1 / 44
第1章 雨とマスクとクリームパン
4月11日(水) 雨のち晴れ 1
しおりを挟む
雨の降る日、私はマスクをつけて外へ出る。
濡れた街は夢の中のようにぼんやりとかすみ、騒がしい雑音は雨音に消えていく。
大人たちは水たまりを避けながら忙しそうに通り過ぎ、傘の陰でうつむく私の顔など、きっと誰も見ていない。
歩いて十分のところにある、古い市立図書館。
私は、雨が降るとここに来る。淡々と繰り返される毎日を、ただ消化するために。
はじめて来たときは周りの視線が気になって、すごくどきどきした。学校を休んでいる中学生がこんなところにいたら、誰かに怒られるんじゃないかって。
だけど私は怒られなかった。声をかけられることもなかった。時々ちくりと、冷たい視線を感じることはあったけど、そういうときは読んでいる本に集中する。物語の世界に浸っているときだけは、周りの視線も忘れられるから。
ただマスクだけは、どうしても手放すことができない。
携帯電話の時計を見ると、午後一時を過ぎていた。好きな本を読んでいる間は、時が経つのが早いから楽だ。
そろそろ帰ろう。
私は読みかけの本をぱたんと閉じる。これ、借りていこう。それと気になっている本も数冊一緒に。
カウンターで貸出手続きをして、外へ出る。雨はまだしとしとと降り続いていた。私はマスクを鼻の上まで押し上げ、水色の傘を開く。そしてスニーカーを履いた重たい足で、雨の中へ一歩踏み出す。
図書館に来た日は、いつもこの時間にここを出る。あんまり遅くなると、学校帰りの友達に会ってしまうから、それだけは避けたかったのだ。
いまの時間、お父さんもお母さんも仕事に出ていて、家に帰っても誰もいない。たいしてお腹はすいていないけど、朝お母さんが用意してくれた昼食を食べ、また本を読んだり勉強をしたりして、ひとりで時間をつぶす。
今日もいつもと同じように、そうやって時をやり過ごすつもりだった。
生ぬるい風に乗って、一枚の花びらが舞い落ちた。薄紅色の桜の花びらだ。
立ち止まり、傘を少しだけ傾けた。私のそばを、スーツを着た大人が通り過ぎる。ちらりと顔を見られた気がして、私はまた傘で顔を隠す。
桜、咲いてるんだ。
学校に行かなくなって二か月ちょっと。季節は私を置いてきぼりにしたまま、春になっていた。
「ねぇ、あなた?」
突然声をかけられて、びくっとする。
恐る恐る顔を向けると、知らないおばさんが私の顔をじっと見ている。
『ねぇ、あなた。今日、学校は?』
次の言葉を想像して、身体が震えた。
私は傘で顔を隠すと、おばさんから逃げるように走り出す。
「あ、ちょっと待って!」
おばさんが私を呼んでいる。
背中を見られている気がして、目の前の角を曲がった。知らない道だったけど何度か曲がって、長い坂道を駆け上がった。
雨が傘を叩く。すれ違うひとがみんな、私を見ている気がする。
私は逃げる。もっと逃げる。
息を切らして走った。マスクの中が息苦しい。水たまりが跳ねて、スニーカーに水が染み込む。肩にかけたトートバッグが濡れていることに気づき、それを胸に抱え込む。
気づくと坂道の一番上にいた。息をはきながら振り返ると、そこには誰もいなかった。
いるはずなんてないんだ。あのおばさんがこんなところまで追いかけてくるはずはないし、もしかしたらただ道を聞かれただけなのかもしれない。
片手で傘をぎゅっと握り、もう片方の手でバッグを抱きしめる。本が濡れていないか中を確かめようとしたとき、ざあっと大粒の雨が襲い掛かるように降ってきた。
やだ……なにこれ。
周りをきょろきょろと見回す。あたりは静かな住宅地だ。少し先に一本だけ大きな桜の木が立っていて、そのそばに小さなお店のようなものが見えた。
とりあえずそこまで走って、軒下に駆け込む。あっという間にあたりは真っ白くけむり、ざわざわと強い風が桜の木を不気味に揺らした。
どうしよう、これじゃ帰れない。
急に不安が押し寄せる。
雨の音が激しく屋根を叩いた。みんなどこへ消えてしまったのか、目の前の道を歩くひとも、走る車もいない。
それにここはどこなのか。あわてて走っているうちに、知らない所に迷い込んでしまった。家からはそんなに離れていないはずだけど。
そのとき私の後ろで、コツコツと音がした。驚いて振り返ると、中から女のひとが、窓を叩いて私を見ている。そして口をぱくぱくと開いて、にこっと笑った。
しかし私は首をかしげる。
私たちの間をさえぎる窓ガラスと激しく降る雨の音で、そのひとが何と言っているのか聞き取れなかった。
呆然としたまま、あらためて周りを見る。
ここは本当にお店だろうか。カントリー風の可愛らしい木目のドアが入口のようだけど、普通の家と間違えて通り過ぎてしまいそうだ。
唯一お店らしく立てかけられた看板には、『パンの店 さくら やってます』と手書きの文字と、パンのイラストが描かれている。
もう一度窓を見たら、女のひとはいなくなっていた。代わりにベルがカランっと鳴って、私の横でドアが開かれる。
「ねぇ、そこじゃ濡れちゃうでしょう? 雨がやむまで中に入ってたら?」
さっきのひとが私に言う。歳は私のお母さんくらいか、それとももうちょっと若いかも。髪はショートで、身体は小柄。細身のTシャツにジーンズをはいて、その上に深い緑色のエプロンをつけている。
私はとっさに首を横に振った。中に入ったら、なにか買わなきゃいけないと思ったからだ。私は出かけるとき、お金を持っていない。
けれど女のひとはにこにこと笑って、私の背中にそっと触れた。
「遠慮しないで。お客さんいなくて、寂しかったんだ」
その声はやさしくて、背中に触れた手はとてもあたたかかった。
濡れた街は夢の中のようにぼんやりとかすみ、騒がしい雑音は雨音に消えていく。
大人たちは水たまりを避けながら忙しそうに通り過ぎ、傘の陰でうつむく私の顔など、きっと誰も見ていない。
歩いて十分のところにある、古い市立図書館。
私は、雨が降るとここに来る。淡々と繰り返される毎日を、ただ消化するために。
はじめて来たときは周りの視線が気になって、すごくどきどきした。学校を休んでいる中学生がこんなところにいたら、誰かに怒られるんじゃないかって。
だけど私は怒られなかった。声をかけられることもなかった。時々ちくりと、冷たい視線を感じることはあったけど、そういうときは読んでいる本に集中する。物語の世界に浸っているときだけは、周りの視線も忘れられるから。
ただマスクだけは、どうしても手放すことができない。
携帯電話の時計を見ると、午後一時を過ぎていた。好きな本を読んでいる間は、時が経つのが早いから楽だ。
そろそろ帰ろう。
私は読みかけの本をぱたんと閉じる。これ、借りていこう。それと気になっている本も数冊一緒に。
カウンターで貸出手続きをして、外へ出る。雨はまだしとしとと降り続いていた。私はマスクを鼻の上まで押し上げ、水色の傘を開く。そしてスニーカーを履いた重たい足で、雨の中へ一歩踏み出す。
図書館に来た日は、いつもこの時間にここを出る。あんまり遅くなると、学校帰りの友達に会ってしまうから、それだけは避けたかったのだ。
いまの時間、お父さんもお母さんも仕事に出ていて、家に帰っても誰もいない。たいしてお腹はすいていないけど、朝お母さんが用意してくれた昼食を食べ、また本を読んだり勉強をしたりして、ひとりで時間をつぶす。
今日もいつもと同じように、そうやって時をやり過ごすつもりだった。
生ぬるい風に乗って、一枚の花びらが舞い落ちた。薄紅色の桜の花びらだ。
立ち止まり、傘を少しだけ傾けた。私のそばを、スーツを着た大人が通り過ぎる。ちらりと顔を見られた気がして、私はまた傘で顔を隠す。
桜、咲いてるんだ。
学校に行かなくなって二か月ちょっと。季節は私を置いてきぼりにしたまま、春になっていた。
「ねぇ、あなた?」
突然声をかけられて、びくっとする。
恐る恐る顔を向けると、知らないおばさんが私の顔をじっと見ている。
『ねぇ、あなた。今日、学校は?』
次の言葉を想像して、身体が震えた。
私は傘で顔を隠すと、おばさんから逃げるように走り出す。
「あ、ちょっと待って!」
おばさんが私を呼んでいる。
背中を見られている気がして、目の前の角を曲がった。知らない道だったけど何度か曲がって、長い坂道を駆け上がった。
雨が傘を叩く。すれ違うひとがみんな、私を見ている気がする。
私は逃げる。もっと逃げる。
息を切らして走った。マスクの中が息苦しい。水たまりが跳ねて、スニーカーに水が染み込む。肩にかけたトートバッグが濡れていることに気づき、それを胸に抱え込む。
気づくと坂道の一番上にいた。息をはきながら振り返ると、そこには誰もいなかった。
いるはずなんてないんだ。あのおばさんがこんなところまで追いかけてくるはずはないし、もしかしたらただ道を聞かれただけなのかもしれない。
片手で傘をぎゅっと握り、もう片方の手でバッグを抱きしめる。本が濡れていないか中を確かめようとしたとき、ざあっと大粒の雨が襲い掛かるように降ってきた。
やだ……なにこれ。
周りをきょろきょろと見回す。あたりは静かな住宅地だ。少し先に一本だけ大きな桜の木が立っていて、そのそばに小さなお店のようなものが見えた。
とりあえずそこまで走って、軒下に駆け込む。あっという間にあたりは真っ白くけむり、ざわざわと強い風が桜の木を不気味に揺らした。
どうしよう、これじゃ帰れない。
急に不安が押し寄せる。
雨の音が激しく屋根を叩いた。みんなどこへ消えてしまったのか、目の前の道を歩くひとも、走る車もいない。
それにここはどこなのか。あわてて走っているうちに、知らない所に迷い込んでしまった。家からはそんなに離れていないはずだけど。
そのとき私の後ろで、コツコツと音がした。驚いて振り返ると、中から女のひとが、窓を叩いて私を見ている。そして口をぱくぱくと開いて、にこっと笑った。
しかし私は首をかしげる。
私たちの間をさえぎる窓ガラスと激しく降る雨の音で、そのひとが何と言っているのか聞き取れなかった。
呆然としたまま、あらためて周りを見る。
ここは本当にお店だろうか。カントリー風の可愛らしい木目のドアが入口のようだけど、普通の家と間違えて通り過ぎてしまいそうだ。
唯一お店らしく立てかけられた看板には、『パンの店 さくら やってます』と手書きの文字と、パンのイラストが描かれている。
もう一度窓を見たら、女のひとはいなくなっていた。代わりにベルがカランっと鳴って、私の横でドアが開かれる。
「ねぇ、そこじゃ濡れちゃうでしょう? 雨がやむまで中に入ってたら?」
さっきのひとが私に言う。歳は私のお母さんくらいか、それとももうちょっと若いかも。髪はショートで、身体は小柄。細身のTシャツにジーンズをはいて、その上に深い緑色のエプロンをつけている。
私はとっさに首を横に振った。中に入ったら、なにか買わなきゃいけないと思ったからだ。私は出かけるとき、お金を持っていない。
けれど女のひとはにこにこと笑って、私の背中にそっと触れた。
「遠慮しないで。お客さんいなくて、寂しかったんだ」
その声はやさしくて、背中に触れた手はとてもあたたかかった。
11
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる