桜散る、その前に

日下奈緒

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第2章 母親の事

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幼い頃の記憶と言えば、まず最初に思い出すのが、母と祖父母と暮らしていた頃だ。

父は、僕が幼い頃に死んで、母と二人。

父方の祖父母の家に、そのまま住まわせて貰っていた。


僕が小学生になると、祖父母は母に、再婚を勧めた。

「何も、この家に囚われる事はないんだよ。」

だが母の答えは、こうだった。

「その気はありません。」

僕はそんな母が、いまも父と一緒にいるようで、嬉しかったのを覚えている。

学校の友達でも、父親が再婚して新しい母親ができたけれど、上手くいっていないと言う話を、聞いた事があるからだ。

僕は、いつまでも父と母と一緒。

そんな事を思っていた。


その内、当てにしていた父の遺産も減ってきて、母は働きに出た。

役所での仕事だった。

それから、1年程した頃だったか。

母が、一人の男を連れて来た。

「君が、和弥君か。宜しくな。」


大きな、筋肉質の体。

父親の面影を知らない僕にとっては、大人の男を見る最初の機会だった。

僕が外で遊んでいると、祖父母はその男を、歓迎しているようだった。

「和弥、よかったね。新しいお父さんができて。」

そんな事を、祖母が言った。

「ばあちゃん、あの人誰?」

「伊賀悟志さんって言ってね。お母さんと再婚する人だよ。」

僕はその時、ふーんとしか思わなかった。

新しいお父さんって言われても、ピンとこなかったし。

再婚って言われても、何の事だがよく分からなかった。


それでも、何となく一緒に暮らすのかなとは思っていた。

その伊賀悟志さんと言う人は、毎日のように家に遊びに来て、僕と遊んでくれたからだ。

野球のキャッチボールもしてくれたし、一緒に風呂に入ったりもした。

僕はだんだん、父親ってこういうモノなんだと思うようになっていった。


そして、ある日の事だった。

「和弥、待ってるから。後から来てね。」

綺麗な着物を着た母親はそう言って、伊賀のおじさんと行ってしまった。

その時、祖母が泣いているのを見た。

「ばあちゃん。何で泣いてるの?」

祖母は涙を拭くと、僕を抱きしめた。

「可哀相な和弥ちゃん。」

そう言って祖母はまた、泣き始めた。


それがどんな事かも分からずに、僕は祖母の胸の中で、茫然としていた。

そして祖母に促され、家に入ろうとした時だ。


「和弥!」

母親の声が、聞こえた気がした。

僕は祖母の元を離れ、数百メートル走った。

「お母さーん!」

大きな声で呼んでも、返事はない。

空耳だったのかと思いながら、また家に戻った。


きっと母親は、迎えに来る。

それから僕は毎日、玄関の前で、母親を待ち続けた。

雨の日も、風の日も。


でも母親は、迎えに来なかった。

僕は、母親に捨てられたのだと、確信した。


しばらくは、僕の部屋で泣いて暮らしていたが、それも半年で落ち着いた。

そして1年くらい経った頃、僕はある想いに駆られた。

一目でいいから、母親に会いたい。


ある日僕は、祖父母の家を出て、母親が消えて行った道を、歩き始めた。

その道は林を超え、隣町に続いていた。

母親はきっと、この町にいる。

僕はそう感じて、隣町まで降りて行った。


でも、隣町のどこに住んでいるのか、分からない。

しばらく道なりに歩いても、それっぽい家は見つからない。

そうこうしているうちに、陽も沈みかかってきた。

僕は、もう家に帰ろうと、元来た道に戻ろうした。


その時だった。

遠くから、赤子が泣く声が聞こえてきた。

何かに引き寄せられるように、僕はその声を辿って行った。

すると、一軒の家の中から、赤子の鳴き声が聞こえて来た。


「さあ、もう泣かないで。」

その声に、ハッとした。

よく聞いた声。

きっとお母さんだと思った僕は、家の中を塀の隙間から覗き見た。

それは、間違いなく母親だった。

母親が、赤子を抱いていたのだ。


その瞬間、僕の中で信じていたモノが、一気に崩れた。

母親には、新しい家族がいる。

もう僕は、いらないんだ。

そう思ったんだ。


陽が落ちて、僕は帰り道をトボトボと歩いていた。

しばらくして、誰かが僕の名前を呼んでいる気がした。

直ぐに、脇道に隠れた。

そして現れたのは、あの伊賀のおじさんだった。


どうせ見つかったって、叱られるだけだ。

僕は、伊賀のおじさんが向こうに行くのを見ると、一気に駆け出した。

走っている間、涙が溢れた。


あの伊賀のおじさんが、僕から母親を奪ったんだ。

僕は、母親に捨てられたんだ。

封印していた気持ちが、また爆発した。

僕はいつの間にか、嗚咽を漏らし、涙を拭きながら、林の中を走っていた。


家に帰って来たのは、それからしばらくした頃で。

「和弥!いつまで、遊んでた!」

「ごめん、じいちゃん。」

祖父の叱りも流して、僕は一人の世界へと、落ちて行った。

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