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第三話 波紋
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春は足早に過ぎ、帝都には初夏の気配が漂い始めていた。
九条家の庭では、藤が重たげに房を垂らしている。淡い紫が風に揺れるたび、甘い香りが漂った。
伊織は縁側に座り、帳簿をめくっていた。
北方線延伸の件は、共同出資案を取り入れたことで思いのほか順調に進んでいる。地元有力者との会合では、鷹司が表に立ち、伊織は控えの間で資料を整えた。
だが、帰路の馬車の中で鷹司は言った。
「お前の案だ。胸を張れ」
その言葉は、今も胸に残っている。
番ではない。
だが、伴侶として隣に立つことを許されている。
それがどれほど特別か、伊織は日ごとに思い知っていた。
しかし、九条家の内外がそれを歓迎しているとは限らない。
「奥様」
年嵩の女中頭が、慎重な声音で告げた。
「本家より使いが参っております」
本家――九条家の分家筋で、旧来の価値観を重んじる一族だ。
客間に通された男は、三十代半ばほど。鋭い目をしている。
「九条鷹司殿は不在か」
「ただいま戻られます」
伊織は丁寧に頭を下げる。
男の視線が、値踏みするように伊織を撫でた。
「あなたが……白鷺家のΩ」
あえて“奥方”とは言わない。
「はい」
「借財の代わりに迎えられたと聞く」
胸がわずかに軋む。
だが顔色は変えない。
「契約の形は様々でございます」
男は鼻で笑った。
「九条家も落ちたものだ。商いにうつつを抜かし、挙げ句にΩを飾るとは」
その瞬間、障子が開いた。
「その飾りが、何か問題でも?」
低く、冷えた声。
鷹司だった。
空気が一変する。
「……鷹司」
「用件を言え」
取り繕う様子もない。
男は咳払いをした。
「来月の華族会合に、番を伴うなという忠告だ。九条家の品位に関わる」
「私の伴侶だ」
即答。
「品位に問題はない」
「だがΩだ」
「だから何だ」
静かな怒気。
「九条の家は、私が継ぐ。誰を伴うかも、私が決める」
男は唇を歪めた。
「いずれ後悔するぞ。Ωは情に流される。経営の足枷になりかねん」
伊織は拳を握りしめた。
言い返したい。
だが立場を弁えねばならない。
しかし、鷹司が先に口を開いた。
「足枷かどうかは、北方線の決算を見てから言え」
「……何?」
「共同出資案は伊織の提案だ。利益は前期比を上回る見込みだ」
男の目が揺れる。
「Ωが、だと?」
「能力を見る目がないなら、口も慎め」
冷ややかな断罪。
やがて男は言葉を失い、苛立ちを隠せぬまま帰っていった。
客間に沈黙が落ちる。
伊織はゆっくりと息を吐いた。
「……申し訳ございません」
「なぜ謝る」
「私の存在が、火種に」
「違う」
鷹司は真っ直ぐに伊織を見る。
「火種は、古い価値観だ」
その言葉に、胸が震える。
「お前は胸を張れ。私はお前を選んだ」
強い声。
契約ではなく、選択。
「鷹司様」
喉が熱くなる。
「……ありがとうございます」
その夜。
伊織は自室で一人、考えていた。
鷹司は守ってくれる。
だが、それに甘えていいのだろうか。
伴侶とは、守られるだけの存在ではない。
扉が叩かれる。
「起きているか」
「はい」
鷹司が入ってくる。
今日は少し疲れた顔をしている。
「無理をなさったのでは」
「問題ない」
だが声はわずかに硬い。
伊織は立ち上がり、そっと湯呑を差し出した。
「どうぞ」
「……気が利くな」
「伴侶ですから」
自然に出た言葉だった。
鷹司の手が止まる。
「……伴侶、か」
「違いましたか」
「いや」
かすかな笑み。
「嬉しいだけだ」
静かな時間。
近くに座る。
肩が触れそうで触れない距離。
「伊織」
「はい」
「華族会合に、共に来るか」
一瞬、息が止まる。
「……よろしいのですか」
「逃げる理由はない」
まっすぐな眼差し。
「隣に立てるか」
試すようでいて、信じてもいる声。
伊織は、ゆっくりと頷いた。
「立ちます」
恐れはある。
だが、逃げたくはない。
鷹司の手が、そっと伊織の手に触れた。
一瞬だけ。
指先が重なる。
それだけで、胸が甘く締めつけられる。
「……番の証は、まだだ」
低く呟く。
「だが、心は……」
言葉は続かなかった。
けれど、十分だった。
月明かりが二人を照らす。
波紋は広がり始めている。
九条家の内にも、華族社会にも。
それでも。
互いの手の温もりだけは、確かなものだった。
九条家の庭では、藤が重たげに房を垂らしている。淡い紫が風に揺れるたび、甘い香りが漂った。
伊織は縁側に座り、帳簿をめくっていた。
北方線延伸の件は、共同出資案を取り入れたことで思いのほか順調に進んでいる。地元有力者との会合では、鷹司が表に立ち、伊織は控えの間で資料を整えた。
だが、帰路の馬車の中で鷹司は言った。
「お前の案だ。胸を張れ」
その言葉は、今も胸に残っている。
番ではない。
だが、伴侶として隣に立つことを許されている。
それがどれほど特別か、伊織は日ごとに思い知っていた。
しかし、九条家の内外がそれを歓迎しているとは限らない。
「奥様」
年嵩の女中頭が、慎重な声音で告げた。
「本家より使いが参っております」
本家――九条家の分家筋で、旧来の価値観を重んじる一族だ。
客間に通された男は、三十代半ばほど。鋭い目をしている。
「九条鷹司殿は不在か」
「ただいま戻られます」
伊織は丁寧に頭を下げる。
男の視線が、値踏みするように伊織を撫でた。
「あなたが……白鷺家のΩ」
あえて“奥方”とは言わない。
「はい」
「借財の代わりに迎えられたと聞く」
胸がわずかに軋む。
だが顔色は変えない。
「契約の形は様々でございます」
男は鼻で笑った。
「九条家も落ちたものだ。商いにうつつを抜かし、挙げ句にΩを飾るとは」
その瞬間、障子が開いた。
「その飾りが、何か問題でも?」
低く、冷えた声。
鷹司だった。
空気が一変する。
「……鷹司」
「用件を言え」
取り繕う様子もない。
男は咳払いをした。
「来月の華族会合に、番を伴うなという忠告だ。九条家の品位に関わる」
「私の伴侶だ」
即答。
「品位に問題はない」
「だがΩだ」
「だから何だ」
静かな怒気。
「九条の家は、私が継ぐ。誰を伴うかも、私が決める」
男は唇を歪めた。
「いずれ後悔するぞ。Ωは情に流される。経営の足枷になりかねん」
伊織は拳を握りしめた。
言い返したい。
だが立場を弁えねばならない。
しかし、鷹司が先に口を開いた。
「足枷かどうかは、北方線の決算を見てから言え」
「……何?」
「共同出資案は伊織の提案だ。利益は前期比を上回る見込みだ」
男の目が揺れる。
「Ωが、だと?」
「能力を見る目がないなら、口も慎め」
冷ややかな断罪。
やがて男は言葉を失い、苛立ちを隠せぬまま帰っていった。
客間に沈黙が落ちる。
伊織はゆっくりと息を吐いた。
「……申し訳ございません」
「なぜ謝る」
「私の存在が、火種に」
「違う」
鷹司は真っ直ぐに伊織を見る。
「火種は、古い価値観だ」
その言葉に、胸が震える。
「お前は胸を張れ。私はお前を選んだ」
強い声。
契約ではなく、選択。
「鷹司様」
喉が熱くなる。
「……ありがとうございます」
その夜。
伊織は自室で一人、考えていた。
鷹司は守ってくれる。
だが、それに甘えていいのだろうか。
伴侶とは、守られるだけの存在ではない。
扉が叩かれる。
「起きているか」
「はい」
鷹司が入ってくる。
今日は少し疲れた顔をしている。
「無理をなさったのでは」
「問題ない」
だが声はわずかに硬い。
伊織は立ち上がり、そっと湯呑を差し出した。
「どうぞ」
「……気が利くな」
「伴侶ですから」
自然に出た言葉だった。
鷹司の手が止まる。
「……伴侶、か」
「違いましたか」
「いや」
かすかな笑み。
「嬉しいだけだ」
静かな時間。
近くに座る。
肩が触れそうで触れない距離。
「伊織」
「はい」
「華族会合に、共に来るか」
一瞬、息が止まる。
「……よろしいのですか」
「逃げる理由はない」
まっすぐな眼差し。
「隣に立てるか」
試すようでいて、信じてもいる声。
伊織は、ゆっくりと頷いた。
「立ちます」
恐れはある。
だが、逃げたくはない。
鷹司の手が、そっと伊織の手に触れた。
一瞬だけ。
指先が重なる。
それだけで、胸が甘く締めつけられる。
「……番の証は、まだだ」
低く呟く。
「だが、心は……」
言葉は続かなかった。
けれど、十分だった。
月明かりが二人を照らす。
波紋は広がり始めている。
九条家の内にも、華族社会にも。
それでも。
互いの手の温もりだけは、確かなものだった。
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