薄紅の檻、月下の契り

雪兎

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第二話 玻璃越しの距離

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 九条家に迎えられてから、七日が過ぎた。

 帝都の朝は早い。汽笛が遠くに響き、新聞売りの声が門前を駆けてゆく。伊織はまだ慣れぬ洋間の窓辺に立ち、薄いカーテン越しに庭を眺めていた。

 噴水の水音が規則正しく響く。白鷺家にはなかった音だ。

 ここは檻ではない、と言い聞かせる。

 だが同時に、自分が“契約で迎えられたΩ”である事実も消えない。

 

 九条家の使用人たちは礼儀正しかった。だがどこか距離を測っている。新しい主の番が、どのような存在かを見定めているのだろう。

 朝餉の席で、鷹司は既に新聞を広げていた。

「鉄道延伸の件、来月には認可が下りる」

 独り言のように呟く。

 伊織は箸を止めた。

「……北方線でしょうか」

 鷹司の視線が上がる。

「知っているのか」

「新聞で拝見しました。沿線の土地買収が難航している、と」

「よく読んでいるな」

 短い沈黙。

 伊織は意を決して続けた。

「もし、失礼でなければ……地元有力者との共同出資という形を取れば、反発は和らぐかと」

 言ったあと、心臓が跳ねた。

 出過ぎた真似だっただろうか。

 だが鷹司は怒らなかった。

 むしろ、興味深そうに目を細める。

「理由は」

「利益を分け合う形にすれば、敵ではなく味方になります。九条家が独占する、という印象が薄れます」

 しばしの静寂。

 やがて鷹司は新聞を畳んだ。

「午後、書斎へ来い」

「……はい」

「話を聞こう」

 それだけ言って席を立つ。

 伊織は胸を押さえた。

 番としてではなく、意見を求められた。

 それがこんなにも嬉しいとは思わなかった。

 

 しかし、その喜びは長く続かなかった。

 

 昼過ぎ、突然、甘い香りが鼻をかすめた。

 自分の匂いだと気づくまで、数秒を要した。

(……早い)

 まだ予定より三日はあるはずだった。

 環境の変化のせいかもしれない。

 体の奥がじわりと熱を帯びる。

 使用人の視線が一瞬だけ揺れたのを、伊織は見逃さなかった。

「……失礼します」

 足早に自室へ戻る。

 襖を閉めた途端、膝が震えた。

 抑制剤はある。医師も控えている。

 だが、本能は理屈を超える。

 αの気配を求めてしまう。

 

 扉が叩かれた。

「伊織」

 低い声。

 鷹司だ。

「入るぞ」

 障子が開く。

 室内にαの気配が満ちる。濃く、落ち着いた匂い。

 伊織の呼吸が乱れる。

「……申し訳、ございません」

「謝るな」

 鷹司は一定の距離を保ったまま立ち止まる。

「医師を呼ぶか」

「……まだ、大丈夫です」

 嘘ではない。だが余裕もない。

 指先が震えるのを、袖で隠す。

「無理はするなと言った」

「ですが……」

 視線が絡む。

 その瞬間、胸の奥がきゅうと締めつけられた。

 欲しい、と思ってしまう。

 この人の匂いを、もっと近くで。

 番の証を。

 

 鷹司が一歩だけ近づいた。

 それだけで、空気が変わる。

「……選べ」

 低い声。

「抑制剤か、私か」

 喉が乾く。

 選択肢を与えられている。

 強制ではない。

 それが、かえって残酷だった。

「私は……」

 言葉が揺れる。

 白鷺家のための契約。

 義務。

 だが、今胸を満たしているのは義務だけではない。

 この七日間。

 朝の会話。

 書斎へ来いと言われたあの瞬間。

 対等に扱われた感覚。

 

「鷹司様」

「……ああ」

「少しだけ、傍に」

 声が震える。

 それでも、逃げなかった。

 鷹司の目がわずかに見開かれ、すぐに静かな決意を帯びる。

 彼はゆっくりと距離を詰めた。

 触れはしない。

 ただ、腕が届くほどの近さ。

 それだけで、伊織の呼吸は落ち着き始めた。

 αの匂いが、包み込むように広がる。

「……これでいいか」

「はい」

 涙が滲む。

 衝動ではなく、安堵から。

 

 鷹司はそっと伊織の肩に羽織を掛けた。

「契りは急がん」

 静かな声。

「お前が、私を選ぶと決めたときでいい」

 胸が熱くなる。

「私は、もう……」

 言いかけて、言葉を飲み込む。

 今はまだ、衝動が混じる。

 それを愛と呼ぶのは早い。

 

 やがて医師が呼ばれ、穏やかな処置が施された。

 大事には至らず、発情は緩やかに抑えられた。

 

 夕暮れ。

 書斎の扉を叩く。

「入れ」

 鷹司は机に向かっていた。

 振り返り、いつもの落ち着いた眼差しを向ける。

「体調は」

「落ち着きました」

「そうか」

 短い安堵。

「……昼の話の続きだ」

 机の上には地図と書類が広げられている。

「共同出資案、具体的にどう進める」

 伊織は息を整え、机の前に座った。

 その距離は、昼より近い。

 だが不安はない。

 

 二人は並んで書類を読み、意見を交わす。

 日が落ちるまで。

 その時間は、不思議なほど穏やかだった。

 

 ふと、鷹司が言う。

「伊織」

「はい」

「今日、お前は私を選びかけた」

 胸が跳ねる。

「……はい」

「だが、焦るな」

 静かな声。

「私は待てる」

 その言葉が、何より甘かった。

 

 窓の外、帝都の灯りが瞬き始める。

 契約で始まった関係。

 だが、少しずつ形を変えつつある。

 

 まだ番ではない。

 だが確かに、距離は縮んでいる。

 玻璃越しに見ていた世界は、いつの間にか同じ景色になりつつあった。
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