風呼びのフルテ

小林一咲

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第七話

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 帰国の日。私は最後まで足掻こうと決意した。諦めるという言葉は、もはや口に出す前から胸の奥で粉となり、指のあいだからこぼれ落ちてしまうようであった。私は朝早くホテルを出て、これまで辿った道をもう一度、あるいは三度も四度もなぞるように歩き続けた。

 公園の池の縁、石畳の広場、かつて少女の笛の音が染み込んでいた街角──私はその一つひとつに足を止め、静かに耳を澄ませた。だが、風はただ冷たく頬を滑り、木々の影は何事も知らぬ顔で地上を横切るばかりであった。私は歩きながら、時間という見えない壁に額を押しつけているかのような心地になった。

 正午を過ぎた頃、腕時計の針が帰国の時刻へと無情に近づきつつあることに、私はようやく気づいた。胸の奥で小さな焦りが蠢いたが、それでも足は止まらなかった。私は広場の端を通り抜けようとした時、見覚えのある小柄な影が目に入った。先日フルートを吹いていた、あの幼い少女である。

 その日は笛を手にしておらず、代わりに紙片の束を胸に抱えていた。手描きの文字と粗末な挿絵が並んだチラシを、通りすがる人々へ配っている。私は一枚受け取り、目を落とした。今夜、場末のショーパブで演奏会があると記されてあった。小さな舞台、若い演奏家たち──拙い文字でそう綴られている。

 私はしばらくその紙を見つめたまま、立ち尽くした。飛行機に乗らねば、仕事に差し障ることは分かっている。明日の朝には机に向かい、何事もなかった顔で日常へ戻らねばならぬ。理性は静かな声で帰国を促したが、心のどこかで、まだ何かが消え残っていた。

 私はゆっくりと顔を上げ、遠くの空を仰いだ。薄い雲の切れ間から、淡い光が石畳に落ちていた。その光の中で、あの旋律の残り香がふと胸を掠めた。私はためらいを押しやり、携帯端末を取り出すと、出発便の予約を取り消した。画面に表示された確認の文字が、妙に冷たく感じられた。

 夜、私はそのショーパブへ向かった。路地の奥に佇む小さな店で、外壁には古びた看板がかかっている。扉を開けると、薄暗い照明の下、すでに幾人かの客が席に着き、低いざわめきが空気に漂っていた。舞台の前には安物の木の椅子が並び、私もその一つに腰を下ろした。

 やがて演奏が始まった。若い男女が交代で楽器を奏で、時にぎこちなく、時に思いがけぬ力強さで、その音を宙へ放った。私はひとつひとつの旋律に耳を傾けながら、無意識のうちに出口の方へ視線を向けていた。扉が開くたび、胸の奥で何かが小さく跳ね上がる。しかし、最後の曲が終わるまで、リルの姿は現れなかった。

 拍手が静かに散り、客たちは思い思いの会話を交わしながら席を立っていった。私はしばらく動くことができなかった。心の中で長く張りつめていた糸が、静かに切れていく音を聞いたような気がした。私は椅子から身を起こし、外へ出た。

 夜の空気は冷たく、吐く息が白く曇った。私はホテルへ戻ろうと思ったが、予約を取り消した混乱の中で、すでに空き部屋は一つも残されていなかった。街の灯りはどこか遠く、見知らぬ土地の夜が、急に私の肩に重くのしかかった。胸の底に沈殿した疲労と落胆が、ゆっくりと体中へ広がっていった。

 私は夜道をあてもなく歩き回った。開いている酒場を見つけては扉を押し、中で杯を傾けた。味わうためではなく、ただ思考を鈍らせるための酒であった。グラスの底に映る灯りが揺れ、その揺らぎが心の中の空洞を一層際立たせるように思われた。店を出てはまた歩き、別の店へ入り、同じことを繰り返した。

 やがて、酔いは重い眠気とともに私の足取りを緩めた。気がつくと、私は自然と、とある方向へ体を向けていた。地図を見たわけでも、意識して選んだわけでもない。ただ、風に手を引かれるようにして、昔の記憶が眠るあの場所へ導かれていたのである。

 私は石畳のゆるやかな坂を下り、公園の入口へ辿り着いた。夜の公園は人影もなく、街灯の明かりがところどころに淡い円を落としていた。池の水面は暗く沈み、遠い夜空のくすんだ光をわずかに映していた。私はその縁に立ち、しばらく動けずにいた。

 もう会えないのだとしても、せめて彼女のいた場所に身を置きたかった。あの午後、風と共に音が生まれ、世界が静かにほどけていった、その境界に立っていたかったのである。私はゆっくりとベンチへ歩み寄り、そこに腰を下ろした。冷たい木の感触が背中へ伝わった。

 夜風が、微かに木の葉を揺らした。私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。音はどこにもなかった。だが、その静けさの奥底で、遠い記憶の旋律が、ごく細い糸のように、まだかすかに張り続けているのを感じた。私はその糸の上に、そっと身を委ねるようにして、長い夜の中でひとり、静かに時の流れを見送った。
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