惚れっぽい恋愛小説家令嬢は百戦錬磨の青年貴族に口説かれる→気づかない

川上桃園

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狩猟会 下

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 彼女を抱えた男はすばやい動きで森の中に逆戻り。

 外からすぐに見通せない繁みの向こうで彼女を下ろし、そこにある木の幹に彼女の背中を押し付けた。え、え、とひたすら戸惑っているセフィーヌを、謎めいた黒い瞳が見つめている。

「あの、どうしてこんなところに……」

「……セフィーヌ嬢。そうやって私の気を引いて楽しいですか?」

「え? えーと、おっしゃる意味がよく……?」

 セフィーヌの眼前で侯爵は皮手袋を脱ぎ捨てた。セフィーヌの手袋も外してしまい、素肌と素肌が触れ合う。指が、まるで恋人同士であるかのように絡み合う。

 もう片方の侯爵の手はセフィーヌの首筋を捉えた。するりとさすられれば、反射的に鳥肌が立つ。

 セフィーヌは震えた。――え、何この人怖い。

「おや、気づいておられなかったのですか? 私をことごとく無視して、あげくに人違い、しかもその人違いの相手にあなたが『恋』に落ちる。それを私が許せるとでもお思いですか? ずるい人だ、私を誘惑しておいて」

 もちろん『誘惑』なんて身に覚えのないセフィーヌは困惑の表情を浮かべる。

――誘惑。そんなもので相手が本気になるのなら、とっくに使って、今頃は両思いを満喫している。

 別のことも思い出す。そう、『誘惑』と言えば……。

 考え込むように視線を下げようとすれば、今度は無理やりに上向かされた。

「考え事ですか? ――いい度胸ですね。すぐに私のことしか考えられなくして差し上げましょうか?」

 視界が侯爵の顔でいっぱいになっていく。キスされるのかも、と頭のどこかで思うのに、現実感が伴わない。身体だけは勝手に熱くなって、頬が赤らむ。相手の身体の熱がそのまま伝わっているのかもしれないとセフィーヌは思う。――この人は一体何を考えているのかしら。結局、目を逸らさないままになる。

 エメラルドグリーンと黒真珠の視線が交錯する。


――ぞくぞくと背筋を震わせたのは、ジドレルの方だった。
 セフィーヌ・フラゴニアが自分を濡れた瞳で見つめている。支配欲のようなものが満たされていく感覚に、気づかず自身は微笑み、唇を寄せていく。目的は、マシュマロのようにぷくりと膨れる彼女の唇だった。美味しそうな唇だ、とジドレルは愉快な気持ちになる。


――さて、もう少し。

――落ちてしまえ、『失恋令嬢』。

「んっ」

 あっけなく重なる唇。彼女の悲鳴は呼気とともにジドレルの唇に吸い込まれた。我に返ったように彼の身体から逃れようともがくが、ジドレルは抵抗する身体ごと閉じ込めて、上から唇を押し付けた。
 
 嵐のような口づけ。その間隙を縫うように、

「怖がらないで……ほら、唇を開けて」

 などと囁きかける。彼女の身体が強張るのもお構いなし。耳元、首筋、鎖骨。どれも美味しそうだったから口づける。

 自他ともに認める稀代の色男、ジドレル・キッソンは口づけだって巧い。自由自在に女性の官能を引き出し、どんな青臭い果実も彼にかかればすぐに熟れて食べごろにする。きっと、セフィーヌ・フラゴニアもどんなに拒否していようとも、すでにその身体にはジドレルが与える快楽の記憶が刻みこまれた。初心ならなおのこと、忘れられまい。

 しかしふと思う。――彼女が従順になってしまったら、それはそれでつまらない。

 自分勝手な思考を断ち切り、仕上げとばかりにもう一度彼女の唇と合わせた時、身体ごと震えていることに気付く。

 改めてセフィーヌ・フラゴニアの顔を確かめようとした時、それは起こった。

 傾き始めた日が雲と雲の隙間から差して、呆然とする彼女の顔を照らし出す。宝石のような緑から、ぼろっと大粒の涙がこぼれた。それから思い出したように顔が歪み。

「う……」

 最初の一音はまるで押し殺した悲鳴のようだった。手の甲で口元を押さえようとするも、結局我慢できないで、

「ひっく、う、うあああああああんっ!」

 子どものように、全身で泣くセフィーヌ・フラゴニア。ジドレルが見たこともないほどの大号泣だ。

「……え?」

 ぽかぽかと胸を叩かれるジドレルはつい驚いて声を漏らした。

 意味がわからなかった。十九歳にもなった令嬢がこんな泣き方をするだろうか。男に媚びるためではなく、ただただ悲しいから、こみあげてくるものがあるから泣く。呆れてもおかしくない場面なのにジドレルはなぜかその顔から目が離せない。もらい泣きしそうだった。

「ファ、ファーストキスぐらい、夢見たっていいじゃない! いいじゃないのーっ!」

 ……発言内容はよくわからないままだったが。そもそもジドレル・キッソンがファーストキスの相手で不満はあるまい。
 あるのか。

 まだ彼女はジドレルの胸を叩いている。

「こんなの、ひどい! 許しもしていないのにこんなことをしないで! 嫌い……大嫌いです!」

 そういって、また衝動が来たのか、「うわああああんっ」と嗚咽をこぼすセフィーヌ・フラゴニア。

 嫌いだと一刀両断されたジドレルは途方に暮れた。やたら心臓がどくどくと波打つし、妙に涙腺が緩む。何を言っても慰めにならないことは知りつつも、彼はほとんど反射的に謝っていた。

「とりあえず森から出ましょうか。……申し訳なかった」

 彼はほっそりとした彼女を支えようと手を回すが、「結構です!」と猫の子が威嚇するように拒絶されてしまった。近寄らないで、と顔に書いてある。

 ぐずぐずと泣きながら、セフィーヌは一人で森の外まで歩く。仕方がないので彼は意地っ張りな後ろ姿についていく。

 邸宅近くの芝生には人が集まっていた。大方、狩猟会の結果でも発表しているのだろう。

 そこで彼女は大きく目元を拭った。化粧はすべてはげ落ちてしまっているが、唇を固く引き締めており、何か言うのも憚られる。

「セフィ!」

 セフィーヌの兄がめざとくジドレルと彼女を見つけた。彼女はさきほどの涙などなかったかのようににこりと笑う。

「お兄様。ごめんなさい。ちょっと気が向いちゃったから森の中を散歩していたのよ」

 セフィーヌ・フラゴニアは見え見えの嘘をつく。
 何かあったのは一目瞭然だ。

 ジドレルの罪悪感がうずく。

 セフィーヌの兄が、ジドレルに咎めるような視線を向ける。つねに自信たっぷりなジドレル・キッソンであるが、さすがに何の弁解もしなかった。

「申し訳ありませんが、マゴット伯爵夫人を呼んでいただけますか」

 兄は彼女の両肩を抱いたまま、それだけ言う。わかった、とジドレルが頷いて、その場を立ち去った。









 マゴット伯爵夫人に事情を伝えると、彼女は大きくため息を吐く。

「さすがにやりすぎでしたね、『坊ちゃん』。あなたはもう少し賢い子だと思っていたのに。すぐに噂になるでしょうね」

 最後まで責任はとっていただきましょう、と彼女は告げた。


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