風呼びのフルテ

小林一咲

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第五話

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 私は両親を家族とは認識していなかった。特に蟠りがあるわけでもなかったが、仲が良いとも言えない曖昧な関係だった。それよりも、私が彼らを家族と認めるほどその人となりをよく知らなかったのだ。食卓を囲んでも、言葉は必要最低限で、互いの心を確かめるような会話はどこにも見当たらなかった。彼らは私のことを、ただ「成績」や「態度」といった薄い札で測っているように思われたし、私もまた、二人を役割の影のように眺めていただけだった。

 パリの石畳を歩きながら、その距離がいつから始まっていたのかを考えた。思い返せば、幼いころの私は彼らに何かを求めていた気がする。声を掛けられたい、名前を呼ばれたい、肩に触れてほしい。だが、差し伸べられたはずの手は、いつのまにか書類や予定表の下に隠れてしまい、私の方からも届かなくなった。理想は淡い光のように遠くへ去り、現実だけが静かに残った。

 それでも、恨みというほど濃い感情は芽生えなかった。期待していなかったからだ。いや、いつのまにか期待しないことを覚えたのかもしれない。彼らもまた、私に大きな夢を託すふうでもなく、ただ毎日を無事に過ごすことを望んでいるようだった。互いに踏み込まず、互いに求めない。風の通り抜ける廊下のような関係が、いつのまにか出来上がっていた。

 そんな私にとって、リルの存在は異質でありながら、どこか懐かしい温度を持っていた。彼女は言葉を持たない。それでも、目の奥に宿る光や、指先の揺れ、フルートにそっと口を寄せる仕草から、彼女の心の輪郭が伝わってくる。音の代わりに風が語り、沈黙の中に微かな呼吸が重なる。その静けさは、私が望んでいながら手に入らなかった「つながり」の形に似ていた。

 帰国の日が近づいた夕暮れ、私は公園へ向かった。夏の終わりの空は薄く霞み、セーヌ川の水面には鈍い光が揺れていた。石のベンチには、いつものようにリルが座っていた。銀色の髪が風に触れ、柔らかな影を肩に落としている。私は近づいていき、胸の奥にたまった言葉をどうすればよいか分からなくなった。

 リルは私の顔を見て、ほんの少し首を傾けた。事情を察したのだろう。彼女はフルートを取り出し、静かに息を吹き込んだ。音はとても細く、夕暮れの空へ溶けていく。風の指先が私の頬をなぞり、遠い鐘の音のような旋律が胸の奥で震えた。それは別れを告げる音ではなく、どこか遠くへ送り出すための祈りのように感じられた。

 私は何かを伝えたくて口を開いたが、言葉はすぐ喉の奥でほどけてしまった。代わりに、ゆっくりと頭を下げる。リルは小さく笑い、胸の前で手を重ねてみせた。その仕草だけで十分だった。言葉は通じなくとも、互いの心は、風のわずかな揺らぎの中で触れ合っているように思えた。

 やがて音は途切れ、空には薄い茜色が広がった。別れの挨拶は交わされなかった。私たちはただ立ち尽くし、同じ風を受けていた。次の瞬間、リルはそっと背を向け、木立の影の方へ歩き出した。銀の髪がきらめき、やがて人の流れに紛れて見えなくなる。私はその場に残され、胸の奥にまだ揺れている旋律を確かめるように目を閉じた。

 理想と現実のあいだで、私は長いあいだ立ち止まっていたのだろう。だが今、確かに一つの音が私の中に根を下ろした気がした。期待もされず、期待もせずに生きてきた私の胸に、風のように自由な記憶がそっと息づいている。そのことだけが、不思議な温もりとなって残った。

 翌朝、私は家族と共に空港へ向かった。車窓を過ぎる街並みは、昨日までと同じ石の色をしているのに、どこか遠い国の景色のように見えた。両親は旅行の話を断片的に交わし、私は黙ってそれを聞いていた。言葉の上では相変わらず距離があったが、胸の奥にはもう一つの風が吹いていた。

 それは、リルのフルートが運んできた見えない手紙であり、夏の終わりの空に溶けた旋律だった。私は静かに息を吸い込み、その風を自分の中に留めておこうと思った。やがて飛行機が空へ浮かび上がると、窓の外の雲はゆっくりと流れはじめた。私はその白い流れの向こうに、あの公園の木立と、風と心を通わせる少女の影を見た気がした。
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