恋の始め方間違えました。

森野きの子

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 私が三十五歳になって独身だったとして、こんなマンションを買えるだろうか。
 ここの契約を取ってきたのは他ならぬ真壁さんで、完成予想図なんかは見せてもらっていたけれど。
 オートロックはもちろん、コンシェルジュがいるエントランスに、高そうなソファー一式。フロアごとに自由に捨てられるごみ捨て場があるんだっけ。
 まだ酔いの抜けきれていない頭では余計に目が眩む。
「はー、信じられねぇ。いくら独身で稼ぎ頭とはいえこんなマンション住めんのかよ」
 立ち尽くしている私の斜め背後から益子の声がした。
 部屋の主はコンシェルジュから分厚い封筒を受け取り、こちらへ戻ってきた。
 エレベーターに乗り、着いたのは九階。
 この上の階からさらに価格が違うらしい。とはいえ中に入って靴を脱ぐスペースからして広さが違った。
 そして生活感のないモデルルームのようなリビングルームから、パノラマで夜景が一望できた。自分の部屋とのあまりの差に足元がふらつく。
「一発で女落ちますね。これは」
「一応ファミリー向けだぞ、ここ」
「ああ……」
「そんな声出すなよ」
 益子と真壁さんのやりとりで察してしまう。新婚生活の居住に購入したのね。
「でも、まあ、ここのおかげで立ち直ったっつーか。俺はこの夜景が見える場所より下は行かないって決めたんだ。なによりローン残ってるし、働く理由の一つだな」
「売ったら良かったんじゃないですか?」
 と益子がいうと真壁さんは苦笑する。
「それはなんか癪だろ」
「あと十年もしたらこの上の階にいけるんじゃないですか?」
 私がいうと、真壁さんは小さく笑った。
「まぁ、マンションより会社の最上階狙いたいわな」
 部屋の明かりをつけずにいると光の海の底に佇んでいるような不思議な感覚に陥る。巨大な水槽の中を眺めているのか、はたまた巨大な水槽の中にいるのか。
 不意に着信音が鳴り、我にかえる。益子が携帯電話を出して耳に当て、玄関へとリビングルームを出ていった。
「座れば? あ。待て。ほとんど帰ってないから埃してるかもしれない」
 といいながら真壁さんはハンドモップで黒革のソファを撫でてくれた。
「いいよ」
「すみません。失礼します」
「いやいや、固い固い」
「すみません。でも、どうしたらいいのかわかりません」
 言ってから益子の言葉を思い出した。でも、尊敬してる上司だもん。いきなり部屋に来てくつろげない。
「益子の部屋の方が良かったんじゃないか?」
「え?」
「それに悪かったな。こっちから誘ったのに二時間も遅れた。」
「それは仕事ですし、なにより私がミスしなければその残業はなかったんですよね。すみません」
「別にいいよ。まぁ、益子のデートがキャンセルになったから代打頼んだんだけど正解だったかな」
「すみません。潰されてしまってお恥ずかしい」
「あいつ、飲ませるのものせるのも上手いんだよな」
「お褒めに預かり光栄でーす。ボーナス査定よろしくでーす。ところで本命のカノジョから呼び出しかかったんで、失礼します」
「え?」
「は?」
 ドアから顔を出した益子の言葉に私と真壁さんの声が重なった。
「あと、真壁さん」
 益子がちょいちょいと手招きをする。
 二人がドアの向こうへ消えた。ちょっと待って。嘘でしょ? あいつ、なに企んでるのよ。ソファからドアの側に行くと声が聞こえた。
「織部どうすんだよ。せめて駅かタクシー拾えるところまで連れて帰れよ」
「本命のカノジョのとこいくのに他の連れて歩けません」
「ちょっとそこまでだろ」
「真壁さん、どうせ独りでしょ」
「いや、そうだけど、それは違うだろ」
「よろしくっす。織部を女にしてください」
「なにいって……」
 私が部屋のドアを開けるのと僅差で玄関のドアがしまり、そこにはビニル袋を提げた真壁さん一人。
 気まずい沈黙の中、真壁さんと視線がぶつかる。
「あの、私、か……」
 咄嗟にでかかった帰りますの一言を飲み込む。真壁さんに帰れと言われたら話は別だけど、ここで私から言うのは駄目だ。せっかくのチャンスは逃したくない! ……いや、待って。ミスったその日に誘惑すんのってありなの? 不真面目なやつって嫌われたりしない? これってどうなの?
 っていうか益子アイツ、織部わたしを女にしてくださいって何様よ。でも、まぁ、私からもお願い申し上げたいところだけれど。
「織部」
 ため息の後に低い声で名前を呼ばれ、ビクッとなった。怒られる!
「お前はどういうつもり? 益子が言ってたの聞いてたんだろ」
 どう? どういうつもりとは? 真壁さんに女にされたいかって? そりゃ。答えは一つ。
「……益子の言う通り、です。……真壁さん、私を女にしてください。体だけでいいです。それ以上は望みません。お仕事の邪魔はしません。だめですか?」
 真壁さんは項垂れて壁にもたれかかる。
 あ、これ、ダメだ。ヤバい。勢いに任せて玉砕の覚悟を抜かった。なにちょっといけると思ったの、愚かな私。恥ずかしい。拒絶されたっぽい。今までの関係が全部崩れる。ヤバい。怖い。足が震えて立ってらんない。
「ちょっと、待て。織部は嫌じゃないのか?」
「い、嫌じゃないです! 他の人だったら嫌ですけど、真壁さんなら……、でも、真壁さんが嫌ですよ、ね」
「俺はーー」
 真壁さんはいいかけて、掌で口を覆った。
「あの、別に真剣に考えてもらわなくていいです」
 重い女って思われたくない。ストレス解消でいい。癒しなんて大それた存在じゃなくても。やだ。やだ。今夜は絶対、このまま帰されたくない。真壁さんと離れたくない。重いの反対は軽い。そう、軽く。セックスなんてたいしたことないのよって風に軽く。
「私、なんか、最近、色々うまくいかなくて、ちょっと、ストレス解消したいんです」
「織部」
「スリルっていうんですか? 刺激が欲しいんです。真壁さん、女はもう駄目ですか?」
「それ、お前の意思か?」
「え、は、はい。そうです」
「腹いせなんじゃないのか?」
 腹いせ? ストレスの原因のこと? そりゃあのバカ息子のせいで生理がとまるほど溜まってるけど、それどころじゃない。私は真壁さんに抱かれたい。
「腹いせなんかじゃないです。アイツのことなんか関係ないです。振り回されたって、騙されたって、彼女の所でのんびりしてようと別にいいんです。だってそんなことどうでもいいくらい、ん。んと、好きなんです!」
 真壁さんが、といいかけて、止めた。崇めすぎて重いって引かれたら嫌だ。
「……ーーが好きなのか」
 低すぎて聞き取れなかった。好き? 真壁さんのこと? なに? でも真壁さんのことなら。
「そ、そうですね。はい」
「わかった。もういい。それ以上は聞きたくない」
 真壁さんはビニル袋を投げ捨てると私に向き直る。
 見たことない鋭い目線に肩がすくんだ。怒ってる?
 真壁さんは私の肩を引き寄せ、ドアを大きく開くとリビングに押しやった。
「ま、真壁さん?」
 なんで無言なの。ちょっと怖い。
「じゃあ、見せてくれよ。俺相手にどこまでやれるか」
「いいんですか」
「いいよ。ストレス解消だっけ? 付き合ってやるよ。」
 乱暴な手つきでネクタイを緩める。人が変わったようだ。スイッチ入ったってやつ? でもなんか怖いけど色っぽい。
「どうしたい?」
「え。どうって、どんなことでもします!」
 って、これじゃあ曖昧すぎるか。でも、どうしたらいいの? 始まりって、どう始めて進行していったら挿入に至るの? あれ? 映画とか漫画ならキスからするよね? キス……。真壁さんはネクタイを外すと腕組をし、ソファの背もたれに寄りかかり、私を見下ろしている。じっと睨むように見つめられて、ドキドキしてきた。
 真壁さんはため息を吐くと首の後ろ辺りを無造作に掻いた。
「シャワー浴びてこい」
「は、はい!」
 ご主人様が投げた棒を拾いにいく犬のように機敏に足が動いた。廊下を歩きながら手探りで浴室を探し当てる。ざっとみたところ家電は比較的新しいモデルばかり。新婚生活に向けての気合いを垣間見て気が落ちる。
 私、真壁さんの為ならなんでもできる。

 気合いを入れ直し、よくわからないけど服を脱いだ。下着はいつもお気に入りを着けているから見られても自信はあるけど中身に自信がない。普通、だよね? 元奥さんがモデル並みだったせいで負い目が半端ない。
 鏡の中の自分の体を眺めても普通というか誇れるものがなくてため息しかでない。初めての相手が大好きなひとで嬉しいけど、なんか想い描いていた理想とはほど遠い雰囲気だし。
 外側を触ってイクのは自分でもやっちゃうけどその下はまだ触ったことがない。やっぱり中は好きなひとにして欲しいから触らなかったけど、お約束の「ハジメテだから優しくしてください」ってお願いすべきかな? いや、まてよ。さっきの真壁さんの感じだとめんどくさく思われたりして? 恋人でもなんでもないんだもんね。
 落胆と不安が拭えない。
 改めて見て脱衣室も広いしきれい。本当にほとんど帰ってないんだろうな。洗面台は水気が乾いた跡が残ってる。この部屋は一人には広すぎるだろうな。
 恋人でもなんでもないのに勢いだけで、しかもほぼ益子の策略によって、とだいぶ不本意のオンパレードだけど、自分じゃ真壁さんのマンションのエントランスにさえ入れなかっただろうし、最初で最後だとしてもまたとないチャンスだもんね。
 よし! と覚悟したのと同時に脱衣室のドアが開いた。
 反射的に上下を手で隠したけれど真壁さんは一瞬目を見開いただけで特に狼狽えることもなく、コンビニの袋を目の前にぶら下げた。
「ないと困るだろ」
 うっすら透けて見えたのはクレンジングオイルと洗顔料と歯ブラシセット。
「あ、ありがとうございます……」
 受け取りたいけど、恥ずかしくて手をほどけない。
「そ、その辺に置いてください」
「なんで?」
「えっ」
「どうせ今から全部見るんだ」
「そっ、それは、そうですけど」
 真壁さんは中に入ると後ろ手でドアを閉めて、洗面台に袋を置くと、私の両手を掴んで開かせた。私だけ全裸で、まだ服も脱ぎっぱなしのまま、なんの準備もできていない。恥ずかしくて身をよじると、壁に両手を押さえつけられ、首筋をなめあげられた。
「ひうぅ……!」
 ぞくぞくっと得体の知れない感覚が背中を走る。
「なーんかいまいちなんだよ。なあ織部、その気にさせてくれよ」
 そんな高度な技術は持ってません。とも言えず、というより、胸の先端を唇で挟まれ、ひっぱられ、離れたかと思うと口に含まれて、舌でなぶられ、くすぐったいようなむず痒いようななんとも言えない感覚に、言葉を失っていた。
 ちゅうっと音をたてて吸われた瞬間にパチンと弾けるような快感に、体が跳ねる。その拍子に「あんっ」と自分でも初めて聞く甘ったるい声がした。恥ずかしいので手で口を押さえながら、真壁さんの愛撫を受ける。体が小刻みに震えて、両足の間が疼き出す。
「あの、まだ、シャワーが……」
「ん」
 真壁さんは押さえていた手を離して、片手と口で私を愛撫しながら空いた手で器用に自分も脱いでいく。視界の隅で眺めていたけれど、両足の間に指が進入してきてすぐにそんな余裕がなくなる。自分で触るのと全然違う。
「だめです。きたないから、はずか、しい、あっ! ひぁっ! あああっ、やぁぁ」
 自分でも触って弄ぶ器官を真壁さんの指が責めてくる。速いのに乱暴さはない絶妙な力加減であっという間に絶頂付近まで高められた。オーガズムの半歩前で指が止まる。半端な絶頂に先走った肩と臀部がびくびく跳ねた。いつの間にかしがみついていた素肌もしっとりと汗ばんで、香水と微かな体臭が匂い立つ。
「物足りないんだろ?」
 と意地悪く微笑まれ、従うように頷いた。
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