだ。
「叶さん。水槽のお掃除って、もう終わっちゃった?」
遥香がうなずくと、梨華は残念そうに目をふせる。そして「ごめんね」と言って深く頭を下げた。
「気にしなくても良いって!ここに来てくれただけでも嬉しいよ」
「本当?良かった。今まで…ごめんね」
そう言って、梨華はまたすぐに頭を下げた。どうしたんだろう、今日の梨華は前にもまして雰囲気が暗い。
「どうしたの?何かあった?」
「うん。ごめんね…少し前に水族館に来てたんだけど、勝手にバックヤードに入って良いのか分からなくて、しばらく展示室をウロウロしていたの。そしたら途中にアヤイロミノリイシの水槽があったから…」
この話を聞いた瞬間、遥香は(まずい!)とあせった。梨華の立場と性格を考えたら、あの展示は見ないほうが良かったはずだ。
「この前、家でお父さんたちが話しているの聞いちゃったんだ。地元の人が『鈴浜の開発のせいで、月浦からミノリイシが消えてしまった』って怒ってたって。だけど私、まさか絶滅しちゃったとまでは思ってなかったから、展示の解説を読んですごくショックだったの。水槽の中のミノリイシはすごくキレイだったし、私の家族のやっていることで、こんなに素敵なサンゴがいなくなっちゃったのか、って思うと申しわけなくて」
震える声で話しているうちに、梨華の目には涙が浮かびはじめていた。
「大丈夫だよ!梨華ちゃんは何もしてないんだから悪くないし。ミノリイシだって私ががんばって、自然に戻せるくらい立派に育ててみせるから!」
「でもさ、残っているミノリイシってあの水槽にいるだけなんでしょう?悪いけど、それを自然にかえすなんてすごく難しいことなんじゃないの?」
梨華の言葉に、遥香は「う」とうなるだけで何も言い返せなかった。
「ごめんね。私たちのせいで…」
四回目の「ごめんね」をつぶやいた梨華は、手のひらをぎゅっとにぎりしめる。
「私、ママのことが大嫌い」
涙と一緒に梨華の口からこぼれた言葉を聞いて、遥香は困惑した。
「どうしたの?急に」
「実はね、今まで叶さんとお話できなかったのは、ママから『叶さんと仲良くするのも、水族館に行くのもやめなさい』って言われていたからなの。私がお魚の病気を見つけたのが気に入らなかったみたい」
それを聞いた遥香は、三日前に自分がお母さんにかけた言葉を思い出した。お魚の病気を見つけるなんてすごいことだから、絶対にほめられると思ったのに…だけど梨華のお母さんにとっては、それは逆効果だったらしい。
「それじゃあ、今までしゃべれなかったのは私のせいだったんだ。ごめんね梨華ちゃん」
「ううん。一番悪いのはわからずやのママだから」
すると急に、梨華の表情がけわしくなった。
「私のママ、家の中ではすごく厳しくておっかないのに、外ではいつもニコニコ笑っているの。そうするのが正しいんだって思っているのよ。だからいつも私に言うんだ。『外ではお人形みたいにしていなさい。勉強やスポーツができることも隠していなさい。そうして誰からも可愛く見られるようにふるまって、いつでもお上品に、清潔にしていなさい』って。毎日のようにくり返すのよ。そうしたらお掃除も料理もお魚の世話もしなくていい家にお嫁に行けるんだって。自分がそうしてお父さんと結婚できたからって、私にも同じことをさせたいみたいなの」
今までおさえこんでいた気持ちがあふれて来るかのように、しゃべり続ける梨華の瞳からは涙がどっと流れ出した。
「だけどね、私…心の中ではそういうのイヤだなってずっと思っていたの。そしてこの月浦に来てから、ますますその気持ちが大きくなっている気がするの。どうしてママは家の中で自分たちのことばっかり考えているんだろう?外では自分たちのせいで海が汚れてサンゴが絶滅しちゃったっていうのに、町の景色が変わってしまったっていうのに、なんでそういうことに無関心でいられるんだろう?って」
自分の思いを吐き出す梨華の姿を、遥香は心配しながら見守るだけだった。
「でも私、もう決めたんだ。あの人のことはもう信じたりしないって。だから言いつけを破って水族館に来たんだけど、水槽のアヤイロミノリイシを見てますますそう思ったわ」
きっぱりとした梨華の声には強い決意がこもっている。だけどそんな梨華に対して、遥香はなんてこたえたら良いのか分からなかった。
賛成して応援するべきか…と最初は思ったけれど、なんだかそれだけじゃいけないような気もする。すごくモヤモヤした気分だった。
「あのさ、そこまで言わなくてもいいんじゃないか?」
二人の間に流れる沈黙を破ったのは、裕一の声だった。梨華はすぐに、遥香の後ろに立つ裕一をきっとにらみつけた。
「どうして?きみも今の話聞いててくれたんでしょう?だったら変だと思わない?」
「もちろん思ったよ。それに俺の家は漁師だったから、海を汚してるのに平気でいるなんて話は本当だったら許せない。だから俺は、西島の考えが間違っているとは言ってない。ただ『そこまで言わなくてもいいんじゃないか?』と言っただけだよ」
「どういうこと?」
「どんなに考えがねじくれてても、その人は西島のお母さんなんだろう?それなら西島が『信じない』とか言って目をそむけるだけじゃダメじゃないのか、ってことだよ」
真剣に話しかける裕一の横顔を見て、遥香はさっきの彼の話を思い出す。そうしたら、裕一の言いたいことが分かった気がした。
「分かった!梨華ちゃん…私についてきて」
「え?叶さん?」
今度は遥香が急に歩き出したので、梨華はますます混乱する。だけど遥香はバックヤードへ続くドアにすたすたと進んでしまったので、あわててそのあとに続いた。
こうして遥香が梨華をつれてきたのは、あのキイロハギの水槽の前だった。
「あ!これって、あの時のキイロハギだよね?」
「そう!キィちゃんって名前をつけたから、梨華ちゃんもそう呼んでね」
梨華は友達と再会したみたいに瞳を輝かせたけれど、遥香がここに連れてきた意味はまだ分からなかった。遥香を見る梨華の頭の上には「?」マークが浮かんでいるようだ。
「梨華ちゃんにお願いがあるの。このキィちゃんを、家であずかってくれないかな?」
「えっ?」
「急にごめんね。実は明日までに水槽をあけておきたいんだけど、キィちゃんはまだ白点病がちゃんと治ってなくて、展示の水槽に移せないの。だけど私の家には器具も水槽もないから、梨華ちゃんにお願いできたら最高だなって前から思ってたんだ」
「そうなんだ。確かに私の家には前に使ってた水槽も器材もいっぱいあるし、環境的にはこの子をあずかるのは簡単だと思う。でも…病気のお魚をつれて帰ったら、あのママは絶対に怒って『返してきなさい』って言うと思う」
また怖い顔になってつぶやく梨華の肩を、遥香がぽん!とたたいた。
「だからこそ、ますますお願いしようって決心したの!この機会に、お母さんとちゃんと向き合ってみない?自分の思ってることをちゃんと伝えてさ」
それを聞いた梨華がはっと目を見開いて、遥香と裕一を順番に見た。二人の言葉の意味に、これで気が付いたらしい。
それでも梨華は迷い、しばらくキィちゃんを見つめたまま黙りこんでいた。遥香と裕一、そしてキィちゃんも次の言葉をドキドキしながら待つ。
やがて梨華はまっすぐ遥香を見つめ、自分の決断を伝えた。
「分かった…私、ママにお願いしてみる。ちゃんと自分の気持ちを伝えて」
「本当?ありがとう!」
それからすぐに、梨華は自分のポケットから小学生用の携帯電話を取り出した。
「さっきから何度もママから電話がかかってたんだけど、ずっと無視してたんだ」
梨華は二人に向かってイタズラを打ち明けるみたいに笑い、携帯電話を耳にあてた。
「…もしもし、ママ?」
それから梨華の戦いが始まった。
電話に出た梨華のお母さんはやっぱりすごく怒っていて、どなっている声が遥香たちの耳にも聞こえてくるほどだった。梨華は何度も謝ったけれど、落ち付いてきたところでおそるおそるキイロハギのことをお願いした。それは小さくなりかけていた火に油を注ぐようなものだったらしく、お母さんの声がふたたびヒートアップするのが遥香たちにもはっきり分かった。
だけど、梨華は負けなかった。お母さんにどんなに強く怒られても、何を言われても、お願いすることをやめなかったのだ。お母さんの前でずっとオドオドしていた梨華を見ている遥香には、彼女がどれだけがんばっているのかがよく分かる。だけど今の遥香には、心の中で(がんばれ!)と叫んで応援することしかできなかった。
激しい言葉のやり取りが一〇分近く続いたあと、梨華は携帯を切ってポケットにしまった。遥香と裕一の方にふり返り、満面の笑顔を浮かべる。
「やったよ叶さん。キィちゃんをつれてきても良いって。ママが分かってくれたの!」
「本当?よかったあ!」
それを聞いた遥香と裕一も笑顔になり、梨華の前にかけよった。
もちろんキィちゃんをあずかってもらえて助かったというのもある。だけど今の遥香はそれ以上に、梨華が勇気を出してお母さんに自分の気持ちを伝え、認めさせたということに感激していた。
それに、これからは梨華と仲良くしても、水族館に呼んでも大丈夫なんだ…遥香にはそれが何よりも嬉しかった。
「ああ。西島さんっていったら、関急グループのご令嬢さんでしょう?」
夕食中に梨華のことをお父さんに話すと、すぐにそんな返事がかえってきた。それを聞いた遥香は、口の中に入っていたご飯を思わずふき出しそうになってしまう。
関急グループといったら、すごく巨大な企業グループだ。東京周辺を走っている私鉄を中心に、バスやフェリー、不動産、地方のリゾート開発などといった、いろんな事業を行っている。ほとんど東京に行ったことがない遥香でさえ、その名前は何度となく耳に入っているくらいだ。お金持ちのお嬢様に違いないとは思っていたけど、真実は遥香の予想を上回りすぎていた。
「ほら、去年から丘の上ですごく大きなお屋敷の建設工事があっただろう?あそこにご両親と引っ越ししてきたんだよ」
「ああ、そうなんだ」
一年以上も前から丘のてっぺんの近くで始まった工事は、普通の一軒家とは思えないスケールの大きさから町中で話題になっていた。完成した家は外国の映画に出てくるような真っ白でキレイなお屋敷だったけれど、月浦の古い街並みの中では目立ちすぎているようでもあった。
「でもさ、どうしてそんな大きな会社の人たちが月浦に引っ越してきたの?」
「鈴浜にもうすぐ『グランドオーシャンシティ』がオープンするからだよ。あそこの家のご主人が施設の総合支配人をつとめるんだってさ。創業者の家系とはいえまだ若いから、修行っていう意味でまかされたんじゃないのかなあ」
その施設の名前を聞いて、遥香はどきりとした。
「グランドオーシャンシティ」というのは、鈴浜に新しくオープンするリゾート施設の名前だ。
海岸に関急グループのフェリーが停まるフェリーポートを建設し、その周辺にショッピングモールのついた複合ホテルや高級マンションなどを建てていく。つまり月浦のように小さい港町だった鈴浜を、関急グループが観光地につくりかえてしまったというわけだった。それはさびれていく町の活性化を望んでいる自治体や県も巻き込むほどの、すごく大きなものだったようだ。
お父さんの話では施設の建物もほとんど完成していて、これから来年のオープンに向けて本格的な準備が始まるところらしい。だから梨華もこのタイミングで、両親と一緒に月浦に引っ越してきたのだろう。
「でもさ、隣町っていってもグランドオーシャンシティのある港と月浦はけっこう離れてるよね。どうして梨華ちゃんたちはここに住むことにしたんだろう?」
「町と一体の事業とはいっても、鈴浜には昔から守られてきた街並みや自然が壊されるって理由で反対していた人も多いからね。中には西島さん一家を恨んでいるって人もいるだろうし、娘さんが学校でいじめられる心配だってある。そんな人間関係の問題をさけるために、わざわざ離れている月浦に住むことに決めたんじゃないかな」
「そっか。確かにそうかもしれないね」
その時遥香の頭の中には、梨華が今日のうちに何度も見せた暗い表情やその時の言葉なんかが、はっきりとよみがえってきた。
(そのうちにきっと、私のことを嫌いになると思うから)
(イルカさんも私のことが嫌いなんだね)
鈴浜の人たちがこのリゾート開発に対して向けた言葉のいくつかは、梨華の耳にも届いていたにちがいない。だから月浦に住む遥香や海の生き物たちも海を汚した自分たちをうらみ、嫌いになると信じこんでいるんだろう。月浦に住む人の中にも「鈴浜の工事のせいで海が汚れた」と渋い顔をする人が少なくはない。
何より鈴浜の埋め立て工事といえば、月浦ではミノリイシの絶滅を招いた原因として悪名高い存在だった。それを思うと、遥香も胸がざわざわして落ち着かなくなるほどだ。
メリーが梨華にひどい言葉を叫んだ理由もそのためだったのだろう。それがスナメリ独特の感覚によるものなのか、それとも乙姫様からもらった力の一つなのかは分からないけれど、メリーはすぐに梨華とミノリイシ絶滅との関係に気がついたらしい。竜宮に暮らすメリーは、彼女を自分たちの世界をおびやかす敵の一人みたいに思ったのかもしれない。
だけどそれを知った遥香は梨華を嫌いになるどころか、ますますかわいそうになった。
(もしかしたら誰より梨華ちゃんのことを嫌いになってるのは、梨華ちゃん自身なのかもしれない。だって梨華ちゃんは、あんなに海の動物のことが好きなんだから)
自分の家族がかかわっている工事のせいで大好きな海が汚れてしまって、なのに自分たちはその海を見下ろす丘の上のお屋敷で暮らしているというのは、梨華の性格を考えたらすごくつらいことかもしれない。
(でも…港の工事もリゾート施設の建設もみんな大人がはじめたことで、梨華ちゃんは何も悪くないはずだ。だから私が梨華ちゃんと仲良くしたり、水族館に案内したりするのも全然いけないことじゃないんだ)
遥香はそう思い、これからも梨華と仲良くしていく決意を固めることができた。
だけど…残念なことに、遥香のその決意がすぐに実ることはなかった。
それから三日後の放課後。遥香はマリンパークのバックヤードでせっせと水槽の掃除にはげんでいた。今日は一週間に一回の、水槽を本格的に掃除する日だったのだ。
「っていうかさ、なんで俺まで手伝わないといけないんだよ」
遥香の横で裕一が、水槽のガラスをみがきながら文句を言う。マリンパークとは無関係なはずなのに、呼び出されて手伝いをさせられているのが納得いかないらしい。
「どうせ今日もぼんやり船を見てるつもりだったんでしょう?こっちは元山さんがまた港に行っちゃって大変なんだもん。ちょっとくらいは手伝ってよ」
だけど遥香にきっぱりと言い返されてしまって、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それにしても、すごいことになってるよな。今日は港にテレビが来てるんだろ?」
「珍しい魚があんなに港にあがってくるんだもん。取材くらい来たっておかしくないよ」
遥香の言葉に裕一が大きくうなずいた。
最近はなぜか地元の漁師さんも知らないほど珍しい魚が網にかかったり発見されることが多く、そのたびに専門家である元山さんが港に呼び出されている。近ごろ元山さんが朝のマリンパークに来れないのはそのためだった。
「三日前はタコブネ、昨日はフリソデウオ、それに今朝も何かあがったらしいな。遥香、元山さんから聞いてる?」
「うん。ラブカ。それも三匹もだって」
裕一がぽかんと口を開けて絶句する。ラブカというのは深海に住むサメの仲間で、ふだんなら一匹だって網にかかることのない魚のはずだ。それが一回の漁で三匹もとれるなんて、異常事態としか言いようがない。
「でもさ…あんな怖い顔の魚が海から出てきたら、すごい迫力なんだろうなあ」
裕一は自分が掃除をしている水槽の中をのぞきこみながら、遠くを見るような眼差しでつぶやいた。その場面を想像しているのか、口元がにんまりとゆるんでいる。そんな裕一の横顔を見ているうちに、遥香はなんだか彼のことが気の毒に思えてきた。
裕一の家は昔から漁師をしていた家系で、彼もお父さんやおじいちゃんの運転する船に乗せてもらうことが多かった。そんな彼が船に乗らなくなり、夢だった父親や祖父のような漁師になることをあきらめてから一年以上になる。
それでも心の中では海への憧れが強く残っているらしく、毎朝のように港がよく見える防波堤に座って漁船が出たり入ったりするのをながめていた。ほとんど遅刻ギリギリ、または思いっきり遅刻してしまうのも、遅い時間に戻ってくる漁船を見届けようとするからだった。
「ねえ、よけいなお世話かもしれないけどさ…思いきってお母さんに打ち明けてみたら?本当はまだ、漁師になりたいって思ってるんでしょう?」
遥香の言葉を聞いた裕一の顔から笑顔が消え、ひどく深刻な表情になる。
「俺もそうしたいんだけど、やっぱり母さんには言いだしにくいんだよ。それだけでショックを受けるんじゃないかって思ってさ」
しばらく黙りこんだあと、裕一は沈んだ声でそう言った。聞いただけでも申しわけなかった気がして、遥香は「ごめん」と謝る。だけど「大丈夫」とこたえてふり返った裕一はもう、いつもの笑顔に戻っていた。
裕一の協力のおかげで掃除をスムーズに終わらせることができたけれど、遥香にはまだ解決しなければいけないことが起こっていた。
「はあ。キィちゃんはどうしようかなあ」
「キィちゃん?」
「そう。白点病で別の水槽に移していたキイロハギのことなの。一匹だけにして面倒を見てたら愛着がわいて、名前までつけちゃったんだよね」
もちろんそれは梨華が発見した、あのキイロハギのことだった。他の二匹はもう展示用の水槽に移っていたけど、別の水槽で薬浴をさせていたこの子だけはまだ時間がかかりそうだった。だけど明日にはここに新しいお魚を入れることになっていたので、その前にこの水槽もあけておきたかったのだ。
「はあ。できたら梨華ちゃんにあずかってほしかったんだけどなあ」
ため息まじりにつぶやくと、裕一がびっくりした顔で遥香を見た。
「え?それって西島のことだよな。西島って、遥香と仲良かったのか?」
「たぶん…いっぱいお話したし。転入してきたその日だけだったけど」
そもそもこのキイロハギの病気に最初に気が付いたのは梨華だった。魚好きで知識もある梨華にあずかってもらえたら一番嬉しいと思うけど、今の梨華は遥香にとってだいぶ遠い存在になってしまっていた。
それは遥香が梨華と仲良くしようと決めた、まさにその次の日から始まった。親しげに話しかけた遥香を、梨華が無視するようになってしまったのだ。
今の梨華はマリンパークに来なくなったどころか、学校でもほとんど口をきくことはない。かと言って梨華に別の友達ができたというわけでもなく、彼女は休み時間も一人で席についてじっとしているだけだった。
遥香はあきらめずに何度も声をかけてみたけれど、梨華は何も言わないか、「ごめんなさい」と小さい声でつぶやくだけ。理由がありそうだったけど、それを聞くこともできないほど梨華の態度はかたくなだった。このお掃除のこともいちおう伝えてはみたけれど、やっぱり梨華は現れなかった。
何か理由があるのだろうか?あるとしたらあのお母さんっぽいけど…なんて色々考えてみるけれど、今の遥香にはどうにもならないことだった。
だけど、その時だった。
「おい遥香…噂をすれば、だぜ」
裕一の言葉に、遥香ははっとしてふり返った。
裕一は再び目の前の水槽をのぞきこんでいる。遥香も近づいて見下ろしてみると、ゆらめく水面の下のアクリルガラスの先に、ぽつんとたたずんでいる女の子の姿が見えた。月浦の町では浮いてしまうフリルの付いたお洋服。軽くウェーブのかかった長い髪。まぎれもなく梨華だった。
しかも、なぜか梨華はランドセルを背負ったままだった。学校が終わったあと、家に帰らないでここに来たのだろうか。放課後の寄り道は禁止されていると言っていたのに。
遥香は展示室に急いだ。駆けてくる遥香に気がついた梨華は、ためらいながらも遥香に話しかけてくる。二人が顔を合わせて会話をするのも三日ぶりだ。
「叶さん。水槽のお掃除って、もう終わっちゃった?」
遥香がうなずくと、梨華は残念そうに目をふせる。そして「ごめんね」と言って深く頭を下げた。
「気にしなくても良いって!ここに来てくれただけでも嬉しいよ」
「本当?良かった。今まで…ごめんね」
そう言って、梨華はまたすぐに頭を下げた。どうしたんだろう、今日の梨華は前にもまして雰囲気が暗い。
「どうしたの?何かあった?」
「うん。ごめんね…少し前に水族館に来てたんだけど、勝手にバックヤードに入って良いのか分からなくて、しばらく展示室をウロウロしていたの。そしたら途中にアヤイロミノリイシの水槽があったから…」
この話を聞いた瞬間、遥香は(まずい!)とあせった。梨華の立場と性格を考えたら、あの展示は見ないほうが良かったはずだ。
「この前、家でお父さんたちが話しているの聞いちゃったんだ。地元の人が『鈴浜の開発のせいで、月浦からミノリイシが消えてしまった』って怒ってたって。だけど私、まさか絶滅しちゃったとまでは思ってなかったから、展示の解説を読んですごくショックだったの。水槽の中のミノリイシはすごくキレイだったし、私の家族のやっていることで、こんなに素敵なサンゴがいなくなっちゃったのか、って思うと申しわけなくて」
震える声で話しているうちに、梨華の目には涙が浮かびはじめていた。
「大丈夫だよ!梨華ちゃんは何もしてないんだから悪くないし。ミノリイシだって私ががんばって、自然に戻せるくらい立派に育ててみせるから!」
「でもさ、残っているミノリイシってあの水槽にいるだけなんでしょう?悪いけど、それを自然にかえすなんてすごく難しいことなんじゃないの?」
梨華の言葉に、遥香は「う」とうなるだけで何も言い返せなかった。
「ごめんね。私たちのせいで…」
四回目の「ごめんね」をつぶやいた梨華は、手のひらをぎゅっとにぎりしめる。
「私、ママのことが大嫌い」
涙と一緒に梨華の口からこぼれた言葉を聞いて、遥香は困惑した。
「どうしたの?急に」
「実はね、今まで叶さんとお話できなかったのは、ママから『叶さんと仲良くするのも、水族館に行くのもやめなさい』って言われていたからなの。私がお魚の病気を見つけたのが気に入らなかったみたい」
それを聞いた遥香は、三日前に自分がお母さんにかけた言葉を思い出した。お魚の病気を見つけるなんてすごいことだから、絶対にほめられると思ったのに…だけど梨華のお母さんにとっては、それは逆効果だったらしい。
「それじゃあ、今までしゃべれなかったのは私のせいだったんだ。ごめんね梨華ちゃん」
「ううん。一番悪いのはわからずやのママだから」
すると急に、梨華の表情がけわしくなった。
「私のママ、家の中ではすごく厳しくておっかないのに、外ではいつもニコニコ笑っているの。そうするのが正しいんだって思っているのよ。だからいつも私に言うんだ。『外ではお人形みたいにしていなさい。勉強やスポーツができることも隠していなさい。そうして誰からも可愛く見られるようにふるまって、いつでもお上品に、清潔にしていなさい』って。毎日のようにくり返すのよ。そうしたらお掃除も料理もお魚の世話もしなくていい家にお嫁に行けるんだって。自分がそうしてお父さんと結婚できたからって、私にも同じことをさせたいみたいなの」
今までおさえこんでいた気持ちがあふれて来るかのように、しゃべり続ける梨華の瞳からは涙がどっと流れ出した。
「だけどね、私…心の中ではそういうのイヤだなってずっと思っていたの。そしてこの月浦に来てから、ますますその気持ちが大きくなっている気がするの。どうしてママは家の中で自分たちのことばっかり考えているんだろう?外では自分たちのせいで海が汚れてサンゴが絶滅しちゃったっていうのに、町の景色が変わってしまったっていうのに、なんでそういうことに無関心でいられるんだろう?って」
自分の思いを吐き出す梨華の姿を、遥香は心配しながら見守るだけだった。
「でも私、もう決めたんだ。あの人のことはもう信じたりしないって。だから言いつけを破って水族館に来たんだけど、水槽のアヤイロミノリイシを見てますますそう思ったわ」
きっぱりとした梨華の声には強い決意がこもっている。だけどそんな梨華に対して、遥香はなんてこたえたら良いのか分からなかった。
賛成して応援するべきか…と最初は思ったけれど、なんだかそれだけじゃいけないような気もする。すごくモヤモヤした気分だった。
「あのさ、そこまで言わなくてもいいんじゃないか?」
二人の間に流れる沈黙を破ったのは、裕一の声だった。梨華はすぐに、遥香の後ろに立つ裕一をきっとにらみつけた。
「どうして?きみも今の話聞いててくれたんでしょう?だったら変だと思わない?」
「もちろん思ったよ。それに俺の家は漁師だったから、海を汚してるのに平気でいるなんて話は本当だったら許せない。だから俺は、西島の考えが間違っているとは言ってない。ただ『そこまで言わなくてもいいんじゃないか?』と言っただけだよ」
「どういうこと?」
「どんなに考えがねじくれてても、その人は西島のお母さんなんだろう?それなら西島が『信じない』とか言って目をそむけるだけじゃダメじゃないのか、ってことだよ」
真剣に話しかける裕一の横顔を見て、遥香はさっきの彼の話を思い出す。そうしたら、裕一の言いたいことが分かった気がした。
「分かった!梨華ちゃん…私についてきて」
「え?叶さん?」
今度は遥香が急に歩き出したので、梨華はますます混乱する。だけど遥香はバックヤードへ続くドアにすたすたと進んでしまったので、あわててそのあとに続いた。
こうして遥香が梨華をつれてきたのは、あのキイロハギの水槽の前だった。
「あ!これって、あの時のキイロハギだよね?」
「そう!キィちゃんって名前をつけたから、梨華ちゃんもそう呼んでね」
梨華は友達と再会したみたいに瞳を輝かせたけれど、遥香がここに連れてきた意味はまだ分からなかった。遥香を見る梨華の頭の上には「?」マークが浮かんでいるようだ。
「梨華ちゃんにお願いがあるの。このキィちゃんを、家であずかってくれないかな?」
「えっ?」
「急にごめんね。実は明日までに水槽をあけておきたいんだけど、キィちゃんはまだ白点病がちゃんと治ってなくて、展示の水槽に移せないの。だけど私の家には器具も水槽もないから、梨華ちゃんにお願いできたら最高だなって前から思ってたんだ」
「そうなんだ。確かに私の家には前に使ってた水槽も器材もいっぱいあるし、環境的にはこの子をあずかるのは簡単だと思う。でも…病気のお魚をつれて帰ったら、あのママは絶対に怒って『返してきなさい』って言うと思う」
また怖い顔になってつぶやく梨華の肩を、遥香がぽん!とたたいた。
「だからこそ、ますますお願いしようって決心したの!この機会に、お母さんとちゃんと向き合ってみない?自分の思ってることをちゃんと伝えてさ」
それを聞いた梨華がはっと目を見開いて、遥香と裕一を順番に見た。二人の言葉の意味に、これで気が付いたらしい。
それでも梨華は迷い、しばらくキィちゃんを見つめたまま黙りこんでいた。遥香と裕一、そしてキィちゃんも次の言葉をドキドキしながら待つ。
やがて梨華はまっすぐ遥香を見つめ、自分の決断を伝えた。
「分かった…私、ママにお願いしてみる。ちゃんと自分の気持ちを伝えて」
「本当?ありがとう!」
それからすぐに、梨華は自分のポケットから小学生用の携帯電話を取り出した。
「さっきから何度もママから電話がかかってたんだけど、ずっと無視してたんだ」
梨華は二人に向かってイタズラを打ち明けるみたいに笑い、携帯電話を耳にあてた。
「…もしもし、ママ?」
それから梨華の戦いが始まった。
電話に出た梨華のお母さんはやっぱりすごく怒っていて、どなっている声が遥香たちの耳にも聞こえてくるほどだった。梨華は何度も謝ったけれど、落ち付いてきたところでおそるおそるキイロハギのことをお願いした。それは小さくなりかけていた火に油を注ぐようなものだったらしく、お母さんの声がふたたびヒートアップするのが遥香たちにもはっきり分かった。
だけど、梨華は負けなかった。お母さんにどんなに強く怒られても、何を言われても、お願いすることをやめなかったのだ。お母さんの前でずっとオドオドしていた梨華を見ている遥香には、彼女がどれだけがんばっているのかがよく分かる。だけど今の遥香には、心の中で(がんばれ!)と叫んで応援することしかできなかった。
激しい言葉のやり取りが一〇分近く続いたあと、梨華は携帯を切ってポケットにしまった。遥香と裕一の方にふり返り、満面の笑顔を浮かべる。
「やったよ叶さん。キィちゃんをつれてきても良いって。ママが分かってくれたの!」
「本当?よかったあ!」
それを聞いた遥香と裕一も笑顔になり、梨華の前にかけよった。
もちろんキィちゃんをあずかってもらえて助かったというのもある。だけど今の遥香はそれ以上に、梨華が勇気を出してお母さんに自分の気持ちを伝え、認めさせたということに感激していた。
それに、これからは梨華と仲良くしても、水族館に呼んでも大丈夫なんだ…遥香にはそれが何よりも嬉しかった。
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