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初めてできた友だち
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最後のガイダンスが終わった。
学生たちが一斉に起ち上がり、仲間と楽しそうに話しながら教室から出て行く。
もう今日は何も予定が無い。明日から本格的に授業が始まるので、修斗さんに注意事項を書き込んで貰った履修登録の手引きを参考に、出席する授業を決めなくてはならない。
取りあえず1回でも出席してみて、それから取る授業を決めていこうと思った。でも、書き込んで貰ったこの履修登録の手引きがあるので随分と楽になりそうだ。
ゆっくりとリュックにクリアファイルや筆記用具などの私物を入れる。もう教室内に残っている人もちらほらといるくらいだ。
立ち上がり出口に向かおうとすると、すぐ後ろの席で声がした。
「……うーん。どうやって授業を組み合わせたら良いんだろう? ぜんっぜんわからないよ」
何気なく見ると、机に広げた履修登録の手引きを前に、ぶつぶつと呟いているひとりの女の子がいた。
周りには誰もいない。わたしと同じで、まだ知り合いや友だちがいないのだろうか。
女の子はガクッと頭を垂れると、大きな溜め息をついた。履修登録を前にして途方に暮れているようだ。
その気持ちはよくわかった。ページにずらっと羅列されている授業は、その組み合わせが無限にあるように思えてしまう。
頭を抱えている女の子が、また溜め息をついた。立ち止まって自分を見ているわたしに気づいた様子は無い。普段ならわたしも黙って立ち去っていただろう。でも、今の自分には修斗さんに書き込んで貰った履修登録の手引きがある。もしかしたら、役に立てるかも知れない。
勇気を出して話しかけてみた。
「……あのー」
女の子はこっちを見ない。わたしに話しかけられたことに気づいていないのか。
「あの、履修登録大変ですよね」
不意に女の子が顔を上げ、素っ頓狂な声を上げた。
「は! へ?」
大きく目を見開いてわたしを見つめる女の子は、丸顔にメガネを掛けた小動物系の可愛い顔で、大人しそうな子に見えた。
「いえ、わたしも履修登録は苦労しているので」
「……あ! そうなんですか!」
女の子の顔がみるみると真っ赤に染まっていく。
耳まで真っ赤になった女の子の様子が可愛い。
「すいません! 私、なんかひとりごと言ってました?」
「いえいえ。あの……これ、よかったら参考にしてみてください」
わたしは履修登録の冊子を差し出した。
「え!? これって……」
「先輩の人が、取りやすい授業を教えくれたんです」
厳密に言うと、修斗さんは先輩でも何でもないのだが説明のしようが無い。
女の子は、ぱらぱらとページを捲ると感心したような声を上げる。
「ええー。凄いですね、これ」
冊子には、科目ごとに先生の名と授業の説明が細かい字で印刷されているのだが、その空欄にびっしりと修斗さんが先生の特徴や授業の取りやすさ、課題の多さ、テストの有無などを書き込んでくれていた。おまけに、★の数で評価までしてある。
もちろん全ての授業まで網羅はしていないが、それでも凄い情報量だ。
でもいきなりこんな物を見せられても、この子だってゆっくり検討をする時間が欲しいだろう。
「そうだ。これを今からコピーしに行きません? そうしたら、あなたもじっくり検討できるだろうし」
「え! 良いんですか?」
「いいです、いいです」
「有り難うございます! でも、ご迷惑じゃないですか?」
「大丈夫ですよ!」
ふたりで教室を出て、図書館に向かう。図書館なら何回か行ったことがあるので、位置はわかる。
並んで歩きながら、女の子が先に自己紹介をしてくれた。
「あの……私、花菱結菜と言います」
花菱さんは、淡い水色のワンピースに薄手のカーディガンを合わせていて、女の子らしい可愛い格好だ。
「わたしは鮎坂玲です。1年浪人しています」
もし知り合いが出来たら、浪人したことは一番初めに隠さずに言おうと決めていた。変に隠すと、後で知られたときに気まずくなったりしたら嫌だと思ったからだ。
だからすんなりと言えてほっとした。
浪人したことを打ち明けても、花菱さんは別に気にしている様子もない。
図書館入り口でカードリーダーに学生証カードを翳すと、開いたゲートを潜った。彼女は図書館に来るのが初めてだったらしく、ゲートがあるのに驚いていた。
1階ロビーにあったコピー機でわたしの履修登録手引きをコピーする。
図書館を出て、何となくふたりで出口に向かって歩いていると構内カフェが見えてきた。
急に花菱さんは立ち止まると、視線を地面に落とし、もじもじと何かを言いたそうにしている。
「あの! そこで何か飲みませんか? コピーをさせて貰ったお礼に、奢らせて下さい!」
みるみるうちに顔が真っ赤になってくる。花菱さんなりに勇気を出してわたしを誘ってくれたんだろう。
「ええ! もちろん。でも、気を遣わないで下さいね」
花菱さんの顔にぱあっと笑顔が広がった。
初めは遠慮したが、花菱さんのどうしても奢らせてくれという申し出を、有り難く受けることにした。オープンテラスがすいていたので、外の席にいく。
花菱さんはここに来たのは初めてなのか、きょろきょろと辺りを見回して落ち着かない様子だ。もちろん、わたしも初めてここに来たので、その気持ちがよくわかる。
カフェの建物の周りには木が生い茂っていて、鳥の囀る声が聞こえる。前の道路を歩く学生たちの数も少なく、午後の日差しは柔らかで、このまま昼寝でもしたくなるようなのんびりとした時間が流れている。
ふたりでカフェラテを前にして、話のきっかけが掴めずにただ何度もストローを口に持って行く。
そのうちにお互いにカップの中身が無くなって、ずずーと間の抜けた情けない音が出てしまう。
「あ、あの!」
花菱さんが突然、思い詰めたように大きな声を出した。
「はい!」
わたしもつられて声が大きくなる。
よほどふたりの声が大きかったのか、遠く離れた席にいた学生がこっちを見る。それに気づいた花菱さんの耳から徐々に赤くなっていく。
それからまた沈黙。ストローを口に付けてみても、氷が融けた水しかない。
……何かわたしから話さないと。
「……あの、花菱さんは、おうちはどちらなんですか?」
「はい! 埼玉です。実家から通っています」
わたしは、実家は群馬だけれど今は東京に下宿していることを話す。
「群馬って言うと、ここから行くとしたら高崎線ですか?」
「そうです」
「同じです! 私は浦和までですけど」
使う路線が一緒で、なんか少しだけお互い親近感を覚えたような気がする。
固かった表情が少しだけ和らいだ花菱さんが、コピーに目を落としながら訊いた。
「もう、取る授業とか決まっているんですか?」
「いえ、まだまだ。全然決めてないです」
修斗さんの注意書きを参考に多少は興味のある授業の説明を読んではみたが、まだ何を取ったら良いのか全くわからない。
「まずは、絶対に取らなくてはならない必修科目が優先ですよね?」
わたしは大きく頷く。
花菱さんが言うとおり、まずは1年次で必修の専門科目を時間割に埋め込み、次にこれも必修の語学、あとは自分の取りたい科目を組み合わせる。それと厄介なのは必修科目には人数制限があり、登録人数が多い授業は抽選が行われて、抽選に漏れれば希望の授業が受けられない場合があるということだ。そうなった場合は、後期に必ずそれを取らなくてはならない。
体育実技だと、自分の道具が必要な授業もある。よっぽどやりたかったり経験のある競技なら別だが、そうでないのならなるべく道具など揃えなくても良い授業にしたい。必修科目の抽選次第では、また初めから時間割の組み立てをしなくてはならなくなる。
同じ名前の授業なのに担当の先生が違うものが10個くらい並んでいたりするし、曜日や時間等、最適な組み合わせを考えるとなるともうそれこそ無限にあるように思えてしまう。
それと単位は早めに取っておくに越したことは無いが、あまりに詰め込みすぎてもテスト期間や課題提出に地獄を見ることになってしまう。そこら辺の注意事項も全て修斗さんが書いてくれている。
「ええっと。必修科目と語学と体育がこれだけ」
わたしはリュックから筆記用具を出すと、手引き書に赤いボールペンで印を付ける。花菱さんも同じようにチェックを付ける。
「あとは、空いた時間に取りたい授業を入れていけば良いですね」
花菱さんは冊子をぱらぱらと捲りながら、チェックを入れていく。
わたしはと言えば、何を入れれば良いかさっぱりわからない。
「あの……花菱さんは気になる授業とかあるんですか?」
「え!? ……ちょっとだけメディア論とかジャーナリズム論とか」
「へー。すごいですね。わたしなんて何にも無くて」
そう言われて花菱さんの頬が少しだけ赤くなる。すぐに反応が出るところとか、本当に可愛い。
でも、わたしって何にも興味があることとか無いんだなあ……。
改めて思った。だんだん情けなくなってくる。
「……うーん」
まあ、敢えて言うならば世界史、特にヨーロッパ史、フランス革命あたりか。
西洋史の授業にチェックを付ける。
あとは、やっぱり語学関係。英会話、英作文、英語学―――音声学なんてのもある。他には欧米文学研究、英米事情……。
「あ! それ、私も取ろうと思ってたんですよ!」
花菱さんが、私がチェックを付けた英米事情を指さし嬉しそうに言った。
『英語で書かれた新聞、雑誌、論文等を読むためのスキルと国際感覚を養うためのメディア英語を身につけるための授業』と説明にある。
修斗さんの評価は★5。
『極めて有用な授業。先生もフレンドリーで楽しい。ただ、課題は多め。英字新聞翻訳の課題をどっさりと出される』
「あ、ほんとに? 一緒に取りましょう!」
課題が多いのは気になったが、知り合いが一緒の授業があると安心だ。もっともっと花菱さんとお近づきになれるかもしれないし。
それから、体育実技も一緒に『からだつくりリズム体操』を取ることにした。
修斗さんの注意書きに、『特に道具を揃える必要なし。優しいおじいちゃん先生で全体的にゆるゆるな授業。授業名がダサくて避けられるのか、毎年登録人数少なめでめったに抽選は行われない。超穴場授業。★5』とあった。
それからふたりでどんどん時間割を埋めていった。
もちろん、明日から実際に授業に出て決めなければならないが、修斗さんの評価は信用できるように思えた。
あとは、履修登録の締め切りまでに大学の自分専用のアカウントに繋いで、ネット上で登録すれば良い。
履修登録という、大学生活で初めに訪れる超難関事業を超えられる道筋が見えてきたからか、少し気が楽になってきた。花菱さんも初めの硬い表情は薄らいでいた。
「あの……鮎坂さんのどういうお知り合いなんですか? こんな素晴らしいものを書いてくれる先輩って」
花菱さんはわたしの前に広げられた履修登録手引きを見つめる。わたしの持っている履修登録の手引きには、手書きで直に修斗先輩が書き込んでくれているので、どこからか回ってきたコピー感はない。
「いえ! これは、どう説明して良いのか……。親切なサークルの人が書いてくれたんです」
「へー。もうサークルに入ったんですか!」
「いえいえ。ただ見に行っただけで。それにあんなサークルなんて絶対にわたしには無理です」
「え? どんなサークルなんですか?」
「えっと……ボクシングなんです」
「は!? ボクシングう!?」
花菱さんの素っ頓狂な声に、道を歩いていた他の学生までこっちを見る。
でも、花菱さんはさっきまではあんなに周りを気にしていたのに、今度はまったく他の学生の目なんか気にせず、まるで鳩が豆鉄砲を食らったという例えそのままに目を丸く見開いて口をぽかんと開けている。
その様を見て、笑いを抑えるのを苦労する。
「で、で、どうしてそんなサークルに行ったんですか!?」
大学初日にユウさんと会ったことから話した。ユウさんがちんぴらふたりを叩きのめしたことや、その後にボクシング同好会の練習を見学して、間近でユウさんのスパーリングを見たこと。
「すごい! そのひと、かっこいいですね!」
花菱さんが興奮したように言う。
そう言われると、なんだか自分が褒められたような気になって嬉しくなった。
「その女のひとも格好良いですけど、この履修登録に注意書きをしてくれた人も凄いですよね」
確かに。
ただユウさんにお礼を言いに行っただけのわたしに、修斗さんはこんな面倒くさいことをやってくれた。もう二度と会うこともないだろう、ただの新入生に。
このことも、改めてお礼を言いに行った方が良いかもしれないと思った。
四ツ谷駅の改札口前でふたり示し合わせたように立ち止まってしまった。
わたしは地下鉄南北線の駅へ、花菱さんは中央線四ツ谷駅へと別れる。でも、なんだかこのまま別れてしまうのは寂しく感じた。
「……あの、出会ったばかりでこんなことを言うのは恥ずかしいのですが、なんだか名字で呼び合うのは味気ないって言うか……今度は名字じゃ無くてあだ名とかで呼び合えたら良いですね……」
花菱さんが恥ずかしそうに言う。少しだけ頬が赤くなっていた。
「そうですね! それと、お互いに敬語を使わないようにしましょう」
花菱さんが大きく頷く。
「じゃあ、今度の授業で!」
ふたりでごく自然に笑いながら手を振った
―――大学でできた初めての友だち。
すごく嬉しかった。
学生たちが一斉に起ち上がり、仲間と楽しそうに話しながら教室から出て行く。
もう今日は何も予定が無い。明日から本格的に授業が始まるので、修斗さんに注意事項を書き込んで貰った履修登録の手引きを参考に、出席する授業を決めなくてはならない。
取りあえず1回でも出席してみて、それから取る授業を決めていこうと思った。でも、書き込んで貰ったこの履修登録の手引きがあるので随分と楽になりそうだ。
ゆっくりとリュックにクリアファイルや筆記用具などの私物を入れる。もう教室内に残っている人もちらほらといるくらいだ。
立ち上がり出口に向かおうとすると、すぐ後ろの席で声がした。
「……うーん。どうやって授業を組み合わせたら良いんだろう? ぜんっぜんわからないよ」
何気なく見ると、机に広げた履修登録の手引きを前に、ぶつぶつと呟いているひとりの女の子がいた。
周りには誰もいない。わたしと同じで、まだ知り合いや友だちがいないのだろうか。
女の子はガクッと頭を垂れると、大きな溜め息をついた。履修登録を前にして途方に暮れているようだ。
その気持ちはよくわかった。ページにずらっと羅列されている授業は、その組み合わせが無限にあるように思えてしまう。
頭を抱えている女の子が、また溜め息をついた。立ち止まって自分を見ているわたしに気づいた様子は無い。普段ならわたしも黙って立ち去っていただろう。でも、今の自分には修斗さんに書き込んで貰った履修登録の手引きがある。もしかしたら、役に立てるかも知れない。
勇気を出して話しかけてみた。
「……あのー」
女の子はこっちを見ない。わたしに話しかけられたことに気づいていないのか。
「あの、履修登録大変ですよね」
不意に女の子が顔を上げ、素っ頓狂な声を上げた。
「は! へ?」
大きく目を見開いてわたしを見つめる女の子は、丸顔にメガネを掛けた小動物系の可愛い顔で、大人しそうな子に見えた。
「いえ、わたしも履修登録は苦労しているので」
「……あ! そうなんですか!」
女の子の顔がみるみると真っ赤に染まっていく。
耳まで真っ赤になった女の子の様子が可愛い。
「すいません! 私、なんかひとりごと言ってました?」
「いえいえ。あの……これ、よかったら参考にしてみてください」
わたしは履修登録の冊子を差し出した。
「え!? これって……」
「先輩の人が、取りやすい授業を教えくれたんです」
厳密に言うと、修斗さんは先輩でも何でもないのだが説明のしようが無い。
女の子は、ぱらぱらとページを捲ると感心したような声を上げる。
「ええー。凄いですね、これ」
冊子には、科目ごとに先生の名と授業の説明が細かい字で印刷されているのだが、その空欄にびっしりと修斗さんが先生の特徴や授業の取りやすさ、課題の多さ、テストの有無などを書き込んでくれていた。おまけに、★の数で評価までしてある。
もちろん全ての授業まで網羅はしていないが、それでも凄い情報量だ。
でもいきなりこんな物を見せられても、この子だってゆっくり検討をする時間が欲しいだろう。
「そうだ。これを今からコピーしに行きません? そうしたら、あなたもじっくり検討できるだろうし」
「え! 良いんですか?」
「いいです、いいです」
「有り難うございます! でも、ご迷惑じゃないですか?」
「大丈夫ですよ!」
ふたりで教室を出て、図書館に向かう。図書館なら何回か行ったことがあるので、位置はわかる。
並んで歩きながら、女の子が先に自己紹介をしてくれた。
「あの……私、花菱結菜と言います」
花菱さんは、淡い水色のワンピースに薄手のカーディガンを合わせていて、女の子らしい可愛い格好だ。
「わたしは鮎坂玲です。1年浪人しています」
もし知り合いが出来たら、浪人したことは一番初めに隠さずに言おうと決めていた。変に隠すと、後で知られたときに気まずくなったりしたら嫌だと思ったからだ。
だからすんなりと言えてほっとした。
浪人したことを打ち明けても、花菱さんは別に気にしている様子もない。
図書館入り口でカードリーダーに学生証カードを翳すと、開いたゲートを潜った。彼女は図書館に来るのが初めてだったらしく、ゲートがあるのに驚いていた。
1階ロビーにあったコピー機でわたしの履修登録手引きをコピーする。
図書館を出て、何となくふたりで出口に向かって歩いていると構内カフェが見えてきた。
急に花菱さんは立ち止まると、視線を地面に落とし、もじもじと何かを言いたそうにしている。
「あの! そこで何か飲みませんか? コピーをさせて貰ったお礼に、奢らせて下さい!」
みるみるうちに顔が真っ赤になってくる。花菱さんなりに勇気を出してわたしを誘ってくれたんだろう。
「ええ! もちろん。でも、気を遣わないで下さいね」
花菱さんの顔にぱあっと笑顔が広がった。
初めは遠慮したが、花菱さんのどうしても奢らせてくれという申し出を、有り難く受けることにした。オープンテラスがすいていたので、外の席にいく。
花菱さんはここに来たのは初めてなのか、きょろきょろと辺りを見回して落ち着かない様子だ。もちろん、わたしも初めてここに来たので、その気持ちがよくわかる。
カフェの建物の周りには木が生い茂っていて、鳥の囀る声が聞こえる。前の道路を歩く学生たちの数も少なく、午後の日差しは柔らかで、このまま昼寝でもしたくなるようなのんびりとした時間が流れている。
ふたりでカフェラテを前にして、話のきっかけが掴めずにただ何度もストローを口に持って行く。
そのうちにお互いにカップの中身が無くなって、ずずーと間の抜けた情けない音が出てしまう。
「あ、あの!」
花菱さんが突然、思い詰めたように大きな声を出した。
「はい!」
わたしもつられて声が大きくなる。
よほどふたりの声が大きかったのか、遠く離れた席にいた学生がこっちを見る。それに気づいた花菱さんの耳から徐々に赤くなっていく。
それからまた沈黙。ストローを口に付けてみても、氷が融けた水しかない。
……何かわたしから話さないと。
「……あの、花菱さんは、おうちはどちらなんですか?」
「はい! 埼玉です。実家から通っています」
わたしは、実家は群馬だけれど今は東京に下宿していることを話す。
「群馬って言うと、ここから行くとしたら高崎線ですか?」
「そうです」
「同じです! 私は浦和までですけど」
使う路線が一緒で、なんか少しだけお互い親近感を覚えたような気がする。
固かった表情が少しだけ和らいだ花菱さんが、コピーに目を落としながら訊いた。
「もう、取る授業とか決まっているんですか?」
「いえ、まだまだ。全然決めてないです」
修斗さんの注意書きを参考に多少は興味のある授業の説明を読んではみたが、まだ何を取ったら良いのか全くわからない。
「まずは、絶対に取らなくてはならない必修科目が優先ですよね?」
わたしは大きく頷く。
花菱さんが言うとおり、まずは1年次で必修の専門科目を時間割に埋め込み、次にこれも必修の語学、あとは自分の取りたい科目を組み合わせる。それと厄介なのは必修科目には人数制限があり、登録人数が多い授業は抽選が行われて、抽選に漏れれば希望の授業が受けられない場合があるということだ。そうなった場合は、後期に必ずそれを取らなくてはならない。
体育実技だと、自分の道具が必要な授業もある。よっぽどやりたかったり経験のある競技なら別だが、そうでないのならなるべく道具など揃えなくても良い授業にしたい。必修科目の抽選次第では、また初めから時間割の組み立てをしなくてはならなくなる。
同じ名前の授業なのに担当の先生が違うものが10個くらい並んでいたりするし、曜日や時間等、最適な組み合わせを考えるとなるともうそれこそ無限にあるように思えてしまう。
それと単位は早めに取っておくに越したことは無いが、あまりに詰め込みすぎてもテスト期間や課題提出に地獄を見ることになってしまう。そこら辺の注意事項も全て修斗さんが書いてくれている。
「ええっと。必修科目と語学と体育がこれだけ」
わたしはリュックから筆記用具を出すと、手引き書に赤いボールペンで印を付ける。花菱さんも同じようにチェックを付ける。
「あとは、空いた時間に取りたい授業を入れていけば良いですね」
花菱さんは冊子をぱらぱらと捲りながら、チェックを入れていく。
わたしはと言えば、何を入れれば良いかさっぱりわからない。
「あの……花菱さんは気になる授業とかあるんですか?」
「え!? ……ちょっとだけメディア論とかジャーナリズム論とか」
「へー。すごいですね。わたしなんて何にも無くて」
そう言われて花菱さんの頬が少しだけ赤くなる。すぐに反応が出るところとか、本当に可愛い。
でも、わたしって何にも興味があることとか無いんだなあ……。
改めて思った。だんだん情けなくなってくる。
「……うーん」
まあ、敢えて言うならば世界史、特にヨーロッパ史、フランス革命あたりか。
西洋史の授業にチェックを付ける。
あとは、やっぱり語学関係。英会話、英作文、英語学―――音声学なんてのもある。他には欧米文学研究、英米事情……。
「あ! それ、私も取ろうと思ってたんですよ!」
花菱さんが、私がチェックを付けた英米事情を指さし嬉しそうに言った。
『英語で書かれた新聞、雑誌、論文等を読むためのスキルと国際感覚を養うためのメディア英語を身につけるための授業』と説明にある。
修斗さんの評価は★5。
『極めて有用な授業。先生もフレンドリーで楽しい。ただ、課題は多め。英字新聞翻訳の課題をどっさりと出される』
「あ、ほんとに? 一緒に取りましょう!」
課題が多いのは気になったが、知り合いが一緒の授業があると安心だ。もっともっと花菱さんとお近づきになれるかもしれないし。
それから、体育実技も一緒に『からだつくりリズム体操』を取ることにした。
修斗さんの注意書きに、『特に道具を揃える必要なし。優しいおじいちゃん先生で全体的にゆるゆるな授業。授業名がダサくて避けられるのか、毎年登録人数少なめでめったに抽選は行われない。超穴場授業。★5』とあった。
それからふたりでどんどん時間割を埋めていった。
もちろん、明日から実際に授業に出て決めなければならないが、修斗さんの評価は信用できるように思えた。
あとは、履修登録の締め切りまでに大学の自分専用のアカウントに繋いで、ネット上で登録すれば良い。
履修登録という、大学生活で初めに訪れる超難関事業を超えられる道筋が見えてきたからか、少し気が楽になってきた。花菱さんも初めの硬い表情は薄らいでいた。
「あの……鮎坂さんのどういうお知り合いなんですか? こんな素晴らしいものを書いてくれる先輩って」
花菱さんはわたしの前に広げられた履修登録手引きを見つめる。わたしの持っている履修登録の手引きには、手書きで直に修斗先輩が書き込んでくれているので、どこからか回ってきたコピー感はない。
「いえ! これは、どう説明して良いのか……。親切なサークルの人が書いてくれたんです」
「へー。もうサークルに入ったんですか!」
「いえいえ。ただ見に行っただけで。それにあんなサークルなんて絶対にわたしには無理です」
「え? どんなサークルなんですか?」
「えっと……ボクシングなんです」
「は!? ボクシングう!?」
花菱さんの素っ頓狂な声に、道を歩いていた他の学生までこっちを見る。
でも、花菱さんはさっきまではあんなに周りを気にしていたのに、今度はまったく他の学生の目なんか気にせず、まるで鳩が豆鉄砲を食らったという例えそのままに目を丸く見開いて口をぽかんと開けている。
その様を見て、笑いを抑えるのを苦労する。
「で、で、どうしてそんなサークルに行ったんですか!?」
大学初日にユウさんと会ったことから話した。ユウさんがちんぴらふたりを叩きのめしたことや、その後にボクシング同好会の練習を見学して、間近でユウさんのスパーリングを見たこと。
「すごい! そのひと、かっこいいですね!」
花菱さんが興奮したように言う。
そう言われると、なんだか自分が褒められたような気になって嬉しくなった。
「その女のひとも格好良いですけど、この履修登録に注意書きをしてくれた人も凄いですよね」
確かに。
ただユウさんにお礼を言いに行っただけのわたしに、修斗さんはこんな面倒くさいことをやってくれた。もう二度と会うこともないだろう、ただの新入生に。
このことも、改めてお礼を言いに行った方が良いかもしれないと思った。
四ツ谷駅の改札口前でふたり示し合わせたように立ち止まってしまった。
わたしは地下鉄南北線の駅へ、花菱さんは中央線四ツ谷駅へと別れる。でも、なんだかこのまま別れてしまうのは寂しく感じた。
「……あの、出会ったばかりでこんなことを言うのは恥ずかしいのですが、なんだか名字で呼び合うのは味気ないって言うか……今度は名字じゃ無くてあだ名とかで呼び合えたら良いですね……」
花菱さんが恥ずかしそうに言う。少しだけ頬が赤くなっていた。
「そうですね! それと、お互いに敬語を使わないようにしましょう」
花菱さんが大きく頷く。
「じゃあ、今度の授業で!」
ふたりでごく自然に笑いながら手を振った
―――大学でできた初めての友だち。
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