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第六話
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あれから日常に戻った私は、どこか上の空で、ただ幾年も月日を数えた。心の中に漂流したままのフルートの音色は、決して元の形を崩すことはなかった。季節が巡るたび、あの旋律は微かな影のように胸の底で鳴り続け、そのたび私は、過ぎ去ったあの夏の午後を、静かに呼び起こすのであった。
父は相変わらず多くを語らず、母もまた、変わらぬようでいて、どこか疲れをその身に沈めていた。私は勉学に追われ、職に就き、淡々とした日々を積み重ねていったが、そのどれもが、どこか仮の生活のように思われた。机に向かっていても、窓の外を眺めていても、ふとした瞬間に、あの池の水面や、銀色の髪を揺らす風の感触が、まざまざと眼前に甦った。
ある晩、引き出しを整理しているうち、私は一本の細い冊子に指を止めた。すでに期限の切れたパスポートであった。ページをめくると、あの旅の入国印が淡く刻まれている。私はしばらくそれを眺めていたが、次第に胸の奥で何かが静かに形を成し、やがて──あの時の父と同じく、私は思い立ったように、そのパスポートをそっと閉じた。
「もう一度、行こう」と、誰に向けるでもなく呟いた。理屈はなかった。ただ、あの音に触れ直さねばならないという思いだけが、私を静かに押し出していた。
私は手続きを進め、新しい旅券を受け取ると、ほとんど迷いなく航空券を手配した。飛行機が雲を割って上昇するあいだ、私はわずかな高揚と、どこか懐かしい心細さとを胸に抱えていた。窓の外の白い光が遠い記憶を撫でるようで、私は目を閉じ、あの旋律の断片を、そっと口の奥で反芻した。
パリに着いたのは、灰色の雲が低く垂れ込めた夕方であった。街は以前よりも騒がしく、車の音や人々の声が折り重なって、ひとつの大きな波のように押し寄せていた。私はホテルに荷を置くと、地図も確かめぬまま、かつて歩いたはずの道へと足を向けた。
三日三晩、私は街を彷徨った。公園、橋の上、石畳の広場、かつて池のあったあの一角──それらを幾度となく辿りながら、私は無言のまま歩き続けた。風の匂いも、木々の影も、どこか似ていながら、やはり同じではなかった。時折、池の縁に立ち、静かに耳を澄ませるが、ただ遠くのざわめきが返ってくるばかりである。
四日目の午後、私は広場の片隅に腰を下ろし、空を仰いだ。雲の切れ間から淡い光が落ちていた。私はそこで初めて、ゆっくりと息を吐き、ようやく悟ったのである──もう、彼女には会えないのだ、と。
その刹那、どこからともなく、微かな音が風に乗って流れてきた。遠く、かすかな、けれど確かにフルートの響きであった。私は思わず身を起こし、音の方角を探るように歩き出した。石畳を踏む足音が、音色に紛れて消えていく。
小さな通りの奥、陽の当たる角に、一人の少女が立っていた。まだ幼い顔立ちで、色褪せたコートの裾が風に揺れている。足元には小さな帽子が置かれ、その中にいくつかの硬貨が鈍い光を放っていた。彼女は目を伏せたまま、木製の笛に息を吹き込み、どこか頼りない旋律を紡いでいた。
私はその背後にある、小さなベンチにそっと腰を下ろし、静かに目を閉じた。あの時のように、音の無い世界へ自らを運ぼうとするかのように、両手を膝の上で重ね、深く息を吸った。音は確かにそこにあり、風とともに私を包んでいた。だが、あの池のほとりで感じた、世界が静かにほどけていくような感覚は、どこにも訪れなかった。
それは、少女のせいではないのだと、私はすぐに悟った。旋律は拙くとも誠実で、風に溶けるように澄んでいた。変わったのは音ではなく、私の方であった。年月が身に巻きつけた硬い殻が、音の行き場を奪ってしまったのだと、どこか諦めに似た思いが胸に広がった。
私は静かに目を開け、立ち上がると、帽子の中へ小銭をいくつか落とした。硬貨が触れ合う音が短く響き、少女が驚いたように顔を上げた。私は軽く会釈し、言葉を交わすこともなく、その場を離れた。
夕暮れの街を歩きながら、私はふと空を仰いだ。遠い雲のあいだから、淡い光が滲み出ていた。胸の奥では、あの細い旋律が、もはや過去の形のままではなく、静かな記憶として、ひとつの場所に落ち着いているのを感じた。私はそのままホテルへの道を辿り、石畳に残る足音を、ゆっくりと夜の中へ溶かしていった。
父は相変わらず多くを語らず、母もまた、変わらぬようでいて、どこか疲れをその身に沈めていた。私は勉学に追われ、職に就き、淡々とした日々を積み重ねていったが、そのどれもが、どこか仮の生活のように思われた。机に向かっていても、窓の外を眺めていても、ふとした瞬間に、あの池の水面や、銀色の髪を揺らす風の感触が、まざまざと眼前に甦った。
ある晩、引き出しを整理しているうち、私は一本の細い冊子に指を止めた。すでに期限の切れたパスポートであった。ページをめくると、あの旅の入国印が淡く刻まれている。私はしばらくそれを眺めていたが、次第に胸の奥で何かが静かに形を成し、やがて──あの時の父と同じく、私は思い立ったように、そのパスポートをそっと閉じた。
「もう一度、行こう」と、誰に向けるでもなく呟いた。理屈はなかった。ただ、あの音に触れ直さねばならないという思いだけが、私を静かに押し出していた。
私は手続きを進め、新しい旅券を受け取ると、ほとんど迷いなく航空券を手配した。飛行機が雲を割って上昇するあいだ、私はわずかな高揚と、どこか懐かしい心細さとを胸に抱えていた。窓の外の白い光が遠い記憶を撫でるようで、私は目を閉じ、あの旋律の断片を、そっと口の奥で反芻した。
パリに着いたのは、灰色の雲が低く垂れ込めた夕方であった。街は以前よりも騒がしく、車の音や人々の声が折り重なって、ひとつの大きな波のように押し寄せていた。私はホテルに荷を置くと、地図も確かめぬまま、かつて歩いたはずの道へと足を向けた。
三日三晩、私は街を彷徨った。公園、橋の上、石畳の広場、かつて池のあったあの一角──それらを幾度となく辿りながら、私は無言のまま歩き続けた。風の匂いも、木々の影も、どこか似ていながら、やはり同じではなかった。時折、池の縁に立ち、静かに耳を澄ませるが、ただ遠くのざわめきが返ってくるばかりである。
四日目の午後、私は広場の片隅に腰を下ろし、空を仰いだ。雲の切れ間から淡い光が落ちていた。私はそこで初めて、ゆっくりと息を吐き、ようやく悟ったのである──もう、彼女には会えないのだ、と。
その刹那、どこからともなく、微かな音が風に乗って流れてきた。遠く、かすかな、けれど確かにフルートの響きであった。私は思わず身を起こし、音の方角を探るように歩き出した。石畳を踏む足音が、音色に紛れて消えていく。
小さな通りの奥、陽の当たる角に、一人の少女が立っていた。まだ幼い顔立ちで、色褪せたコートの裾が風に揺れている。足元には小さな帽子が置かれ、その中にいくつかの硬貨が鈍い光を放っていた。彼女は目を伏せたまま、木製の笛に息を吹き込み、どこか頼りない旋律を紡いでいた。
私はその背後にある、小さなベンチにそっと腰を下ろし、静かに目を閉じた。あの時のように、音の無い世界へ自らを運ぼうとするかのように、両手を膝の上で重ね、深く息を吸った。音は確かにそこにあり、風とともに私を包んでいた。だが、あの池のほとりで感じた、世界が静かにほどけていくような感覚は、どこにも訪れなかった。
それは、少女のせいではないのだと、私はすぐに悟った。旋律は拙くとも誠実で、風に溶けるように澄んでいた。変わったのは音ではなく、私の方であった。年月が身に巻きつけた硬い殻が、音の行き場を奪ってしまったのだと、どこか諦めに似た思いが胸に広がった。
私は静かに目を開け、立ち上がると、帽子の中へ小銭をいくつか落とした。硬貨が触れ合う音が短く響き、少女が驚いたように顔を上げた。私は軽く会釈し、言葉を交わすこともなく、その場を離れた。
夕暮れの街を歩きながら、私はふと空を仰いだ。遠い雲のあいだから、淡い光が滲み出ていた。胸の奥では、あの細い旋律が、もはや過去の形のままではなく、静かな記憶として、ひとつの場所に落ち着いているのを感じた。私はそのままホテルへの道を辿り、石畳に残る足音を、ゆっくりと夜の中へ溶かしていった。
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