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1巻
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三船さんのことはよく知っている。いわゆるお見合いおばさんと呼ばれる顔の広い女性だ。見合いをいくつも成功させて、仲人をしているという。いずれあんたもお世話になりそうねと母が冗談交じりに言っていたが、そんなのはもっと先の話だろうと聞き流していた。
『お見合い成功率は百パーセント、離婚率はゼロパーセント。人間を見る目が確かな証拠だわ』
母が言うには、三船さんが取り持つ夫婦は結婚後も仲がよく、恋人同士のようにラブラブモードだそうだ。ちなみにそういった現象を見合い恋愛と言うらしい。
実際のところ、彼女のお見合いおばさんとしての手腕はプロ級のようである。
それに、母が手放しで誰かを褒めたり感心するなど滅多にないことだ。他人に対して愛想はいいが、付き合いには慎重なタイプである。その母にそこまで言わせるとは、確かに三船さんは取り持ち役として信頼の置ける人なのだ。
ようやく私は、今の状況を理解することができた。
おそらく母は、見合いの達人である三船さんに、あれこれ吹き込まれたのだろう。そうでなければ、こんな夜遅くに見知らぬ独身男性のもとへいきなり娘を行かせるなんてするはずがない。
これが違和感の原因だったのだ。
言い方は悪いが、いくら信頼できる人とはいえ、こんなやり方は全くのだまし討ちである。
「俺はてっきり、織江がすべて承知で来てくれたんだと思って、天にも昇る気持ちになったんだけどなあ。どうしてお母さんは、だまし討ちみたいなやり方で君を寄越したのかな」
咀嚼中の柿を吹き出しそうになった。
私の心を読んだかのようなセリフ。だが、これで少し緊張が解けた気もする。
「なあ、織江。どう思う」
織江、織江と、当然のごとく呼び捨てにする男性を、あらためて観察した。
活発で遠慮がなく、屈託のない朗らかさ。私の母はこういったタイプの人に好感を持つ。でも、私はどちらかというと、物静かで優しい、穏やかな男性が好きである。母もそれは分かっているのだろう。だから、とにかくいきなり会わせるという乱暴な方法を取ったのだ。
(勢いに押されて来たけれど、こんなのは絶対に困る。きちんとお断りさせていただこう)
ふと座卓の向こうから私をしげしげと見つめている彼と目が合い、どきーんとする。けれどビビッている場合ではない。私はもう二十四歳で、大人で、いっぱしに仕事をしている社会人なんだから。
(いや、いっぱしというのは言いすぎ……いやいや大丈夫、頑張れ織江!)
居住まいを直すと、まさにだまし討ちにあった経緯を順番に説明した。
それから、やんわりとだが、あなたのようなタイプは特に好みではないと伝えるのを忘れなかった。
「……ふうん、そう」
正直なところを語った私に、浦島先生は鼻白んだ顔。
無理もない。ひと目惚れをした相手に、好みではないと返されたのだから。もっとも、彼の言った『ひと目惚れ』を私は信じきれていないのだけれど。
「すみません」
「……」
脂汗が再び滲んでくるが、言うべきことは言った。
柿も剥いてあげて、一緒に食べた。話も聞いた。これでもう解放してくれるだろう、約束どおり。
「そんなわけで、私は失礼させていただきます。あの、ごちそう様でした」
畳に指をついて挨拶をし、そそくさと立ち上がる私を、彼は黙って目で追ってくる。
すっかりその気になっている人を袖にするのは心苦しい。だがしかし、私にひと目惚れするなど、ましてや嫁にしたいなんてことは、やはり信じられないのだ。
だって、白菜を前にぼーっとしているような女性を好きになるなんて、そんなこと有り得ない……っていうか絶対に無い。
私はあの時、色、形、味ともに素晴らしいと評価された金賞の白菜に、美味しそうだなあ、鍋の材料に最高だなあと、よだれを垂らさんばかりに見惚れていただけだ。
そんな私が可愛いなんて、ばかげてるでしょ。
これでいいのだ。私はなにも間違っていないし、さっさと出て行けばこの話は終わりである。最初からなかったことに、なる。
急ごう――
「ちょっと待て!」
座敷を出ようとして引き戸に指をかけたところに、大きな声が飛んだ。ただでさえ逃げ腰の私は縮み上がる。
「は、い?」
そーっと振り返ると、彼は立ち上がっていた。
声にならない悲鳴を上げる。
その姿は、まさに仁王立ち。仁王様のように逞しく大きな身体が、さらに膨れ上がっているようだ。
「織江」
静かに呼びかけると、彼は座卓を回りこみ、のし、のしと、近付いてきた。
(逃げなきゃ)
本能で危険を察知したけれど、膝ががくがくと震えるばかりで動けない。
とんでもなく恐ろしい存在が目の前に迫っている。
「な、な、なにを……なにっ」
何をするつもりですかと言おうとしても、ちゃんとした言葉にならない。
男は目の前に立つと、私を閉じたままの引き戸に押し付け、顔を寄せてきた。洋画に出てくる俳優のような、精悍で整った顔立ち。好きな人は好きだろうが、私にはひどく危険で凶暴で、傲慢な面構えに映っている。
「もうね、入会金と年会費を納めてもらってる」
「……え?」
視線を極限まで接近させて、彼はにこりと笑みを作る。が、目は全く笑っていない。
心の底から怖いと思った。
「君のお母さんに、代理人として申込書に印をいただいている。いかなる理由があろうと、一年間契約を解除することは出来ない。逃げること能わずと明記されている」
「そっ、そんな」
そんな無茶な契約、あるわけが無い。通るわけは無い。無効だ、クーリングオフだ!
心で叫んでいるのに、ひとつも相手にぶつけられない。私は浦島章太郎の瞳の中で、囚われの身になっている。どうして、どうして動けないの?
「木曜日の夜八時から十時まで、特別に稽古をつけてやる。お母さんは策士だな。俺、木曜日は比較的融通が利くんだ。三船さんから聞いたんだろうが、そこまで考えているなんて、実に素晴らしい。もっとも織江のためなら何曜日だろうが、無理にでも時間を作るがね」
母と三船さんによって罠に追い込まれ、さらにその中ではこの男が待っていた。
「だって、そんなこと、私は……あっ」
いきなり顎をつかまれ、顔を上げられた。ごつくて大きな手に固定され、視線を動かすこともできない。
「ナイフの使い方が上手だった。指遣いもきれいだった」
鼻先が触れ、息がかかる。
「や、やめてくださ」
最後まで言わせず、唇を押し当ててきた。いや、かぶりつかれた。
「ん、んーっ」
(キス、私の、ファーストキス!)
鋼の腕に腰を拘束され、舌が侵入してきても逃れられない。
中学時代に、男の子と付き合った経験はある。近所の同級生で優しい子だった。こんなこと絶対にしない、謙虚で思いやりのある――
(こんな人、全然タイプじゃないっ!)
それなのに、どうして力が抜けていくの。
私、どうして逆らうのを止めてるの。
どうして、こんなに気持ちいい……の……
この家に、罠の中に足を踏み入れたのは私自身だとどこかで分かっているから、逆らえない。
――いや、逆らわなかった。
浦島先生はゆっくりと唇を離したが、その後も名残惜しげに軽いキスを繰り返す。私はぼーっとしながら、柔らかな感触を彼と分け合った。
いい匂いがして、思考が麻痺したみたいに何も考えられない。
「好みでないなら、好みにさせてやる」
甘く蕩かすような、自信に満ちた囁き。
私はその声を遠くに聞きながら、分厚い胸板に痺れる身体を支えられていた。
駐車場まで私を見送りに出た浦島先生は、にこにこと嬉しそうにしている。ひとつも悪びれず、車に乗り込んだ私を見下ろしている。
「な、何もしないという約束は……」
ようやく頭が回りはじめた私の口から出たのは、なんとも力ない声だった。それに対して、先生は軽く答えた。
「あんなのは約束の内に入らない、ほんの自己紹介だよ」
当然といった態度に、もしかしたら自分がお子様過ぎるのだろうかと思えてきた。気力も萎え、それ以上何も言えない。
「木曜日には必ず来なさい。待ってるからな」
連絡が取れるようにと、スマートフォンの番号とメールアドレスを交換させられた。これで個人的な繋がりが出来てしまったと、気付いたのは少し後のこと。先生にとって鈍い私を捕まえるのなんて容易なのだ。
私は車のエンジンをかけると、何が起こったのかよく把握できないまま会釈をしていた。
とりあえず、帰ることが出来て良かった。ハンドルを握りながら、心から安堵していた。私は無事に脱出したのだ。
そう、一時は取って食われるかと思ったのに、キスのひとつやふたつ、それだけで済んで助かったと感謝しなければ……
感謝。
感謝?
感謝ぁ!?
誰に感謝をしろと!?
初めてだったのに。二十四年間、誰の唇に触れることもなく過ごしてきて、あんな――あんな貪り食らうようなディープキスを、あんな恐ろしい人に!!
だけど、真の問題は自分にあった。
あの家に足を踏み入れた時点で……
認めたくなくて、私は何も考えなくて済むよう夜道の運転に集中した。
「どうだった? 明るくていい人でしょう、浦島章太郎先生。案ずるより生むがやすしでね、あれこれぐちゃぐちゃ説明するより、会わせちゃったほうが早いと思ったのよ。気に入ったんでしょ、織江」
放心状態で家に辿り着いたのは午後十一時過ぎ。母は起きて待っていた。私の赤い顔を見て目論見が大成功したと有頂天になっている。
「桃田町界隈でも評判の良い人でね、三船さんも太鼓判を押してるんだよ。あれだけハンサムで、甲斐性があって、その上独身だなんて奇跡的でしょ。そんな男性が、彼氏もいない、放っとけば一生結婚できそうにない、ぼおーっとしたあんたを気に入ってくれるなんて、本当にありがたいわよねえ。しかも茶華道の先生だなんて。お稽古に行けば花嫁修業とデートを兼ねられて、一石二鳥だわよ。お教室にはきちんと通いなさいね。お母さん、いくらでも協力したげるから、ねっ」
いつも手厳しい母親が、いやに優しくて不気味だった。囲い込まれつつある。というか、すでに囲まれている気がする。頑丈な、鉄格子の檻に。
何も言う気にならず、くたくたの身体のまま自分の部屋に移動する。疲れたというより、骨を抜かれたようにとろとろだった。
明日は七時に出勤だ。お風呂なんてもういい、寝よう。火曜日、水曜日……木曜日。
かあーっと熱くなる頬を、手のひらで覆う。
(どうしちゃったんだろう、私!)
お出かけ用のワンピースから、微かな移り香。
逆らわなかったことよりも、気持ちいいなんて感じてしまった事実に混乱した私は、ベッドに潜り込んで瞼をきつく閉じた。
◇ ◇ ◇
短大卒業後に就職した会社は、業務用コーヒー豆やコーヒー器具、その他コーヒー関連商品の販売を行う、株式会社トモミ珈琲。東京に本社を置く企業で、私の勤務先は関東の南地域を担当する富永支店だ。
富永支店は市街地に近く、通勤時間帯には周辺の道路が渋滞するので、私は朝七時に家を出なければならない。隣町にあるにもかかわらず、自宅から車で一時間もかかるのだ。
小さな会社や商店が連なる通りに立つ社屋は、倉庫、事務所、応接室や会議室などに分かれていて、私は二階の事務所で働いている。従業員は、支店長以下十名の男性営業部員と、二名の女性事務員という小さな職場だ。
そして、この女性比率の低さにもかかわらず、就職してからの四年間、私は誰とも噂にも何もなっていない。恋愛に積極的でないからというのもあるが、この私のぼーっとしたところが、血気盛んな営業マンには物足りなくて、食指が動かないのだろうと分析している。
同じ事務員の瀬戸加奈子さんは、七歳年上の既婚者だ。なんでも独身の頃は社内外問わずいろんな男性と付き合って、一番いいのを旦那に選んだのだそうだ。美人な上に仕事も速く、きびきびしている彼女だからこそ成せた業だろう。
(男の人……か)
中学時代に付き合った彼は、特別だったのかなあと思う。一緒にいるとほんわかとして、穏やかな時間が過ごせる人だった。そういえば、彼もぼーっとしたタイプだったかもしれない。
「野々宮さん、聞いてる?」
苛立った声にビクッとして顔を上げた。
「は、はいっ、すみません。ちょっとぼんやりして」
三十代半ばの中堅どころの営業マン、伊藤さんだった。仕事の出来る人で、富永支店では一番多くの店を担当している。
「しっかりしてくれよ。さっきから話しかけてるのに」
「すみません」
何か考えていると、ついつい手元が留守になってしまう。パソコンで見積書を作成していたのだが、その作業も止まっていた。
「カフェ・フォレストさんの納品書、まだ?」
「はいっ、ただいますぐに」
カフェ・フォレストは街の一等地にあり、グルメ系はもちろん、ファッション雑誌にも度々取り上げられるお洒落なカフェ・レストランだ。富永支店とは付き合いが長く、開業以来二十余年にわたり変わらぬご愛顧を受けている。
そちらには主にコーヒーの生豆を納めているのだが、他にトモミ珈琲オリジナルのコーヒー器具も置いてもらっている。今朝方まとまった数の注文が入ったので、伊藤さんが納品の準備をしていたのだ。
「発注の電話を受けたのは君だろ。大丈夫?」
「は、はあ」
いつもはファックスか電子メールで注文が入るのだが、お客様はよほど急いでいたのか、今回はめずらしく電話だった。手書きのメモが電話機の横に残っている。
(トモミ珈琲オリジナルドリップセットを、数量は十五で、と)
急いでキーボードを操作して納品書を仕上げ、専用伝票にプリントアウトして伊藤さんに渡した。伊藤さんの担当は本来は加奈子さんなのだが、彼女は今日、子供の授業参観日で午前中お休みだった。
「数量単価ともにOK。よし、それじゃあ行って来ます」
納品の時間が迫っているのか、伊藤さんは小走りで事務所を出て行った。
「うおっほん。野々宮さん、ちょっと」
営業マンがすべて出払った静かな事務所に、支店長の咳払いが響く。私の仕事振りに不満がある時の合図だ。おずおずと席を立ち、支店長の前へ進み出る。彼は私の父親と同じくらいの年齢で、一見神経質で厳しそうだが、実際は面倒見の良い優しい人だ。彼はデスクを指でトントン叩きながら小言をひとつふたつ言う。それから、困ったような諦めたような、複雑なため息を吐いた。
「なんていうのかな、野々宮さんはこう……仕事が出来ないわけじゃない。電話の対応にしろ、データ類の管理にしろ、瀬戸さんよりも丁寧なくらいだ。だが、時折集中が途切れてぼんやりしてしまう。あと、自信の無さというのが顔や姿勢に表れてしまってるんだな。バックアップを期待する営業マンからすると、かなり頼りない」
「はあ」
自信の無さ、というのは当たっている。私は、子供の頃からずっと自信が無い。
「ほら、猫背」
「あ、はい」
背中が曲がっているといつも指摘されるのだが、なかなか直らない。普段からうつむき加減になっているせいだろうか。
「もっと堂々として、自信を持って仕事するようにね。まずは形から入り、根気よく経験を積めば、結果は後からついてくるものだ」
それはつまり、背筋を伸ばして胸を張れ、ということだろうか。
「はい、分かりました」
「うむ、頑張って仕事するように」
理屈は分かる。でも具体的にどうすればいいのかは見当もつかない。堂々として自信を持つだなんて、私には一生無理な気がする。
ふと、浦島先生の姿が頭に浮かんだ。昨夜見た彼の姿勢は、茶華道の先生だけあって、しゃんとしてまっすぐで立派に見えた。立ち居振る舞いも堂々としていた。
好き嫌いはともかくとして、私に対する態度も自信に満ちあふれ、一分の隙も見当たらなかった。
昨夜のことを思い出すうち、唇に熱い感触がよみがえりそうになって、激しく首を横に振った。
(あの人は私と違いすぎる。いくら契約解除が不可能と言っても、無理なものは無理だもの。浦島先生の教室に通うのも、お見合いも、全部無理!)
支店長が怪訝な眼差しを向けてくるが、そ知らぬふりをして自分の仕事に戻った。
その日の午後。
昼休憩中に出社してきた加奈子さんと事務所でお茶を飲んでいると、勢いよくドアを開けて伊藤さんが入ってきた。ズカズカと一直線に近づいて来て、手にしている伝票を私の前に放り投げた。
「……あの?」
「電話を受けたメモと突き合わせてみて」
明らかに怒った表情である。
「穏やかでないわねえ伊藤さん、どうしたのよ一体」
加奈子さんがなだめるが、伊藤さんは苛々がおさまらない様子で、私を見下ろしている。
嫌な予感がしつつ、電話機の横に残っているメモと納品書を見比べてみた。メモには、トモミ珈琲オリジナルドリップセット・数量十五・トウキと記してある。
「あっ。と、陶器……」
私が伊藤さんに伝えたのは、ポリプロピレンとガラス製ドリップセットの製品番号だった。普段から、そちらのほうが多く出荷されているので、思い込みで伝えてしまったのだ。
「あちゃー、しかも、カフェ・フォレストさんかあ。我が支店の大得意さんだわ」
加奈子さんの言葉と、やっちゃったわねというジェスチャーに、一気に血の気が引いていく。
「俺が納品した時、店長の峰さんも注文主のお客さんもすでにお待ちかねだった。それなのに、いざ蓋を開けたら違うものが出てくるだろ? お客さんにはがっかりされるし、店長には恥をかかせてしまった」
たらたらと冷や汗が垂れてくる。どうして、どうして私はこうなのだろうと後悔してももう遅い。まさに、やってしまったのだ。
「それでは、急いで在庫を確認して、不足の場合は本社に連絡して取り寄せることに……」
「もう手は打った。自分でやったほうが確実だし、早いからね」
伊藤さんは私の発言を遮り、あとは加奈子さんに任せると言って、それからこうも付け加えた。
「平謝りに謝って何とか許してはもらえたが、会社の信用はがた落ちだ。それと、フォレストの店長さんが、電話を受けた方は新人さんでしたか、やはりベテランの事務員さんに代わってもらえばよかったですねと残念がっていたよ。俺は恥ずかしくて、野々宮さんのことを入社四年目の社員ですとは言えなかった」
私も、穴があったら入りたいほど恥ずかしく、情けなかった。
「とにかく、フォレストさんからの電話は瀬戸さんが受けてくれ。不在の時は俺に回すように頼むよ」
伊藤さんは段々と落ち着いてきたが、それでもなお君には何の期待もしないという口調だった。
得意先が大口でも小口でも、ミスがあってはならないのは当然だ。
だが今回のように、長年信用を培ってきたお客様に対する失敗は、いつものミスの何十倍ものショックを私に与えていた。
もう二十四歳で、いっぱしの社会人のはずなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
支店長が頭を抱えたのが目の端に映った。何度指摘されても直らない集中力の無さが情けなくて、涙が出そうになる。
激しく落ち込むとともに、どうにかしなくてはいけないと深刻に悩み始めていた。
水曜日の夜。
仕事から帰ると、母が玄関先にばたばた走り出て来て、私の腕をむんずと引っつかんだ。真剣な目つきの笑顔が、かなり怖い。
「な、なに……」
「道具を買って来たわよ。早く来なさい」
そういえば今朝、街のデパートで茶華道に必要な道具を全部揃えてくると言っていた気がする。昨夜は落ち込むあまりなかなか眠れなかったので、いつにも増してぼーっとしていた。返事をした覚えも無いのだが、母は私の態度など気にもせず、買ってきてしまったのだ。
「ちょっともう、歩きにくいよ」
廊下を引きずられて居間に辿り着くと、姉がソファに腰掛けていた。
「あれっ、お姉ちゃん」
「久しぶりね、織江」
同じ両親の血を分けたとは思えない美貌を持つ姉が微笑んだ。お盆に夫婦で帰省して以来の対面だった。
仲良しとは言いきれない姉妹だが、久しぶりに会えば何となく嬉しい。私は前のめりになっている母ではなく、姉の隣に腰掛けた。
「お姉ちゃん、どうしたの、急に」
「うん、友達に会いに近くまで来たから、ついでに寄ってみたの」
「ふうん、あ、和樹さんは元気?」
「元気よ。でも、新規の仕事が大掛かりらしくて、これからめちゃくちゃ忙しいみたい」
「そうなんだ。大変だねえ」
姉の夫であるエリート商社マンの和樹さん。姉も美形だが、彼もスタイリッシュなイケメンで、初めて会った時はモデルか俳優さんかと思ったほどだ。
「たまには実家にも顔を出しなさいよ。いくら夫婦円満だからといって、他の家族のことも忘れないで。ところで、赤ちゃんのほうはどうなの?」
毎度の質問に姉は苦笑する。しばらくは二人きりで生活すると何度も言っているのに、母は聞き入れないのだ。
「分かってますって。最近は和樹さんとも相談してるから」
「ほんとに?」
娘を嫁に出したら、今度は孫を抱きたくて仕方ないらしい。昔から母親の期待には、もれなく応えてきた姉である。本当に考え始めているのかもしれない。
『お見合い成功率は百パーセント、離婚率はゼロパーセント。人間を見る目が確かな証拠だわ』
母が言うには、三船さんが取り持つ夫婦は結婚後も仲がよく、恋人同士のようにラブラブモードだそうだ。ちなみにそういった現象を見合い恋愛と言うらしい。
実際のところ、彼女のお見合いおばさんとしての手腕はプロ級のようである。
それに、母が手放しで誰かを褒めたり感心するなど滅多にないことだ。他人に対して愛想はいいが、付き合いには慎重なタイプである。その母にそこまで言わせるとは、確かに三船さんは取り持ち役として信頼の置ける人なのだ。
ようやく私は、今の状況を理解することができた。
おそらく母は、見合いの達人である三船さんに、あれこれ吹き込まれたのだろう。そうでなければ、こんな夜遅くに見知らぬ独身男性のもとへいきなり娘を行かせるなんてするはずがない。
これが違和感の原因だったのだ。
言い方は悪いが、いくら信頼できる人とはいえ、こんなやり方は全くのだまし討ちである。
「俺はてっきり、織江がすべて承知で来てくれたんだと思って、天にも昇る気持ちになったんだけどなあ。どうしてお母さんは、だまし討ちみたいなやり方で君を寄越したのかな」
咀嚼中の柿を吹き出しそうになった。
私の心を読んだかのようなセリフ。だが、これで少し緊張が解けた気もする。
「なあ、織江。どう思う」
織江、織江と、当然のごとく呼び捨てにする男性を、あらためて観察した。
活発で遠慮がなく、屈託のない朗らかさ。私の母はこういったタイプの人に好感を持つ。でも、私はどちらかというと、物静かで優しい、穏やかな男性が好きである。母もそれは分かっているのだろう。だから、とにかくいきなり会わせるという乱暴な方法を取ったのだ。
(勢いに押されて来たけれど、こんなのは絶対に困る。きちんとお断りさせていただこう)
ふと座卓の向こうから私をしげしげと見つめている彼と目が合い、どきーんとする。けれどビビッている場合ではない。私はもう二十四歳で、大人で、いっぱしに仕事をしている社会人なんだから。
(いや、いっぱしというのは言いすぎ……いやいや大丈夫、頑張れ織江!)
居住まいを直すと、まさにだまし討ちにあった経緯を順番に説明した。
それから、やんわりとだが、あなたのようなタイプは特に好みではないと伝えるのを忘れなかった。
「……ふうん、そう」
正直なところを語った私に、浦島先生は鼻白んだ顔。
無理もない。ひと目惚れをした相手に、好みではないと返されたのだから。もっとも、彼の言った『ひと目惚れ』を私は信じきれていないのだけれど。
「すみません」
「……」
脂汗が再び滲んでくるが、言うべきことは言った。
柿も剥いてあげて、一緒に食べた。話も聞いた。これでもう解放してくれるだろう、約束どおり。
「そんなわけで、私は失礼させていただきます。あの、ごちそう様でした」
畳に指をついて挨拶をし、そそくさと立ち上がる私を、彼は黙って目で追ってくる。
すっかりその気になっている人を袖にするのは心苦しい。だがしかし、私にひと目惚れするなど、ましてや嫁にしたいなんてことは、やはり信じられないのだ。
だって、白菜を前にぼーっとしているような女性を好きになるなんて、そんなこと有り得ない……っていうか絶対に無い。
私はあの時、色、形、味ともに素晴らしいと評価された金賞の白菜に、美味しそうだなあ、鍋の材料に最高だなあと、よだれを垂らさんばかりに見惚れていただけだ。
そんな私が可愛いなんて、ばかげてるでしょ。
これでいいのだ。私はなにも間違っていないし、さっさと出て行けばこの話は終わりである。最初からなかったことに、なる。
急ごう――
「ちょっと待て!」
座敷を出ようとして引き戸に指をかけたところに、大きな声が飛んだ。ただでさえ逃げ腰の私は縮み上がる。
「は、い?」
そーっと振り返ると、彼は立ち上がっていた。
声にならない悲鳴を上げる。
その姿は、まさに仁王立ち。仁王様のように逞しく大きな身体が、さらに膨れ上がっているようだ。
「織江」
静かに呼びかけると、彼は座卓を回りこみ、のし、のしと、近付いてきた。
(逃げなきゃ)
本能で危険を察知したけれど、膝ががくがくと震えるばかりで動けない。
とんでもなく恐ろしい存在が目の前に迫っている。
「な、な、なにを……なにっ」
何をするつもりですかと言おうとしても、ちゃんとした言葉にならない。
男は目の前に立つと、私を閉じたままの引き戸に押し付け、顔を寄せてきた。洋画に出てくる俳優のような、精悍で整った顔立ち。好きな人は好きだろうが、私にはひどく危険で凶暴で、傲慢な面構えに映っている。
「もうね、入会金と年会費を納めてもらってる」
「……え?」
視線を極限まで接近させて、彼はにこりと笑みを作る。が、目は全く笑っていない。
心の底から怖いと思った。
「君のお母さんに、代理人として申込書に印をいただいている。いかなる理由があろうと、一年間契約を解除することは出来ない。逃げること能わずと明記されている」
「そっ、そんな」
そんな無茶な契約、あるわけが無い。通るわけは無い。無効だ、クーリングオフだ!
心で叫んでいるのに、ひとつも相手にぶつけられない。私は浦島章太郎の瞳の中で、囚われの身になっている。どうして、どうして動けないの?
「木曜日の夜八時から十時まで、特別に稽古をつけてやる。お母さんは策士だな。俺、木曜日は比較的融通が利くんだ。三船さんから聞いたんだろうが、そこまで考えているなんて、実に素晴らしい。もっとも織江のためなら何曜日だろうが、無理にでも時間を作るがね」
母と三船さんによって罠に追い込まれ、さらにその中ではこの男が待っていた。
「だって、そんなこと、私は……あっ」
いきなり顎をつかまれ、顔を上げられた。ごつくて大きな手に固定され、視線を動かすこともできない。
「ナイフの使い方が上手だった。指遣いもきれいだった」
鼻先が触れ、息がかかる。
「や、やめてくださ」
最後まで言わせず、唇を押し当ててきた。いや、かぶりつかれた。
「ん、んーっ」
(キス、私の、ファーストキス!)
鋼の腕に腰を拘束され、舌が侵入してきても逃れられない。
中学時代に、男の子と付き合った経験はある。近所の同級生で優しい子だった。こんなこと絶対にしない、謙虚で思いやりのある――
(こんな人、全然タイプじゃないっ!)
それなのに、どうして力が抜けていくの。
私、どうして逆らうのを止めてるの。
どうして、こんなに気持ちいい……の……
この家に、罠の中に足を踏み入れたのは私自身だとどこかで分かっているから、逆らえない。
――いや、逆らわなかった。
浦島先生はゆっくりと唇を離したが、その後も名残惜しげに軽いキスを繰り返す。私はぼーっとしながら、柔らかな感触を彼と分け合った。
いい匂いがして、思考が麻痺したみたいに何も考えられない。
「好みでないなら、好みにさせてやる」
甘く蕩かすような、自信に満ちた囁き。
私はその声を遠くに聞きながら、分厚い胸板に痺れる身体を支えられていた。
駐車場まで私を見送りに出た浦島先生は、にこにこと嬉しそうにしている。ひとつも悪びれず、車に乗り込んだ私を見下ろしている。
「な、何もしないという約束は……」
ようやく頭が回りはじめた私の口から出たのは、なんとも力ない声だった。それに対して、先生は軽く答えた。
「あんなのは約束の内に入らない、ほんの自己紹介だよ」
当然といった態度に、もしかしたら自分がお子様過ぎるのだろうかと思えてきた。気力も萎え、それ以上何も言えない。
「木曜日には必ず来なさい。待ってるからな」
連絡が取れるようにと、スマートフォンの番号とメールアドレスを交換させられた。これで個人的な繋がりが出来てしまったと、気付いたのは少し後のこと。先生にとって鈍い私を捕まえるのなんて容易なのだ。
私は車のエンジンをかけると、何が起こったのかよく把握できないまま会釈をしていた。
とりあえず、帰ることが出来て良かった。ハンドルを握りながら、心から安堵していた。私は無事に脱出したのだ。
そう、一時は取って食われるかと思ったのに、キスのひとつやふたつ、それだけで済んで助かったと感謝しなければ……
感謝。
感謝?
感謝ぁ!?
誰に感謝をしろと!?
初めてだったのに。二十四年間、誰の唇に触れることもなく過ごしてきて、あんな――あんな貪り食らうようなディープキスを、あんな恐ろしい人に!!
だけど、真の問題は自分にあった。
あの家に足を踏み入れた時点で……
認めたくなくて、私は何も考えなくて済むよう夜道の運転に集中した。
「どうだった? 明るくていい人でしょう、浦島章太郎先生。案ずるより生むがやすしでね、あれこれぐちゃぐちゃ説明するより、会わせちゃったほうが早いと思ったのよ。気に入ったんでしょ、織江」
放心状態で家に辿り着いたのは午後十一時過ぎ。母は起きて待っていた。私の赤い顔を見て目論見が大成功したと有頂天になっている。
「桃田町界隈でも評判の良い人でね、三船さんも太鼓判を押してるんだよ。あれだけハンサムで、甲斐性があって、その上独身だなんて奇跡的でしょ。そんな男性が、彼氏もいない、放っとけば一生結婚できそうにない、ぼおーっとしたあんたを気に入ってくれるなんて、本当にありがたいわよねえ。しかも茶華道の先生だなんて。お稽古に行けば花嫁修業とデートを兼ねられて、一石二鳥だわよ。お教室にはきちんと通いなさいね。お母さん、いくらでも協力したげるから、ねっ」
いつも手厳しい母親が、いやに優しくて不気味だった。囲い込まれつつある。というか、すでに囲まれている気がする。頑丈な、鉄格子の檻に。
何も言う気にならず、くたくたの身体のまま自分の部屋に移動する。疲れたというより、骨を抜かれたようにとろとろだった。
明日は七時に出勤だ。お風呂なんてもういい、寝よう。火曜日、水曜日……木曜日。
かあーっと熱くなる頬を、手のひらで覆う。
(どうしちゃったんだろう、私!)
お出かけ用のワンピースから、微かな移り香。
逆らわなかったことよりも、気持ちいいなんて感じてしまった事実に混乱した私は、ベッドに潜り込んで瞼をきつく閉じた。
◇ ◇ ◇
短大卒業後に就職した会社は、業務用コーヒー豆やコーヒー器具、その他コーヒー関連商品の販売を行う、株式会社トモミ珈琲。東京に本社を置く企業で、私の勤務先は関東の南地域を担当する富永支店だ。
富永支店は市街地に近く、通勤時間帯には周辺の道路が渋滞するので、私は朝七時に家を出なければならない。隣町にあるにもかかわらず、自宅から車で一時間もかかるのだ。
小さな会社や商店が連なる通りに立つ社屋は、倉庫、事務所、応接室や会議室などに分かれていて、私は二階の事務所で働いている。従業員は、支店長以下十名の男性営業部員と、二名の女性事務員という小さな職場だ。
そして、この女性比率の低さにもかかわらず、就職してからの四年間、私は誰とも噂にも何もなっていない。恋愛に積極的でないからというのもあるが、この私のぼーっとしたところが、血気盛んな営業マンには物足りなくて、食指が動かないのだろうと分析している。
同じ事務員の瀬戸加奈子さんは、七歳年上の既婚者だ。なんでも独身の頃は社内外問わずいろんな男性と付き合って、一番いいのを旦那に選んだのだそうだ。美人な上に仕事も速く、きびきびしている彼女だからこそ成せた業だろう。
(男の人……か)
中学時代に付き合った彼は、特別だったのかなあと思う。一緒にいるとほんわかとして、穏やかな時間が過ごせる人だった。そういえば、彼もぼーっとしたタイプだったかもしれない。
「野々宮さん、聞いてる?」
苛立った声にビクッとして顔を上げた。
「は、はいっ、すみません。ちょっとぼんやりして」
三十代半ばの中堅どころの営業マン、伊藤さんだった。仕事の出来る人で、富永支店では一番多くの店を担当している。
「しっかりしてくれよ。さっきから話しかけてるのに」
「すみません」
何か考えていると、ついつい手元が留守になってしまう。パソコンで見積書を作成していたのだが、その作業も止まっていた。
「カフェ・フォレストさんの納品書、まだ?」
「はいっ、ただいますぐに」
カフェ・フォレストは街の一等地にあり、グルメ系はもちろん、ファッション雑誌にも度々取り上げられるお洒落なカフェ・レストランだ。富永支店とは付き合いが長く、開業以来二十余年にわたり変わらぬご愛顧を受けている。
そちらには主にコーヒーの生豆を納めているのだが、他にトモミ珈琲オリジナルのコーヒー器具も置いてもらっている。今朝方まとまった数の注文が入ったので、伊藤さんが納品の準備をしていたのだ。
「発注の電話を受けたのは君だろ。大丈夫?」
「は、はあ」
いつもはファックスか電子メールで注文が入るのだが、お客様はよほど急いでいたのか、今回はめずらしく電話だった。手書きのメモが電話機の横に残っている。
(トモミ珈琲オリジナルドリップセットを、数量は十五で、と)
急いでキーボードを操作して納品書を仕上げ、専用伝票にプリントアウトして伊藤さんに渡した。伊藤さんの担当は本来は加奈子さんなのだが、彼女は今日、子供の授業参観日で午前中お休みだった。
「数量単価ともにOK。よし、それじゃあ行って来ます」
納品の時間が迫っているのか、伊藤さんは小走りで事務所を出て行った。
「うおっほん。野々宮さん、ちょっと」
営業マンがすべて出払った静かな事務所に、支店長の咳払いが響く。私の仕事振りに不満がある時の合図だ。おずおずと席を立ち、支店長の前へ進み出る。彼は私の父親と同じくらいの年齢で、一見神経質で厳しそうだが、実際は面倒見の良い優しい人だ。彼はデスクを指でトントン叩きながら小言をひとつふたつ言う。それから、困ったような諦めたような、複雑なため息を吐いた。
「なんていうのかな、野々宮さんはこう……仕事が出来ないわけじゃない。電話の対応にしろ、データ類の管理にしろ、瀬戸さんよりも丁寧なくらいだ。だが、時折集中が途切れてぼんやりしてしまう。あと、自信の無さというのが顔や姿勢に表れてしまってるんだな。バックアップを期待する営業マンからすると、かなり頼りない」
「はあ」
自信の無さ、というのは当たっている。私は、子供の頃からずっと自信が無い。
「ほら、猫背」
「あ、はい」
背中が曲がっているといつも指摘されるのだが、なかなか直らない。普段からうつむき加減になっているせいだろうか。
「もっと堂々として、自信を持って仕事するようにね。まずは形から入り、根気よく経験を積めば、結果は後からついてくるものだ」
それはつまり、背筋を伸ばして胸を張れ、ということだろうか。
「はい、分かりました」
「うむ、頑張って仕事するように」
理屈は分かる。でも具体的にどうすればいいのかは見当もつかない。堂々として自信を持つだなんて、私には一生無理な気がする。
ふと、浦島先生の姿が頭に浮かんだ。昨夜見た彼の姿勢は、茶華道の先生だけあって、しゃんとしてまっすぐで立派に見えた。立ち居振る舞いも堂々としていた。
好き嫌いはともかくとして、私に対する態度も自信に満ちあふれ、一分の隙も見当たらなかった。
昨夜のことを思い出すうち、唇に熱い感触がよみがえりそうになって、激しく首を横に振った。
(あの人は私と違いすぎる。いくら契約解除が不可能と言っても、無理なものは無理だもの。浦島先生の教室に通うのも、お見合いも、全部無理!)
支店長が怪訝な眼差しを向けてくるが、そ知らぬふりをして自分の仕事に戻った。
その日の午後。
昼休憩中に出社してきた加奈子さんと事務所でお茶を飲んでいると、勢いよくドアを開けて伊藤さんが入ってきた。ズカズカと一直線に近づいて来て、手にしている伝票を私の前に放り投げた。
「……あの?」
「電話を受けたメモと突き合わせてみて」
明らかに怒った表情である。
「穏やかでないわねえ伊藤さん、どうしたのよ一体」
加奈子さんがなだめるが、伊藤さんは苛々がおさまらない様子で、私を見下ろしている。
嫌な予感がしつつ、電話機の横に残っているメモと納品書を見比べてみた。メモには、トモミ珈琲オリジナルドリップセット・数量十五・トウキと記してある。
「あっ。と、陶器……」
私が伊藤さんに伝えたのは、ポリプロピレンとガラス製ドリップセットの製品番号だった。普段から、そちらのほうが多く出荷されているので、思い込みで伝えてしまったのだ。
「あちゃー、しかも、カフェ・フォレストさんかあ。我が支店の大得意さんだわ」
加奈子さんの言葉と、やっちゃったわねというジェスチャーに、一気に血の気が引いていく。
「俺が納品した時、店長の峰さんも注文主のお客さんもすでにお待ちかねだった。それなのに、いざ蓋を開けたら違うものが出てくるだろ? お客さんにはがっかりされるし、店長には恥をかかせてしまった」
たらたらと冷や汗が垂れてくる。どうして、どうして私はこうなのだろうと後悔してももう遅い。まさに、やってしまったのだ。
「それでは、急いで在庫を確認して、不足の場合は本社に連絡して取り寄せることに……」
「もう手は打った。自分でやったほうが確実だし、早いからね」
伊藤さんは私の発言を遮り、あとは加奈子さんに任せると言って、それからこうも付け加えた。
「平謝りに謝って何とか許してはもらえたが、会社の信用はがた落ちだ。それと、フォレストの店長さんが、電話を受けた方は新人さんでしたか、やはりベテランの事務員さんに代わってもらえばよかったですねと残念がっていたよ。俺は恥ずかしくて、野々宮さんのことを入社四年目の社員ですとは言えなかった」
私も、穴があったら入りたいほど恥ずかしく、情けなかった。
「とにかく、フォレストさんからの電話は瀬戸さんが受けてくれ。不在の時は俺に回すように頼むよ」
伊藤さんは段々と落ち着いてきたが、それでもなお君には何の期待もしないという口調だった。
得意先が大口でも小口でも、ミスがあってはならないのは当然だ。
だが今回のように、長年信用を培ってきたお客様に対する失敗は、いつものミスの何十倍ものショックを私に与えていた。
もう二十四歳で、いっぱしの社会人のはずなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
支店長が頭を抱えたのが目の端に映った。何度指摘されても直らない集中力の無さが情けなくて、涙が出そうになる。
激しく落ち込むとともに、どうにかしなくてはいけないと深刻に悩み始めていた。
水曜日の夜。
仕事から帰ると、母が玄関先にばたばた走り出て来て、私の腕をむんずと引っつかんだ。真剣な目つきの笑顔が、かなり怖い。
「な、なに……」
「道具を買って来たわよ。早く来なさい」
そういえば今朝、街のデパートで茶華道に必要な道具を全部揃えてくると言っていた気がする。昨夜は落ち込むあまりなかなか眠れなかったので、いつにも増してぼーっとしていた。返事をした覚えも無いのだが、母は私の態度など気にもせず、買ってきてしまったのだ。
「ちょっともう、歩きにくいよ」
廊下を引きずられて居間に辿り着くと、姉がソファに腰掛けていた。
「あれっ、お姉ちゃん」
「久しぶりね、織江」
同じ両親の血を分けたとは思えない美貌を持つ姉が微笑んだ。お盆に夫婦で帰省して以来の対面だった。
仲良しとは言いきれない姉妹だが、久しぶりに会えば何となく嬉しい。私は前のめりになっている母ではなく、姉の隣に腰掛けた。
「お姉ちゃん、どうしたの、急に」
「うん、友達に会いに近くまで来たから、ついでに寄ってみたの」
「ふうん、あ、和樹さんは元気?」
「元気よ。でも、新規の仕事が大掛かりらしくて、これからめちゃくちゃ忙しいみたい」
「そうなんだ。大変だねえ」
姉の夫であるエリート商社マンの和樹さん。姉も美形だが、彼もスタイリッシュなイケメンで、初めて会った時はモデルか俳優さんかと思ったほどだ。
「たまには実家にも顔を出しなさいよ。いくら夫婦円満だからといって、他の家族のことも忘れないで。ところで、赤ちゃんのほうはどうなの?」
毎度の質問に姉は苦笑する。しばらくは二人きりで生活すると何度も言っているのに、母は聞き入れないのだ。
「分かってますって。最近は和樹さんとも相談してるから」
「ほんとに?」
娘を嫁に出したら、今度は孫を抱きたくて仕方ないらしい。昔から母親の期待には、もれなく応えてきた姉である。本当に考え始めているのかもしれない。
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